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119話:女たちの商い—農の財布

梅雨入り前の六月、羽鳥城下には活気が満ちていた。堀を渡る風は初夏の匂いを運び、通りには女たちが列をなし、手に免状を掲げて市場へと急いでいた。


 「次の方、免状を」

 帳簿役が声をかけると、農家の女房が板紙を差し出す。そこには大きな通し番号と常陸藩の印が押されている。


 「番号、四三二一。確かに」

 記録役が墨を走らせる。女房は胸を張り、籠の中の粟や布を示した。

 「売上は現金にて三分。これで子どもの薬代が賄えます」


 列に並ぶ女たちは、免状を手にした誇らしげな顔をしている。藩が導入した女性小売免状はついに一万件を突破し、村々の小さな財布が確かに市場を潤しはじめていた。



 市場の一角には、七棟並んだ新しい檸緑工房が白く輝いていた。石鹸や薬油を製造し、女商人たちに卸すための施設である。


 中では大釜をかき回す音が響き、灰汁と油が泡を立てていた。若い女工たちが手際よく棒を動かし、乾燥棚には石鹸の型がずらりと並んでいる。


 「ここで作られた石鹸は免状を持つ女たちに渡り、村へと流れる。値も札も統一し、秩序として流通するのだ」


 藤村が説明すると、傍らの慶篤は深く頷いた。

 「藤村様……つまりこれが農と商を繋げる仕組みなのですね」

 「その通りだ。農の余りは女の手に渡り、女はそれを現金に変える。家の銭箱が満ちれば、村全体の財布が潤う。これが農の力を守る道だ」


 慶篤は帳簿を写し取り、真剣に目を走らせた。その横顔には、藩主としての自覚が宿りつつあった。



 一方、免状管理所では藤田小四郎が机に向かい、通し番号の照合を監督していた。


 「小四郎様、この印影が浅うございます」

 書役の声に、小四郎は札を手に取り、わずかな歪みを見抜いた。

 「……偽造だな」


 彼はためらわず火鉢に投げ入れる。紙は燃え上がり、灰となって舞った。

 「偽造は即焼却。帳簿からも削除せよ」


 そのきっぱりとした声に、場の空気が張り詰めた。


 見ていた昭武が感嘆を込めて言う。

 「小四郎殿は、剣より帳簿の方がよほど鋭いですね」


 小四郎は肩を竦め、墨で汚れた指を拭った。

 「剣は一人を斬る。帳簿は百を救う。免状は村の命を記す紙だ」


 その言葉に、若い書役たちは一斉に背筋を伸ばした。



 羽鳥城の広間に招かれた十数名の女商人代表は、色鮮やかな着物で並び、深く頭を下げた。


 「免状をいただいてから、銭箱が減らなくなりました」

 「夫に頼らずとも子に粥を食べさせられます」

 「檸緑石鹸は評判で、隣村からも買いに来ます」


 女たちの声は力強く、誇りに満ちていた。


 藤村は一人ひとりを見渡し、静かに告げた。

 「免状は藩が施したものではない。お前たちが汗を流し、数字を積み上げた証だ。胸を張れ」


 女たちは顔を上げ、その目に光を宿した。



 その夕刻、京からの早馬が駆け込んだ。届けられた文には、震えるような墨でこう記されていた。


 ――和宮様、ご出産。男子、御名を「慶明」と。


 広間にどよめきが広がり、藩士たちの顔に喜びが浮かんだ。


 慶篤は目を輝かせ、声を震わせた。

 「これで御台所に新しい命が……」


 藤村は深く頷き、静かに言った。

 「義信、久信、そして慶明。新たな命が続くなら、我らはそのゆりかごを決して荒らさぬようにせねばならぬ」


 障子の向こうでは工房の煙が立ちのぼり、市場から女たちの威勢のいい声が響いていた。

 それは新しい秩序の胎動であり、農の財布を握る女たちが国の未来を動かす音でもあった。

六月の陽射しはじりじりと石を焼き、羽鳥城の工事現場には熱気と汗の匂いが立ちこめていた。巨石を吊り上げる掛け声と槌の音が交錯し、城下まで響く。石工たちが息を合わせて綱を引き、石垣の上に花崗岩を据えるたび、地面が震えたように感じられた。


 藤村は櫓の上からその光景をじっと見下ろしていた。夏の日差しのなかで、白い直垂の裾が風に揺れる。隣には渋沢が控え、帳簿を手にして数字を追っている。


 「石材の搬入、予定より五日早いな」

 藤村が低く言うと、渋沢は筆を走らせながら頷いた。

 「はい。費用は二千八百両、予算の範囲内に収まっております」


 藤村は満足そうに視線を戻し、今度は慶篤へ声をかけた。

 「慶篤、これも監査の演習だ。現場と帳簿、数字に食い違いはないか」

 緊張気味の慶篤は、手元の帳簿と石材の山を交互に見比べる。

 「……数は一致しております。間違いありません」

 「よし。それでよい。数字を疑うのではない。数字で確かめるのだ」


 若き藩主の真剣な横顔を、藤村は目を細めて見つめた。


 午後になると、広間に移り監査の稽古が始まった。主座に慶篤、帳簿を抱えて渋沢と小四郎が並び、藤村は腕を組んで見守る。障子の外には工事場の掛け声がまだ遠く響いていた。


 「六月、女小売免状からの収益は四千五百両」

 小四郎の声は落ち着いており、余白に押された朱印がきちんと揃っていた。

 「市場の現金流通は安定し、粗利は〇・四五万両。千両を羽鳥城の石垣工事に充て、八百両を檸緑工房に」


 慶篤は筆を取り、確認の印を記す。

 「残りは?」

 渋沢が答えた。

 「基金に積み立てております。会津藩への債務返済に充てるため、四半期ごとに五万両。六月より実施済み」


 広間に一瞬、沈黙が落ちた。誰もがその数字の重みを知っていた。会津の負担を減じることで、藩の秩序がいよいよ固まってゆく。


 慶篤は深く息を吐き、机の上の帳簿を見つめながら呟いた。

 「数字が藩を救う……」

 藤村はその言葉を受け、静かに告げる。

 「剣が国を守ると思うか? 剣は人を斬るだけだ。帳簿は百を救い、千を養う。勘定は剣より強い。忘れるな」


 若い瞳にその言葉は深く刻まれ、渋沢と小四郎も無言で頷いた。


 夕暮れ時、藤村は城下の市場を歩いた。女たちが免状を掲げて店を広げ、子どもたちが笑い声をあげて駆け回る。檸緑石鹸の白い塊を抱えた女商人が、通りすがる客に声を張る。

 「石鹸はいかが! 檸緑の香りで汚れも病も落とす!」


 夕陽に染まる工房の煙突から、白い煙がゆらゆらと立ち昇っていた。藤村は立ち止まり、その光景を見つめる。石垣を積む音と、女たちの笑い声と、帳簿の数字。そのすべてが織り重なり、ひとつの国を形づくっていく。


 「秩序は剣で守るものではない。人と数字で紡ぐものだ」

 思わず口から洩れた藤村の言葉に、後ろを歩いていた渋沢が深く頷いた。


 日はすでに暮れかけ、街灯に火がともされ始めていた。工事場からの槌音も次第に遠のき、夜の帳が城下を包もうとしていた。

夕暮れの城下は、まだ活気に満ちていた。行灯の灯りが通りを柔らかく照らし、女たちは免状を懐から取り出し、朱印を受けては小さな銭袋を腰に収めてゆく。


 「きょうも銭が揃ったよ」

 「これで子どもに白米を食べさせられるね」


 銭袋の音が鳴るたびに、笑いが広がった。免状を手にした女たちの姿は、町の血を巡らせる細い血管のように見える。藤村は通りの端でそれを見つめ、静かに頷いた。


 


 その夜、羽鳥城の奥御殿。篤姫が正室として控えており、女中に指示を飛ばしていた。几帳の向こうから子の泣き声が聞こえると、篤姫は落ち着いた声で告げる。


 「お吉を呼んでまいれ」


 ほどなくして現れたのは側室のお吉だった。腕には久信を抱き、義信も傍らで眠っている。母のような柔らかい眼差しで子らをあやすお吉を、篤姫は静かに見守っていた。


 「元気なこと。――藤村様、この子たちはよく育ちましょう」


 篤姫の声音には、嫉妬も憎しみもなかった。むしろ、正室として家を守る覚悟と、血を繋いでくれる側室への感謝が滲んでいた。


 藤村は二人の姿を前に、深く頭を垂れた。

 「姫のお心に、ただ感謝あるのみ」


 


 小さな灯火の下で、藤村は子らに巻物を読み聞かせた。義信はぱちぱちと目を瞬かせ、久信は眠たいのに布団を蹴る。


 「むかしむかし、倉には米だけでなく、人の“約束”が詰まっていた……」


 お吉は赤子の手を藤村の指に触れさせ、笑みをこぼした。

 「ほら、この子たち、ちゃんと聞いておりますよ」


 篤姫はその光景を見つめながら、低く呟いた。

 「この家に、二つのゆりかごが並ぶ日が来るとは……」


 その言葉には、未来を託す安堵と、母としての静かな誇りが滲んでいた。


 


 夜更け、城の石垣工事はまだ続いていた。松明が積み上げられた石を照らし、石工たちが最後の調整に励んでいる。


 「もう遅い、帰れ」

 藤村が声をかけると、石工は笑った。

 「石は熱いうちに機嫌を取らねえと、翌日はぐずりますんで」


 「人の機嫌は銭で、石の機嫌は水か」

 藤村の言葉に、石工は照れ笑いを返す。


 地下を流れる水路がひんやりと音を立てていた。眠らぬ水が、城を静かに支えている。


 


 その音に耳を澄ませながら、藤村は胸の内で誓った。

 ――正室と側室、二つの器に育まれる命を、必ず守らねばならぬ。

 ――そして石と水のように、藩の基を固めねばならぬ。


 夜空には淡い月が昇り、羽鳥の町と城を同じ光で照らしていた。

梅雨の雲が低く垂れこめ、羽鳥の港は湿った潮の匂いに包まれていた。岸壁では兵船の帆がゆっくりと揚がり、掛け声が響く。その声を背に、藤村は桟橋に立っていた。


 西郷隆盛が歩み寄る。常陸藩の羽織に身を固め、瞳は烈火のように光っている。

 「藤村様、朝鮮沿岸での摩擦、いよいよ看過できませぬ。漂着民が囚われ、帰還を拒まれております」


 藤村は腕を組み、黙って海を眺めた。波が砕ける音だけがしばしの間を埋める。


 白衣を翻して大村蔵六が進み出た。

 「急くは得策にあらず。朝鮮の沿岸は疫と飢饉が絶えず、治安は乱れています。兵を出すにしても、まず補給と衛生を整えねば、こちらが病に倒れます」


 藤村は二人を見やり、低く言った。

 「よかろう。西郷、そなたに幕府軍の一部と常陸軍を任せる。ただし独断は許さぬ。必ず報告と数字を立て、秩序を守れ」


 西郷は片膝をつき、拳を握りしめて答える。

 「御意。命を懸けて務めます」


 「蔵六を参謀に付ける。兵の配置、補給、衛生……理で律し、無益な血を流すな」


 大村は眼鏡越しに藤村を見据え、頷いた。

 「承知しました。胆力と理智、両立させましょう」


 


 軍議が終わると、西郷はすぐに陣笠の将を呼び集め、指示を飛ばしていった。兵らは太鼓の合図に従い、港の広場で整列を繰り返す。大村はその横で算盤を操り、兵糧や薬品の分配を計算した。


 藤村は遠巻きに見守りながら思った。――剣だけでは国を守れぬ。胆力と理智、そして数字が秩序を支えるのだ。


 


 夜、櫓に立てば港の灯が星のように瞬き、海鳴りと太鼓の響きが交じり合う。渋沢が傍らで帳簿を繰り、囁く。

 「軍費は前期余剰から賄えます。ただし長引けば財は尽きます」


 藤村は視線を港に向けたまま答えた。

 「だからこそ西郷と蔵六を組ませた。胆力が暴走せぬよう理が導く。理が迷えば胆力が突き動かす」


 渋沢は筆を置き、藤村の横顔を見つめた。

 「……秩序は守られましょう」



 その時、城下の方角からかすかな歌声が届いた。母が子をあやす子守歌である。


 港で武が整えられ、城下で命が育まれる。その両方を守るためにこそ秩序はある――藤村はそう胸中で呟いた。


 港の兵船が波を蹴り、灯を残して闇に消えてゆく。藤村はその光を見送りながら、静かに拳を握った。


 「秩序とは、家を守り、町を守り、海を越えて民を守ることだ」



 雲間から差した月光が港を照らし、戦の予兆と未来の希望を同時に映し出していた。

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