124話:(1865年11月) 鍬入れの号砲
風は塩の匂いを運んでいた。十一月の朝の光は硬く、海面は金属のように冷たく光っている。入り江に面した木組みの作業場には、黒い梱包箱がずらりと並び、貼られたラベルには流麗なフランス文字。梃子でこじ開けるたび、油紙の匂いと、鋼の鈍い光があらわになる。
「これが第一便……」
藤村が息を細く吐くと、白い息が鋼に淡く映った。異国の技師が指を二本立ててなにか早口にまくしたて、通詞を介して言葉が落ちる。
「定盤を先に据えます。土台がすべて。誤差は──零点二分以内」
墨縄が張られ、下げ振りが静かに揺れ、木槌の音が早鐘のように続く。水盛り桶の水面が凪いだ一瞬を狙って、触針を滑らせる若い手が止まった。
「……零点二分、内」
低い声が作業場を渡り、人々の背筋がいっせいに伸びる。技師が親指を立てた。
「零点二分、海風の中でよく詰めた」
藤村の言葉に、大工は帽子を取って額の汗を拭う。
「殿様、石も木も言うことを聞きました」
「いや、お前たちの手が言わせたんだ」
第一のボルトが、はじめて金属の孔に吸い込まれる。鈍い音がひとつ。まるで海へ号砲を撃ったように、その場の空気が晴れた。
「鍬入れの号砲は、今日は鉄の響きだな」
藤村が笑うと、周りに笑いが伝染した。昭武が油で汚れた仏語の説明書を読み上げ、分からぬ箇所で眉を寄せる。
「モンタージュ、ではなく……アジャストマン。調整、ですね」
「よし、その言葉を覚えろ。国の器は、組んだあとも調えることが肝だ」
小四郎は帳面を抱え、出来高と費用を淡々と記す。
「据付一、検査一、支払は半金。残りは稼働確認ののち」
「堅いな」
「堅くしませんと、鉄はすぐに言い訳を始めます」
軽口に、場がまた和んだ。
海風が一段強まる。定盤の端に手を当てると、金属が微かに昼の温度を宿している。藤村はその熱を掌に確かめ、視線だけで人足の列をねぎらった。ここから船は生まれ、歯車は日を刻み、遠い工場にまで目に見えぬ線が伸びる。号砲は、確かに鳴った。
◇
昼、街道を北へ。新宿の通りは、冬の手前のひりつく空気の中で不思議に明るい。瓦屋根の影が斜めに落ち、軒下には新しい札が揺れていた。赤い小印と通し番号、そして「免」。
「こちら、営業の免状を」
女房が胸元から札を出す。木札の裏には通しの数字、表には朱の印紙が貼られている。検査役が札を見て、秤を見て、手洗い桶の石鹸をちらと見て、静かに頷いた。
「印紙、通し、秤、手洗い。四つが揃えば、誰も文句は言わぬ」
野菜の籠を抱えた若い売り子が、気後れしたように藤村を見上げる。
「殿様、札があると売りやすいです。けど、取られる銭も……」
「札がなければ、もっと取られる」
「え?」
「ごまかしと横車に、だ」
言い終えてから、藤村は微笑んだ。
「札は道だ。お前の稼ぎが正しく家に帰る道」
通りの端で、小四郎が小机を出して帳場を構えている。銭の音、紙の擦れる音、子どもの笑い声。
「本日分、許可料、徴収終い。遅れ、ゼロ」
「ゼロはよく響く数字だな。よくやった」
慶篤が横で控え、書付を覗き込む。
「この料率の根拠を、民にも話せるように。数字は棒でも、言葉は布だ。包めるように鍛えよ」
「はい」
若い声が、風に負けずに返った。
道端の桶で、幼い子が手を洗う。石鹸の泡が光って、冬陽に小さな虹を仕込む。母親が笑って頭を撫でる。新しい仕組みは、紙と印と数字で出来ているのに、触れると案外あたたかい。
◇
夕、羽鳥の天を雲の裂け目から薄い金が流れた。天守の石垣はきょう、最後の一石が入った。鳶口が外され、掛け声が霜の空へ上がる。
「よし──」
石の息が止まり、城の呼吸がひとつ深くなる。石は無口だが、積まれた途端に饒舌になる。百年先の重みで、きょうという日の約束を語り出すからだ。
石工の爺が、掌を白い目地に当てた。
「この城はよう見える。わしが死んだあとも、よう見える」
「お前の手が残る。石に、指紋がある」
藤村の言葉に、爺は歯のない笑みをこぼした。
篤姫が義信を抱いて石垣の影に立つ。生後八か月の子は、母の腕の中でゆっくりと上体を起こし、きらきらする空の端を見た。
「あー」
小さな声が、石に落ちて弾む。藤村は近づき、ひたいに指を置く。
「義信、石は固い。だが人の手が積んだ固さは、温い」
義信は言葉の意味は知らぬ。ただ父の顔を追い、ふにゃりと笑った。
小さな手が、父の袖を掴む。布に皺が寄り、袖口の糸がひと筋、光った。
「石は百年、子は明日だな」
独り言に、篤姫が目だけで笑う。
◇
夜、火鉢に手をかざしながら、慶篤が紙束を前に数理の話をする。比、率、誤差。昼の定盤の零点二分を題にとり、どこまでが許容で、どこからが破綻かを、穏やかにしかし厳密に辿っていく。
「誤差を零に近づける工夫は、費えを無限に近づける。どこで折り合うかが政だ」
若者たちの筆が止まり、また動く。数字の行間に、暮らしの温度を入れようとする指の震えが見えた。
昭武は隣で仏語の手引きを訳す。金属の膨張係数、潤滑油の粘度、旋盤の主軸受。彼の声は最初ぎこちなかったが、意味を掴むにつれ、音に自信が宿った。
「言葉は鋼をやわらかくする」
藤村が小さく漏らした言葉に、昭武は目を丸くし、すぐに笑った。
小四郎はまた別の机で帳合いを締める。今日の免状、今日の据付、今日の人足。数は冷たい顔で並ぶが、端に記された小さな墨点──遅延ゼロ、欠勤ゼロ──が、紙の上の灯のように見えた。
「今日もゼロが二つ」
「それは強い二つだ。国を運ぶ二輪になる」
外では霜が降り始め、石垣は白く息をする。海の方角から、昼に据えた定盤が静かに熱を失ってゆく気配がした。明日、そこに初めての刃が取り付く。刃は音を立て、鉄は道を刻み、街の札は風に揺れて、人の暮らしがそれに沿う。
「号砲はひとつでいい。あとは歩けばいい」
藤村は火鉢の灰をならし、灯を落とした。暗がりの向こう、篤姫の腕で義信が小さく寝返りを打つ。新しい夜が、静かに始まった。
冬の気配はもうすぐそこに迫っていた。空気は乾き、吐く息は白く曇る。羽鳥城下から江戸へと続く街道の中でも、新しく区画された新宿は、この時期にも関わらず人で溢れ返っていた。
軒を連ねる茶屋、八百屋、薬売り。看板が新しく刷り直され、どの店の入り口にも四角い木札が掲げられている。表には朱の印紙と通し番号。裏には年季を刻んだような墨書きがあり、「営業免状」と読めた。
「これで堂々と売れる」
女房が笑みを見せ、客に米の粉団子を手渡す。受け取った農夫が銭を払い、木札を一瞥してうなずいた。
「番号があると安心だな。偽物に騙されずに済む」
町を歩く検査役が秤の針を確かめ、帳面に小さく朱を入れる。かつては裏で値を釣り上げたり、分量をごまかしたりすることが横行していたが、印紙と通し番号がそれを封じていた。
「帳場にきっちり報告せねばならん。札をもらった以上、逃げ道はないからな」
若い店主がそう語り、笑いながら秤の針を真っ直ぐに戻した。
広場の端では、子どもたちが札の余白に真似をして絵を描いている。母親に叱られると、子は拗ねた声で答えた。
「でもこの札、きれいだから描きたかったんだ」
藤村は遠くからそのやりとりを眺め、思わず頬を緩めた。数字と印が、町の暮らしにすでに溶け込み、遊びにさえなっているのだ。
新宿の一角、小机を並べた簡素な小屋に、小四郎は座っていた。彼の前には積み重なった免状の控えと帳簿。通し番号が一枚ごとに整然と並び、墨の色はまだ新しい。
「本日分、収入三百二十七両、遅延ゼロ」
声を張って報告すると、傍らの役人たちが頷く。
そこへ慶篤が姿を見せた。若き藩主は寒さの中でも凛とした姿で、小四郎の帳簿を手に取り、数字を追った。
「なるほど……数字は正直だ。だが、これを民にどう伝えるかが肝心だ」
慶篤は筆を取り、余白に小さく書きつける。
「税は重荷ではなく、道を守る橋である、と」
小四郎が目を丸くする。
「殿、それは……」
「比喩だ。数字の冷たさを、言葉で包む。それもまた政の務めだと、藤村様に学んだ」
小四郎は深く頷き、帳簿に記す手に力を込めた。冷たい数字の列に、確かに温もりを添えることができるのだ。
夕刻、羽鳥城の学問所。障子越しに薄い冬陽が差し込み、机の上の紙を白く照らしていた。昭武は分厚い仏語の書物を前に、懸命に発音を繰り返していた。
「……ラ・ポリティーク・デ・フィナンス……財政の政治、です」
まだたどたどしいが、その瞳は真剣だ。通訳役の学者が補足する。
「仏国では、商と税を繋ぐ議論が盛んにございます」
昭武は眉を寄せ、言葉を咀嚼するように筆を走らせる。
「税は血の巡り……なるほど、そう書いてあります」
後ろでその様子を見守る藤村は、低く呟いた。
「言葉は剣よりも鋭く、数字よりも遠く届く。昭武、その舌を磨け。やがて異国の場で国を護ることになる」
少年は汗を拭い、強く頷いた。
学問所の奥では慶篤が数理の議論を導いていた。今日の題は「誤差と許容」。午前中に横須賀で据えられた仏製定盤の話を題材にしている。
「零点二分以内であれば、工業の精度として許容できる。だが、零に近づけようとすれば、費えは無限に近づく」
筆を走らせる若者たちに視線を走らせ、慶篤は続ける。
「つまり、どこで折り合うかが政治であり、経済である」
学徒の一人が手を挙げた。
「では、税においてはどうでしょうか。民の負担を減らしすぎれば財は痩せ、重くすれば反乱を呼ぶ。どこで折り合えば……」
慶篤はしばし黙し、それから穏やかに答えた。
「民が飯を食えるかどうか。まずそこを基準に置くべきだ。余剰があれば税とし、なければ待てばよい。数字は人を測るが、人を忘れた数字は、ただの冷たい石にすぎぬ」
藤村はその答えを聞き、ゆっくりと頷いた。
「よく言ったな、慶篤」
夜。羽鳥城の御殿に戻ると、篤姫が義信を抱いて座していた。生後八か月の子は、母の膝の上で身を揺らし、つたない声を上げている。
「ほら、藤村様を見て笑っておりますよ」
篤姫が微笑む。義信の小さな手が宙を掴み、父の姿を追う。
藤村はそっとその手を取った。冷たく乾いた指先は、しかししっかりと彼の指に絡んだ。
「義信……お前が生きる世は、剣ではなく札と数字で守る世にしよう」
言葉の意味など分からぬはずの赤子が、まるで応えるように声を上げた。篤姫は嬉しそうに笑い、藤村の肩に寄り添う。
「この子の未来を信じられるように、私たちが繋がねばなりませんね」
「そうだな」
外では石垣の影に霜が降り始め、白い光が夜に溶けていった。新しい仕組み、新しい数理、新しい命。そのすべてが、確かに一つの方向へと歩みを重ねていた。
夜が深まると、海風は一段と冷たくなった。横須賀の作業場では、昼間に据え付けられた仏製の定盤が、月明かりの下で鈍く光っている。金属は昼の熱をすっかり失い、触れれば指先が凍りそうなほど冷えていた。
工事の指揮を執る異国の技師が、松明を掲げながら低い声で言った。
「明朝より試運転を始める。水車と歯車を繋ぎ、刃を走らせる。……国の船は、ここから生まれる」
藤村は頷き、通詞を介して職人たちに伝える。
「明日、この工場は息を吹き込まれる。今日の石と鉄は、ただの素材にすぎぬ。だが明日からは、人の技を刻む器となる」
職人たちは火花の散った袖を擦りながら、静かにうなずいた。言葉は分からずとも、藤村の声に宿る熱は確かに胸に届いたのだ。
翌朝。
歯車が嚙み合い、初めて鉄の軋みが空に響いた。油の匂いが充満し、重い音が床を揺らす。工員の一人が叫んだ。
「回ったぞ!」
その声に皆が駆け寄る。轟音とともに旋盤の刃が鉄片に触れ、火花が散った。鋼の表面は滑らかに削られ、異国の機械が確かに働き始めた瞬間だった。
「……これが、新しい号砲だ」
藤村は呟き、熱を帯びた鉄片を手に取った。触れれば火傷しそうなその破片は、小さくても確かに未来を刻んでいる。
工場の外では、作業を終えた職人たちが陽を浴びて飯を頬張っていた。冷え切った体に熱い粥が染み込み、笑い声があちこちに広がる。
「今度は、船の骨を削るのか」
「いや、大砲の砲身を磨くんだろう」
「どっちにせよ、俺たちの手が海を変える」
彼らの顔には誇りと不安が入り混じっていた。だが確かに、昨日までと今日とでは景色が違って見えた。
一方その頃、羽鳥城下も冬の支度に追われていた。石垣の完成で城は威容を増し、町人たちは安心したように薪や衣を備えている。
市場の一角では、印紙つきの免状を掲げた店が冬野菜を並べていた。大根、白菜、里芋。湯気の立つ桶からは甘酒の匂いが漂い、子どもたちが群がっている。
「札があるから、冬も心配が減った」
「これで商いが守られるなら、少しの税など惜しくはない」
町の声に藤村は耳を傾け、胸を温かくした。数字と札で人を守る仕組みが、ようやく根を張り始めているのだ。
城の学問所では、慶篤が小四郎とともに帳簿を広げていた。机の上には横須賀工廠の出費、新宿の免状収入、羽鳥城普請の費用が並んでいる。
「数字がこうして繋がっているのだな」
慶篤が呟くと、小四郎が即座に答える。
「はい。工場の費えは札の銭で補われ、城の石垣は人足と数字で積み上がる。繋がりを見せるのが、帳簿の役目です」
藤村は後ろで静かに聞き、満足そうに頷いた。
「よい。数字は冷たいが、人の手で繋げば温もりを帯びる。お前たちがその証を示している」
夕暮れ。城内の一室では篤姫が義信を抱き、火鉢のそばであやしていた。生後八か月の子は母の膝の上で体を揺らし、まだ言葉にならぬ声を発している。
「ほら、この子は今日も元気に笑っています」
篤姫が柔らかく言うと、義信は父の姿を見つけ、小さな手を伸ばした。
藤村は膝を折り、赤子の手をそっと握った。
「義信、お前の時代は、剣ではなく数字と札で国を守る。今日削られた鉄片は、その始まりだ」
もちろん赤子には分からぬ。ただ、無垢な瞳で父を見上げ、ふにゃりと笑った。その笑顔に、藤村は胸の奥が熱くなるのを感じた。
夜。御殿の障子越しに灯りが洩れ、城下を照らしていた。外は霜が降り、静寂に包まれている。
藤村は独り庭に出て、天を仰いだ。
「鍬入れの号砲……その音は、確かに響いた」
耳を澄ませば、遠い横須賀の方角から、機械の轟音が風に乗って届くような気がした。その音は剣戟でも大砲でもなく、人の手で鉄を刻む新しい時代の響きだった。
藤村は拳を握りしめ、心に誓った。
――この国の未来を守るのは、剣ではなく数字、そして人の営みの力だ。
義信の寝息が障子の向こうから聞こえてくる。小さな命の鼓動に重ねて、藤村はその決意をさらに強くした。
冷たい北風が街道を渡り、木の葉を巻き上げていた。江戸湾の一角、艀が行き交う波止場には、異様な熱気が満ちていた。
勝海舟を先頭に、若き藩士や測量師たちが荷を積み込み、声を張り上げている。目的地は北の果て――蝦夷地。氷雪に覆われたその地を測り、地図に起こし、未来の足場とするための調査隊であった。
「この北の大地を知らずして、日本の行く末は語れぬ」
勝がそう言い切ると、集まった者たちは一斉に頭を下げた。
彼らを見送る人々の中に、藤村の姿もあった。羽鳥から江戸に駆けつけた彼は、吹き付ける寒風を払いのけるように外套を引き締め、勝の前に進み出た。
「勝先生、この調査の成否は、この国の未来をも左右しましょう。財はすでに配した。足りぬことがあれば直ちに知らせてください」
勝は片目を細め、口の端を吊り上げた。
「藤村様、あんたも随分と“財”の采配が板についたな。金がなければ、夢も空念仏に終わる。だが金があれば、人も動き、道も拓ける。……俺が蝦夷の海を拓く。あんたは本州で土台を築け」
二人はしっかりと握手を交わした。鉄のように硬い勝の手は、まさしく新時代の舵を握る者のそれであった。
やがて汽笛が鳴り響く。白い蒸気が空に昇り、船がゆっくりと岸を離れていく。人々の声援が響き渡り、風に乗って遠ざかっていった。
藤村はその光景を見つめ、胸中でつぶやいた。
――鍬を入れる者がいれば、地を測る者もいる。音は違えど、響きは同じだ。
羽鳥に戻ると、天守の工事が最も盛んに進んでいた。石垣は既に完成し、足場の上には太い梁が組まれている。寒風の中、職人たちは声を張り、掛矢の音が冬空を打った。
「この一撃で、また一段!」
若い大工が掛け声を放つと、梁がずしんと音を立てて嵌まり込んだ。
藤村はその場に立ち、職人たちを見上げた。汗と土埃にまみれた顔が輝いている。剣ではなく、数字と労働が城を築き上げる。その光景は、藤村の心を大いに励ました。
「この城は、ただの石と木の塊ではない。民の汗と銭とを結んだ証だ」
そう語ると、そばにいた小四郎が帳簿を差し出した。
「今日の出来高、予定通りに収まっております。数字も石も、狂いはございません」
藤村は満足げに頷き、石垣の影に伸びる冬の陽を見上げた。
その夜。御殿の座敷では、篤姫が義信を抱き、火鉢の前で歌を口ずさんでいた。八か月の子は母の声に合わせて笑い、時折、無邪気な声を上げる。
「この子の声を聞いていると、どんな寒さも忘れます」
篤姫の言葉に、藤村は深くうなずいた。
「義信、お前の時代はもう始まっている。城も工場も、海の道も……すべてはお前たちが生きる世の礎だ」
幼子は言葉を理解するはずもない。だが父の指を強く握り、嬉しそうに笑った。その笑顔は、藤村にとって何よりの答えであった。
江戸では和宮がまだ幼い慶明を抱き、同じように子守歌を口ずさんでいた。赤子はまだ首が座ったばかりで、母の胸の中で小さく手足を動かしている。
「この子も、未来を託されて生まれてきたのでしょうか……」
和宮が呟くと、傍らの女房が穏やかに答えた。
「ええ、殿下。江戸の御城も羽鳥の御城も、すべてはこの御子らのためにございます」
御簾の外には、完成間近の江戸城の姿が闇に浮かんでいた。避雷針が月明かりを受けて銀色に輝き、時代の守り手のようにそびえ立っている。
羽鳥と江戸、そして蝦夷へ向かう船――三つの場所は遠く離れていながら、ひとつの未来に繋がっていた。
藤村は庭に立ち、北風に髪を揺らしながら天を仰ぐ。星々は澄んだ光を放ち、寒夜を照らしていた。
「鍬は入れられた。城も工場も、すでに動き始めている。あとは、この国の心をどう繋ぐか……」
彼の胸に浮かんだのは、幼子たちの笑顔と、職人の掛け声、そして遠く船出した勝の背中だった。
剣の時代は確かに終わりを告げつつあった。響くのは鉄を削る轟音と、子の笑い声。
その二つを守り繋げることこそ、藤村の務めにほかならなかった。