116話:義信誕生と常陸の未来
春の風が羽鳥の町を包んでいた。まだ肌寒さは残るものの、陽だまりには確かな温もりがあり、通りを行き交う人々の表情にも心なしか明るさが見える。江戸の喧騒とは違い、羽鳥の政庁は凛とした空気をまといながらも、どこか温かな土の匂いを漂わせていた。
政庁の広間には、常陸藩士たちと各地から集まった俊才が顔を揃えていた。藤村晴人はその中心に座り、一枚の契約書を机上に広げる。干芋と梅干しの輸出契約——それは欧州商人が熱望した品であり、契約額は前受金だけで一万八千両にも及んでいた。
「これで横須賀工廠の資金に目途が立ちますな。」
低い声でそう言ったのは大村蔵六だ。冷静な眼差しの奥には、常に未来の軍制を見据える光が宿っている。
「工廠には、兵器庫と火薬庫を備えることが急務だ。」
佐久間象山が続ける。その声には雷鳴のような響きがあった。
「だが、ただ備えるだけでは駄目だ。輸出で得た資金をどう回すか、財政の仕組みを固めねばならぬ。」
藤田東湖が頷いた。水戸学の大家である彼は、政治の根幹を「義」と「学」に置く。
「富は人のために流し、人心を養う。義なくして富を持てば、いずれ腐る。今回の契約金、必ずや人と国を育む礎といたしましょう。」
藤村はその言葉に深くうなずき、机に置かれた契約書に視線を落とした。
「——干芋と梅干し、質素ながらも人を生かすものだ。欧州商人が欲しがるのも頷ける。」
横に控えていた清河八郎が小声で囁いた。
「羽鳥の農村から干芋を、紀州の浜から梅を。彼らは“常陸の保存食”を“世界の兵糧”に変えようとしている。藤村様、これは商いであると同時に、外交の一手にござりまする。」
その言葉に、広間の空気が一段引き締まった。
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同じ頃、笠間の窯元では炎が赤々と燃えていた。陶工たちが丹精込めて仕上げるのは「酸乳瓶」と呼ばれる新しい器。そこに並ぶ瓶の口径はすでに「常陸規格」で統一されており、均整の取れた寸法が窯場に整然と並ぶ様は壮観だった。
「これなら蓋も栓も互換が利く。輸送でも割れにくかろう。」
職人の一人が汗を拭いながら言う。
傍らで欧州商人が真剣に瓶の寸法を測り、満足げにうなずいた。
「ユニフォーム……ヒタチ、スタンダード!」
片言の声に、窯場の者たちが思わず笑った。
笑いの中には、常陸の土と炎がつくり出した器が、世界へ羽ばたく確かな手応えが込められていた。
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午後、羽鳥城では兵舎の建築が進んでいた。木槌の音が空に響き、若い藩士たちが材木を運んでいる。江戸城でも第二期工事が進行し、兵器庫と火薬庫の整備がすでに四割まで完成していた。常陸の地は今や、商いと軍備と学びが交差する活気のただ中にあった。
そんな折、藤村のもとに慶篤・昭武・小四郎の三人が呼び出された。政庁の一室、机には帳簿や洋書が積まれている。
「慶篤、お前には財政演習を任せる。数字を読む眼を養え。」
「はっ。」真剣な表情で慶篤が頷く。筆を取る手はまだ震えていたが、その眼差しには確かに光があった。
「昭武、お前は仏語を学び、翻訳を進めよ。欧州との交わりに、言葉は何よりの武器だ。」
「心得ました。」昭武はまだ幼さを残す顔で洋書を抱え、ぎこちなくも誇らしげに答えた。
「小四郎、お前には商館の伝票整理をさせる。地味な仕事だが、数を積むうちに必ず道が見える。」
「承知いたしました。」小四郎はまっすぐに返事をし、帳簿を胸に抱いた。
藤村は三人を見渡し、やわらかく笑んだ。
「学びとは机上に留まらぬ。商いも政治も戦も、学びの延長だ。恐れるな、己の役を果たせ。」
その時、背後から声がした。佐野常民が立っていた。
「人を救う医もまた学でございます。財政も兵も、人の命を守るためにあると心得ていただきたい。」
藤村は頷き、三人に目を戻した。
「常民殿の言葉、忘れるな。義なくして学は生かされぬ。」
三人は一斉に「はい」と答え、部屋に清新な声が響いた。
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その夜、藤村は篤姫の待つ屋敷に戻った。篤姫は座敷で産着に包まれた小さな命を抱いている。産声はまだか細いが、その顔には確かに父母の面影が映っていた。
「義信と名付けましょう。」
篤姫が柔らかな声で言う。藤村は膝をつき、赤子の小さな手をそっと握った。
「義を信ずる者……よい名だ。」
篤姫は微笑み、赤子の額に口づけた。
「この子が学を知り、人を思いやれるように——。そのために私たちもまた学び続けなければなりませんね。」
藤村は静かに頷いた。遠く、長州にいる松陰の言葉が胸をよぎる。
——学問は武器である。人を救い、国を立てる剣である。
羽鳥の夜は静かに更けていった。だが、その静けさの奥底には、新たな産声と共に、未来への鼓動が確かに響いていた。
羽鳥城の政庁に、春浅い風が吹き込んでいた。障子を透かして差す光はまだ冷たく、机に置かれた硯の墨がじんわりと凍るように感じられる。そんな中、伝令の若者が駆け込んできた。
「台湾探検隊より、第一の報告が届きました!」
広間の空気が一瞬で張り詰める。藤田東湖、佐久間象山、大村蔵六、佐野常民、津田真道、清河八郎……常陸藩の俊才たちが次々と顔を上げた。
藤村は使者から巻物を受け取り、慎重に封を解く。紙面には、龍馬の豪快な筆致と、弥太郎の几帳面な文字が並んでいた。
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まず龍馬の報告。
《台湾の地に上陸す。樟脳の匂い、鼻を刺すほど濃し。山は深く、海は広し。人は素朴にして目が鋭し。交易の道、必ず開けると見たり》
力強い文に、広間の何人かが思わず笑みをこぼした。象山が低く唸る。
「まるで戦場の書き付けのようだな。だが要点は伝わる。樟脳が豊富にあるというのは確かか。」
藤村は次に弥太郎の報告を広げる。
《現地にて砂糖三樽を入手。銀二十両にて取引成立。品質良。今後も取引可能性大。船舶修理費銀十五両。人夫雇用費銀五両。現段階で差益は得られずも、信用を買うことに意義あり》
字は整然と並び、費用と収支が細かく算出されていた。
佐野常民が頷き、声を上げた。
「これは立派な医の記録にも似ていますな。病の経過を克明に記すごとく、商いも数字で追えば流れが見える。」
津田真道が巻物を覗き込み、眼鏡の奥で光を宿した。
「法の文としても価値がある。取引の過程を明らかにすることで、国際的な紛争を避け得る。龍馬の奔放さと弥太郎の几帳面さ、見事な補完だ。」
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清河八郎が口を開いた。
「だが、危険もございます。漂流民が原住民に襲われる話も多い。龍馬殿が深入りして火種を起こすやもしれぬ。」
その言葉に東湖が静かに首を振った。
「龍馬を信じるべきだ。彼は人を結ぶ器を持っている。危険は確かにある。だが、外へ出ずして国は育たぬ。」
象山が畳を拳で叩いた。
「その通りだ。国を守るとは、ただ籠ることではない。荒海に船を出し、数を示し、秩序を作る。それが兵学の真だ。」
議論が熱を帯び、広間の空気が重くなった。そんな中で大村蔵六が口を開く。
「台湾は兵站の要にもなり得ます。樟脳は火薬に不可欠。砂糖は兵糧の貴重な甘味源。これを押さえれば、戦も国も変わる。」
その言葉に皆が一斉に息を呑んだ。
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藤村は巻物を畳み、ゆっくりと皆を見渡した。
「龍馬と弥太郎は、常陸の目と耳だ。今はまだ小さな交易に過ぎぬ。だが、そこに芽を見出し、記録を残している。これを軽んじるな。」
静かな声だったが、その響きは広間の隅々まで染み渡った。
「我らは、この報告をただの商いとして受け取るのではない。これは国の未来を映す鏡だ。」
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その夜、羽鳥城の書院。藤村は渋沢とともに報告を再読していた。火鉢の赤が揺れ、墨の影が長く伸びる。
渋沢は弥太郎の数字を指でなぞりながら言った。
「この記録を会計帳簿に組み込めば、海外交易の基準になります。費用対効果が一目で分かりますから。」
「よし。交易もまた数字で秩序を作る。弥太郎はそれを知っている。」
藤村は筆を取り、巻物の余白に自らの感想を添えた。
「——数字は信頼を育む種。芽吹かせるは人の働き。」
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さらに別の文が添えられていた。龍馬の筆だ。
《弥太郎は帳簿を離さず。わしは現地の者と盃を交わす。互いに呆れ合いながらも、案外うまくやっておる。藤村様、必ずや良き知らせを持ち帰る》
藤村はふっと笑い、渋沢もつられて笑った。
「対照的な二人ですが……不思議と釣り合っていますな。」
「そうだな。夢と計算、その両輪があってこそ、遠き海を越えられる。」
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その頃、城下の町では「台湾」の名が噂にのぼり始めていた。酒場の隅では職人が「樟脳とはどんな匂いか」と語り、女たちは「砂糖がもっと入るなら子どもの薬も甘くできる」と喜んだ。まだ遠い島の話が、すでに人々の暮らしに小さな影を落としていた。
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数日後、政庁の評定が開かれた。台湾報告を受け、次の一手をどう打つかが議題となった。
津田真道が進み出て言う。
「台湾交易を続けるなら、幕府としての法的根拠を整える必要があります。漂流民救助を口実とするのが良策でしょう。」
常民が続ける。
「救助を旗に掲げれば、交易もまた人道の延長として認められます。これは医に似ております。病を癒すことが、巡り巡って国の力となるのです。」
象山は腕を組み、真剣な表情を崩さなかった。
「だが、救助を盾にしても、欧州列強は牙を剥くやもしれぬ。軍の備えは欠かせぬ。」
東湖が微笑み、静かに言った。
「備えよ、されど恐れるな。国を導くは義と学。義を持って臨めば、たとえ列強といえども侮りはせぬ。」
藤村は皆の声を一つ一つ受け止め、やがて結論を示した。
「漂流民救助を掲げ、小艦隊を派遣する。交易はその副次とする。だが、記録と数字は必ず残せ。義を示し、秩序を保つためにな。」
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評定が終わり、藤村は一人で書院に戻った。机には龍馬と弥太郎の報告が重ねられている。窓の外ではまだ冷たい風が雪を運んでいた。
「義信が生まれたこの国で、遠い海を渡る者がいる……」
筆を取り、藤村は書き記した。
「学をもって人を導き、数字をもって秩序を示す。遠き島にまでその息を届かせる。これぞ常陸の道なり。」
墨の香が漂い、火鉢の火が小さく弾けた。
外には星が瞬き、海の彼方にいる龍馬と弥太郎の姿を、藤村は心に描いた。夢と計算を胸に抱き、荒れる台湾の波を越えているだろう。
——その報せは、必ず再び羽鳥に届く。
江戸城の西の丸、まだ冷気が残る工区には、槌音が響き渡っていた。石を積み上げる職人の掛け声、材木を運ぶ馬のいななき、火薬庫の基礎を固める職人たちの息遣い。そのすべてが、巨大な建築の胎動のように地面を震わせていた。
藤村は現場に立ち、巻物に記された進捗表を眺めた。そこには赤線で「進捗四〇%」と大書されている。火薬庫と兵器庫の基礎はすでに固められ、石灰の匂いが辺りに漂っていた。
監督役の棟梁が駆け寄り、深く頭を下げた。
「藤村様、火薬庫の床石はすべて嵌め込みを終えました。兵器庫の梁も今週中に組み上がります。地中に埋め込んだ水道は、井戸から直接引き込む仕組みにいたしました。」
「よし。火を扱う場に水が届くことは、城の命を守ることに直結する。」
藤村の言葉に、棟梁は安堵の笑みを浮かべた。
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一方、羽鳥城では新たな兵舎建築が始まっていた。雪をかぶった堀の脇に足場が組まれ、若い大工たちが木槌を振るっている。凍える風の中、材木を削る音が乾いた響きを返す。
兵舎の前にはすでに整地された広場があり、そこでは足軽たちが寒稽古を行っていた。槍を突く音、掛け声、踏み込む雪の音が重なり合い、まるで地鳴りのようだった。
清河八郎が稽古の列を巡り、鋭い眼で兵の姿勢を正していた。
「槍を突くは心を突くに同じ。乱れは己を滅ぼす。学も剣も一筋であれ!」
その声は冷気を裂き、兵たちの胸に響いた。
視察に来た藤田東湖がその様子を眺め、藤村に囁いた。
「清河は厳しいが、兵はついてゆく。剣と学を説く姿は、まるで己の若き日を見るようだ。」
藤村は静かに頷き、稽古場に響く槍の音を聞きながら言った。
「兵舎はただ兵を収めるだけではない。秩序の学校だ。剣の音も、数字と同じく秩序を刻む拍子になる。」
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羽鳥城の工房では、兵舎用の寝台や机が次々と作られていた。木屑が舞い、若い職人たちが鋸を走らせる。その中で小四郎が帳簿を広げ、材木の数や鉄釘の量を記録していた。
「杉板二百枚、鉄釘千本、納品済み。棟梁、ここに署名を。」
棟梁が墨で印をつけると、小四郎は満足そうに頷いた。
「これで出来高日計簿に誤差はない。」
作業を眺めていた大村蔵六が口を挟んだ。
「衛生の観点から、寝台は必ず一人に一つ与えよ。雑魚寝は病を広める。費用はかかるが、病で兵を失う方が損だ。」
藤村はすぐに応じた。
「その意見、帳簿に記せ。兵舎建築費に衛生費を加算し、数で示して残せ。」
数字で裏打ちされた指示に、工房の空気は引き締まり、職人たちの動きはさらに速くなった。
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その夜、羽鳥城の大広間で評定が開かれた。蝋燭の灯が揺れ、兵舎と江戸城工事の進捗が報告された。
慶篤が巻物を読み上げる。
「江戸城火薬庫・兵器庫は四割完成。羽鳥城兵舎、基礎八割。衛生費転用により寝台の増設を決定。」
昭武が続ける。
「台湾探検との連絡も届きました。弥太郎殿の会計記録は模範的で、参考になります。」
清河が一歩進み出て声を張った。
「兵舎完成の暁には、学と剣を兼ねた訓練を課します。兵を守るのは剣と同じく、学の力です。」
象山がうなずき、渋沢が帳簿を閉じた。
「数字が揃い、剣が鍛えられれば、国の秩序は揺るぎません。」
藤村は一同を見渡し、ゆっくりと口を開いた。
「火薬庫は牙、兵舎は心臓。数字は血流、衛生は肺。すべてが揃ってこそ、この国は動く。今はまだ未完成だが、確かに形を成しつつある。」
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評定が終わると、藤村は一人で兵舎の建築現場に足を運んだ。夜空に白い月が浮かび、積み上げられた材木が月光を浴びて静かに輝いていた。
雪の上に残る兵たちの足跡は、乱れながらも一つの道へ収束している。それを眺めながら藤村は思った。
「秩序とは、こういうものかもしれぬ。乱れながらも、結局は一つの道に集まってゆく。」
耳を澄ませば、遠く江戸城の工区からも夜を徹する槌音が聞こえてくる気がした。その響きは、羽鳥と江戸、そして台湾へ渡った龍馬たちをも結ぶ鼓動のように思えた。
藤村は夜空に浮かぶ月を仰ぎ、胸中で静かに誓った。
「この国の未来を守るのは、剣でも大砲でもない。秩序を刻む槌音と、数字の積み重ねだ。」
白い息が夜気に溶けていく。その瞬間、羽鳥城と江戸城を繋ぐ目に見えぬ糸が、藤村の心に確かに結ばれていた。