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125話:(1865年12月)反対論を数字で斬る

冬の江戸城西の丸。

 外では北風が松を揺らし、石畳を渡る武士の草履の音も凍てついて響く。だが広間の内には、それ以上に冷ややかな空気が漂っていた。諸役人たちがずらりと並び、今まさに論じられているのは――横須賀工廠建設の是非。


 「莫大な出費を要す工廠など愚の骨頂。船は異国より買えば足りる!」

 老中の一人が声を張り上げ、机を叩く。

 「維持費は雪のように積み重なる。職人を抱え、設備を養うなど、国の財布を干上がらせるだけだ!」


 賛同の声が重なり、広間には反対派の空気が満ちていく。


 「――異国に銭を払い続けるほうが、よほど愚である!」

 その流れを切り裂いたのは、小栗忠順だった。

 「買った船は十年ももたぬ。修繕のたびに銭を吸われ、我らの手には何ひとつ残らぬ! 求むべきは“造る力”、直す力! これなくして国をどう守る!」


 広間にざわめきが走る。だがなお反対派は食い下がった。

 「小栗殿の言葉、聞こえはよい。だが、異国の技を本当に習得できる保証がどこにある!」


 静かに立ち上がったのは藤村だった。

 分厚い帳簿を抱え、壇の中央に進む。

 「保証はすでにここにあります。――数字が答えております」


 渋沢が大帳面を広げ、扇で示した。

 「十年間の比較です。外国船を買い続ければ二十五万両の赤字。工廠を設け修繕と内製を進めれば、五万両の黒字になります」


 老中たちは目を見開き、顔を見合わせた。

 「ば、馬鹿な……」

 「算盤の遊びに過ぎぬ……」


 藤村は一歩進み、落ち着いた声で続けた。

 「数字は剣より鋭く、未来を映す鏡です。工廠は銭を生むだけでなく、人と技を育てる。十年後、二十年後の国力は、外注では決して得られません」


 そのとき、大老・徳川斉昭が低く口を開いた。

 「諸国の記録に明らかである。外に銭を払い続けた国は、必ず衰え、誇りを失う。わしは学び、耳にしてきた。……ここで退けば、後の世は我らを笑おうぞ!」


 白髪を振り、扇を突き出すその迫力に、反対派は押し黙った。場の空気は一気に傾いた。


 やがて、奥の襖が静かに開き、将軍・徳川慶喜が姿を現す。

 羽織の裾を翻し、場を一瞥すると、誰もが息をのんだ。


 「議は尽くされた」

 慶喜の声は低く、広間の隅々まで響いた。

 「国を守るものは銭ではない。技であり、人である。――横須賀工廠、建設を承認する」


 場内に静寂が落ち、次の瞬間には「御意」の声が広がった。反対派の老臣も深く頭を垂れる。


 小栗は力強く一礼し、藤村は胸の奥で静かに息を吐いた。

 数字と情熱、そして大老の重み――三つの力が合わさり、国の未来を切り開いたのである。


 冬空はなお重く曇っていたが、藤村の心には確かな光が差していた。

 ――数字は剣を凌ぎ、未来を拓く剣となる。

横須賀工廠の建設が将軍慶喜の裁断によって承認されたその日から、江戸の町はざわめきを隠さなかった。

 「ついに日本も、自らの手で船を造るのだ」と口にする者もいれば、「そんな無駄遣いでまた税が重くなるぞ」と肩をすくめる者もいた。

 だが藤村の胸中は静かだった。――数字が支持された。数字が人の心を動かした。これ以上の証はない。


 羽鳥に戻った藤村を待っていたのは、別の課題であった。新宿で始まっていた上下水道の使用料徴収の実験である。

 石畳を濡らす冬の雨を避けて町屋に入ると、帳簿を抱えた渋沢が迎えた。

 「藤村様、今月分の収支が出ました。ご覧ください」


 帳面にはびっしりと数字が並び、墨の匂いがまだ新しい。

 「井戸を使う家が減り、上水を引く家が七割を超えました。下水の使用料も合わせれば、維持費を賄い、なおかつわずかながら余剰が残ります」


 藤村は帳面を撫で、ゆっくりと頷いた。

 「つまり、この仕組みは自走したということだな。税に頼らず、人々の支払いだけで水路が保たれる。これぞ次の世に残すべき形だ」


 渋沢の瞳は熱を帯びていた。

 「銭を取ることを嫌がる者もおります。だが、井戸より清く、病を遠ざける水を飲めるとあれば、納得して銭を払うのです」


 そこへ小四郎が駆け込んできた。まだ若い顔に紅潮が浮かんでいる。

 「藤村様! 市場の女たちが口々に申しておりました。『水代を払えば子が病に倒れぬ、それなら安いものだ』と」


 その言葉に藤村は微笑み、肩を叩いた。

 「良いか、小四郎。銭を取ることは冷たきことではない。正しく使えば、人の命を守る温かき仕組みにもなるのだ。忘れるな」


 小四郎は深くうなずき、帳簿に走り書きを始めた。


 


 数日後。羽鳥城下は別の熱気に包まれていた。大天守の骨組みを立ち上げる日がついにやってきたのである。

 冬の朝、城下の空気は凍りついていたが、工事に携わる大工や石工の吐く息は白くも力強かった。

 「さあ、引け!」

 掛け声とともに太い綱が引かれ、巨大な梁が宙を舞う。木槌の音が空を打ち、木と木がぶつかる乾いた音が腹に響いた。


 慶篤も寒風の中に立ち、現場を見守っていた。

 「これほどの骨組み……羽鳥に大天守が立つ日が来るとは」

 その横顔には幼さを残しつつも、藩主としての責任感が刻まれていた。


 藤村は静かに答えた。

 「天守は威を示すためのものではない。堅牢な骨組みと広き蔵を持ち、人を守る砦となる。これを忘れてはならぬ」


 慶篤は真剣にうなずいた。

 「心得ます。見栄えよりも、中に何を蓄えるか……ですね」


 そのやりとりを聞いていた職人頭が、顔をほころばせた。

 「若い殿様はよう見とられる。ならば我らも、命を懸けて建てる甲斐がある」


 梁が次々と組み合わされ、木組みは四方へ伸び、やがて城下を覆うような巨大な骨格を形づくっていく。

 人々はその姿を見上げ、思わず手を合わせた。

 「これで我らも安心できる」

 「羽鳥はますます栄えるにちがいない」


 


 夕刻、藤村は現場を離れ、城の櫓に登った。そこから見下ろすと、組み上がった骨組みが夕日に赤く染まり、まるで燃え立つ炎のようだった。

 その光景に胸を打たれながら、独り言のように呟く。

 「数字が町を支え、骨組みが国を守る。剣ではなく、秩序と工の力が未来を築くのだ」


 風に乗って子どもたちの笑い声が届いた。新宿の水を飲んで元気に駆け回る姿が、遠くに見えるような気がした。


 そのとき背後から声がした。

 「藤村様。江戸より早飛脚が参りました」

 渋沢が文を差し出す。封を切ると、そこには慶喜の署名と共に記されていた。

 ――横須賀工廠の予算、正式に執行すべし。


 藤村は目を閉じ、深く息を吐いた。

 横須賀、新宿、羽鳥。数字と工の力で築かれる新しい国の姿が、確かに形を取り始めていた。


 


 夜。城の一室では篤姫が灯火の下で義信をあやしていた。まだ幼い手が母の指をぎゅっと握る。その横で、お吉が久信を抱きながら微笑んでいる。

 「旦那様のお働きで、町も城も皆、明るい顔をしております」


 藤村は二人を見て、静かに頷いた。

 ――この命を守るためならば、数字の剣を何度でも振るう。


 遠く、工事現場の槌音が夜風に混じって響いていた。国を築く音が、確かに羽鳥を包んでいた。

冬の陽が低く射し込む羽鳥城の学問所。障子を透かす光は白く冷たかったが、室内は熱気に満ちていた。

 机には算盤や帳簿、洋書や翻訳資料が散らされ、若き学徒たちの声が響いている。


 「では、この数字をどう処理する?」

 藤村の問いかけに、昭武が前に出て帳簿を開いた。

 「収入を左、支出を右に記す。……だが余剰があるとき、それをどう扱うか」


 彼は額に汗を浮かべながら、筆を走らせる。

 「繰越と投資の二つに分けます。余剰を眠らせれば損失ですが、工に回せば利を生む。……つまり、数字にも働かせる役目がある」


 その言葉に藤村は頷いた。

 「よし。銭は剣と同じだ。持つだけでは重いばかり。振るい、正しく使ってこそ人を守る」


 昭武の眼差しが輝き、再び筆が紙の上を滑った。


 


 隣の机では、慶篤が藩士たちを相手に政策議論の演習をしていた。

 「水代を徴収するか否か。町人に問われたら、どう答えるべきか」

 若き藩主の声は張りがあり、周囲を見渡す目は真剣そのものだった。


 老臣役を務める家士が腕を組み、厳しい口調で返す。

 「税を新たに課すなど、民が納得せぬ。反発を買えば城下は乱れるぞ」


 慶篤は一呼吸置き、落ち着いた声で答えた。

 「これは税ではなく、病を防ぐための銭です。井戸を掘るより安く、確実に清い水を得られる。民が子の命を思えば、必ず受け入れるでしょう」


 藤村はその様子を見て、わずかに微笑んだ。

 ――数字で語り、理で人を説く。慶篤の声に、確かな成長が宿り始めている。


 


 一方、小四郎は机にかじりつき、細かな文字を連ねていた。

 「免状発行数、使用料収入、支出との差額……」

 墨で埋まる帳面には、整然とした統計表が並ぶ。


 「藤村様。これを月ごとに積み上げれば、不正も誤魔化しも一目でわかります」

 小四郎は顔を上げ、真剣な瞳で言った。

 「剣ではなく数字が、役人を縛る鎖になるのです」


 藤村は机に手を置き、重く頷いた。

 「そうだ。数字は人を裁く。だが同時に、人を守る盾にもなる。それを忘れてはならん」


 小四郎の若い頬に、淡い誇りの紅が差していた。


 


 夕刻、学問所を後にした藤村は御殿へ戻った。

 襖の向こうから、赤子の泣き声が聞こえる。

 「おお、久信……今日も元気だな」


 お吉が抱く久信は、まだ小さな手を宙に伸ばし、父の声に反応して泣き声を高める。

 藤村が手を差し伸べると、赤子は指をぎゅっと握った。

 その温もりに、胸の奥の疲れが溶けていく。


 「藤村様、義信様も久信様も、健やかに育っております」

 お吉の声は穏やかで、母としての喜びに満ちていた。


 藤村は赤子を見下ろし、そっと呟いた。

 「この小さな手を守るために、数字を振るうのだ。剣ではなく、数字が国を救う。……必ず証明してみせる」


 


 夜。城下を見下ろす櫓に立つと、冬空に星が瞬いていた。

 遠くからは工事場の木槌の音が微かに響く。

 その下には、新宿の町で笑う人々の姿があり、学問所で議論を重ねる若者たちがいる。


 藤村は夜気を吸い込み、心に刻んだ。

 ――反対論を斬るのは剣ではない。数字こそが未来を切り拓く刃なのだ。


 その思いとともに、星明かりの下で羽鳥の城は静かに息づいていた。

冬の江戸。評定所での決定が下されてもなお、横須賀工廠をめぐる議論は町にも広がっていた。

 「船を造るのは夢物語だ」

 「いや、藤村様が算盤で示した。十年先には利益があるというぞ」

 辻々でそんな声が飛び交い、疑念と期待が入り混じっていた。


 


 評定所を出た藤村の耳に、小栗忠順の声が追った。

 「よくやってくださいました。数字をもって論じれば、誰も斬り返すことはできませぬ。武士も町人も、皆が腹の底で納得するのです」


 その傍らで、大老・斉昭がゆっくりと口を開いた。

 「国を立てるのは剣だけではない。米と銭、それを束ねる理ぞ。戦をするにも兵糧と銭が尽きれば立ちゆかぬ。藤村、そなたの算盤は剣より重いのだ」


 藤村は深く頭を下げた。

 「承知しております。戦を避けるためにも、また勝つためにも、数字は必ず人を支えます」


 斉昭は満足げに頷き、冬空を仰いだ。

 「ならばよい。剣と理、両輪あってこそ国は進む」


 


 その夜、羽鳥城に急報が届いた。蝦夷へ派遣している勝海舟からの使者であった。

 文は風雪に揉まれたように荒れていたが、筆の勢いは失われていなかった。


 《蝦夷の地にて海路を測り、港を改め見候。住民どもに西洋の話を説き聞かせたところ、皆一様に目を輝かす。道を拓くは船なりと、彼らの口から申されたは実に喜ばしきこと――》


 藤村は読み進めるうちに、知らず口元をほころばせた。

 「やはりあやつは、言葉で人を動かす才に長けている」


 傍らに控えていた渋沢が小さく頷いた。

 「藤村様、蝦夷の民心を動かす役としては、勝殿ほどの人材は他にございません。いずれ戻られた折には、広く国中へ向けて言葉を発する役を与えてはいかがかと」


 藤村は静かに目を細めた。

 「……そうだな。数字は剣となる。だが、それを民に伝える声がなければ、刃は鞘に眠ったままだ。勝には“海政宣伝局”を託そう。船と海の意義を、誰よりも雄弁に説かせる」


 


 その頃、城下の町家では新宿の水を巡って人々の声が高まっていた。

 「水代を払えば清い水が来る。病が減るなら安いものだ」

 「税とは違う、命を守るための銭だ」


 銭を払うことに抵抗を見せていた町人たちも、数字と実際の効果を目にして次第に態度を変えつつあった。


 工事場では、羽鳥城の大天守の骨組みが夜空に浮かび上がっていた。子どもたちは冷たい風の中、木槌の音に耳を傾け、将来の城を思い描いて歓声を上げていた。


 


 その夜更け、藤村は御殿の一室で眠る久信と義信を眺めていた。

 お吉が赤子をあやし、篤姫が義信の布団を整える。幼い寝息は重なり合い、外の冬風を忘れさせるほどの温かさをもたらしていた。


 藤村は静かに呟いた。

 「剣と数字、その両方でこの国を守る世を――必ず築く。勝の声も、斉昭の威も、小栗の理も、そのための力にせねばならぬ」


 遠くで槌音が響き続けていた。それは新しい国の胎動の音であり、羽鳥の空にこだまする未来の号砲でもあった。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

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