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14話:志、ふたたび交わる

仮設町の一角に設けられた空き地には、午前の陽射しが穏やかに降り注いでいた。そこに集まった十数人の子どもたちは、風に煽られながらも、地面に広げた紙を真剣な顔で見つめている。


 「これは“算術”というんだ。物の数を数えたり、比べたりするための知恵だよ」


 しゃがんだ吉田松陰が、小石をいくつか並べ、子どもたちに問いかけた。


 「ここに石が五つあるね。じゃあ、ここにもう三つ置いたら、全部でいくつになるかな?」


 「はち!」


 「そうだ、よくできたね」


 笑顔を浮かべた松陰は、次の瞬間、ふと真顔に戻った。


 「この“八”という答えも、誰かが教えてくれなければ、分からなかっただろう? だからこそ、学ぶというのは“誰かに教わる”だけじゃない。“誰かのために学ぶ”こともあるんだよ」


 子どもたちは一様に目を丸くして、じっと松陰を見つめた。


 その様子を、数歩離れた場所から見つめる青年がいた。名は楢崎敬三。かつては上士の家に仕えた若侍でありながら、家が傾き今は町人に近い身分として生活していた男だ。


 「……子どもに、ここまで話すとはな」


 敬三の隣には、同じく若い藩士・相良信近の姿があった。信近は文武両道を誇る誠実な青年で、どこか晴人に似た穏やかな眼差しを持っていた。


 「言葉じゃない。あの子たちの目を見ろ。誰よりも、学びに飢えている。心から何かを得たいと思っているんだ」


 敬三が言葉を呑んだ。


 その瞬間、二人の背後から声がかかった。


 「お二人も、どうです? 一緒に数を数えてみませんか?」


 声の主は晴人だった。炊き出しの合間を縫って駆けつけたようで、額にはうっすらと汗が浮かんでいた。


 「俺たちが? 冗談じゃない。今さら子どもに混じって……」


 敬三は首を振ったが、信近は少しだけ頷いた。


 「学ぶということに、年は関係ないのでは?」


 晴人は笑った。


 「まったく、その通りです。むしろ、変わりたいと思った瞬間から、人は新しくなれると思ってます」


 その言葉に、敬三も苦笑いを浮かべていた。


 「……まいったな。藩校では“教える側”だったんだがな。子どもに学び直しとは」


 「俺も似たようなもんですよ。でも、いざ外から見れば、常識も思い込みも全部通用しない。もう一度、学び直してみようと思ったんです」


 晴人の真剣な眼差しに、敬三は少しだけ頷いた。


 陽が少し傾いた頃、子どもたちの勉強会は自然な笑い声に包まれていた。松陰は最後にこう語った。


 「皆、今日はよく頑張ったね。でも、学びは終わらない。それどころか――これからが始まりなんだよ」


 その言葉に、子どもたちは声をそろえて「はい!」と答えた。


 やがて松陰は立ち上がり、晴人の元へと歩み寄った。


 「……やはり、水戸という場所は志の土壌に恵まれている。子どもたちがまっすぐだ。民が飢えれば、まず施しを。次に語るべきは“道”だと、改めて感じました」


 「ありがとうございます。俺も、同じ気持ちです。彼らが変われば、町が変わる。町が変われば、国も変わる。そう信じています」


 松陰は静かに頷いた。


 「いつか……いや、いずれ必ず、水戸で塾を開きたいと思っています。あの子たちが大きくなったとき、心の道標になれるように。――それが私にできる、志の形です」


 晴人は目を細めた。


 「そのときは、俺も何か力になりますよ。場所でも、人でも、手配できることがあれば」


 「ありがたい」


 松陰はその言葉を噛みしめるように頷き、目を遠くにやった。


 すると――。


 「おお、これが例の“民の城”か。面白いじゃないか」


 陽炎の立つ先、仮設町の入口に立つ一人の男が声をあげていた。


 褐色の外套に、鮮やかな羽織を羽織り、どこか余裕ある笑みを浮かべている。


 佐久間象山である。


 晴人と松陰が顔を見合わせた瞬間、空気がまた少しだけ、動いたように感じられた。

佐久間象山の登場は、町に一瞬の緊張をもたらした。


 革靴の音が地面を打ち、まるで軍使のような足取りで彼は仮設町の通りを進んでいた。周囲の人々がちらちらと視線を向けるなか、象山は眉ひとつ動かさずに町の構造を観察している。


 「なるほど……これは“計画”の匂いがする」


 道の幅、小屋の配置、水路の引き方、炊き出し場の動線まで。象山の眼光は一つひとつの構造を見逃さず、まるで戦場の陣を読むかのごとく頭の中で構築していく。


 「象山先生、この町は私たち皆で築きました。晴人さんの構想をもとに、町人も農民も手を携えて……」


 説明しようとする松陰の言葉を、象山は手で制した。


 「見れば分かる。だが、“構想”という言葉が引っかかる。誰が、この全体像を描いた?」


 松陰の視線が、自然と晴人へと向かう。東湖もまた、口を開かずに彼を見た。


 晴人は一歩前へ出て、深く一礼した。


 「この町を立て直すために、いくつかの案を出しました。それが皆の手で形になっただけです」


 象山はじっと晴人を見つめたまま、数秒の沈黙の後に口を開いた。


 「君が“あの晴人”か。……ふむ、思ったより若いな」


 軽くあしらうような物言いだったが、その瞳には確かな関心が宿っていた。象山は手を後ろに組み、集会所の柱にもたれる。


 「この町には、“思想”の匂いがする。東湖の手ではなく、民の手から生まれた思想。松陰が夢想する“行動する学問”だな」


 松陰がわずかに頬を紅くしながら口を開いた。


 「私も、ここで学ばせてもらっている最中です。子どもたちと触れ合うなかで、塾を作りたいという想いも強まりました。学びは、希望になりますから」


 「塾、だと?」


 象山が目を細めた。


 「それは幕末の禁忌にもなりかねんぞ。何を教えるつもりだ?」


 「世の中を読み、善をなすための知恵です。誰かを倒すのではなく、守るための知識を」


 静かに、しかし迷いのない言葉だった。松陰の声は、晴人にも届いていた。


 彼は、ふと数日前の政次郎の言葉を思い出した。


 ——勉強って、誰かを助けるためにするんですね。


 学びの意味とは何か。晴人の胸にも、その問いがゆっくりと根を下ろし始めていた。


 「君の知識の源はどこにある? 医術、建築、統計、経済……どれも本から得られる水準を超えている」


 象山の問いに、晴人は苦笑を浮かべた。


 「時代に合わない知識だとは、よく言われます。けれど、命を守るためなら、どこで覚えたかは関係ありません」


 「ほう……つまり、秘匿するわけか。それもまた、興味深い」


 象山の目が、試すように細められる。そのとき、子どもたちの声が外から聞こえた。


 「先生! ほら、今日も皆来てるよ!」


 勉強会が始まったのだ。板の間に座り、小さな手で筆を握る子どもたち。松陰は立ち上がり、湯飲みを卓に戻してから、振り返った。


 「私も行ってきます。……象山先生、どうか見ていってください。言葉では伝えきれない“今”が、そこにあります」


 象山は応じず、黙ってその背中を見送った。


 その横顔を、東湖がじっと見つめる。


 「象山、お前のような男が、この町を見て何を思った?」


 しばしの沈黙のあと、象山は独り言のように呟いた。


 「……もし、ここが焼かれるとしたら、それは“希望”が怖いからだろうな。幕府が恐れるのは、武器じゃない。思想だ」


 静かな声に、東湖は眉をひそめた。


 「それでも、俺たちは止まれんよ」


 「……ああ。だが、“進みすぎた思想”は、やがて血を見る」


 象山は遠くを見つめたまま、初めて表情に翳を落とした。

子どもたちの声が、風に乗って遠くまで響いていた。


  「せんせい、ここの算術、どうしてもわかりません!」


  「ははは、よし、ではもう一度いっしょに考えてみようか。いいか、数というのは……」


  仮設の長屋裏に設けられた即席の“塾”には、板切れと小石を使った簡素な黒板と、並べられた木の切り株が教壇代わりだった。松陰は膝をつき、子どもと目の高さを合わせながら熱心に言葉を紡いでいた。


  その姿を、晴人は少し離れた場所から黙って見つめていた。


  「あれが……吉田松陰、か」


  隣で立っていたのは、佐久間象山だった。煙管から細い煙をくゆらせながら、無言で光景を見つめる彼の眼には、微かな驚きと感嘆が混ざっていた。


  「まさか、あの松陰が子どもと這いつくばって……時代が変わるかもしれんな」


  晴人は微笑を浮かべた。


  「学びが人を変え、人が町を変える……そう信じています」


  象山は一瞥を送り、口の端をわずかに吊り上げた。


  「君の噂は、江戸まで届いているぞ。藩主の庇護で好き放題している男がいると」


  「好き放題……ですか」


  「だが、それを見に来てみれば、どうだ」


  象山は片足を踏み出し、砂埃を立てながら子どもたちの元へ近づいていった。


  「おい、坊主。この男から何を習っている?」


  「えっと……世界の地図とか、鳥の名前とか、あと――」


  「“世界の地図”?」


  象山の眉が跳ね上がった。松陰が苦笑しながら立ち上がり、肩をすくめた。


  「先生の話は、少し変わっているんです。だって、誰も知らないような話を、当たり前のように教えるんですから」


  「たとえば?」


  「遠い西の国では、海を越える船に“鉄”の船がある、とか」


  「……鉄の船?」


  その言葉に、象山の視線が鋭く晴人へと向けられた。


  「君、何者だ?」


  晴人はほんの一瞬だけ言葉に詰まり、それでもゆっくりと答えた。


  「私は……知っているだけです。過去に起きたこと、これから起こるかもしれないこと。それが、誰かを救う知識なら、伝える意味があると思ってます」


  「その“知識”が、本当に未来に繋がるものなら――君は、剣よりも強い武器を手にしているということになるな」


  象山の声は低く、しかしその奥には確かな評価の色があった。


  「私は、もう一度この地を視る。学びが芽吹く町。……いや、“国家”の原型になるかもしれん」


  そう言い残すと、象山は踵を返して歩き出した。松陰が子どもたちに手を振ると、幾人かが声を揃えて「せんせい、また来てね!」と叫んだ。


  その声の明るさに、晴人の胸に何かが灯った気がした。


  ――この道で、いいんだ。


  そう呟くように、心の中で思った。

仮設町の一角、陽の傾き始めた空の下で、佐久間象山は静かに腰を下ろしていた。そこは町の中央にある広場のような空間で、かつては打ち捨てられた空き地だったが、今では子どもたちの遊び場や見世物小屋、あるいは露天の語らいの場として、町の“心臓”のような場所となっていた。


  「……これが“民の城”か」


  呟いた象山の眼差しは、どこか懐かしさを含んでいた。


  「文字も剣も、すべては民のために在る。そう唱えながら、私はどこかで民の声を置き去りにしていたのかもしれんな」


  傍らにいた吉田松陰が目を細める。


  「先生……珍しく弱気ですね」


  「弱気ではない。誤りを認めたまでだ」


  象山の視線の先では、晴人が若い藩士たちに囲まれ、何やら地図のようなものを広げて説明していた。


  「町の構造を再設計するにあたり、排水路と風の通り道を意識しています。ここに樹木を配置して、日差しを防ぐと同時に、夏場の疫病も防げる」


  「うむ……それで、ここは?」


  「ここは子どもたちのための学び舎にします。教えるのは僕じゃありません。子どもたち同士で教え合う“共育”の場です」


  若い藩士たちは一様に感嘆の声を漏らし、紙に筆を走らせていた。


  その様子を眺めながら、松陰が呟いた。


  「……こういう男が、一つの国を変えるのでしょうか」


  「まだ“国”と呼ぶには小さすぎるがな。だが、見誤ってはならん。時代は確かに、こういう場所から動き出す」


  象山の言葉は、風のように低く、しかし重かった。


  やがて広場の一角で、晴人が手を振った。


  「先生、こちらに」


  象山と松陰が近づくと、晴人が立てた小さな板看板を指差した。そこには炭でこう記されていた。


  【くにを まなぶばしょ】

  ――なる町塾、まちじゅく。


  松陰が目を見張る。


  「……これは、あなたが?」


  「いえ、政次郎が名付けました。『国を学ぶ場所』だと」


  松陰はしばし無言で板を見つめた後、頷いた。


  「僕も、いずれは塾を開きたいと思っています。自分の塾で、多くの志を育てたい。人は学びで変わる。そう信じられる今が、幸せです」


  晴人がその言葉に返すよりも早く、象山が口を開いた。


  「塾か……奇しくも、ここが“最初の一歩”となるのかもしれんな、松陰」


  松陰は不意に象山を見た。その眼差しに宿るものは、師弟としての敬意と、友としての誇りだった。


  「先生、あなたがそう言うのは珍しい」


  「私は、過去にばかりこだわりすぎた。未来は、きっと違う形でやってくる」


  晴人がそっと尋ねる。


  「お二人は……これからどうされますか?」


  象山は口元を拭いながら、わずかに笑った。


  「私は江戸へ戻る。幕府の連中にも、これを伝えねばなるまい。……ただ、伝えてどうなるかはわからんがな」


  「私は……一度、萩に帰ります」


  松陰はまっすぐに晴人を見た。


  「でも、また戻ってきます。この町で、“志を灯す火種”を拾ってしまったから」


  その瞳には、確かな熱が宿っていた。


  そして、夕暮れ。


  象山と松陰の一行が馬に乗って町を去る時、仮設の町中に人々が集まっていた。晴人と政次郎、東湖、そして子どもたちが手を振る中、松陰は馬上から深く頭を下げた。


  「ここで学んだ日々は、必ず未来の力になります。――ありがとうございました」


  その声に、町のあちこちから拍手が巻き起こる。


  誰もが言葉を交わしたわけではない。


  けれども、この町に宿る「志」が、人の心に届いていた。


  晴人は、空を見上げた。


  夕日がゆっくりと町を照らし、静かな夜の始まりを告げていた。

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