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127話:(1866年2月)油と蒸気、乳と糧

冬の潮が鉄の匂いを運んでいた。横須賀の入江は朝もやの中で白く煙り、工廠の屋根からは細い蒸気が立ちのぼる。ボイラー棟の前に集まった見習いと職工の列を、フランス人技師がゆっくりと見渡した。通詞が脇で身振りを添える。


 「鋲は赤いうちに打つ。冷えたら、もう遅い」

 「ボイラーは“腹”で息をする。薄くすれば軽いが、破れやすい。厚くすれば重いが、安心できる」


 言葉は簡潔で、火の扱いのように真っ直ぐだった。鉄板の合わせ目に小さな円が穿たれ、そこへ真紅の鋲が差し込まれる。内側から押し、外側でハンマーが受ける。タン、タン、タン――カンッ。三つの打音で首が据わり、最後の一音で金と金がひとつに溶け合っていく。


 列の端で、昭武が必死に筆を走らせていた。

 「……‘rivet’は鋲。‘stress’は応力。蒸気圧……ここは数で押さえるところだな」

 袖口に油が滲んでも気に留めない。顔を上げると、技師が片手で円を描いた。


 「蒸気は見えない。だが、秩序は見えぬところに宿る」

 通詞の声が寒気に澄み、昭武は胸のうちでそのまま復唱してみせた。見えない圧を数で測る――それは、藤村に教えられてきた“治める術”と同じ匂いがした。


 「昭武、手を止めるな。数字は心を落ち着かせる」

 背後からの藤村の声は、油と鉄の匂いに混じって近づいてきた。

 「はい。――蒸気は見えない、だからこそ数で掴む。肝に銘じます」

 昭武の頬に、冬の日が薄く射した。


 


 そのころ羽鳥の工房は、蒸気の油ではなく、乳の匂いで満ちていた。土壁に沿って大きな陶器の発酵壺が並び、口には和紙と布が幾重にも張られている。窓際の壁にはガス灯が据え付けられ、青白い炎がほのかに揺れるたび、壺の影が床の上を静かに移動していく。


 「温度、二十四度。昨夜から一度も外れていない」

 小四郎が砂時計を返し、温度計を覗き込む。硝子の中で銀の糸がわずかに上下する。


 「濾液は?」

 「こちらに。和紙で粗濾し、布で澄ましたものです。……匂いが和らいでいます」


 藤村はわずかに壺の口へ顔を寄せた。青草にも似た、乾いたパンの香り。青黴の生む、どこか懐かしい匂い。


 「これが“ペニシリン”だ。名は異国の書に拠ってつけた。だが考え方は単純だ。腐りを食う者で、腐りを退ける」

 言いながら、彼は布に浸した濾液を小瓶へ落とした。脇で見ていた若い医師が、思わず息を呑む。


 「……本当に、膿の匂いが消えるのです」

 「匂いは嘘をつかない。だが量と温度はもっと嘘をつかない。数字で捕まえろ」


 棚には“護命膏”と書かれた小さな木札がぶら下がっている。街に出すときの名だ。知らぬ言葉より、効き目が先に立つ名がよい。


 渋沢が帳簿を抱えて入ってくる。

 「藤村様。今月の出荷見込で粗利は三千五百両。春までに規模を倍にすれば、年四万両に届きます。……ただし、温度管理のための薪代が嵩みます」

 「払うべき火なら払え。ここで節約すれば、人の命が節約される」

 言い切る声に、工房の空気が少しだけ温かくなる。


 


 その夜。羽鳥の御殿ではガス灯が青白い光を投げかけ、障子の格子が影絵のように浮かんでいた。


 戸を開けると、お吉が久信を抱いて揺らしていた。ガス灯の炎はほとんど揺れず、母子の影だけが壁を静かに泳いでいる。


 「今日はご機嫌がわるくて」

 お吉の声は少し掠れている。久信は父の顔を見つけると、泣き声を飲み込むように息を止め、次の瞬間、へにゃりと笑ってみせた。上の歯が二つ、白くのぞいている。


 「灯りの匂いがする」

 お吉が微笑むと、藤村は指先についた油を襟で拭った。

 「すまぬ。――だが、世の油も蒸気も、この子の糧になる」

 腕を伸ばすと、久信は小さな掌で父の指に触れ、握り返した。その力は驚くほど真っ直ぐだった。


 「乳は私が。蒸気はあなたが。……この子の明日は、二つでできているのですね」

 お吉の言葉に、藤村はうなずいた。乳と糧、油と蒸気。どれも匂いを持ち、手を汚す。だが手を汚した分だけ、人は明日に触れられるのかもしれない。


 


 夜更け、羽鳥の工房では最後の壺が布で覆われた。窓の外に星が一つ滲み、ガス灯の光が淡く壁を照らす。遠い横須賀では、タン、タン、タン――カンッ、と鋲の音が闇を渡っていた。


 見えない圧を閉じ込める音、人の命を温める音。その二つの音は、どこかで同じ拍になっていた。


 油と蒸気、乳と糧。異なる匂いが、同じ未来へ収束していく。藤村は灯を落としながら、胸の内でその拍に耳を澄ませた。


 ――数字は器、器は人の手。手が確かなら、冬の夜も怖くない。


 窓の外で、雪が静かに降り始めた。

羽鳥の城下は、冬の寒気に包まれながらも静かに明かりを灯していた。夕暮れの鐘が鳴り終えると、道沿いのガス灯が一つ、また一つと白い炎を揺らめかせる。煤けた鉄柱の先に咲いた小さな花のような光は、雪に覆われた街並みを淡く照らし出した。


 「ほら見てください、藤村様。灯が繋がってゆきます」

 渋沢が馬上から指差すと、遠くまで続く街路に、点々と規則正しい光の列が生まれていく。


 「まるで星を地に降ろしたようだな」

 藤村は馬の手綱を引き、しばし立ち止まった。冷たい風が頬を刺すが、目の前の光景には温もりがあった。人々の声も賑やかだ。暖簾を下ろした商家からは笑い声がもれ、子どもたちが雪を蹴立てて走っていく。


 「油灯に比べれば煤も少なく、炎も安定しています。初期の設置費こそ重いですが、維持費はやがて安くなりましょう」

 渋沢の口調はいつも通りの実務的なものだったが、光を映すその瞳には子どものような高揚も見えた。


 「費用の計算はそなたに任せる。私は……人々の顔を見て決めるとしよう」

 藤村がそう言って視線を移すと、商人の女房が笑顔で頭を下げ、灯の下で客を迎えていた。


 


 城内に戻ると、学問所の一室では若き藩士たちが机を囲み、蒸気機関の講義の余韻を語り合っていた。講師は横須賀から招かれた技師で、昼間は蒸気の圧力計を図解しながら「見えぬ力を数で掴め」と説いたのだった。


 「この圧が倍になれば、舟は二倍速く進むのか?」

 若者の素朴な問いに、昭武が苦笑しながら答えた。

 「倍ではない。摩擦や熱の逃げ道があるから、計算はもっと複雑だそうだ」


 「だが、それを数で導けるのなら、武に頼らぬ強さが得られる」

 慶篤が真剣な顔で言った。筆を握る手がわずかに震えていたのは、寒さのせいではないだろう。彼の胸には、新しい学びを自らの力に変えようとする熱が灯っていた。


 後ろで聞いていた藤村は、そっと笑みを洩らした。

 「剣の稽古よりも、よほど汗をかいているな」

 その一言に場が和み、藩士たちの顔に笑いが広がった。


 


 勘定所では小四郎が机いっぱいに紙を広げ、朱の筆を走らせていた。新設の藩債監査簿に、会津藩債四十万両返済完了の記録を刻んでいる。


 「これで……借りの札は、すべて消えました」

 小四郎が静かに言うと、藤村は黙って頷いた。


 「長かったな」

 「ええ。しかし数字にすれば、終わりは確かに見える。借りも返しも、人の記憶では曖昧でも、紙の上なら揺れません」


 若き補佐の言葉には、実直な重みがあった。藤村はその肩に軽く手を置き、労うように声を掛けた。

 「ご苦労だった。数字で斬る剣を、お前はもう手にしている」


 


 その夜。御殿の廊下はガス灯の柔らかな光で満ちていた。油灯のように煙が舞うこともなく、炎は揺れながらも安定している。障子に映る影が揺らめき、歩く者の背を追いかけるように伸びた。


 座敷に入ると、お吉が久信を抱いて揺らしていた。赤子は父の姿を見て、泣き声を飲み込むように口を閉ざし、次の瞬間、破顔して笑った。


 「ご機嫌が直りました。やっぱり父上がわかるのでしょう」

 お吉の声には安堵が滲み、目尻に柔らかな光が宿っていた。


 藤村は手を差し出し、小さな掌に触れた。久信は驚くほど強い力で指を握り返す。

 「強いな……」

 思わず洩らした言葉に、お吉がくすりと笑った。


 「この子は、きっと人を支える力を持つのでしょうね」

 母の声は静かだったが、そこには揺るぎない誇りがあった。藤村はその言葉を胸に刻み、幼子の温もりを確かめるように手を握り返した。


 


 夜更け。城下の道を見回る足軽たちの松明はすでに消されていたが、ガス灯は静かに燃え続けていた。雪を照らす光は、まるで昼の名残を地に繋ぎとめているかのようだった。


 藤村は櫓の上に立ち、白く続く街路を見下ろした。

 「剣で守れるのは人の一瞬。だが、この光は、人の夜を守る」


 風が強まり、雪が舞った。だが灯は消えない。油と蒸気、乳と糧、そして光。すべてが一つの国を支える柱になろうとしていた。

羽鳥城の夜は、昼間の寒さをそのまま抱き込んでいるように冷えていた。廊下の障子越しに見える庭はうっすらと雪化粧をまとい、空には白い星がいくつも凍りついたように瞬いていた。だが御殿の内は柔らかな灯りと子どもの声に満ち、外の寒さを忘れさせてくれる。


 


 座敷に入ると、篤姫が義信を膝に抱いていた。幼子の手には小さな筆が握られており、白紙の上にはぐるぐるとした丸や線が重なっている。墨はあちこちに飛び、畳にまで小さな黒点が散っていた。


 「まあ……また畳を汚してしまいました」

 篤姫が苦笑交じりに布で拭き取りながら、子の額を撫でる。


 藤村はそばに座り、紙を覗き込んだ。

 「これは……山か? いや、父には蔵に見えるな」


 義信はきょとんと父を見上げ、それから声を立てて笑った。まるで自分の描いたものを褒められたとでも思ったのだろう。嬉しそうにもう一度、墨を大きく走らせた。


 「殴り書きでも、父の真似をしているのでしょうね」

 篤姫の声には母の誇りが滲んでいた。


 藤村は筆を持つ小さな手をそっと包み込み、紙の上で一緒に線を引いた。

 「義信、お前の手は温かいな。父の手よりもずっと生きがいい」


 その言葉に、義信は声をあげて笑い、墨をさらに飛ばした。


 


 その隣の部屋からは、赤子の泣き声が響いてきた。お吉が慌ててあやす声が混じる。藤村が襖を開けると、揺籠の中で久信が顔を真っ赤にして泣いていた。


 「ほら、父上が来たぞ」

 お吉が少し疲れた顔で子を差し出す。藤村が抱き上げると、久信は一瞬泣き止み、次の瞬間、よだれを垂らして父の襟を濡らした。


 「おいおい、父上の着物は食うものではないぞ」

 藤村はそう呟いてあやす。久信は喉をくぐらせて笑い、指で父の顎を掴もうとした。


 「力が強い……まだこんなに小さいのにな」

 その言葉にお吉がくすりと笑った。

 「父に似ているのでしょう。きっと丈夫に育ちます」


 


 篤姫とお吉は顔を見合わせ、どちらからともなく微笑んだ。

 「藤村様がこうして父の顔を見せてくださるのは、本当にありがたいことです」

 篤姫がそっと言った。


 「ええ。乳母に任せきりではなく、ご自身の手で抱いてくださる……子も、それを分かっているはずです」

 お吉もまた言葉を添える。


 藤村は思わず二人を見つめ、肩をすくめて笑った。

 「大層なことではない。泣いたら抱く、笑ったら笑い返す。それだけのことだ」


 だが二人の母の瞳には深い感謝が宿っていた。藤村が外でいかに大きな政を動かそうとも、家庭ではただの父として子らに向き合ってくれる――その事実が、何よりも心強かったのだ。


 


 義信は再び筆を振り回し、墨を紙いっぱいに走らせていた。藤村は笑いながら声をかけた。

 「よしよし。父も昔は習字が嫌いでな。よく師に叱られたものだ」


 篤姫が驚いたように目を丸くした。

 「まあ、あなたにもそんな時が」

 「あるとも。だから義信、上手く書けなくても気にするな。父も同じだった」


 義信は意味も分からずに笑い声を上げ、墨の線を重ね続けた。その無邪気さに、座敷の空気は柔らかくほころんだ。


 


 やがて久信が眠りにつき、義信も疲れたのか母の胸で目を閉じた。部屋には炭火の匂いと子どもの寝息が混じり合い、外の冷たい風の音が遠くに霞んでいった。


 藤村は静かに二人の子の顔を眺めた。政の場では数字や剣の言葉ばかりを使ってきた彼だが、このときばかりは心の底から素朴な父の思いが溢れていた。


 「よく眠れ。父も一緒に眠りたいくらいだ」


 その囁きに篤姫とお吉がそっと頷き、障子の外で雪が静かに舞い降りた。

冬の江戸城勘定所。障子越しの光は白く冷たく、帳簿の墨跡を際立たせていた。

 机の上には関税収入の控えが山と積まれ、その場にいる者の表情も緊張で硬い。


 「本年の関税収入、二百七十万両にございます」

 読み上げたのは勘定奉行、小栗忠順だった。声はよく通り、広間の空気をさらに引き締めた。


 老中が藤村へ視線を送る。

 「藤村。幕府の借財返済も、そなたの手にかかっておる。どう割り振るか」


 藤村は筆を取り、硯の墨を走らせた。

 「海軍と横須賀に百八万両。繰上返済に九十四万五千両。衛生と教育に四十万五千両。残り二十七万両を予備に」


 言葉は静かで、しかし迷いがなかった。

 「剣で守れるのは兵の一瞬。だが銭の流れで守れば、国は十年を持つ。今こそ十年先を見ねばなりません」


 小栗は深く頷いた。

 「異論なし。数字で裏付けられた策に勝るものはない」


 その言葉に広間はざわめきを鎮め、老中が決裁の朱印を押した。

 「よい。藤村の割り振りでゆけ」


 紙の上に朱が刻まれると、張り詰めていた息がいっせいに吐き出された。


―――


 数日後、羽鳥城の勘定所にも江戸からの控えが届けられた。

 小四郎が巻物を広げ、朱印を確認する。

 「これで幕府の決裁が羽鳥に届きました。監査簿に写せば、民の負担も数字で見通せます」


 藤村は微笑み、補佐の肩を軽く叩いた。

 「江戸で決めたことを、羽鳥で支える。数字は流れを繋ぐ川だ。お前の役目は川を濁らせぬことだ」


 小四郎は真剣に頷き、新しい簿冊に「関税収入監査」と記した。墨の香りが冷気に広がった。


―――


 夜。御殿の座敷。

 篤姫が義信を抱いていた。まだ一歳には満たないが、義信は父の姿を見つけると声を上げて笑い、必死に手を伸ばす。


 「今日も元気でございました。強く握るので、抱くときに驚かされます」

 篤姫の声には、母としての誇らしさがにじんでいた。


 藤村は座に膝をつき、幼子の手を握った。小さな掌がしっかりと指を掴む。

 「よしよし、そんなに力を入れなくても父は逃げないぞ」


 その言葉に篤姫は笑い、義信はさらに声を弾ませた。


 隣の部屋では、お吉が久信をあやしていた。赤子は母の声に耳を傾け、やがて大きなあくびをして目を閉じる。

 「今日は昼寝が短かったせいか、なかなか眠らなくて」

 お吉は少し困ったように笑った。


 藤村は廊下からその様子を眺め、声をかけた。

 「無理をするな。夜泣きの番は交代してもよい」

 「ふふ、それでは殿が寝不足になってしまいます」

 お吉は揺籠を軽く揺らしながら答えた。


 幼子の寝息が静かに部屋を満たしていく。


―――


 外の雪は舞い続けていたが、城下のガス灯は消えることなく、白い炎を揺らめかせていた。

 その灯は人々の夜を照らし、藤村の胸には「数字と光と、人の手」が織りなす未来の姿が確かに浮かんでいた。

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