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126話:(1866年1月)金型と型枠—冬耕の知恵

冬の江戸は澄み切った青空の下、霜に覆われた石畳がきらきらと光を返していた。

 江戸城西の丸に広がる工事場も、今日ばかりは静まり返っている。江戸城II期の完成式典――火薬庫、兵器庫、衛生棟、避雷針の正式稼働が始まる日であった。


 将軍・慶喜が裃姿で登壇し、並び立つ藤村、小栗忠順、大村蔵六、大久保一翁らが見守る。武家も町人も、凍てつく風に身をすくめながらも、この日のために集まった。


 太鼓が三度打ち鳴らされると、慶喜は一歩前に進み、凛とした声を響かせた。

 「ここに火薬庫、兵器庫、衛生棟、そして避雷針。すべて完成し、今この時をもって江戸を護る器とする。城はただ武を示すにあらず、民をも護る器なり」


 列座する者たちが一斉に頷いた。


 


 藤村もまた一歩進み出て、声を張る。

 「兵を備えるは戦のためばかりにあらず。病を防ぎ、火を避け、雷を地に返す。これらの石と木と鉄は、人々の命を守るために築かれました。城は剣を掲げるだけのものではなく、民の暮らしを繋ぐ盾でございます」


 広場にざわめきが広がり、やがて静寂に変わった。町人たちが顔を見合わせ、目に光を宿すのが見て取れた。


 


 その場に立つ小栗忠順が、低くも確かな声で言葉を添えた。

 「財なきところに武は育たず。横須賀も江戸も、数字と理が支えてこそ力を持つ。この日を迎えられたのは、まさしく皆の銭と汗の結晶である」


 続いて大村蔵六が、白衣の袖を正して一歩出た。

 「衛生棟に備えた新しき仕組みは、兵の命を長らえるものです。手を洗い、体を検め、病を早く見つける。これこそが勝敗を分ける礎となりましょう」


 慶喜は頷き、兵の列に視線を向けた。冷たい水で手を洗う兵士たちは、戸惑いながらも命じられるままに手を清めている。粗布で拭う手つきはまだぎこちないが、その中に新しい習いを受け入れようとする意志が見えた。


 


 式典を終え、外に出ると避雷針が冬空に鋭く突き立っていた。

 「雷を呼ぶ槍か?」

 「いや、空の怒りを地へ逃がすものだ」

 町人たちが囁き合う。


 藤村は傍らにいた子どもに声をかけた。

 「これは空から落ちる火を受け止めて、地に返すものだ。お前たちの家を守るための槍だぞ」


 子どもは目を丸くし、やがて真剣に頷いた。


 


 慶喜は立ち止まり、空を仰いで言った。

 「城は剣の器にあらず。民を守る器――今日、そのことを知った」


 藤村は深く一礼した。

 「殿のお言葉こそ、この日の証でございます」


 小栗が横から口を挟んだ。

 「ならば次は、財を守る器も築かねばなりますまいな」


 藤村は笑みを返し、凛とした声で答えた。

 「承知いたしました。剣と算盤、両輪をもって、この国を支えて参ります」


 冬空に響いたその声は、冷え切った空気の中で、確かな温もりを伴って城下に広がっていった。

冬の羽鳥城は、白い吐息に包まれていた。

 石垣の工事は七割を超え、天守を支える基盤が着々と築かれている。だが、凍りつく風は石工の指を悴ませ、モルタルに混ぜた水はすぐに凍結してしまう。


 「親方、湯を運びます!」

 若い衆が桶を抱えて駆け寄る。湯気が立ち上り、その熱で漆喰を温める。

 「ようし、急げ! 寒さに負けるな!」

 親方の声が響き、槌音が冬空に鋭く刻まれていった。


 


 藤村は毛織の羽織をまとい、石垣の上から工事を見下ろしていた。

 傍らには小四郎が控え、帳面に細かな数字を書き込んでいる。

 「本日の進捗は七分、誤差は許容範囲内です。ただし燃料代が先週比で一割増、暖房にかかる費用が嵩んでおります」

 その報告に、藤村は頷いた。

 「冬の工事は銭を喰う。だが、今ここで止めれば人の気持ちが萎えてしまう。数字は数字として受け止めるが、士気を落とすことは許されぬ」


 小四郎は真剣な面持ちで筆を走らせた。

 「では、出来高票に燃料補正を入れます。来週には代替の薪炭の供給源を提案します」

 その几帳面さに、藤村は思わず微笑んだ。

 ――数字で石垣を積むとは、こういうことだ。


 


 一方、城下の玉里港では、倉庫の屋根に雪が積もり、荷役たちの掛け声が響いていた。

 「重しを揚げろ! 次は麦袋だ!」

 滑車が唸り、荷車が並ぶ。港倉庫の仕組みを改良したおかげで、荷物の積み下ろしは格段に早くなっていた。


 港役人の渋沢が手帳を片手に、藤村へ報告に来る。

 「一艘ごとの荷揚げにかかる時間、昨年の半分以下です。倉庫の導線を改めたのが効いております」

 藤村は港の先に見える船影に目を向け、深く息を吐いた。

 「海の道が広がれば、銭も人も流れ込む。この港は、羽鳥の心臓となるだろう」


 渋沢は頷きながら、少し声を落とした。

 「ただ……人が集まれば、悪銭もまた流れ込みます。取締りの目も強める必要がありましょう」

 藤村は苦笑を浮かべた。

 「財と秩序は常に並び立つ。役目を怠るな、渋沢」

 「承知いたしました」


 


 その頃、農村では冬耕講習が開かれていた。

 小美玉の農家が中心となり、酸乳を用いた堆肥づくりが村々に広がっていた。


 「牛の乳を捨てるのは惜しいと思っていたが、これで田も肥えるとはな」

 農夫の一人が感心したように言うと、講師役の若者が胸を張った。

 「酸乳を藁と混ぜて寝かせれば、春には良き肥となります。匂いも少なく、虫も減る」

 周囲の農民たちは顔を見合わせ、やがて声を揃えて笑った。

 「なるほど、これなら女や子どもも手伝いやすい」


 そこへ藤村が馬を降り、田の縁に立った。

 農夫たちは驚き、慌てて頭を下げる。

 「殿様自ら、ようこそ」

 藤村は軽く手を挙げて制し、言葉を返した。

 「この工夫は、銭を産む鍬だ。誰が担っても誇りとなる。数字で見れば小さな一歩だが、百村千村となれば国を動かす」

 農夫たちの顔が輝き、田の中に笑い声が広がった。


 


 その夜。羽鳥城の書院では、暖炉に薪が赤々と燃えていた。

 慶篤が帳面を広げ、冬耕の成果をまとめていた。

 「収量の見込は、春までにさらに一割増すやもしれませぬ」

 昭武もまた仏書を片手に、欧州の農政例を訳している。

 「こちらでは、冬に畑を休ませるのではなく、肥を練ることに力を注いでいます」

 小四郎が横から数字を補い、三人の議論は尽きることがなかった。


 藤村はその光景を背後から見守り、胸に静かな熱を覚えていた。

 ――剣を握らぬ者が国を動かす。その証がここにある。


 


 翌朝、再び城壁に立つと、石工たちの槌音が凍てつく空に響いていた。

 「殿様、石がまた積み上がりましたぞ!」

 若い衆の声に振り返ると、霜をまとった石垣が朝日を受けて白く光っていた。


 藤村は微笑み、静かに呟いた。

 「石も木も銭も、人の力も。すべてを束ねて、未来を築くのだ」


 その声は白い吐息と共に、澄み渡る冬空へと消えていった。

江戸城の完成式典から数日後。

 冬の空気は澄み渡り、羽鳥城の櫓からは遠く筑波山まで見渡せた。


 だが、凛とした空気の中にも財の計算は待ってはくれぬ。

 藤村は城内の勘定所に入り、帳簿を前に座した。


 「増鋳益十五万両、確保できました」

 渋沢が控えめに報告する。

 「内訳は、海軍と横須賀に第一四半期で十五万ずつ執行。工事と維持費は確かに回ります」


 藤村は頁を繰り、黒々とした墨の数字を睨んだ。

 「銭は流れてこそ命を持つ。止めてしまえばただの墨よ」

 その声は低く、それでいて確かな響きを持っていた。


 小四郎が傍らで紙束を広げ、出来高票を指で示す。

 「日計で見れば、石垣工事は予定より三日分の遅れ。ですが暖炉や薪代を補正して計算すれば、帳尻は合います。即時に修正すれば、来月には誤差が消えます」


 藤村は目を細め、若き補佐の冷静さに微笑を浮かべた。

 「数字の刀で斬れば、遅れも敵ではないな」


 


 その日、勘定所を出ると、城下では雪混じりの風が吹いていた。

 門を抜けた藤村を呼び止める声があった。振り返れば、農夫たちが担いだ俵を差し出す。


 「殿様、この冬耕の肥がようやく熟しました。来春はきっと良い実りになります」

 俵の中には、酸乳を混ぜて寝かせた堆肥が蒸気を立てていた。


 藤村は鼻を近づけ、ほのかな酸の匂いを確かめる。

 「なるほど、匂いは和らぎ、手触りもよい。銭に換えるにはまだ先だが、これもまた国の宝だ」


 農夫たちの顔がほころび、深々と頭を下げた。


 


 その夜。御殿に戻ると、障子の向こうから幼い声が聞こえた。


 「もっと、もっと!」


 義信の声だった。母の膝に抱かれ、遊びのように筆を振っているのだろう。

 笑い声と泣き声が交じる、不思議な響きに、藤村は思わず足を早めた。


 座敷に入ると、篤姫が義信を膝に抱いていた。幼子の小さな手には筆が握られ、白紙の上に墨が広がっている。


 「まだ十か月ですが、もう筆を離そうとしません。殴り書きでも、父の背を追うかのように」

 篤姫の声は柔らかく、母としての誇りが滲んでいた。


 藤村はそっと義信の手をとり、紙に筆を導いた。

 「義信、その線は人を傷つけぬ剣だ。人を結ぶ道になる」

 幼子は意味も分からず、しかし嬉しげに声を上げた。


 


 隣の部屋では、お吉が久信を揺籠に寝かしつけていた。

 「ほら、昔話を聞かせてあげますよ」

 彼女は小声で、村の民話を語っていた。まだ生後数か月の久信は、母の声に包まれながら、静かに眠りに落ちていく。


 その光景の中で、篤姫とお吉はふと互いに目を合わせ、静かに語り合った。


 「こうして自分の手で子を育てられるのは……藤村様のおかげですわね」

 篤姫が言えば、お吉も微笑んで頷く。

 「はい。乳母に任せずに済むなんて、夢にも思いませんでした」


 二人の瞳には感謝の色が宿り、その温もりが部屋全体を包み込んでいた。

 その姿を廊下から見ていた藤村は、言葉を差し挟まず、ただ静かに微笑んだ。


 


 やがて、藤村は火鉢の前に腰を下ろし、一日の出来事を振り返った。

 義信の墨、久信の寝息、農夫の笑顔、石工の汗。すべてが数字の裏側にある現実の息遣いだった。


 「銭は剣よりも強い、と人は言う。だが銭だけでは命を育めぬ。石も、土も、人の笑顔もあってこそ、国は立つのだ」


 その呟きに、篤姫が隣から湯呑を差し出した。

 「あなたが築いた道は、剣ではなく人を繋ぐ道。義信も久信も、その道を歩むでしょう」


 藤村は湯呑を受け取り、温かさを掌に感じた。

 その瞬間、外の雪が一層強くなり、屋根を叩く音が響いた。だが御殿の中には、子どもの寝息と火のぬくもりがあり、確かな未来の気配が漂っていた。


 


 翌朝、評定所では幕府の勘定奉行から関税収入の見込みが届いた。

 「二百七十万両、確定です」

 その言葉に座がざわめく。


 藤村は即座に配分を書き示した。

 「海軍・横須賀へ百八。繰上げ返済に九十四・五。衛生と教育に四十・五。残り二十七を予備金に」


 慶篤が横から声を上げる。

 「藤村様。その分け方、民の負担を増やさずに済みますか」

 藤村は柔らかく微笑んだ。

 「民の負担はすでに減らしてある。増やすのではなく、流れを変えるだけだ」


 評定の空気は一変した。剣を振るわずとも、数字の力で皆が納得してゆく。


 


 その日の夕刻、藤村は堀端に立った。氷の張る水面に夕日が映り、工事中の石垣が赤く染まっている。

 背後で小四郎が問う。

 「殿、剣ではなく数字で国を守れるのでしょうか」


 藤村はしばし沈黙し、やがてゆっくりと答えた。

 「剣で守るのは一時。だが数字で守れば、子も孫も笑える世が続く」


 その言葉に小四郎は深く頷き、筆を強く握り直した。


 


 雪の夜。城下では子どもたちが笑いながら雪玉を投げ合っていた。

 遠く御殿から、義信の笑い声と久信の泣き声が重なって響く。


 藤村は空を仰ぎ、白い息を吐いた。

 ――城は武のみならず、民を護る器。

 その言葉が、冬空に消えずに残るように思えた。

冬の朝は空気が澄み、羽鳥城の石垣は霜をまとって白く輝いていた。

 石工たちの掛け声が響き、槌の音が凍てつく空気を割る。藤村は裃姿ではなく、羽織を重ねただけの実務の装いで現場に立った。


 「殿様、石垣の北面、予定より二尺分だけ遅れが出ております」

 現場監督が帳簿を差し出す。紙の上には小四郎が導入した出来高票が記され、赤い墨で遅れが明記されていた。


 藤村は紙を指でなぞり、目を細める。

 「三日遅れか。だが、燃料費と職人数を補正すれば来月には埋まる。数字は嘘をつかぬな」


 石を積む若者たちの顔は赤らみ、息は白く揺れる。藤村は彼らを見渡し、声を張った。

 「よいか。お前たちの槌一打が、この国を百年守る。数字に刻まれた遅れなど、すぐに取り戻せる」


 石工の中の年長者が槌を振り下ろし、笑った。

 「殿様にそう言われちゃ、寒さも忘れるってもんです!」

 笑いが広がり、石を打つ音が再び力強く響いた。


 


 城を後にした藤村は、玉里港へ馬を走らせた。冬の潮風が頬を刺す。港では荷役人足が縄を引き、大きな荷車を曳いていた。


 「横浜からの輸入機械、ようやく着きました!」

 渋沢が駆け寄り、手にした帳簿を広げる。そこには重量、輸送費、倉庫への搬入時刻まで細かく記されている。


 藤村は港に並ぶ木箱を見上げ、胸の奥が熱くなる。

 フランスから運ばれた旋盤や定盤。それはただの鉄の塊ではなく、未来の工廠を支える「知恵の器」だ。


 「渋沢、この荷は一刻も早く倉に収めろ。海風に晒せば錆びが走る」

 「承知しました!」


 荷役の若者が縄を引き、木箱が揺れる。藤村は傍にいた老人に声をかけられた。

 「殿様、昔は米俵ばかりでしたが、今はこんな鉄の箱。世が変わるものですなあ」


 藤村は微笑んで答えた。

 「米は腹を養い、鉄は国を守る。どちらも欠けてはならぬのだ」

 老人は深く頷き、皺だらけの手を合わせた。


 


 夕刻。藤村は城下を抜け、郊外の農村へ馬を進めた。冬耕の講習が開かれており、農夫たちが鍬を手に集まっていた。


 講師役の藩士が畑の土を掘り起こし、酸乳を混ぜた堆肥を示す。

 「これを冬のうちに土へ入れる。雪解けの頃には肥えた大地となり、稲も麦も強く育つ」


 農夫のひとりが藤村を見つけ、声を張った。

 「殿様! 去年教えていただいた通りにやったら、虫も少なく、米がよく実りました!」


 その言葉に場が沸いた。藤村は馬を降り、土に膝をついて堆肥を掬い上げた。

 「なるほど、匂いも柔らかい。これなら苗も喜ぶだろう」


 周囲の子どもたちが近寄り、藤村の手元を覗き込む。

 「殿様、土の匂いが甘い!」

 笑い声が広がり、農村の空気は一気に和んだ。


 藤村は土を手のひらで払いながら言った。

 「剣で守るのは国の形だ。だが土を守るのは、人の命だ。この二つを両立させねばならぬ」


 農夫たちは静かに頷き、その目には信頼の色が宿っていた。


 


 夜。羽鳥城へ戻った藤村は火鉢の前に座り、一日の光景を思い返した。

 石を積む音。港の掛け声。畑の土の匂い。

 数字の裏に確かに存在する、汗と笑顔と命。


 「銭も数字も剣も、すべては人を守るための器か……」


 呟きに応えるように、奥の部屋から義信の笑い声と久信の泣き声が重なって響いた。

 未来は確かにここにある――そう感じながら、藤村は静かに瞼を閉じた。

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