15話:風は、京より吹き抜ける
一歩足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
水戸城内、謁見の間。畳に敷かれた絹の敷物。白砂のごとき静謐な光を透かす障子。その奥に座すのは、第九代藩主・徳川斉昭である。
晴人は東湖の横に控え、背筋を正していた。場を仕切る家老が低く名を告げる。やがて、もう一人の来訪者――佐久間象山が、まるで嵐の前触れのように現れた。
「……久方ぶりに、東の風を嗅ぎに参った。これは……面白いことになっておる」
山伏を思わせる風貌と鋭い眼光。象山の存在は、それだけで場を圧倒した。
「本来なら謹慎の身、だが――斉昭公のご配慮により、水戸の“改革の試み”を見聞せよとのお達しに従い、参上つかまつった」
斉昭は静かに頷いた。その眼差しには、理想と現実の間で揺れる複雑な色があった。
「象山よ。そなたの才、異国の術に通ずと聞く。だが、水戸は“学び”の地であると同時に、“民”の地でもある。余はその両方を試したいのだ」
「ゆえにこそ、参ったのです」
象山は一歩進み、堂々と言い放った。
「この国が滅びゆく兆しを見過ごすわけにはいかぬ。開国せずして、どうして存続できるというのか」
東湖が膝を進める。瞳には、かすかな苛立ちがにじんでいた。
「開けば、異国の欲望が津波のように押し寄せ、民の命をのみ込む。閉じてこそ、秩序を保てる道もある」
「閉じれば、内から腐るのみ!」
象山の声は雷鳴のようだった。
「欧州にて、鎖した島国はすべて征服された。鉄火も、制度も、学も、交渉の術も、すべて学ばねば、この国はやがて滅びる!」
「それは、武器を持つ者の論理だ。民は鉄ではない。土と水で生きる者たちだ」
東湖の声音は低く、だが揺るぎなかった。
「その日々に異国の秩序が流れ込めば、命は崩れる。混乱を招いて誰が救える?」
象山は拳を打ちつけた。障子がわずかに震えた。
「だからこそ学ぶのだ。力に飲まれぬ知恵と制度を。戦わずして国を守る道は、理の中にこそある!」
重く、激しい論争の中で、晴人が静かに口を開いた。
「……どちらが正しいかではないと思います。どちらも、民を思ってのこと。ですが今、飢えた者が目の前にいるなら、“理念”の先にある“行動”が問われます」
視線が一斉に晴人に向けられた。
「思想は、民を救いません。必要なのは“覚悟”です。開くか閉じるかではなく、誰の命を守るのか――何を捨てて、何を残すのか。その判断がなければ、すべては虚ろになる」
静寂が落ちた。
象山が口元に笑みを浮かべる。
「……君、名は?」
東湖が答えかけたところで、松陰が一歩前に出た。
「彼はまだ“試されている者”です。名を問うのは、もう少し後でもよろしいかと」
弟子としての口ぶりでありながら、その言葉には師を諫めるような響きがあった。
象山は笑った。
「ならば、名乗るに値する男になってみせよ。――それも、また面白い」
そして斉昭に向き直り、深く頭を垂れた。
「貴公の地は、理想を現実に近づけようとしている。まだ途上ではあるが、確かに風が吹いている。……ならば、見届ける価値はある」
象山の言葉は、風のように謁見の間に残り、やがて静かに溶けていった。
「佐久間先生、こちらが炊き出し場になります」
先頭に立って案内する晴人が振り返る。背後で木桶を洗う音、煮炊きの立ち昇る湯気、子どもが笑う声――町が生きている証拠が、そこかしこに溢れていた。
「……まるで、一つの有機体だな」
象山は、低く唸るように呟いた。目を細めて一つ一つを観察する。臨時の建物、整然と置かれた道具、役割を担う町人や藩士――混乱の中から立ち上がったとは思えぬ秩序が、ここにはあった。
「計画された形跡がある。だが押しつけではなく、自発の匂いがする。誰がこの仕組みを?」
「最初の設計は僕ですが、形にしたのは皆です」
そう言って、晴人は町の奥を指さした。
「こちらには、病人のための隔離所があります。風通しと陽当たりを考えて、場所を選びました」
象山は目を細める。仮設ながらも清潔に保たれた寝具、薬草を刻む娘、手を清める桶の配置――すべてに意味があった。
「……こやつ、軍略の才もあるな」
ぽつりと呟いたその声音は、すでにただの観察者のものではなかった。
陽は傾き、町の東側に長く影を落としていた。湯気に光が差し込み、通りを行き交う人々の背に、淡い輪郭を描いていた。
「こちらが学校です。簡易な教場ですが、朝と夕には子どもたちが通っています」
象山が立ち止まる。板張りの床に、粗末ながらも整った机と筆記用具。壁には「学とは人を強くする術」と記された墨書。
「学を“武”と見立てたか……なるほど、面白い」
そのとき、数人の子どもが通りかかり、晴人に向かって手を振った。
「先生ー!」
「おーい、今日も来てくれる?」
彼は少しだけ照れたように笑い、頷いた。象山はそのやり取りを無言で見守っていた。
やがて二人は町の外れ、小高い丘に辿り着いた。そこからは町の全景が見渡せた。瓦礫の山は減り、仮設小屋の数が増えていた。
「……どうして、ここまでやるのだ?」
象山の問いに、風が吹いた。晴人の髪が揺れた。
「僕は、間違ったことをしてきました。だから、せめて、今を生きる人の助けになりたい。生きる価値があると信じたいからです」
「それだけで、ここまで?」
「いえ、違います」
彼は視線を下げた。町の灯が、夕暮れの中で少しずつ灯り始めていた。
「……この町には、未来があります。それを守ることが、僕の選んだ“今”です」
象山は腕を組み、しばし沈黙した。
「……君の言葉は、論ではない。詩でもない。理でもなく、感でもない。これは、“信”か」
「信じて動く人がいれば、町は変わります」
「その言葉に、幕府の学者がどれほどの重みを与えるか……」
象山の眼差しが、再び彼に向けられる。
「名を聞こう」
「藤村晴人。百姓の生まれです」
「晴人……晴れ渡る人か」
象山は、ふっと笑った。
「君、いずれ必ず敵を作るぞ。それでも進むというのか?」
「はい。……たとえ嫌われても、誰かの命が守られるなら」
その一言に、象山は深く頷いた。
「ならば、私は君を“観る”。京に戻った後、すぐに忘れることはないだろう」
そう言い残し、象山は町を振り返った。その目に、まだ揺れる希望があった。
一同が集う広間には、日が傾き始めた頃の光が差し込み、障子越しに柔らかな陰影を落としていた。
瓦葺きの広間には、東湖、象山、徳川斉昭が居並び、後方には晴人と松陰が控えている。左右には藩士や町人、学者風の男たちが正座しており、空気は張りつめていた。
「では始めよう。今日の議題は、開国か攘夷か……未来を決する問いである」
斉昭の重々しい一言が響くと、誰もが背筋を正した。
まず、口を開いたのは象山だった。
「開国なくして存国なし。もはや世界の潮流は止められぬ。黒船が来た今こそ、異国の技術と知恵を積極的に取り入れるべき時だ」
「異国の知識は毒にもなる」
すぐさま東湖が反論した。
「安易に門戸を開けば、民は道を見失う。文化も倫理も、蝕まれていく」
「だが閉じこもっていては、飢えて滅ぶだけだ!」
「生き延びるだけが目的ではない。いかに生きるかが問われている」
二人の応酬はまるで剣の打ち合いのように、鋭く、火花を散らしていた。
その中心で、晴人は静かに目を伏せていた。
――これは、ただの論争ではない。思想と思想のぶつかり合いでは、今を生きる人の命は救えない。
やがて、意を決したように口を開く。
「申し上げます」
ざわめきが止み、すべての視線が彼に注がれる。
「開国も攘夷も、正しいとも誤りとも断言できません。けれど、今、この水戸において最も必要なのは、民を守ることではないでしょうか」
「ふむ、民を守る?」
象山が眉をひそめた。
「異国の脅威が迫っている今、民を守るには知識と技術が要る。すなわち開国だ」
「異国に侵されず守る道もある」
東湖が重ねるように語る。
晴人は二人の間に目を向けた。
「どちらも正しいと思います。ただし、それは“理”の上での話。現場に立てば、子どもたちは寒さで震え、病人は薬を求めて泣いています。僕らがまず為すべきは、討論ではなく行動です」
言葉に感情は抑えられていたが、奥底に確かな決意が込められていた。
しばしの沈黙の後、象山がぽつりと呟いた。
「理でも情でもない……信、か」
その言葉に、斉昭が頷いた。
「藤村の言葉には、言葉以上の重みがある。実のある者の声だ」
「なるほど……」
象山が腕を組んで晴人を見つめ、口元に微かな笑みを浮かべる。
そこへ、松陰が一歩前へ出た。
「彼と私は、まだ年若く、試される立場にあります。ですが、信念を持って動く者がこの国に必要だと、私は信じています」
東湖がにやりと笑った。
「俺もだ。政次郎の笑顔が、それを証明している」
ふと、広間の外から、子どもたちの笑い声が聞こえてきた。
その音は、すべての言葉を越えて、誰よりも説得力を持っていた。
議論が終わった広間には、しばしの静けさが訪れていた。
外では茜色の空が染まり始め、障子越しに差し込む夕陽が、板の間に長く影を落とす。
東湖は、じっと座したまま目を閉じている。口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
一方の象山は、腕を組みながら視線を天井に向けていた。けれどそのまなざしは思索に満ちており、ただ空を眺めているのではないことは明らかだった。
「……どうやら、幕府の中心に近いところに来てしまったようだな」
象山がそう呟くと、斉昭がふっと笑う。
「佐久間殿の言は鋭くて面白いが、水戸の城中は、少々風変わりな者が集まりやすくての」
「まったく、どいつもこいつも“変”ばかりだ」
東湖が口を開いた。ゆるく肩を揺らしながら、晴人をちらりと見る。
「変な若造が先に立って走るものだから、老いぼれどもは後ろで息を切らすばかりだ」
晴人は、きまり悪そうに頭を下げた。
しかし、その姿にはどこか晴れやかな色が宿っていた。
斉昭が、再び前に出る。
「今日の討論で、すべての答えが出たわけではない。むしろ、これからが始まりだ」
「それは、まことに」
松陰が応じる。彼の顔には熱があり、目には確かな光が灯っていた。
象山はその様子を眺めながら、小さく頷いた。
「松陰。お前の“塾を開きたい”という望み――それが、理想で終わらねばよいがな」
「はい。けれど、私は今日確信しました」
松陰は視線を晴人に向けた。
「志の火は、こうして受け継がれていくのだと」
「まだまだ青いな、お前も」
象山は笑いながら立ち上がる。軽く肩を払って、板の間に音を立てた。
「だが、火は小さくとも燃えていればいい。あとは、風が吹けばよい」
東湖も立ち上がった。
同時に、他の藩士や町人たちも、ぞろぞろと席を立ち始める。
そのとき、障子の向こうから子どもの声がした。
「晴人さーん! 炊き出しの準備、できたよー!」
思わず場に、ほっとした笑いが起きる。
象山が軽く眉を上げて、晴人を見る。
「……これが、お前の“町”か」
「はい。まだ未熟ですが……皆の力を借りながら、進めています」
「未熟で結構。お前のような人間が、百年後の日本をつくるだろう」
象山の言葉に、晴人は深く頭を下げた。
松陰が続けて歩き出す。
「先生、そろそろ町の様子を見ていきませんか。塾を開くにも、基礎が必要です」
「……そうだな。異国の理屈ばかり集めていたが、ようやく“国の形”を見た気がする」
廊下を歩きながら、象山はふと振り返る。
「藤村晴人。いずれ京に来ることがあれば、訪ねてくるといい。……“風”の吹く場所は、そこにもある」
晴人は黙って頷いた。
まるで約束を交わしたように。
やがて、広間は夕暮れの静けさに包まれていった。
灯りがともされるころ、子どもたちの笑い声と、温かな味噌の香りが町の通りに広がり始める。
その匂いを感じながら、晴人はそっと目を閉じた。
――討論は終わった。しかし、現実はこれからも続く。
信じるものを守るために、進まねばならない。
町を、民を、未来を。
それは言葉ではなく、行動の積み重ねが形にしていく。
広間の奥、かすかな風が障子を揺らした。
それはまるで、遠く京の都から吹いてきた風のようだった。
気に入ってくれた方、評価ぽちっとしてくれると舞い上がります。
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