123話:(1865年10月) 横須賀工廠—財と鋼
潮の香りが濃く漂っていた。
秋の海は澄み渡り、三浦半島の入り江に寄せては返す波が、青く硬質な音を響かせている。空は高く、雲は流れ、白い光が海と陸とを等しく照らしていた。
その入り江に、人の手で築かれつつある新たな巨大な器があった。横須賀工廠――。
足場に組まれた木材と石垣の骨組みが海へと延び、大小の船渠が形を取り始めている。鎚音は絶え間なく響き、鉄を打つ火花が散り、外国人技師の鋭い声が混じって飛び交っていた。白煙が空へと立ちのぼり、鉄と油の匂いが潮風に溶け込んでいく。
「ここが……横須賀工廠」
慶篤は足を止め、思わず息を呑んだ。目の前に広がる光景は、ただの造船所ではない。城でもなく寺院でもなく、未来を刻む新たな城郭のように見えた。
藤村は横に立ち、静かにうなずいた。
「鋼と財、その二つが結び合わねば、国は生き残れぬ。ここはその結晶だ」
若き藩主はしばらくその言葉を胸に転がし、やがて小さく呟いた。
「武士の剣よりも、鋼の船が世を変える……そういう時代なのですね」
藤村は横顔を見やり、かすかに笑った。
「剣も船も、人を守るための器に過ぎん。大事なのは、それをどう動かすかだ」
現場では、日本の大工たちと異国の技師が言葉を交わし、板図を広げていた。木槌で杭を打ち込む音、鉄を鍛つ響き、波の音。そこに混じってフランス語が飛び交い、通訳が慌ただしく走り回る。
「ボルトが足りん、すぐに運べ!」
「釘を替えろ、規格が違う!」
異国の言葉を小四郎が耳にして、思わず首を傾げた。まだ幼いながらも現場の数字を記録する役を任され、帳簿を抱えて立っていた。
「藤村様、この工事費は、どこから……?」
藤村は視線を海に向けたまま答えた。
「増鋳益、関税、印紙、武器、それから雑収――。それぞれを積み上げ、ここに独立した特別会計を作る。横須賀は幕府の財布に頼らぬ。自ら稼ぎ、自ら動く」
小四郎は帳簿にその言葉を書き込み、真剣な顔で頷いた。
「出来高で票を切れば、不正は入れませんね」
「そうだ。数字は剣よりも鋭い」
藤村の声は淡々としていたが、その瞳には確信の光があった。
昼下がり、浜辺に設けられた仮小屋に、海軍の若い士官たちが集められていた。机の上には地図と設計図、そして分厚い帳簿が並んでいる。
「下関賠償金、第一回百万両が入った」
藤村が切り出すと、場の空気が一瞬ざわめいた。
「その配分は――海軍六十万、横須賀二十万、繰上返済十五万、復員五万」
言葉を区切るごとに、士官たちの顔が引き締まっていく。
「六十万を海軍に、か……」
慶篤が帳簿を覗き込み、思わず声を洩らした。
「そうだ。船を造り、海を守る。だが横須賀にも二十万を投じる。ここはまだ土台に過ぎぬ。だが、この土台なくして未来は築けん」
藤村の声は強くも柔らかく、士官たちの胸に響いた。誰も異を唱えなかった。ただ静かに頷き、筆を執り、数字を記していった。
夕刻。入り江の海面は茜色に染まり、工廠の足場が赤く燃えて見えた。
浜辺に立つ藤村の横に、勝海舟が歩み寄る。
「おぬし、ついに横須賀を独り立ちさせたか」
勝の声は潮風に混じりながらも、どこか愉快そうだった。
「まだ始まりに過ぎん」
藤村は目を細め、遠く海を見つめた。水平線は静かに揺れ、その向こうには見えぬ国々が広がっている。
勝は懐から煙管を取り出し、火を入れて煙を吐いた。
「財があれば船ができる。船があれば海が守れる。だがな、藤村、忘れるなよ」
「何をだ」
「船を動かすのは、結局は人の心だ。金でも鋼でもねえ。心が折れれば、どんな船も沈む」
藤村はしばらく黙し、やがて静かに笑んだ。
「承知している。だからこそ財を正し、鋼を整える。人の心はその上に育つのだ」
二人はしばし、海を眺めて立ち尽くした。夕陽はゆっくりと沈み、海と空を紅に染めていった。
秋が深まるにつれ、羽鳥の空は澄んで高くなった。
その下で、羽鳥城の天守はさらに背を伸ばし、四階部分の木組みが青空を突いていた。足場を駆け上がる大工たちの掛け声が響き、梁が吊り上げられるたびに人々の視線が空へ集まった。
「おい、縄を緩めるな!」
「梁を押さえろ、風に持っていかれるぞ!」
秋風が強く吹き抜けると、巨大な木材が唸りをあげた。だが職人たちは臆することなく、息を合わせて木槌を振り下ろす。音は山々に反響し、まるで天地を繋ぐ太鼓のようであった。
城下の人々は足を止め、見上げては口々に語り合った。
「これで四階か……」
「羽鳥の城は、ほんとうに大きくなるな」
「子や孫の代まで、この城が我らを守ってくれる」
藤村は普請場を歩き、工人の汗にまみれた顔をひとりひとり見て回った。
「ご苦労である。お前たちの手が、この城を支えている」
そう声をかければ、職人たちは皆、泥にまみれた顔をほころばせ、槌を振るう手にさらに力を込めた。
その頃、城内の学問所では、また別の営みが続いていた。
机を並べ、慶篤と昭武と小四郎がそれぞれの課題に向かっている。窓からは秋風が吹き込み、書架の紙をかすかにめくった。
慶篤の机には「評定実務」と題された課題が置かれていた。若き藩主は筆をとり、模擬議会の答弁を考えていた。
「この村の年貢を一部減じたいと農民が訴えております。財政を守りつつ、どう応じますか」
傍らの家臣が問いを投げかけると、慶篤は顔を上げた。
「減税を願う声は、暮らしの苦しさの表れです。だが一方で、藩の財を保たねば国は揺らぐ。――ならば、裏作の収益を活かし、現物を減じた分を銀納で補えばよい。数字で示せば、農民も納得するはずです」
言葉に迷いはなく、表情には自負が浮かんでいた。
「よし。慶篤、お前の答弁は堂々としていた」
藤村の声に、慶篤は小さく息を吐き、机に置いた筆をぎゅっと握りしめた。
一方、昭武の机には分厚い仏文の書物が広げられていた。
「……Le traité…これは条約、ですね」
声を張り上げながら、まだ拙い発音で読み進めていく。その横には通訳役の学者が控え、適宜助けを添える。
「発音はぎこちないが、意味はきちんと取れている。大事なのは勇気を持って声に出すことです」
昭武は真剣な顔で頷き、再び紙に視線を落とした。額には汗が滲んでいたが、その瞳には確かな光が宿っている。
藤村はその姿を見つめながら、心中で思った。
――この若者は、やがて異国の言葉で国を護る。剣ではなく舌を武器とするのだ。
さらに奥の机では、小四郎が帳簿を前に筆を走らせていた。
横長の紙には「出来高票」と題した表が引かれ、工事の進捗や費用が細かく記されている。
「藤村様、こちらが今月分の出来高票です。石工の人数、材木の使用量、日ごとの進捗を記しました。数字で示せば、不正は入り込めません」
藤村はその紙を覗き込み、感心したように眉を上げた。
「なるほど……工人も藩士も、誰が見ても一目で分かる。これならごまかしようがないな」
小四郎はわずかに笑みを浮かべた。
「剣では測れぬものを、数字で測るのです」
その言葉に、藤村は深く頷いた。若き学徒の眼差しはまっすぐで、その奥に静かな自負が宿っていた。
日が暮れると、城下に篝火が焚かれた。天守の四階に組まれた梁の影が夜空に浮かび、炎の揺らめきが普請場を赤く照らす。
藤村は櫓の上からその光景を見下ろしていた。槌音は夜になっても途切れず、城もまた眠らずに背を伸ばしている。
「城を積み、学を積み、財を積む……それが我らの道だ」
背後で慶篤がそっと呟いた。
「藤村様……学びは、果たして戦に勝つことより強いのでしょうか」
藤村は振り返り、柔らかな笑みを浮かべた。
「学びは戦に勝つためではない。人を活かすためにある。勝ち負けの先に、学びが国を支えるのだ」
慶篤はしばらくその言葉を胸に刻み、ゆっくりと頷いた。
夜空には月が昇り、白い光が羽鳥城を照らしていた。
天守の骨組みはその月光を浴び、静かに、しかし確かに未来を示す影を落としていた。
秋の陽が和らぎ、羽鳥城の庭に木漏れ日が差していた。
篤姫は縁側に座し、まだ生後七か月の義信を膝に抱いている。幼子は紙を前に置かれると、興味深そうに手を伸ばし、指先でぐしゃりと紙を掴んだ。墨の匂いに顔をしかめ、次の瞬間には声をあげて笑った。
「まあ、この子は紙を食べてしまいそうね」
篤姫が困ったように笑い、女中たちが慌てて紙を取り上げる。
藤村はそっと覗き込み、小さな掌に触れながら呟いた。
「義信、その手はいつか剣ではなく筆を取るだろう。だが今は、こうして紙に触れるだけでよい」
義信は父の声に反応したのか、笑顔を見せ、藤村の指をぎゅっと握った。まだ言葉は発せられない。ただ「あー」「うー」と喉を震わせ、母の懐に顔をうずめた。
その隣の部屋では、お吉が久信を抱いていた。こちらも生後六か月。小さな体を左右に揺らすと、赤子は「あう、あう」と声を上げて、父の姿を見つめた。
「この子は、本当に藤村様をよく追います」
お吉の頬には母としての喜びが滲んでいた。
藤村は久信の額に指を置き、柔らかな産毛を撫でる。
「よく笑い、よく眠れ。強い体は、すべての基となる」
久信はその声に応えるように大きなあくびをし、やがて母の胸にすやすやと眠り込んだ。
――場面は変わり、江戸城奥。
和宮の居室には秋の日が射し、御簾越しに白い光が畳に落ちている。
腕に抱かれているのは生後三か月の慶明。首がすわりはじめ、母の顔をじっと見上げては「あー」と小さな声をもらし、ふにゃりと笑った。
「まあ、この子はもう笑うようになりましたか」
和宮はその小さな手を握り、頬に当てる。幼い指が母の頬を掴み、未来を離すまいとするかのようだった。
「どうか、この子が争いのない世を歩めますように……」
和宮は静かに祈りを口にした。
再び羽鳥へ。評定所には藩士たちが集まり、下関賠償金の使途をめぐる議論が続いていた。
「返済を急がねば国の信を損なう」
「いや、人々の暮らしを先に立てるべきだ」
意見が割れる中、慶篤が一歩進み出た。
「返済は国の信を立てるもの。しかし民の口を削っては本末転倒です。余剰の銀を返済に回し、米は確かに民の口に残す。それが正しき道かと存じます」
静寂ののち、老臣が深くうなずいた。
「若き殿のお考え、まことにその通り」
藤村はその姿を見て、胸の奥に安堵を覚えた。
義信も久信も、そして江戸にいる慶明も――幼き命を守るために、この国は数字と信義で立たねばならぬ。
夜。藤村は庭に立ち、秋の月を仰いだ。
羽鳥の奥からは義信の笑い声、久信の寝息。
遠い江戸では、慶明が母の腕に抱かれて眠っているはずだ。
その声なき声を胸に感じながら、藤村は静かに誓った。
「財と鋼は、人を守るためにある。必ずや、この子らの未来を拓いてみせる」
秋風が庭を渡り、月は白々と輝いていた。
秋の風は海の匂いを運び、横須賀の入り江には白波が光っていた。新たに築かれつつある工廠の波止場には材木が積み上がり、鉄の塊が運ばれ、職人たちの掛け声が絶え間なく響いていた。
藤村は波止場に立ち、潮風に裾を揺らしながら工廠の全貌を見渡した。横須賀はもはや一藩の事業ではない。幕府直轄の枠組みを離れ、独立した特別会計で運営される。資金源は、増鋳による益金、関税収入、印紙税、武器売却益、そして雑収入――それぞれが明確に分けられ、会計簿にはっきりと記されていた。
「ここからが試練だな」
藤村が呟くと、隣で小四郎が頷いた。彼は新たに導入された出来高票を手にしている。
「職人ごとの働きを数字で記録し、賃金に結びつけます。数が嘘をつかなければ、怠けも奢りも入り込む隙はございません」
「よし、それでいい。鋼を打つ腕は、数字で測らねばならぬ時代だ」
そのやり取りに、近くで監督をしていた大村蔵六が口をはさんだ。
「だが、数値だけに縛られては人の工夫が育たぬ。工廠は軍の心臓部だ。働く者の誇りを折れば、鉄も鈍るぞ」
藤村は少し口元を緩めた。
「心も数も両輪だ。蔵六、そこはお前の目で支えてくれ」
大村は「承知」と短く答え、工場の奥へ歩いて行った。
その数日後、江戸城にて。下関賠償金、第一回分の金が幕府に届いた。総額百萬両、そのうち十二萬五千両が常陸に下付される。
評定の間に銀の匂いが立ちこめ、蔵人が帳簿を読み上げた。
「海軍へ六十、横須賀へ二十、繰上返済十五、復員五――これが藤村様の割り振りにございます」
その数字にざわめきが起こった。だが慶篤は迷いなく声を上げる。
「返済に回す十五萬は、会津への借財を減らすもの。残る十五萬で復員を支え、余を将来の備えとする。藤村様の計らいは、国を安定させるものです」
若き殿の言葉に、老臣たちも次第に頷き始めた。数字は冷たくも、そこに信が宿れば温もりを持つのだ。
一方、羽鳥城では天守の工事が進んでいた。石垣の上に三層目の骨組みが立ち上がり、槌音と木の香りが城下に響く。子どもたちはその姿を見上げ、
「わあ、空まで届く!」
と歓声を上げた。
藤村は足場を見上げ、遠くで笑う子らの声を聞きながら呟いた。
「城は人を威圧するためのものではない。安心を示す旗のようなものだ」
その隣で渋沢が帳簿を抱え、笑みを浮かべた。
「城も数字も、結局は人の心に映るもの。働く者に信じてもらえねば、どちらも立たぬのでしょう」
さらに北。蝦夷地へ向かう調査隊が江戸を発ちつつあった。勝海舟が先頭に立ち、若き藩士や学者たちが列を組んでいる。
「北の地を見極めよ。風土を知り、港を見、民を調べよ」
勝の声は潮風に乗り、隊列を震わせた。彼らは蝦夷の荒野を測り、将来の防備と開発の基盤を築くために旅立っていく。
羽鳥に届いたその報せを、藤村は地図を前にしながら受け取った。
「南には横須賀、北には蝦夷。国は広がり、我らの肩にかかる重さも増すばかりだ」
慶篤はその言葉に深く頷いた。
「されど、藤村様。今日の数字も、明日の工事も、すべてはこの国の子らのため。義信も久信も、そして江戸の慶明も……その未来を守るために」
その声に藤村は目を閉じ、胸の奥で誓いを新たにした。
夜。羽鳥城の天守にかかる月は、まだ未完成の櫓を白く照らしていた。
工廠の槌音、蔵に積まれる銀、北へ向かう船の帆――その全てが未来を刻む音であった。
藤村は天守の上から城下を見下ろし、低く呟いた。
「財は血脈、鋼は骨。どちらも欠かせぬ。だが、命を吹き込むのは人の心だ」
秋風が吹き、蝋燭の火が揺れた。
国は変わろうとしている。その中心にいる自分に、休む暇はない――そう、藤村はひとり胸に刻んだ。