128話:(1866年3月)税の棚と麦の穂
春の気配はまだ浅く、羽鳥の町には朝ごとに冷たい霧が降りていた。だが田畑を歩けば、土の間からは力強く麦の芽が顔を覗かせている。城下の人々は、寒さに肩をすくめながらも、その緑に希望を重ねていた。
その日、羽鳥城の勘定所には、朝早くから煙草商たちが呼び集められていた。机の上には一枚ずつ切り離された小さな印紙が並び、陽の光に透かすと細やかな模様が浮かび上がる。
「これがたばこ印紙でございます。ここに刻まれた紋様と番号を突き合わせ、収められた税と一致するかを確かめるのです」
藤村の声は落ち着いていたが、その目は鋭い。
商人の一人が恐る恐る手に取り、光に透かしてみせる。
「おお……細かい字が潜んでおりますな。これを一枚ずつ調べるのですか」
「そうだ。税は銭の流れ、銭は国の血潮だ。血潮に濁りがあれば病に侵される。――だから一滴も見逃さぬ」
藤村は机に広げられた帳簿を指し示し、小四郎に目配せした。
小四郎がすぐさま立ち上がり、手元の帳票を掲げる。
「こちらに“棚”を設けました。納められた印紙はすべてここに番号順に記し、収めた商家の名と突き合わせます。誰が何をいつ納めたか、誤差なく見通せる仕組みです」
若き補佐の声には自信があった。商人たちは互いに顔を見合わせ、しばしざわついたが、やがて一人が大きく頷いた。
「これならごまかしようがない……いや、正直に納めた者が笑う世になるわけだ」
藤村は小さく微笑んだ。
「そうだ。商いもまた耕作と同じ。汗をかいた分だけ実りを得る。その秩序を壊す者は、もはや国を蝕む病に等しい」
商人たちは深く頭を下げ、印紙の束を丁寧に机へ置いた。
―――
昼下がり。羽鳥城の裏手では、新しく完成した乾燥庫の扉が開け放たれていた。中には棚が幾重にも組まれ、そこに麦や薬草が広げられている。冬の間に湿気を逃がし、春先の病害を防ぐための工夫であった。
「空気が巡るよう、棚と棚の間を広くとってあります」
工匠のひとりが誇らしげに説明する。
藤村は中へ足を踏み入れ、手で棚を叩いてみた。乾いた音が返る。
「よい木を使ったな。これなら数年は保つだろう」
脇で小四郎が書付を広げていた。
「麦の収穫帳票も整えました。各村の収量を日ごとに記し、乾燥庫の棚と照合できるようにしてあります。――数字が麦の流れを追いかけます」
藤村はその真剣な顔を眺め、思わず笑みを漏らした。
「数字の棚と、麦の棚。どちらも国を養う“倉”になる」
工匠たちも頷き合い、誇らしげに棚を撫でた。木の香りと干した麦の香ばしさが混じり合い、そこはまるで新しい季節を先取りする場所のようであった。
―――
夕刻。江戸からの飛脚が息を切らして到着した。巻物を解くと、薩英賠償第二年分の繰上返済が承認されたとの知らせであった。
「また一歩、鎖を外せたな」
藤村は小栗の署名を確かめ、巻物を静かに閉じた。
渋沢が安堵の息を洩らす。
「このままいけば、三年を待たず完済できます。外への借りを返すごとに、内の力が増す。まるで冬の雪解けのようです」
「だが雪解けの水は濁りも早い。気を抜くなよ、渋沢」
藤村の声は厳しかったが、その口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
―――
夜。御殿の一室では、篤姫が幼子を膝に抱いていた。義信の瞳は明るい灯に映えて澄み、前に差し出された絵本をじっと見つめている。
その絵本は、藤村が工房で試みに作らせたものだった。西洋の挿絵を写し取り、和紙に彩色したものを綴じ合わせてある。藤村は冗談めかして「未来の板絵本」と呼んでいた。
「見てごらん、これは麦の穂よ」
篤姫が指先で絵を示すと、義信は小さな声で「ほ」と真似た。
「まぁ、もう言葉を」
篤姫の驚きと喜びに、女房たちも微笑みを洩らす。
廊下に立っていた藤村は、その光景を目に焼き付けた。帳簿の数字や印紙の透かし模様も確かに国を支える。だがこの子の笑顔に比べれば、すべてはその先にある糧でしかない――そう思えた。
「義信、この国はお前の笑顔を守るためにある」
藤村は声に出さず、心で呟いた。
篤姫がこちらを振り返り、そっと微笑んだ。その眼差しには、数字では測れぬ確かな温もりがあった。
―――
春は近い。印紙の透かし模様も、麦の穂の影も、幼子の声も――すべてが一つに重なって、未来の国を支える柱となろうとしていた。
江戸城の評定所には、春まだ浅い風が入り込み、障子を揺らしていた。座に並ぶ老中や奉行たちは皆、机上の印紙を見下ろして眉をひそめている。
「この細かさでは、かえって人手を煩わせすぎるのではないか」
ある老中が声を上げた。小さな紙片を摘まみ上げ、ため息を吐く。
小栗忠順がすぐに応じた。
「煩わしくとも、税を誤魔化されるよりはましにございます。たばこは庶民に広く行き渡っておりますゆえ、ここで一滴でも漏らせば、やがて大河を失うこととなりましょう」
しかし、別の奉行が反論する。
「だが印紙を突き合わせる役人の数はどうする。日々の労を増やしては、かえって不満が募る」
その時、藤村が口を開いた。声は穏やかだが、場を射抜く力を持っていた。
「突き合わせは“労”ではなく“秩序”です。印紙を棚に収め、帳簿と結びつければ、誰がどの刻に何を納めたか一目でわかる。人の記憶に頼らぬ制度こそ、国を長く支えます」
静まり返った場に、筆を走らせる音が響いた。老中の一人が顔を上げる。
「……なるほど。“棚”とは数字の倉。これを築けば、銭の流れも迷わぬか」
小栗が膝を進め、力強く言葉を添える。
「藤村殿の策は、必ずや実りをもたらします。異論はございませぬ」
その一言に、他の者たちも渋々ながら頷き、評定所はようやく沈静した。
―――
数日後、羽鳥の農村。まだ雪の名残が田の端に残る畦道で、小四郎が農夫たちを前に帳票を広げていた。
「今年からは、この“麦収穫帳票”を使っていただきます。一束ずつ、刈り取った分をここに印をつけるのです」
年配の農夫が腕を組み、怪訝そうに首を傾げる。
「お侍様よ、そんな細かいことまで書いてどうする。麦は麦、収めりゃ同じじゃねぇか」
小四郎は一歩前に出て、田の向こうを指差した。
「収める量が年ごとに変わるのは、空のせいでもありますが、病や害虫のせいでもあります。数字を並べれば、その原因が見えてくるのです。――誰も損をせず、麦がよく実れば皆が笑う。それを確かめる道具だと思ってください」
農夫たちは互いに顔を見合わせ、やがて一人が頷いた。
「なるほど……じゃあ、俺らが困ってる“赤さび”のことも、数字で見えるのか」
小四郎が口を開きかけたとき、同行していた昭武が前に出た。手には外国書から写した紙片を持っている。
「赤さび――それは“fungus”、菌が葉に宿る病と記されています。湿りに弱く、乾きに強い。だから、収穫帳票と乾燥庫を組み合わせれば、被害を減らせるのです」
農夫たちの目が丸くなった。
「坊ちゃん、よくご存じで……」
「外国の学びを訳しただけです。ですが、皆で数字を記し、知恵を重ねれば、病は恐れるに足りません」
小四郎も続ける。
「だから、ここに一つ一つ書いてください。字の読み書きが難しければ、子や若者が手を貸せばよいのです」
農夫たちはうなずき合い、帳票を手に取った。指先に墨がついても、彼らの表情は不思議と晴れやかだった。
―――
羽鳥城へ戻ると、勘定所では新しい帳簿の棚が組まれていた。小四郎が農民たちから集めた帳票を収めると、そこにはまるで麦の束のように数字が積み重なった。
「これで田ごとの実りと損が一目で見通せます」
小四郎の声には自信があった。
藤村は棚を眺め、静かに頷いた。
「印紙の棚と、麦の棚。――国を支える二つの倉が、ようやく繋がった」
昭武も傍らで紙片を広げ、病害防除の図を見せた。
「数字があれば、病の流れも地図のように描けます。学びは人を救うものだと、初めて実感しました」
藤村は若き甥の肩に手を置いた。
「学びも数字も、最後は人を笑わせるためにある。忘れるなよ」
昭武は力強く頷き、視線を前へと向けた。
―――
夜。羽鳥の御殿。窓の外には雪解けの水が光り、城下の道を細い川のように流れていた。
勘定所の灯りはまだ消えず、筆の音が続いていた。渋沢は印紙税の収支をまとめ、小四郎は麦帳票を整理している。藤村はその姿を静かに見守りながら、火鉢の前に腰を下ろした。
「税の棚と麦の穂。どちらもまだ頼りない。だが、積み上げれば必ず国を支える柱になる」
その呟きは誰に向けたものでもなかった。だが、小四郎と昭武は顔を上げ、互いに微笑を交わした。
外の風はまだ冷たい。だが、その夜の羽鳥には、確かな春の予感が宿っていた。
春を待ちながらも、羽鳥の空気にはまだ冬の冷たさが残っていた。雪解けの雫が庇から滴り落ち、庭の石を濡らしている。御殿の一室では、灯されたガス灯が白い光を広げ、部屋の隅々まで柔らかに照らしていた。
座敷の中央で、篤姫が義信を膝に抱いていた。幼子はまだ一歳に満たぬが、指先は器用に動き、目は驚くほど澄んでいる。彼の膝の上には一冊の薄い絵本が置かれていた。
「ほら、今日はこれを読みましょう」
篤姫が微笑みながら表紙を撫でる。その絵本は、藤村が異国の器械――iPadと呼ばれる不思議な板から写し取った図をもとに、和紙に彩色して作り直したものだった。
題は『麦と太陽』。稲と違い、冬の間に育つ麦を描き、春に穂を実らせる姿を子どもにもわかるように工夫されていた。色鮮やかな青と黄が重なり、まるで畑に風が渡っているかのようだった。
篤姫が声を柔らかくして読み上げる。
「――麦は雪の下でじっと耐え、春の陽を待ちます」
義信は目を丸くして絵を見つめ、小さな声を洩らした。
「あっ」
指先が絵の麦穂に触れようと伸び、篤姫はその動きをそっと導いた。
「そう、これは麦。ご飯の仲間ですよ」
母の声は穏やかで、子守歌のような響きを持っていた。
―――
少し離れた座敷では、藤村がその様子を見守っていた。筆と帳面を脇に置き、しばし数字から解き放たれた顔をしている。篤姫が読む言葉に合わせ、義信が「あー」「うー」と声を重ねようとするたび、彼の胸には静かな感慨が広がっていった。
そのとき、義信がくるりと父の方を振り返り、短い声を上げた。
「……あーっ、うー」
篤姫が笑って言葉を添える。
「まあ、“父上も聞いているの?”と呼びかけているみたいです」
藤村はその解釈に頷き、優しく答えた。
「ああ、聞いているぞ。義信の声は、よく通る」
幼子の声はまだ言葉には程遠い。だが確かに人の心を動かす響きを持っていた。それは未来へ近づく一歩に他ならなかった。
―――
絵本の頁をめくると、そこには病に倒れた麦の葉が描かれていた。赤い斑点が点々と広がり、葉はしおれている。
「これは“病”といって、麦を苦しめるものです」
篤姫の声に、義信は小さく眉を寄せるような仕草を見せた。
藤村が口を添えた。
「だが、心配はいらない。人が知恵を尽くせば、病も越えられる」
義信はじっと父の顔を見上げ、やがてぱちぱちと手を叩いた。意味を理解しているわけではない。ただ、父の言葉の響きに心を揺らしたのだろう。篤姫はくすりと笑い、頬に口づけを落とした。
「父と母の声を、ちゃんと聞き分けております」
―――
その夜。廊下に出ると、遠く城下の道にもガス灯の灯りが見えた。雪解け水に映る光がきらめき、星を地に降ろしたように見えた。藤村はしばらく無言でその光を見つめていた。
背後から篤姫が声を掛ける。
「義信は、あの絵本をとても気に入っております。絵を指差して、声を出して……あの子は早くも何かを掴もうとしているように見えます」
藤村はゆっくりと頷いた。
「文字も絵も、数字も。人を結ぶ“道”に過ぎぬ。だが、その道を見つけた子は、必ずどこかへ辿り着ける」
篤姫は夫の横顔を見つめ、ふっと笑った。
「あなたが数字の棚を築いたように、あの子は言葉の棚を積んでゆくのでしょうね」
―――
隣の部屋からは、お吉が久信に子守歌を歌う声が聞こえていた。赤子の泣き声がやがて静まり、寝息に変わっていく。
「義信も、久信も。二人が育つ姿を見ることができる――それだけで幸せです」
篤姫の言葉には、深い感謝が滲んでいた。
藤村は何も言わず、ただ障子越しに聞こえる寝息に耳を澄ませた。未来はまだ遠い。だが確かにここに芽吹いている――そう感じられた。
―――
その後、義信は眠りについた。絵本は母の手で机の上に戻され、灯の下に静かに横たわっている。麦の穂が描かれたその表紙は、まるで子の未来を祝う象徴のように光を放っていた。
藤村は火鉢の前に座り、手をかざした。指先に残る温もりは、数字でも剣でも測れぬものだった。
「税の棚も、麦の穂も。結局は、この小さな手を守るためにあるのだな」
その呟きに篤姫が静かに頷き、傍に座った。二人の間に言葉はなくとも、互いに分かち合う思いは確かにあった。
外にはまだ雪が舞っていたが、御殿の中には春の兆しが宿っていた。
春を待つ羽鳥の空気はまだ冷たく、吐く息は白いままだった。城下の蔵には収穫された麦が俵に詰められ、乾燥庫に並んでいる。瓦屋根に残る雪が時折ぱらりと落ち、静かな音を立てた。
藤村は小四郎を伴い、完成したばかりの乾燥庫を視察した。中に入ると、麦の穂が整然と棚に掛けられ、木の香と穀物の甘い匂いが入り混じっていた。
「湿りはありません。温度も一定に保たれています」
小四郎が指で計器を示す。木札には日々の温度と湿度が記され、几帳面な字で並んでいた。
藤村は棚の麦をひとつ抜き取り、手のひらに転がした。粒は硬く締まり、黄金色が冬の光を反射する。
「この一粒が、人の命を支える。――数字で記録するのも、麦を守るのも、どちらも国を立てる柱だな」
小四郎は頷き、傍らに置かれた厚い帳簿を開いた。
「印紙税や関税と同じように、麦の収穫も帳簿に積み重ねます。税の棚を作れば、収入も支出も取り違えようがありません」
その声には自信と熱がこもっていた。
藤村は若き補佐の目を見つめ、静かに言った。
「数字の棚は剣ではない。だが人を守る力を持つ。お前が組んだこの棚が、やがて百姓や町人の暮らしを守ることになる」
小四郎の表情に、はにかんだ笑みが浮かんだ。墨の匂いと麦の香りが混ざり合い、冬の空気の中に新しい季節の気配を感じさせた。
―――
その夜、御殿の廊下を歩くと、襖の向こうから柔らかな子守歌が聞こえてきた。お吉の声だった。
「麦は伸びるよ 春の陽に
やがて黄金の 野をつくる」
藤村が足を止めると、歌に合わせるように小さな寝息が重なる。久信が母の腕の中で、穏やかに眠りに落ちているのだろう。
お吉の声はさらに低く、愛おしげに続いた。
「父も母も、その麦を守るからね……」
藤村は襖越しにその光景を思い浮かべ、胸が温かくなった。子を抱き、声をかける母の姿――それは数字の棚や乾燥庫の中の麦と、確かにひとつにつながっていた。守るべきものは、どちらも人の明日を育てる糧なのだ。
彼は声を掛けることなく、そのまま廊下を去った。灯の下、障子に映る母子の影が揺れ、まるで麦穂が風にたなびくように見えた。
―――
火鉢の前に戻ると、渋沢が帳簿を抱えて入ってきた。
「藤村様。今月の収支、税の棚に積み上げました。印紙の突合も順調に進んでおります」
藤村は帳簿を受け取り、黒々とした数字を一瞥した。
「麦の棚と税の棚、両方が揃ったな。――どちらも国を養う根になる」
渋沢は微笑んで頭を下げた。
―――
夜半、雪が静かに降り始めた。羽鳥城の石垣に白が積もり、乾燥庫の屋根にも淡く覆いがかかる。
藤村は窓辺に立ち、遠くに見えるガス灯の列を見やった。光の下を歩く町人の姿は小さく、しかし確かに力強く映っていた。
「税も麦も、命を支える糧だ。数字の一粒、麦の一粒――どちらを疎かにしても、この国の未来は育たぬ」
低くつぶやき、彼は手を合わせた。数字の棚も、麦の穂も、そして母子の寝息も――すべてがひとつに繋がる未来を、藤村は確かに思い描いていた。