122話:新時代の会計—米+18%
秋の風が吹き抜け、羽鳥の稲田は黄金の波を立てていた。
夏を越え、太陽の恵みを受けた稲は、例年よりもずっと重たく、穂先が頭を垂れている。農夫たちが刈り取りを始めると、ざくりざくりと鎌が稲を倒す音が野に響き、笑い声と混じって秋空に広がった。
「見てみろ、今年は米が実りすぎて、稲株が倒れちまうほどだ」
「藤村様の言うとおり、水を抜く時期を早めたのが効いたんだな」
村の老人が腰を叩き、若者が鎌を止めてうなずく。
数年前までは台風や長雨で倒伏する稲が多く、収穫の損失も馬鹿にならなかった。だが今年は、用水と水抜きの工夫――藤村が「AWD」と呼ぶ新手法を導入したことで、見違えるほど稲が健やかに立ち、刈り取られる日を待っていたのである。
農夫たちの籠には、粒ぞろいの稲穂が次々と積まれた。藩の役人が記録板を手に、収量を数えながら呟く。
「豊作……前年比一八%増。まさに奇跡の秋だ」
その声に、農夫も女房も、皆が誇らしげに胸を張った。
「これで冬を越せる」
「子らに腹いっぱい食わせられる」
その喜びは、刈り取られた稲の香りとともに広がっていった。
収穫の知らせは、羽鳥城にもすぐさま届いた。
広間に帳簿が並び、渋沢が眼鏡越しに数字を追っている。小四郎は脇で筆を走らせ、田ごとの収穫量を表に記していた。
「十八パーセントの増収です。現物での納入分だけでなく、裏作を現銀に換えた分も三万二千両を超えました」
小四郎の声には興奮が隠せない。
藤村はその表をじっと見つめ、低く呟いた。
「米はただの穀物ではない。金に替えられる力だ。数字を持たせれば、武器にも勝る」
慶篤が頷き、帳簿を手にして言った。
「では徴税の仕組みを改めましょう。現物納入を減らし、銀での納入を増やせば、農も楽になります」
「よい心がけだ」
藤村は目を細めて笑んだ。
「税は民の血を吸うものではない。秩序を養う水脈だ。その流れを誤れば、国は枯れる」
言葉を聞きながら、慶篤の額にはうっすら汗がにじんでいた。だが若き藩主の瞳は真剣で、その緊張の中に学びの喜びが光っていた。
その日の午後。
藤村は城下の米蔵を視察した。白壁の大蔵は幾重にも並び、門を入ると米俵の山が目に飛び込んでくる。香ばしい稲の匂いが鼻を満たし、秋の豊かさを実感させる。
「これだけあれば、飢えに怯える必要はあるまい」
藤村が言うと、蔵番の老人が深々と頭を下げた。
「藩主様のおかげでございます。ですが……俵にしても、数え切れぬほどの山で」
老人は不安げに眉を寄せる。盗難や腐敗の心配もあった。
藤村は静かに頷き、蔵の奥を見渡した。
「だからこそ、記録と数字が要る。小四郎、進捗を表にまとめてあるか」
呼ばれた小四郎は、懐から帳簿を取り出した。
「はい、収穫高と蔵納分、売却分、すべて数値で結んであります。誤差はございません」
老人は帳簿を覗き込み、目を丸くした。
「……これなら、誰が見ても分かりますな。わしらの代では、ただ俵の山を勘で覚えるだけでした」
藤村は肩を叩いて笑った。
「勘は尊い。だが秩序は勘では築けぬ。数字こそが、未来を守る鎧だ」
城に戻ると、夕刻の薄明かりの中で昭武が待っていた。
手に仏文の書簡を抱え、目を輝かせている。
「藤村様、欧州での穀物取引の事例を読みました。彼らは収穫高を数値化し、先に売買を取り決めてしまうとか」
「先物か……」
藤村の脳裏に、かすかにiPadで見た知識がよみがえる。江戸の常識では測れぬ新たな仕組み。だが、未来を繋ぐには不可欠な道かもしれない。
「昭武、それをまとめてみよ。お前の外遊の時、その知識は必ず役立つ」
昭武はうなずき、胸に書簡を抱きしめた。
その横顔には、学びに挑む若者の熱が確かに宿っていた。
夜。御殿の一室から、赤子の泣き声が響いた。
生まれて間もない久信が、母のお吉の胸で泣きじゃくっている。
「まあまあ、落ち着いて……」
お吉が背を撫でるが、泣き声は止まらない。そこへ藤村が入ると、久信はふと父の声に気づいたのか、ぴたりと泣きやんだ。
「……やはり父の声は分かるのか」
藤村が腕を伸ばすと、お吉は微笑みながら子を渡した。
「久信も、義信様と同じように、学びを受ける子に育ちましょう」
藤村は小さな手を握りしめ、胸に抱いた。
義信、久信――二人の幼い命。彼らが育つ時代は、もはや剣よりも数字がものを言う世になる。
「久信よ、泣く声もまた、この国を支える力になる」
藤村はそう呟き、眠りに落ちる我が子の顔を見つめ続けた。
秋の虫の声が夜風に重なり、羽鳥の城も町も、収穫の喜びに包まれていた。
黄金の稲と白壁の蔵。数字と帳簿。泣き声と笑い声。
そのすべてが、新たな時代を告げる鐘の音のように響いていた。
九月の江戸。空は高く澄み、入道雲が去った後に秋の青が広がっていた。城下を歩く人々の顔には夏の疲れも薄れ、どこか晴れやかな表情が宿っている。その理由のひとつは、江戸城普請の進捗だった。
「見ろよ、大工方がようやく足場を外し始めたぞ」
「二期工事がこれで仕上がりか。あの避雷針もようやく役立つときが来るな」
人々の視線の先には、白く輝く城の屋根と、高く伸びる銅の避雷針があった。太陽を受けて煌めくその姿は、まるで時代の先を行く槍のように天を突いている。
工事場では、職人たちが最後の仕上げに余念がなかった。屋根瓦を整える者、漆喰の壁を磨く者、そして火薬庫の扉を確かめる者。声を掛け合いながらも、その顔には疲労より誇りが勝っていた。
「よし、これで江戸城二期、完遂だ!」
監督役の声に、どっと拍手と笑いが起こる。槌音に慣れた城下の人々までもが、その瞬間を祝うように立ち止まり、手を合わせた。
完成を告げる報せはすぐ羽鳥へも伝わった。城内の広間では、渋沢が巻物を広げ、財政の数字を読み上げていた。
「江戸城二期の工事費、予算内に収まりました。むしろ、印紙税収と豊作分で余剰が出ております」
その言葉に、慶篤が息を呑む。
「余剰……つまり、積み立てに回せるということか」
藤村はうなずき、机に指を置いた。
「会津への繰上げ返済に充てよ。五万両を今季中に支払う。残りは十五万となるはずだ」
「承知いたしました」
渋沢は即座に筆を走らせ、決済の段を記す。
横に控えていた小四郎が帳簿を差し出した。
「こちらが返済後の収支表にございます。税収、産業利益、城普請費、すべてを数字で紐づけました」
藤村はその表を覗き込み、思わず口元に笑みを浮かべた。
「小四郎、よくやった。数字は嘘をつかぬ。これなら誰が見ても、国が立っていく姿が分かる」
慶篤も感心したように表を眺め、ゆっくりと頷いた。
「かつては勘定方が口で言うだけでした。だが、こうして数字で示されれば、誰も異を唱えられない。これが新しい会計なのですね」
藤村は若き藩主を見やり、静かに言葉を添えた。
「剣の時代は過ぎつつある。これからは数字が国を治める。会計は武器より強い」
その日の午後、羽鳥の町では、収穫祝いを兼ねた小さな祭りが催されていた。子どもたちは俵の上に登って遊び、女たちは収穫米で作った団子を売っていた。
「今年は蔵に溢れるほど米があるんだってさ」
「会津への借金も返してるそうだ。常陸の国はもう貧しくないぞ」
町人の声が弾み、人々の表情は明るかった。借財に苦しんだ日々を思えば、この変化は夢のようだったのだ。
藤村はその光景を見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。
――数字は人を救う。借金を減らすだけで、人の心はこれほど軽くなるのか。
夕刻。御殿の一室で、慶篤と昭武が並んでいた。
慶篤は徴税演習の帳簿を前に、商人に扮した藩士からの質問に答えている。
「では、この村の年貢を銀納に改めたいという訴えがあったら?」
「裏作の換金を基準に割合を定めればよいでしょう。数字で示せば、村人も納得するはずです」
その答えに、藤村は満足げに頷いた。若き藩主は少しずつだが、確かに政治の言葉を学びつつあった。
一方の昭武は、仏語で農業と会計の議論を練習していた。
「……ル・コンプト・デュ・リズ(米勘定)、セ・トレ・ザンポルタン……」
まだ舌はもつれるが、その目は真剣で、外遊に向けた決意が伝わってくる。
藤村は二人を交互に見つめ、心中で静かに思った。
――この子らに未来を託せるかもしれぬ。剣ではなく数字で国を導く新しい時代を。
夜更け、藤村はひとりで江戸城の完成報告を読み返していた。紙に並ぶ数字は冷たいようでいて、不思議と温かみを帯びて見えた。そこには人々の汗と努力、職人の槌音、農民の鎌の音までもが刻まれているように思えたのだ。
「剣でなく、米で国を守る……」
そう呟いたとき、御殿の奥から赤子の泣き声が響いてきた。久信の声である。
お吉があやす声と、義信の笑い声が交じり合い、家庭の温かさが夜気に溶けていく。
藤村は目を閉じた。
城も、帳簿も、祭りの賑わいも、そして家族の声も――すべてが繋がり、ひとつの国を形づくっている。
その思いは、蝋燭の炎に揺れながら、静かな確信へと変わっていった。
秋の夕暮れ。羽鳥の町は、収穫の実りを祝うように賑わっていた。
軒先には新米で握った団子や餅が並び、子どもたちは米俵を積み上げた即席の山に登っては歓声を上げている。女たちは声を張り、銀銭を手に喜びを分かち合い、男たちは杯を傾けて今年の豊作を語り合った。
「藤村様のおかげで、腹いっぱい飯が食える」
「税を銀で納めても、まだ手元に残る。こんな年は初めてだ」
そんな声があちこちで聞こえ、藤村は城下を歩きながら人々の笑顔を見ていた。
剣を掲げて治めるのではなく、米と銀で人を安心させる。これが本当の政治なのだと、改めて胸に刻む思いだった。
城へ戻ると、学問所の灯がまだ煌々と燃えていた。
中を覗けば、慶篤と小四郎が机を並べ、徴税と統計の演習に没頭している。
「では、この村の収穫が一八%増えた場合、納める銀はどう増える?」
小四郎の問いに、慶篤は筆を走らせて答えた。
「収量に応じて率を上げれば、村人の負担は急に重くなる。だが、裏作の銀納分を差し引けば公平になる。数字で示せば説得できよう」
藤村は扉に手をかけたまま、しばらく二人を眺めていた。
若い藩主と、学び盛りの小四郎。彼らの言葉はまだ稚いが、すでに国を支える芽が見えている。
「よし、その答えで十分だ」
思わず声をかけると、二人は驚いたように顔を上げ、すぐに背筋を伸ばした。
「藤村様……」
慶篤の声には、子どものような安堵と、若き君主の誇りが同居していた。
その夜。御殿の座敷では、篤姫が義信の小さな手をとって筆を握らせていた。
「こうして、墨を紙に落とすのですよ。形はどうあれ、心が伝わるのです」
義信は「あー」「うー」と幼い声を上げながら、太い筆で紙を黒く塗りつぶしていく。墨はあちこちに飛び、衣の裾にも染みを作った。篤姫は小さく笑い、額の汗を拭ってやる。
藤村が座敷に入ると、義信は父の姿を見てぱっと笑顔になった。
「あー……うー……」
言葉にはならぬ声だが、小さな手を伸ばす仕草は、まるで父を呼ぶかのようだった。
藤村は胸が熱くなり、その小さな手をそっと握った。
「義信、その筆は剣よりも強い。今日のお前の線は、大きな道に繋がるぞ」
篤姫が穏やかに微笑み、静かに頷いた。
「この子も、学びを受ける子に育ちましょう。武に頼らぬ世が来るのならば」
その言葉に、藤村は深くうなずいた。
一方、隣の部屋ではお吉が久信を抱いて揺らしていた。
赤子の泣き声がふと止まり、瞳が藤村を追う。父の気配を感じ取ったのか、小さな手が宙を掴むように動いた。
「久信も、よく眠れるようになりました」
お吉が微笑む。
藤村はそっと赤子の頬に触れた。柔らかい温もりが掌に広がり、胸の奥の緊張を溶かしていく。
――この国を守るとは、結局この小さな命を守ることに尽きる。
翌日。城の評定所では、藩士たちが集まり、米の増収と銀納の比率について討議が行われた。
「現物納を減らし、銀での納入を増やすべきです」
「いや、銀は市価に左右される。米のまま納めさせる方が安定する」
意見は割れたが、慶篤が一歩進み出て答えた。
「米は腹を養い、銀は国を動かす。両方が必要です。民が食う分を確かに残し、余剰を銀に換えて国を支える。それが公平です」
静寂ののち、老臣が低く言った。
「若き殿、よく申された。これならば民も異を唱えますまい」
評定所に穏やかな空気が流れ、藩士たちの顔に微笑が浮かんだ。
夜、藤村は一人、庭に立って秋の月を仰いだ。
稲田は実りを終え、蔵は満ち、人々は笑っている。
だがその先には、まだ残る借財と、海の向こうから忍び寄る影がある。
「数字で人を守れるか……」
呟いた声は風にさらわれ、虫の音に溶けていった。
遠く御殿から、義信と久信の声が重なって響いた。泣き声と笑い声。そのすべてが、この国の未来を告げる音色に思えた。
藤村はそっと目を閉じた。
剣ではなく、数字で守る世を――必ず築かねばならぬ。
九月の半ば、江戸の町には早くも秋の風が吹き始めていた。川面に映る雲は高く、空気には夏の湿りを振り払うような澄んだ冷たさが混じっている。
江戸城の現場では、その風の下で槌音がひときわ高く響いていた。長らく続いた普請もついに大詰めを迎え、石垣の間に木枠が組まれ、白壁が整えられていく。足場の上で大工たちが掛け声を合わせるたび、城郭の姿は一層凛々しく引き締まっていった。
「これで七分八分どころか……ついに完了でございますな」
監督役の声に、傍らに立っていた慶篤は深くうなずいた。若き藩主の瞳には、誇らしさと責任が同居している。
藤村も同席し、完成した江戸城の威容を仰ぎ見た。火薬庫や兵器庫に加え、衛生棟や避雷針までも備えた新たな城は、単なる武の象徴ではない。
――この城は、治めるための器である。
その思いが胸をよぎり、藤村は風に翻る幟をじっと見つめた。
一方、羽鳥城では天守三階の普請が進められていた。石垣は既に積み上がり、木組みが空に向かってそびえ立っている。城下から眺めれば、まるで山そのものが背を伸ばしたかのようであった。
普請場を歩く藤村に、若い石工が声をかける。
「藤村様、この石垣は代々残るものでございます。百年先も千年先も、崩れぬように積みました」
その顔は汗と土にまみれていたが、目は自らの技に誇りを宿していた。藤村はしばし彼の手を眺め、静かにうなずいた。
「お前たちの手が、この国の礎だ。名は刻まれずとも、石は語り継ぐであろう」
工人たちは顔をほころばせ、再び槌を振るった。夕日に照らされた石垣は、燃えるように赤く輝いていた。
財政の場でもまた、大きな節目が訪れていた。会津への繰上返済が五万両進められ、残りの債務はわずか十五万となったのである。
「この分なら、来年の春には全てを返し終えることができます」
渋沢が記録を示し、机上に置かれた帳簿を藤村へ差し出した。
藤村は墨で走り書きされた数字を眺め、深く息をついた。
借財という鎖は、もはや足枷ではない。切断の時は近いのだ。
「信を返し、さらに信を積む。これこそが会計の道だ」
その言葉に渋沢は頷き、口元にわずかな笑みを浮かべた。
その日の夜、羽鳥城の御殿では灯火が揺れていた。
篤姫が義信を、そしてお吉が久信をそれぞれ抱き、並んで座している。赤子たちの声が重なり合い、笑いと泣き声が交互に響いた。
「義信は父上を見て笑いましたよ」
篤姫の声に藤村が顔を向けると、義信が「あー」と声を上げ、小さな手を伸ばしていた。
「久信も、よく眠るようになりまして」
お吉が笑みを添える。藤村は二人の幼子を交互に見つめ、胸の奥に温かさを覚えた。
――この国の未来は、今ここに眠る。
政治も会計も、最終的にはこの命を守るためにあるのだ。藤村は改めてその決意を心に刻んだ。
やがて夜が更け、庭には秋の虫の音が満ちた。
藤村は一人、帳簿を前に座り、今日の数字を書き記していた。
「豊作十八パーセント増……裏作現金化三万二千両……会津返済残十五万両……」
声に出して読み上げるたび、数字が現実の重みを伴って胸に迫ってくる。
ふと筆を置き、障子越しに空を仰いだ。
月が高く昇り、澄んだ光が庭を照らしている。
「剣に勝るものは、数か。あるいは人の信か」
呟いた声は夜に溶け、虫の音と重なった。
遠くで子どもの泣き声が聞こえた。義信か久信か判別はつかなかったが、その声は不思議と藤村の胸を強く揺さぶった。
「数字は冷たい。しかし、人を守るために使えば温かくなる」
そう言葉を結ぶと、藤村は再び筆を執った。
紙の上に記された数字は、やがて未来を織りなす糸となるだろう。
江戸城が完成し、羽鳥城がそびえ立つ。借財は減り、人々は笑い、子どもは育つ。
剣の時代から、数字の時代へ。
藤村は静かに目を閉じた。
――この国の会計は、すでに新たな時代を迎えている。