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121話:収穫前夜—用水の学

八月の羽鳥は、稲穂の香りで満ちていた。青さを残す穂が風に揺れるたび、まるで田一面がざわめき合っているように波打つ。陽射しは容赦なく降り注ぎ、農夫たちの背を焼いていたが、彼らの表情は不思議と晴れやかだった。


 その理由は、新しく導入された「交互灌漑」だった。田にずっと水を張らず、一定の日数ごとに水を抜き、土を乾かしてからまた注ぐ――。初めて藤村がその方法を口にしたとき、村の古老たちは口を揃えて「稲は水に浸かってこそ育つ」と首を振ったものだ。だが今年の田は違った。


 「見てくれ、この茎の太さを。去年は台風ひとつで倒れたのに、今は風にも負けん」

 「根が地を噛んでる。水を抜いたときは肝が冷えたが……これなら収穫が楽しみだ」


 あちこちで農夫たちが笑い合い、子どもたちが水路を走り回っている。田に映る青空は鮮やかで、吹き渡る風は稲の香りを運んでくる。それは、村全体が新しい時代に踏み出した合図のようでもあった。


 藤村は堤の上に立ち、腕を組んでその光景を眺めていた。陽に焼けた農夫たちの顔には疲労もあったが、それ以上に確かな手応えが刻まれている。


 「人は慣れに縛られる。しかし実りが証になる。数字と記録を積み上げれば、やがて誰も逆らえぬ理になる」


 独り言のように漏らした声に、すぐ傍らで見守っていた慶篤が頷いた。


 「藤村様……農政というのは、こうして人々の暮らしを数字で確かめていくものなのですね。口だけの命令ではなく、田の実りで答えを出す……」


 慶篤の額には大粒の汗が光り、片手には帳面が握られていた。彼は農夫の言葉をそのまま記録している。そこには「稲丈八尺」「穂、重し」など素朴な言葉が連なっていたが、その一つひとつを彼は宝のように扱った。


 「その帳面は未来の礎になる」

 藤村は穏やかに笑った。

 「声を記し、数字に残す。それがやがて藩の農政を動かし、国を動かす。忘れるな、慶篤。田を治めることは、人を治めることだ」


 慶篤は深く頷き、墨を走らせる手を止めなかった。


 


 少し離れた用水の端では、昭武が外国の農書を片手に、農夫たちへ説明していた。まだたどたどしい発音でフランス語を読み上げ、それを日本語に言い直す。


 「“ドレナージュ”……ええと、排水のことです。この書では、稲に限らず小麦や葡萄も、根を強くするために水を切ると書かれています」


 農夫たちは首をかしげながらも、その真剣な声に耳を傾けた。通りがかった老人がぼそりと呟く。

 「なるほどなあ……外国でも稲に似た作物を水から離すのか。理は国を問わんのだな」


 昭武はその言葉に目を輝かせた。

 「はい! 学問は国境を越えます。私も、もっと読み解いて皆に伝えられるようにします」


 藤村は遠目にその様子を眺め、心の中で思った。――言葉を学ぶことは、剣を学ぶことに勝る力になる。昭武の舌がやがて国を護る日が来るだろう。


 


 午後になると、強い陽射しに田の水がきらめき、稲の葉先から光の粒が滴り落ちていた。小四郎は水量を計る木尺を手に、田と用水の間を走り回っていた。


 「三日目で水深は三寸。予定どおりです!」


 彼は声を張り上げ、記録を竹簡に記していく。まだ年若い顔に浮かぶ汗は光り、必死さと誇らしさが入り混じっていた。


 「よし、小四郎」

 藤村はその背に声を投げた。

 「水の一寸が、米の一俵になる。数字を侮るなよ」


 小四郎は振り返り、息を弾ませながら笑った。

 「はい! この一寸が、国の腹を満たします!」


 その声に農夫たちも笑い、鎌首を振る稲が一斉に揺れた。


 


 夕刻、堤の上に腰を下ろした藤村は、汗を拭いながら空を仰いだ。夏の雲はゆっくりと西へ流れ、赤く染まった空が田一面を覆っている。


 「稲が実る前夜に、ここまでの確かさを得られるとはな……」


 独り言に、傍らで記録を閉じた慶篤が静かに言った。

 「収穫前の今こそ、大事なのですね。油断すれば水も人の心も淀む。ですが秩序を守れば、きっと実りに結びつく」


 藤村は横目でその横顔を見、頷いた。

 「そうだ。秩序を守るとは、水を守ることだ。稲を育てるのは農夫の手だけではない。人の心と学が共にあって初めて、実りは訪れる」


 田を渡る風は心地よく、稲の葉を擦る音がまるで大きな拍手のように広がっていった。

八月半ば。羽鳥城の広間に置かれた大きな算盤が、ぱちんと乾いた音を響かせた。

 渋沢が指を走らせ、墨痕鮮やかな帳簿を藤村の前に押し出す。


 「薩英戦争の賠償金――幕府分として十二万五千両、ようやく長崎から江戸に届きました。これをどう配するかが本日の肝でございます」


 藤村はしばし黙し、筆を指先で転がしていた。重い金の響きが広間に漂っているような気さえする。やがて彼は墨を含ませ、さらりと紙に線を引いた。


 「まずは借財の返済だ。二万両を会津へ、残りは順次繰り上げる」


 慶篤がすかさず問いかける。

 「藤村様、なぜ会津から優先するのですか? 他にも重い借財を抱えた藩は多いはずですが」


 藤村は視線を帳簿から外し、穏やかに言った。

 「会津は戦の折、誰よりも先に血を流した。その忠義に報いなければ、秩序は立たぬ。金は冷たいが、人心を結ぶ糸にもなる。返済の順序ひとつが、国の骨格を決めるのだ」


 その答えに、慶篤は黙って筆を取り、帳面に「信」と一文字を記した。


 


 翌日。藤村は江戸へ出立し、城内の工事現場に足を運んだ。夏の熱気に包まれた石垣の間を、汗だくの職人たちが行き交い、掛け声が空に響く。


 「衛生棟の屋根、ようやく葺き終えました!」

 監督が報告する声に、藤村は仰ぎ見た。新しい屋根瓦は陽を弾き、避雷針が空を突いて立っている。


 「八割五分、進んでおります。火薬庫も外壁が固まりました。もう風雨に怯えることはありません」


 藤村は手にした扇で汗を拭いながら頷いた。

 「火薬は牙、衛生は肺。どちらが欠けても城は守れぬ。ここまで来たか」


 現場に立ち会った昭武が、感慨深げに口を開いた。

 「まるで城が呼吸しているようです。人の命と同じく、外を防ぎ、中を清める……」


 藤村はその言葉に微笑み、若者の肩を軽く叩いた。

 「良い比喩だな。覚えておけ。建築もまた、人の身体を写すものだ」


 


 一方、羽鳥城の天守台では、二階の骨組みがようやく形を見せ始めていた。石垣は整然と積まれ、木組みが空を押し上げるように伸びている。


 「殿、見てくだされ!」

 職人頭が誇らしげに声を上げる。

 「一段目の梁を渡し終えました。これで来月には二階の姿が整いましょう」


 藤村は石垣を見上げ、しばし感無量の面持ちを浮かべた。

 「この天守は、ただ威を示すためではない。人を守り、災を防ぐ器となるべきだ」


 周囲に控えていた農夫上がりの兵士が、汗を拭いながら笑う。

 「俺たちの手で積んだ石が、殿の言う“器”になるのか。ならば力の限り、積み上げてみせます」


 その言葉に藤村は目を細めた。城はただの石ではない。人の誇りと汗とを積み重ねた、未来への誓いそのものだった。


 


 夕刻、羽鳥城の書院に戻ると、小四郎が机に広げた帳簿を指で叩いていた。


 「印紙税と関税収入を合わせれば、今月の総計は二百五十万両を超えます。ここに薩英賠償金十二万五千を加えれば、返済の筋が一段と明確に」


 藤村は帳簿に目を走らせ、静かに言った。

 「数字は冷たい。だが、それを操る人の心が温かければ、数字は人を救う。小四郎、お前の眼こそ秩序の守り手だ」


 小四郎は顔を上げ、真剣な瞳で応えた。

 「はい。数字を裏切らず、人を裏切らぬように」


 


 夜。蝋燭の灯が揺れる中、藤村はひとり机に向かっていた。書きかけの帳簿の端に、何気なく「収穫前夜」と書き付ける。


 城も田も、財も人も――すべては実りを迎える前の静かな緊張に包まれていた。

 遠雷が空に響き、窓辺の堀に波紋が広がる。


 藤村は筆を置き、囁くように呟いた。

 「水を制する者が稲を得る。数字を制する者が国を得る。いまはまだ前夜……だが、この秩序がやがて大きな実りを呼ぶ」


 その声は、蝋燭の火に吸い込まれるようにして静かに消えていった。

羽鳥城の一角にある学問所。


 真夏の陽は障子を透かして白く輝き、蝉の声が幾重にも重なっていた。涼を求めて掛けられた簾を揺らす風は、稲田からの青い匂いを運んでくる。


 その机の前に慶篤が座り、額に汗を浮かべながら声を張った。

 「農政において最も大切なのは、まず田に水を巡らすことにございます。だが、その用水を誰が整え、誰が見張るのか――ここに難しさがあります」


 若き藩主の眼差しは真剣そのもので、周囲に並ぶ家臣や学徒たちをまっすぐ見据えていた。藤村は一歩後ろで腕を組み、その様子を見守る。


 「慶篤、では解を申してみよ」

 促す声に、慶篤は少し考え、静かに言葉を続けた。


 「用水路の維持は村ごとの役割とし、村役人に定めを守らせます。だが大きな水路は藩の直轄に置き、検査役を年ごとに派遣すれば不正も減りましょう」


 声は震えていなかった。

 農政は机上の策ではなく、稲の命を守る道である。慶篤の言葉には、田を見つめてきた者の重みが宿っていた。


 藤村はゆっくりと頷く。

 「よい。水を守ることは、人を守ることだ。今日のお前の答弁は堂々としていたぞ」


 慶篤はようやく小さく息を吐き、肩の緊張を解いた。学問所の空気が和らぎ、蝉の声がまた一段と大きく耳に響いた。


 


 一方、隣の書院では昭武が分厚い書物を開いていた。

 表紙には仏文で「Agriculture」と記され、紙は手に吸い付くようにざらりとしている。


 「……‘l’irrigation des rizières’、つまり……水田の灌漑のことですね」

 若い声が読み上げ、通訳役の学者が頷いた。


 「灌漑の技法は、フランスでも研究が盛んに行われています。水門を幾重にも設けて、稲の倒伏を防ぐ工夫ですな」


 昭武は眉を寄せながら、懸命に訳語を筆に取った。

 「田に水を満たすは易く、退かすは難し……と。なるほど」


 その横顔を見て、藤村は心中で思った。

 ――この若者の舌は、やがて異国の学を取り込み、日本の田を救う武器となる。


 「昭武、続けよ。言葉は鍬にも勝る」

 そう声をかけると、少年は一瞬きょとんとし、それから真剣な瞳で頷いた。


 


 そしてもう一人。小四郎は帳簿を前に、黙々と筆を走らせていた。

 横に広がる紙には細かく罫線が引かれ、欄には「用水工事費」「堀普請進捗」「徴税見込」といった文字が並ぶ。


 「藤村様、こちらは工事と収入を結びつけた表にございます。進捗を数値で測れば、嘘やごまかしは入り込めません」


 藤村は覗き込み、感心したように眉を上げた。

 「ほう、進み具合を数字で捉えるか。これなら藩士でも農夫でも、目にしてすぐ理解できる」


 小四郎は僅かに笑みを見せた。

 「剣では測れぬものを、数字で測るのです」


 若き目に宿る静かな自負に、藤村は深く頷いた。


 


 その日の夕刻。

 藤村が御殿に戻ると、障子の向こうから子どもの笑い声が聞こえてきた。


 「義信様、こちらへ。筆をしっかりと」

 女中の声に導かれ、幼子が太い筆を両手で握っている。墨は滴り、紙の上にぐにゃぐにゃとした線を描いた。


 篤姫がその隣でやさしく見守っていた。母の眼差しは温かく、子の小さな手の動きに合わせて微笑んでいる。


 「ほら、ご覧なさい。まだ殴り書きですけれど……これも学びのはじまりですわ」


 藤村は静かに近寄り、義信の小さな手をそっと取った。

 「義信、その筆は人を傷つける剣ではない。人を繋ぐ道具だ。覚えておけ」


 幼子は意味も分からぬまま、父の声に合わせるようにまた筆を振った。墨はあちこちに飛び散り、紙には不恰好な円が浮かぶ。だが藤村には、それが未来の大きな環に見えた。


 


 夜。灯火の下、藤村は一日の光景を思い返していた。

 慶篤の答弁、昭武の翻訳、小四郎の数字、そして義信の筆――。


 それぞれはまだ稚い。だがすべてが、水路を繋ぐ枝葉のように未来へと伸びている。


 「収穫前夜とは、こういうことか」

 藤村はひとり呟き、紙に「水と学」と書き記した。


 蝉の声は夜に変わり、堀を渡る風が涼やかに頬を撫でた。

 城も人も、静かに実りを待つ時を迎えていた。

夏の夜、羽鳥城の櫓に灯が揺れていた。

 眼下に広がる堀は月を映し、蝉の声がやむと代わりに虫の音が響き渡る。その静けさを破るように、城内の会議所には緊張した気配が漂っていた。


 「朝鮮沿岸で、また漁船が拿捕されたとの報せです」

 報告したのは使番の若い藩士だった。額の汗は蒸し暑さだけではない。


 藤村は無言で書状を受け取り、視線を走らせた。文面には「異国船と衝突」「海上で小競り合い」といった文字が連なり、墨痕は急いで書かれたせいか掠れている。


 「……やはり来たか」

 低く呟いた声に、部屋の空気が一段と張り詰めた。


 


 傍らに座していた西郷隆盛が膝を進める。

 「殿。兵を動かすならば、幕府軍か常陸藩軍のいずれか。どちらをお考えで?」


 その眼はいつも通り落ち着き払っていたが、奥底には烈しい炎が潜んでいた。


 藤村は視線を机の上の地図に落とした。沿岸の線は墨で濃くなぞられ、要所には赤い印が記されている。


 「まずは常陸藩軍を出そう。幕府の旗はまだ使わぬ。小競り合いに大旗を振れば、火種が炎になる」


 「心得ました」

 西郷は短く答えた。その背は揺るがぬ巨岩のようで、居並ぶ藩士たちの胸に安堵が広がる。


 


 続いて、大村蔵六が進み出た。白衣の袖を正し、冷徹な眼で地図を見下ろす。

 「兵を動かすならば、まず糧秣の確保を。沿岸に兵糧庫を設け、退路には水路を使うべきです。船を補給線とせず、陸で繋ぎます」


 その言葉は即座に図面へと書き加えられた。藤村は扇を畳み、深く頷いた。

 「西郷には兵を、大村には参謀を任せる。ふたりで動け」


 「はっ」

 声が重なり、室内に力強く響いた。


 


 会議が散じたあと、藤村は櫓に登り、夜風に身をさらした。

 遠く田の方からは、まだ農夫たちの笑い声がかすかに届く。夜遅くまで稲の手入れに余念がないのだろう。


 「内は収穫前夜、外は嵐前夜か……」

 吐き出した声は夜気に溶けた。


 


 翌日。羽鳥城下にある武具蔵に、藤村、西郷、大村が揃った。

 中には南北戦争の余剰武器として買い入れた銃と大砲が並び、油の匂いが漂っていた。


 「アメリカから流れてきた鉄の山か……」

 西郷が低く呟き、手に取った銃を構える。重みはずしりと肩に食い込み、その目が鋭く光った。

 「これで海を睨むことはできましょうが、扱う兵の心まで備えられるかは別です」


 藤村は静かに答えた。

 「だからこそ、学がいる。剣に勝る数字があり、銃に勝る秩序がある。兵を束ねるのは鉄ではなく、人心だ」


 大村は頷き、帳面を広げた。

 「一丁一丁の銃を割り当て、弾薬の消費を記録します。数字は嘘をつきません」


 その声に、西郷が笑った。

 「ならば俺は兵を鍛えよう。弾を撃ち尽くす前に、心を挫けぬようにな」


 蔵の空気がわずかに和らぎ、三人の間に確かな連帯が生まれた。


 


 その夜、藤村は再び机に向かっていた。

 義信が握った筆の跡がまだ頭に残っている。あの不恰好な円が、やがて国を繋ぐ環になる。だが同じ時に、海の外では黒い渦が広がっていた。


 「水を守るか、国を守るか……どちらも待ってはくれぬ」


 筆を走らせる手が震え、紙には「用水」「兵糧」と二つの文字が並んだ。


 藤村は深く息を吐き、静かに目を閉じた。

 稲穂は今まさに実ろうとしている。その輝きを守るために、武も学も、すべてを繋ぐ秩序が必要だった。


 


 外では、稲の葉を揺らす夜風が吹き、遠雷がかすかに響いた。

 収穫を待つ田と、出陣を待つ兵。二つの前夜が、同じ夏の空の下で静かに重なり合っていた。

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