120話:税と専売の紐帯
盛夏の江戸。梅雨が明けきらぬ空気の中に、じっとりとした湿り気とともに蝉の声が満ちていた。江戸城西丸の大広間では、障子を外して風を通す工夫がされていたが、帳簿を囲む面々の額には汗が滲んでいた。
藤村は火鉢を遠ざけ、机の上に置かれた分厚い帳簿を手繰った。墨で大書された「印紙税収」の三文字。その下に並ぶ数字は、この一月で新たに生まれた財政の大黒柱を物語っていた。
「十万両から十八万両――幅はあるが、専売と印紙税が見事に噛み合った」
渋沢が扇子で顔を扇ぎながら報告する。隣で控える小四郎は、印判を押された免状束を広げ、通し番号が確かに順序通りであることを指さしてみせた。
「不正免状は一枚もございません。偽造の形跡はすべて即日焼却。残された記録も簿冊に写し済みです」
藤村は小さく頷き、扇子を手にした慶篤へ視線を送った。
「慶篤、これをどう評する?」
慶篤はわずかに緊張した面持ちで口を開く。
「印紙は専売と税を結びつける紐帯にございます。徴税を監査できれば、藩財政の信もまた固まります。答弁の場で問われても、数字で返せます」
藤村は笑みを浮かべる。
「よい。数字は剣より強し――それを胸に刻め」
巻物の端に書き付けられた配分の数字が目に入る。
海横(海軍と横須賀工廠) 九十六万両。
繰上(借金返済) 八十四万両。
衛教(衛生と教育) 三十六万両。
予備(二十四万両)。
藤村は筆を走らせ、配分を朱で囲む。
「海横に九十六。これで艦を動かし、横須賀を支える。借財は会津から二十万を繰り上げ返済、残り二十万は来季に送る」
渋沢が首を傾げる。
「繰り上げが大きすぎはしませんか。余剰を予備に回した方が安定するかと」
藤村は首を横に振った。
「会津は国の楯だ。負債の重荷を軽くせねば、楯は鈍る。今は返すべきときだ」
慶篤はその言葉を静かに筆に写し取る。答弁の演習として、彼の心には一言一句が刻まれていた。
そこへ昭武が広間に現れた。まだ少年の面影を残す顔には、しかしどこか遠い海を見据える光が宿っている。
「藤村様、外遊の準備が整いつつあります。仏語の文書、ようやく読み解けるようになりました」
藤村は目を細めて彼を見つめた。
「外交は剣ではなく言葉で勝ち取るもの。仏語を以て商談を成せるなら、列強も侮れぬ。お前の務めは未来を結ぶことだ」
昭武は深く頭を下げた。
そのとき、遠く江戸城の工事場から槌音が響いてきた。
江戸城二期工事、進捗はすでに七割五分。衛生棟の屋根は完成し、新たに避雷針が立ち上がっている。夏の雷鳴が轟けば、黒鉄の棒は稲妻を受け止め、城を守るだろう。
また羽鳥城では、内堀の完成が告げられていた。清らかな水が堀を巡り、病を防ぎ、同時に城を堅牢にする。
「内と外、どちらの堀も生きているな」
藤村の呟きに、渋沢が微笑んだ。
「数字が堀を巡らせているのです」
広間に涼風が通り抜け、蝉の声がまた遠くで高鳴った。帳簿の墨痕は乾ききらず、湿気の中に艶やかに光っていた。
藤村はその数字を前に、未来の秩序を思い描いていた。――印紙と専売、税と商い。その紐帯こそが国を繋ぎ、武を支え、人の暮らしを守るのである。
羽鳥の空には、まだ梅雨の雲が名残をとどめていた。湿り気を含んだ風が城下を渡り、堀の水面をかすかに震わせる。
その堀は、つい先日完成したばかりの内堀であった。石垣の隙間から染み出す水は清く、流れは淀みを知らない。城下の人々はその姿を見て、まるで城そのものが新たに息を吹き返したかのように語り合った。
「内堀ができれば、病も減るという話だ」
「水が巡れば、夏の疫も防げるさ」
子どもたちは水面を覗き込み、涼やかな影に歓声を上げる。堀はもはやただの防衛施設ではない。人々に安心を与え、日々の暮らしを守る清流そのものだった。
城内では、また別の作業が進んでいた。小四郎が広げた帳簿の上には、印紙税によって発行された免状が整然と並べられていた。朱印と通し番号が揃い、墨の色はまだ新しい。
「これで七百五十枚目……番号の乱れも不正もなし」
小四郎は筆を置き、墨痕を乾かすために軽く息を吹きかけた。その横顔は、まだ若さを残しながらも、責任を担う者の緊張に引き締まっている。
藤村は背後からその作業を見守り、静かに声をかけた。
「免状はただの紙ではない。信の証であり、国を繋ぐ鎖でもある。お前の目が狂えば、秩序も狂う」
小四郎は振り返り、真っ直ぐに答えた。
「心得ております。数字の一つひとつを、命と思って扱います」
藤村は頷き、その真剣さにわずかな笑みを浮かべた。
同じ頃、江戸城の工事現場では槌音が絶え間なく響いていた。火薬庫の外壁が立ち上がり、衛生棟の屋根が新たに空を覆う。避雷針が光を反射し、まるで天を突く槍のように屹立していた。
作業場を歩く監督の声が響く。
「あとひと月もすれば、七分の五が仕上がるぞ!」
汗を流す職人たちは誇らしげに笑い合った。その姿を眺めながら、慶篤は傍らの藤村に小声で問う。
「藤村様、この避雷針、本当に雷を引き受けるのですか?」
藤村は静かに答えた。
「いずれ見せてやろう。空の怒りを導き、地に返す。それもまた、秩序を守る術だ」
慶篤は感嘆の眼差しを向け、手元の筆に「秩序は技に宿る」と書き留めた。
やがて日が傾き、江戸の街に夕暮れが訪れた。町家の軒先では、女たちが免状を掲げ、小売の客を迎えていた。
「ほら、番号が入ってるから安心だよ」
「税も払ってるんだから、堂々と売れるさ」
買い物に訪れた農夫が銭を払い、野菜を籠に収める。女房は免状を指差し、得意げに笑った。
「これがあれば、誰にも咎められない。働いた分だけ財布に残る」
笑い声と銭の音が夕暮れに溶け、町は活気に包まれていった。
一方、羽鳥城の一室では、昭武が仏語の文書を読み上げていた。発音はまだたどたどしいが、その瞳は真剣に光っている。
「……ル・コントラ……シオン、ええと……契約のことです」
傍らで指導を受けていた翻訳官が頷き、意味を補う。
「よく出来ています。この調子なら、外遊に出ても恥じません」
昭武は汗を拭い、安堵の息を吐いた。その姿を見て、藤村は低く呟いた。
「言葉は剣に勝る。お前の舌が、やがて国を護る日が来る」
昭武はその言葉を胸に刻み込み、再び文書へと視線を落とした。
夜。羽鳥城の櫓からは城下の灯が一望できた。
藤村は一人、その光を眺めていた。女たちが免状を掲げて商いを続け、男たちが堀を掘り、城を積み上げる。そのすべてを数字が繋ぎ、秩序が支えていた。
背後から渋沢が近づき、囁く。
「会津への返済二十万、手配を整えました。残り二十万も、来季には完済の見込みです」
藤村は小さく頷き、視線を光の海に投じた。
「よし。借財を返し、信を積み上げる。信こそが、この国を繋ぐ紐帯だ」
遠くで雷鳴が響いた。避雷針がそれを迎えるように黒々と立ち、夜空に鋭い影を伸ばしていた。
藤村はその姿を見上げ、心中で呟いた。
――税と専売は、ただの金ではない。
――人を繋ぎ、国を守る、秩序の紐帯なのだ。
江戸の空は、梅雨明けを促すように厚い雲の端を割り、白い光を落としていた。城中では朝から人が行き交い、敷き詰められた新畳がかすかに青い香りを放つ。今日は「慶明」祝賀の儀――御台所・和宮の御子の誕生を寿ぐ日である。
広間の上座には、朝廷からの使者が控え、幕府の重臣が列座した。緋の几帳が静かに揺れ、扇のきらめきが波のように連なる。藤村は脇に退き、儀の進行を目で追った。声高な歓声はない。ただ、呼吸を合わせるような沈黙が、人々の胸の底に温かく広がっていく。
「朝廷と幕府、このたびはひとつに――」
祝詞が終わると、続いて献上品が運び込まれた。白木の箱に収めた檸緑石鹸、松葉印の薄紙に包んだ清めの束、水戸より送った無地の真綿。どれも華美ではないが、清潔と実用を尊ぶ藤村の選びだ。使者の一人がそれを手に取り、ほのかに笑みを見せた。
「世が静まるは、まず身の清から」
短い言葉に、広間の空気が和らぐ。藤村は胸の奥で息をついた。儀は滞りなく進み、互いの礼は重なった。
式のあと、控えの間で慶篤が藤村に歩み寄る。緊張の色を残したまま、しかし目は澄んでいた。
「藤村様。答弁の練習で申してきたこと――“税と専売は、乱を抑える縄である”――今日の場で、少し分かった気がいたします」
「分かったか」
「はい。礼と礼が結び合う裏で、銭と記録が結び合っている。どちらかが切れれば、ひと息で崩れましょう」
藤村はうなずき、控え卓の巻物を開く。海横九十六、繰上八十四、衛教三十六、予備二十四――朱で囲った配分の表。
「礼の場だからこそ、数字を忘れない。礼は形であり、数字は中身だ」
慶篤は「うなずく」のではなく、背筋を伸ばしてそれを飲み込んだ。今日は彼にとっても儀の一部なのだ。
中庭では、昭武が外遊のための仏語の挨拶を反芻していた。口元で小さく、しかし明瞭に。
「メルシー……ソン・ヴォートル……」
通りがかった洋学所の書生が気を利かせ、発音の癖を指で示すと、昭武は素直に頷く。
「言葉は橋だ。橋脚を一本欠くと渡れない」
藤村が声をかけると、昭武は頬を紅潮させ、背を正した。
「渡ってまいります。この橋で」
午後、羽鳥へ戻った藤村は、内堀の水面に映る空をしばし眺めた。淡い雲が千切れ、陽の筋が揺れる。堀端には町の子らが寄り、手桶で水を汲んでは植え木にやる。女衆は井桁に石鹸を置き、旅人に手洗いを促している。
「さっき江戸から早飛脚。印紙税の月次、上限見込み十八万両」
渋沢が駆け寄り、汗を拭きながら帳面を開いた。
「武器事業の差益も六万から十万両に届きます。米で換算すれば、城一つ分の冬越しができる」
「銃はしまえば鉄だが、信はしまっても減らぬ」
藤村は微笑み、堀の水に視線を戻した。
「会津へは今月二十。残り二十は、慌てず急げ」
「“慌てず急げ”……承知しました」
渋沢は口の端でその言葉を繰り返し、朱を入れる位置を決める。
夕刻、奥では小さな祝が始まっていた。篤姫が座し、側にお吉。二人の間に交わる視線は、奇妙にやわらかい。正室と側室――名は違えど、家を立てる目的はひとつだと、どちらも知っている。
「江戸の儀は、恙なく」
篤姫が問うと、お吉は小さく頷いた。
「清い贈り物は、誰の心にも届くのですね。檸緑の香りで、部屋が明るくなったと聞きました」
「香りは人の心をほどく。ほどけたところに、言葉が入る」
藤村が応じると、篤姫は目を細めた。
「言葉と香り、礼と数字。四つを束ねるのがあなたの役目」
「そのために、二人の背がいる」
藤村が頭を下げると、篤姫は軽く扇で笑みを隠し、お吉は子守唄の節を一つ、鼻歌で流した。
灯がともり、城下の通りに小さな火の帯が伸びる。女たちが店をたたみ、免状を包んで懐に戻す。通し番号を確かめて朱を押す小四郎の手は、昼よりも落ち着いていた。
「八百二十六、八百二十七……本日分、相違なし」
書役が「お疲れさまです」と頭を下げると、小四郎は短く頷いた。
「税は恨みを生む。だから記録で鎮める」
その言葉に、書役は目を丸くし、やがて「なるほど」と小さく笑った。
夜、羽鳥城の櫓に上る。遠い雷が唸り、江戸の避雷針の黒い影を藤村は思い浮かべた。空の怒りを導き、地に返す棒。人の怒りを受け、礼と数字に返す仕組み。かたちは違えど、働きは同じだ。
背後から慶篤の足音が近づく。
「藤村様。きょうの言葉、胸に刻みました。“礼は形、数字は中身”。いずれ問われた時、私はこの順で答えます」
「順を守れ。順が乱れると、人はすぐ刀を探す」
「刀を探す前に、帳簿を開く」
「それでよい」
二人はしばらく黙り、雷の間を測るように空を見上げた。
さらに遅い時刻、昭武が灯を頼りに仏語の稽古を続けていた。部屋の外から、お吉の子守唄が薄く流れ込む。
「ボン・ヌイ……ユ」
言葉の端がわずかに崩れ、本人が照れ笑いする。そこへ藤村が戸口から顔を出した。
「笑って覚えろ。笑わぬ言葉は、どこかで人を刺す」
「はい」
昭武はもう一度、口の形を確かめた。今度は、音が柔らかく転がる。
最後の紙燭が短くなり、夜が深まる。櫓の下、堀の水がひそやかに動く。藤村は独り、胸の内でそっと整える――今日の儀で交わされた礼、帳簿に残る数字、子らの寝息、遠い海から届く銃の相場。一本の縄に結び直すように。
――税と専売は、ただ金を集める術ではない。
――礼を保ち、怒りを導き、命を守る紐帯だ。
彼は目を閉じた。耳に入るのは、堀の水と、どこかの家の笑い声と、遠雷。明日もまた、礼から始め、数字で締める。そう決めて、灯を落とした。
羽鳥城の奥御殿。夏の夕暮れはまだ熱気を残していたが、障子を抜ける風は涼やかで、どこか収穫の兆しを含んでいた。几帳面に並べられた巻物と算盤の上で、蝋燭の火が揺れ、数字の列を照らしている。
机の前に座した藤村は、巻物の一つを手に取り、低く告げた。
「関税収入、総額二百四十万両。そのうち九十六万を海軍と横須賀、八十四万を繰上返済、三十六万を衛生と教育、残り二十四万を予備とする」
その声は、まるで刀を抜き放つように鋭く、広間の空気を引き締めた。
渋沢が帳簿を繰り、墨筆で赤い線を引く。
「数字に従えば、会津藩の負債四十万のうち二十万は、この四半期で繰り上げ返済できます。残り二十万も、来季には完済の目処が立ちましょう」
慶篤が静かに頷いた。顔色はまだ青白いが、その眼差しは真剣だった。
「会津はこの国の柱石です。返済を早めれば、彼らの心も和らぎましょう」
藤村は巻物を閉じ、深く頷いた。
「数字は情を越える。会津を守ることは、幕府を守ることだ。債務を減らすことは、兵を増やすことに等しい」
その時、小四郎が免状の束を持って進み出た。
「藤村様、印紙税による収益も報告いたします。今月で一万を超える免状が発行され、粗利四千五百両の増加です。帳簿に偽造や欠落はございません」
藤村は受け取った免状を光にかざした。朱の印と通し番号が整然と並ぶ。
「よし。これはただの紙切れではない。人の信を結ぶ鎖だ。税は縛るものではなく、結ぶものだと肝に銘じよ」
小四郎は深く頭を垂れ、若い顔に決意の影を刻んだ。
やがて、広間に控えていた昭武が進み出た。
「藤村様、外遊の準備は整いつつあります。仏語での契約文も読めるようになりました」
藤村はその報告を聞き、眼を細めた。
「よいか、昭武。これからの世は、剣よりも言葉で国が動く。数字と契約は、銃声よりも遠くに響くのだ」
昭武は緊張した面持ちで頷き、その瞳に新しい決意を灯した。
さらに慶篤が一歩進み出る。
「答弁演習でも、財政の配分について問われました。私はこう答えました――『兵の糧は衛生であり、民の信は返済である』と」
藤村は微笑し、その言葉を反芻するように繰り返した。
「……兵の糧は衛生、民の信は返済か。よい。お前の舌が藩を導く日も遠くはない」
その夜更け。帳簿を閉じた藤村は、一人で城の櫓に登った。
下には完成した内堀が水を湛え、月の光を反射していた。堀の水は澄み、城下を巡り、民の暮らしを潤す。遠くには町家の軒に吊るされた免状が月光にきらめき、女たちの笑い声が涼風に混じって届いた。
――税は縛るものではなく、結ぶもの。
その思いが胸に満ち、藤村は静かに空を仰いだ。
夜空には避雷針の影が突き立ち、稲光を待つかのように鋭く天を指している。
藤村は心中で呟いた。
「雷が落ちても、この針が受ける。債務が重くても、数字が受ける。民の不安を受け止めるのが我らの務めだ」
その瞬間、遠雷が微かに響いた。
避雷針は黒々と月を裂き、まるで秩序そのものを象徴するように聳えていた。
藤村は静かに頷き、胸中で誓った。
――税と専売の紐帯を絶やすな。
――それこそが、この国を未来へ繋ぐ唯一の道だ。
こうして、羽鳥の夜は更けていった。
堀の水は絶えず巡り、免状の番号は整然と続き、城の石垣は静かに積み上がっていく。
それらすべてが、人々の信と秩序を紡ぎ出す紐帯となり、常陸から日本を包み込んでいた。
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