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118話:倉と城と海—備えの秩序

鎌倉の海は、春の名残を湛えながらも、すでに初夏の光を帯び始めていた。砂浜を渡る潮風は湿りを含み、潮の香りとともに新緑の匂いを運んでくる。相模湾を望む浜辺には、白木の板塀で囲まれた建物群が立ち並んでいた――養生館である。


 その朝、藤村は渋沢、小四郎、慶篤、昭武を伴い、新棟を視察に訪れていた。入口には「養生館 温冷交代浴場」と墨痕鮮やかに記された札が掲げられている。まだ新しい杉材が陽に照らされてほのかに香り、近くの松林には兵や町人が列をなしていた。兵の中には片足を引きずる者、肩に包帯を巻く者、咳をする者なども混じる。誰もが、この「新しい療法」とやらに半信半疑ながら期待を抱いているようだった。


 「温と冷を交互に浴する……ふむ、いささか荒療治の匂いもするな」

 慶篤が訝しげに呟く。


 「荒療治に見えても理があるのです」

 と答えたのは大村蔵六だった。藤村の招きで常陸に仕えて久しい彼は、白衣を翻しながら自信ありげに語る。

 「筋を伸ばし、血の巡りを整える。これにより戦で傷ついた者も、ただ養生するより早く立ち直るでしょう。西洋医学でもようやく体系化されてきた手法です」


 兵の一人が湯気立つ木桶に浸かり、赤ら顔で上がると、すぐ脇の冷水桶に肩まで沈んだ。ぎゃっと声を上げ、見ていた町人たちがどっと笑う。だが兵は歯を鳴らしながらも再び温浴に戻り、三度目に冷水を浴びる頃には顔つきが引き締まっていた。

 「なんだか体が軽い……」

 彼の言葉に、周囲がざわめき、待っていた他の兵たちが次々と桶に向かう。


 藤村はその様子を見届け、ふと列の後ろにいる慶篤へ目をやった。青白い顔にうっすら汗が浮かんでいる。幼少から病に悩まされてきた彼の身体は、いまも脆さを抱えている。


 藤村は歩み寄り、声を低くして語った。

 「慶篤、病を遠ざけるには三つの備えがある」


 皆の耳も自然と集まり、兵たちも静まり返った。


 「一つは清潔だ。汗を流したら必ず手を洗え。桶の水だけでなく、石鹸を使うのだ。

 二つは節度。腹八分で箸を置け。食を過ごせば腹を壊し、血を濁らせる。

 三つは休養。疲れを感じたら眠れ。夜ふかしは敵だ。これだけで、命は十年は延びる」


 兵士の目が丸くなり、町人たちが互いに囁き合う。現代知識を噛み砕いた言葉は、彼らにとって新鮮な響きだった。


 藤村はさらに続ける。

 「慶篤、お前は体が弱い。だが弱いからこそ、この習いを守れば誰よりも長く生きられる。

 剣も財も城も、命あってこそ守れるのだ」


 慶篤は胸に手を当て、静かに頷いた。

 「……心得ました。弱き身ゆえに、まず己を守ることが国を守ることにつながるのですね」


 その声には、これまでにない決意の色が宿っていた。



 午後、藤村は館内を歩き、各棟の工事進捗を見て回った。療養室には新たに寝台が並び、陽当たりの良い縁側からは海が望める。そこでは足を失った兵が木槌で木片を削り、義足の試作に取り組んでいた。若い大工が指導につき、兵の希望に耳を傾けている。

 「戦で失ったものを、また作り出す……これもまた養生だな」

 藤村が呟くと、大工が振り向いて頭を下げた。

 「はい。兵の声を聞けば、形は変わっても再び歩ける道が見えます」


 館の片隅では紙札に通し番号を印刷する作業も始まっていた。印紙の技術を応用し、養生館の利用証にも同じ仕組みを導入したのだ。番号を付すことで帳簿との照合が可能となり、不正の防止にもつながる。小四郎が監査役として見回り、使い残しの札を一枚一枚数えている。

 「誤差なし。これなら会計は狂いません」

 彼の冷静な声に、作業する若者たちは一層緊張して札を積み重ねた。



 夕刻、藤村一行は養生館の庭に出た。海からの風が松林を揺らし、白い砂を舞い上げる。兵たちが交代浴を終えて体を拭き、笑顔で戻ってくる姿が目に映る。

 「戦の傷を癒し、再び立ち上がる。その仕組みをここに築いたのだ」

 藤村はつぶやき、空を仰いだ。そこには鯉のぼりが泳ぎ、子らの笑い声が響いていた。


 「この養生館は城や倉と同じだな」

 慶篤がぽつりと言った。

 「兵を守る器、民を守る器。備えがあれば、国は揺らがぬ」

 藤村は目を細め、彼の肩を軽く叩いた。

 「そうだ。城も倉も、そしてこの養生館も――すべては未来を備える器なのだ」

五月の空は晴れ渡り、羽鳥城の白壁に初夏の陽光がまぶしく反射していた。堀には新たに引かれた水路が清らかに流れ、冬の濁りを洗い流したように透きとおっている。完成した地下水路の吐口からは絶え間なく水が落ち、涼やかな音を響かせていた。


 「これで城は渇かぬ」

 藤村は水路に耳を澄ませ、胸の奥で静かに頷いた。火災や籠城の折にも、この水は城を守るだろう。


 小四郎が巻物を抱えて駆け寄ってきた。

 「地下水路の掘削費、総額八千両。予定より五百両の節減です。土砂を運ぶ際に、商人へ払い下げて収益を上げたのが効きました」

 藤村は目を細めた。

 「数字で見せてこそ、人は納得する。これで城の防衛も、会計も守られる」



 その日の午後、羽鳥城の評定の間には重々しい空気が漂っていた。机上には分厚い帳簿が並び、渋沢の筆が走っている。


 「第二四半期に支払うべきは、海軍償還十五万両と、横須賀工廠資金十五万両。合計三十万両にございます」

 渋沢は筆を止め、顔を上げた。

 「払わねば信を失う。だが三十万両は決して軽くない額です」


 沈黙を破ったのは慶篤だった。彼はこの日のために行政演習を積み、答弁の稽古を繰り返してきた。緊張を押し隠すように、胸を張って言葉を紡ぐ。

 「専売収益が十八万両。加えて関税収入が二百四十万両の見込み。衛生費へ二十八万五千両を振り分けたとしても、余力は残る。三十万両は執行可能です」


 堂々とした声に、一座の目が集まる。

 藤村は口元にかすかな笑みを浮かべた。

 「よく調べたな、慶篤。数字で答えを導けば、誰も揺るがせぬ」


 老臣のひとりが心配そうに口を挟む。

 「だが、三十万両を一度に払えば手元が痩せるのでは」


 藤村は机上の帳簿を指先で叩いた。

 「手元を痩せさせてでも信を守るのだ。横須賀は国の牙となる。海軍債務の償還は、外国の信を繋ぐ鎖だ。これを怠れば、築いた秩序は砂上の楼閣となる」


 渋沢が頷き、朱で「Q2支払済」の印を帳簿に記す。その赤は血判のように鮮烈で、重みを帯びていた。



 翌日、藤村は江戸城へ向かった。城下を抜けると、すでに巨大な足場が空に突き出している。二期工事の衛生棟の屋根が組み上がり、板葺きの上に新しい避雷針がそびえ立っていた。


 「これが……避雷針ですか」

 昭武が目を丸くして見上げる。


 「雷を地に逃がす鉄の道だ」

 藤村は応じ、指で天を指した。

 「火薬庫と並ぶ場所に建つ衛生棟が、落雷で焼ければ一瞬で城は死ぬ。だが避雷針があれば雷は地に吸い込まれる」


 大工頭が駆け寄り、深々と頭を下げた。

 「雷を恐れぬ城、これで出来上がります」


 藤村は空を仰ぎ、夏雲を眺めた。いつ落ちてもおかしくない稲妻を思い浮かべ、その脅威を数字と鉄で封じ込めたことに満足した。



 その夜、羽鳥城に戻った藤村は、小四郎の監査演習を見守った。帳簿を広げた小四郎は、専売収支を一行ずつ指でなぞり、誤差を探していく。


 「……昨日の印紙売上、七百二十三文。支出は紙代と人足賃で五百文。差し引き二百二十三文。帳簿と一致しました」


 冷静な声に、藤村は頷いた。

 「数字を疑え。疑い尽くした先にこそ真実がある」


 小四郎は額に汗をにじませながらも、視線を崩さなかった。その姿に、藤村は若き日の自分を重ねる。数字を相手に戦う術を、次代へと確かに伝えていると実感した。



 翌朝、慶篤が行政演習の報告に来た。声は少し掠れていたが、瞳には力が宿っていた。

 「昨日の評定で申したこと、改めて復習しました。費用と収入を並べ、余剰を割り振る。この仕組みを守れば、政は揺らぎません」


 藤村は彼をじっと見つめ、静かに言った。

 「よく学んだな。病に勝つのも政に勝つのも、習いと数字だ。お前がこの習いを守り続ければ、若くして命を落とすことはない」


 慶篤は深く息を吸い込み、力強く頷いた。その頬にはこれまでになかった赤みがさしていた。



 夜更け、藤村は堀端を歩いた。水路を流れる水は絶え間なく音を立て、城の白壁に月光が落ちている。地下を走る水脈は、見えぬところで城を支えていた。


 「金も水も、人の目に見えぬところで国を養う。備えとはそういうものだ」


 藤村は立ち止まり、暗い天を見上げた。江戸城に聳えた避雷針が脳裏に浮かぶ。雷をも制する器――それこそが未来の国を守る秩序の象徴であった。

羽鳥城の奥御殿。囲炉裏の火に照らされ、二人の赤子が母の膝に抱かれていた。義信と久信――兄弟はまだ言葉を持たぬ。だが父の声を聞き分けるかのように、巻物を開いた藤村の方へ小さな手を伸ばす。


 「むかしむかし、大きな倉があった……」

 藤村は柔らかい調子で物語を紡ぐ。義信は声に合わせて笑い、久信はぐずり声をあげてはお吉の胸に顔を埋めた。


 お吉は微笑みながら、赤子をあやしつつ言った。

 「まだ何も分からなくても、きっと父上の声は胸に残るはずにございます」


 藤村は赤子の頬に指先を置き、静かに応えた。

 「この声が届くなら、それでよい。城も倉も国も、結局はこの小さな命を守るためにある」


 焔がぱちぱちと鳴り、赤子たちの寝息と重なって、室内にやわらかな調べを刻んだ。



 翌朝、羽鳥港。潮風に乗って旗がはためき、船出を見送る人々で埋め尽くされていた。三隻の探検船が白帆を張り、台湾へと向かう時を待っている。


 藤村は岸壁に立ち、前に並ぶ三人の藩士を見渡した。坂本龍馬、岩崎弥太郎、陸奥宗光――常陸藩が誇る若き力である。


 「龍馬」

 呼びかけに、龍馬は一歩進み出て、羽織の裾を正した。

 「はい、藤村様」

 「お前が総括だ。心構えを申せ」

 龍馬は背筋を伸ばし、真っ直ぐに答える。

 「漂流民を救い、沿岸を測り、交易の道を探る――まずは人を救うことを第一といたします」

 藤村は微かに口元を緩めた。

 「よし。その心を忘れるな」


 続いて岩崎弥太郎が帳簿を掲げる。

 「資金三千両、船ごとに分帳を設けました。日々の収支を記録し、不足あらば即座にご報告いたします」

 「会計は命綱だ。数字が乱れれば船も沈む。弥太郎、頼んだぞ」


 最後に陸奥宗光が記録簿を抱え、静かに頭を下げた。

 「外交交渉に備え、仏語と英語で日誌を記します。交易の可能性も余さず書き留め、帰国ののち藩に報告いたします」

 「宗光、その眼で海を読み取れ。異国に渡らずとも、記録は国を広げる」


 三人の若者が一斉に膝を折り、港に響く太鼓の合図を待った。



 やがて合図の太鼓が打たれ、縄が解かれる。三隻の船が一斉に帆を上げ、朝日を受けて白く輝いた。

 「出航――!」

 龍馬の声が甲板に響く。船は岸を離れ、波を割って進み出した。見送る町人や農夫、兵士たちが声を揃えて白布を振る。


 藤村はじっとその光景を見つめ、心中で呟いた。

 「海を越えよ、そして秩序を広げよ」


 海風に乗って帆音が響き、やがて船影は水平線の彼方に溶けていった。



 夕刻、羽鳥城の櫓に立ち、藤村は遠く海の方角を眺めていた。背後からは、お吉に抱かれた久信の泣き声が微かに届き、義信の笑い声がそれに重なる。


 「城と倉、そして海。すべてはこの命を守る器だ」


 その言葉は夜風に溶け、月明かりに照らされた羽鳥の石垣へ静かに染み入っていった。

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