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117話:久信の誕生—数字が国を守る

四月。桜の花びらが散り始めた羽鳥の城下に、まだ春の冷気が残っていた。奥御殿の産室は白布に囲まれ、外のざわめきとは隔てられている。


 その奥で、お吉は汗に濡れた顔を枕に伏せ、歯を食いしばっていた。産婆が「もうひと踏ん張りですぞ!」と声を張る。女房たちは湯を運び、手を添え、灯を守る。


 障子の外で藤村は膝を折っていた。普段なら算盤を弾き、どんな難題にも冷静に答える彼も、この時ばかりは無力である。ただ拳を握り、胸の内で「生きろ」と呟き続ける。


 その時――鋭く高い産声が白布の中を震わせた。


 「男児にございます!」


 女房の叫びに、広間の空気が一気に和らぐ。赤子は拳を握り、声を張り上げている。お吉の目尻から涙がこぼれ、唇が震えた。


 「……生まれて、くれた……」


 女房が赤子を抱き、外の藤村のもとに運ぶ。小さな命は熱を帯び、顔は赤く、必死に生を訴えていた。藤村は思わず両手を震わせ、声を詰まらせながらその頬に触れた。



 その時、白衣をまとった和宮が静かに入室してきた。女房たちが驚き、深く頭を下げる。


 「わざわざ……和宮様が」


 和宮は微笑み、赤子を抱き上げた。

 「この子はただの子ではありません。民と政を結ぶ未来の子。だからこそ、私が立ち会うべきなのです」


 柔らかな手で赤子を胸にあやし、そして静かに言葉を紡いだ。

 「この子の名は“久信”といたしましょう。久遠の信を保ち、この国の秩序を守る者となれ」


 お吉は枕に伏したまま涙を流し、藤村は深く頭を垂れた。赤子は泣き声を上げながらも、やがて和宮の腕の中で静かに眠りについた。


 その姿に、広間の誰もがただ息を呑んだ。庶民の母から生まれた子を、朝廷の象徴である和宮が抱き、名を授ける――その光景は新しい秩序の象徴そのものだった。



 その午後、政庁の広間では印紙制度の実演が行われた。机には新しい「たばこ専売印紙」が並び、通し番号と朱色の紋が光を反射していた。


 渋沢が帳簿を掲げる。

 「専売収益は昨年十五万両に対し、本年は十八万両の見込み。粗利三万両の増益です」


 小四郎が収支帳を広げ、真剣な顔で言う。

 「印紙は一枚ごとに番号を記録します。偽造が出れば、即焼却。その際は帳簿に赤字で“焼却”と記し、収支に誤差が出ぬようにします」


 その几帳面な声に、重臣たちは思わず頷いた。


 藤田東湖がうなずき、静かに言う。

 「剣が敵を退けるなら、勘定は混乱を退ける。数字は秩序の剣となる」


 佐久間象山が冷笑気味に口を開いた。

 「だが専売は民の恨みを買いやすい。取り立てが過ぎれば秩序は刃で裂けるぞ」


 藤村は印紙を手に取り、光に透かした。

 「だからこそ数字で示す。公平に、偽りなく。焼くべきものは焼き、残すべきものは残す。それを続ければ、人は信じる」


 赤子の産声がまだ耳に残っているようだった。命を守るのは剣ではなく、秩序であり数字である。その確信が、藤村の言葉に力を与えていた。



 その夜。お吉は産床で眠り、久信は小さなゆりかごで息を立てていた。和宮が残していった「久遠の信」という名が、紙札と共に灯明に照らされている。


 藤村は静かにその字を見つめた。

 「勘定は剣より強し。――この子が生きる世を、数字で守る」


 彼の胸には確かな決意が芽生えていた。

四月の朝、羽鳥城の土塀を越えて鶯の声が響いた。だが城内は鳥の歌よりも石工の掛け声で満ちていた。大天守の基礎工事が始まったのである。


 掘り返された大地には巨大な礎石が据えられ、木組みの櫓から滑車で石が降ろされる。縄を引く百人の力が合わさり、石がゆっくりと穴の底に収まるたび、地がどんと鳴った。


 藤村は工事の端に立ち、図面を広げながら監督に問う。

 「基礎の深さは規定どおりか」

 「はい、七尺を掘り下げ、下層に砂利を敷き詰めました。排水溝も掘り終えております」


 藤村は頷き、泥に濡れた石垣を見上げた。

 「大天守は見栄ではない。城は秩序の象徴だ。基礎が揺らげば国が揺らぐ。土を怠るな」


 工事の合間には、兵や職人たちが桶の水で手を洗っていた。冬から続く衛生施策が、工事現場にも根付いている。縄に触る前に必ず手を清めるその姿に、藤村は静かな安堵を覚えた。



 その午後、羽鳥城奥の広間では財政会議が開かれた。机の上には分厚い帳簿と算盤が並び、朱と墨で記された数字が幾筋も走っていた。


 渋沢が筆を持ち、厳かな声で読み上げる。

 「会津藩の債務四十万両、これを四半期ごとに五万ずつ繰上返済いたします。第一回は今月末、中央基金より支払いを開始いたします」


 会津藩の使者が深く頭を下げる。

 「ありがたき幸せにございます……」


 藤村は机に広げられた基金の巻物を指し示す。

 「返済は情ではない。数字だ。基金に積まれた銀を誰もが確かめられるようにする。透明さこそが秩序を支える」


 小四郎が横で専売収支帳を開き、印紙の番号ごとに収入を記していた。

 「今月の印紙売上、十八万両に達しました。余剰分を基金に繰り入れ済み。焼却印紙二百三十枚、すべて帳簿に記録済みです」


 その几帳面な筆致を、老中たちが感心したように覗き込む。まだ少年ながらも、彼の記録は国を動かす証文となっていた。



 その夜、学問所では三人の若者が机を囲んでいた。慶篤、昭武、小四郎――それぞれの前には課題が置かれている。


 「慶篤、お前は議場での答弁を演じろ。議題は“専売の是非”。」


 藤村の言葉に慶篤は姿勢を正し、堂々と声を張った。

 「専売は一見民を縛るようであるが、公平なる印紙と番号管理により、偽造と争いを防ぐ。結果として民の利益を守るのである!」


 言葉にはまだ粗さがあったが、場を掌握する気迫は確かにあった。藤村は朱筆で紙に「可」と記した。


 次は昭武。机の上には仏語の書簡が置かれている。

 「この契約条文を読み、商談を試みよ」


 昭武は慣れない舌で、しかし確かにフランス語を紡いでいった。聞いていた佐野常民が頷く。

 「多少ぎこちないが、取引の意思は伝わる。外交の言葉を恐れぬ胆力が大切だ」


 最後に小四郎が収支帳を差し出した。

 「本日の印紙収入、帳簿と現物を照合しました。誤差はゼロです」


 淡々とした声。だがその一言がどれほど政を支えるか、皆がよく知っていた。



 日が暮れ、藤村は一人、奥御殿のゆりかごを覗いた。眠る久信の胸が小さく上下し、その息遣いが部屋を満たしている。


 昼間の会計数字と、夜の赤子の寝息――その両方が確かに「国の未来」を支えていた。


 藤村はゆりかごの脇に腰を下ろし、静かに呟いた。

 「剣が国を護るのは一時。だが勘定と秩序は未来を護る。久信……お前が大きくなるころには、この国が数字で立つ世となるだろう」


 灯明の火がゆらりと揺れ、障子に映る影が未来の大天守の姿のように広がっていた。

四月九日。羽鳥城の政庁に早馬が駆け込んだ。馬上の者は泥にまみれながら巻物を差し出す。

 「急報! アメリカ合衆国にて、南軍のリー将軍が北軍のグラント将軍に降伏! 南北戦争、終結!」


 広間に集まった面々はざわめいた。慶篤が息をのむ。

 「……ついに終わったのか」


 佐久間象山が手を組み、沈痛に言った。

 「だが考えよ。四年にわたる戦の果て、彼の国には数百万の銃と砲が余った。欧州商人が買い漁り、やがて東洋にも流れ込む」


 大村蔵六が頷き、巻物を開く。

 「最新式の後装銃も大量に。これが我らの近海に現れれば……均衡は一変する」


 藤村は静かに言葉を継いだ。

 「剣より勘定。まずは数字を見極めよ。武器は必要な分を、帳簿で裏付けて買う。浪費はせぬ」



 四月十四日。再び早馬が到着する。

 「米大統領リンカーン、ワシントンにて暗殺――!」


 広間に沈黙が落ちた。慶篤が青ざめた声を漏らす。

 「戦に勝ちながら、国の舵を失うとは……」


 斉昭が深く嘆息した。

 「剣で勝っても、秩序を保てねば国は乱れる。……我が国も肝に銘じねばならぬな」


 藤村はゆっくりと頷いた。

 「数字と制度こそが秩序を保つ剣だ。印紙の通し番号も、その一つ。偽造を許さず、勘定を明らかにせよ」



 この日、羽鳥政庁の評定は二つの大きな議題を抱えていた。


 一つ目は朝鮮沿岸での摩擦。

 清河八郎が報告を読み上げる。

 「漂流した我が漁民を保護する途中、朝鮮の守兵が砲火を放ちました。死者は出ずとも、このままでは再び犠牲が出ましょう」


 広間がざわめく。慶篤が問う。

 「ならば兵を送るか?」


 藤村は首を振った。

 「兵は最後の策だ。まずは誠意を示せ。西郷――そなたに使節を任ず」


 呼ばれた西郷隆盛が膝を進め、深々と頭を下げた。

 「心得申した。剣は抜かず、腹で語りましょう」


 藤村は頷き、厳しい声で言葉を重ねる。

 「漂流民を救い、交易の端を開くのだ。敵視するな、誠を尽くせ」



 二つ目は余剰武器の扱い。

 象山が力強く言った。

 「買え! 米国の銃は十年先を行く。我らがこれを得れば、欧州にも怯えぬ軍を作れる!」


 しかし大村蔵六は冷ややかに返す。

 「武器は食えぬ。倉に錆びさせれば浪費だ。衛生と兵糧を軽んじて銃ばかり揃えては、国は立たぬ」


 佐野常民も加わる。

 「武器の奔流は戦を呼ぶ。だが最低限の備えは必要だ。帳簿に裏付けを与え、必要な分のみ買うべきだろう」


 皆の視線が藤村に集まった。


 藤村は印紙帳を机に置き、静かに言った。

 「勘定が剣より強い。印紙の通し番号が我らを守るように、武器も数字で制す。……買うとも。ただし基金に基づき、収入の範囲で、必ず数字を添えてだ」


 広間に沈黙が走り、やがて頷きが連鎖した。



 会議を終え、学問所では模擬評定が行われた。

 慶篤は壇に立ち、力強く言う。

 「専売と印紙は民を縛るのではなく、偽造を防ぎ、利益を守る。秩序のためである!」


 昭武は仏語の新聞を読み上げ、

 「“Lincoln shot dead”――欧州は驚愕し、列強は次の一手を狙っています。今こそ日本が誠意を示すべきです」


 小四郎は静かに収支帳を掲げた。

 「今月の印紙収入十八万両。誤差なし」


 その一言に場は引き締まった。剣の代わりに数字が秩序を守る、その姿を若者たちは肌で学んでいた。



 夜更け。御殿に戻った藤村は、眠る久信の寝顔を覗いた。

 「剣が乱れる世にあっても、数字は裏切らぬ。……お前が育つ頃には、勘定で立つ国を見せよう」


 外には春の風が吹き、桜の花びらが舞っていた。

 南北戦争の銃声は遠ざかり、世界に余剰の武器が溢れている。だが羽鳥の灯は揺るがない。

 印紙に刻まれた番号、帳簿に記された数字、そしてゆりかごの小さな寝息――それらがこの国の未来を照らしていた。

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