115話:衛生都市、衛生農村—手洗い革命
薄氷を踏むような寒さの二月、江戸の朝はまだ白い息に包まれていた。だが新宿の市は、いつになく活気づいていた。夜明けとともに開かれる青物市場には、籠を担いだ農夫、秤を携えた商人、行灯を手にした町人が次々と集まる。人の流れの中心に据えられたのは、新設された手洗い所だった。
長い木桶に井戸水を張り、その横には石鹸が置かれている。桶の脇には夜警の男が控え、客や商人に声をかけていた。
「まずはここで手を清めてくだされ。汚れを落とせば、病も寄りつきませんぞ」
最初は戸惑っていた人々も、手を浸して石鹸を擦り、香りの立つ泡を流すと、驚いたように顔を見合わせる。青物を扱う女将が声を上げた。
「ほら見なさい、魚のぬめりが落ちたわ。これなら野菜も汚れん」
隣の商人も頷き、子どもの手を桶に導いた。
「寒いが、これが習いになれば良い」
桶の傍らには板札が立ち、「下痢救護 −22%」と大きく墨で記されている。これは新宿の医師たちが市中での患者数をまとめたものだった。藤村はその札を眺めながら、静かに頷いた。
「数字で示せば、誰の目にも分かる。人は恐れより、効果を見て動くものだ」
夜警の一人が駆け寄り、藤村に一礼した。
「この石鹸、すぐに尽きそうです。次の仕入れはどうしましょう」
「市場の収入の一割を衛生費に振り分けろ。会計の帳簿に明記しておけ。石鹸が絶えれば、この仕組みも止まる」
渋沢が横で帳簿を広げ、赤線を引いた。
「中央関税会計から衛生費に十五パーセントを充てる案、すでに整えてあります。市場単位での補填も、数字で結び付けておきましょう」
藤村は頷き、ふと市場のざわめきに耳を澄ませた。掛け声や笑い声に混じって、石鹸を擦る音があちこちで響いている。それは新しい習慣の始まりを告げる、小さな革命の音でもあった。
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その翌日、藤村は鎌倉へ向かった。相模湾を望む浜辺には、仮設の木組みが立ち並び、養生館建設の地鎮祭が執り行われていた。冷たい潮風が砂を巻き上げ、祝詞を上げる声が響く。
「ここが兵の養生の地となる」
藤村は波打ち際に立ち、遠くの海を眺めた。
養生館は単なる療養所ではない。軍医見習いの課程を併設し、将来的には全国から若者を集める構想があった。講義に用いるのは、大村蔵六の医学ノートや、翻訳された西洋医書。特に海水浴療法は、鎌倉の地形と気候を活かした新しい試みであった。
式が終わると、現場監督が報告に来た。
「海水浴の記録は日誌にまとめ、公開する予定です。既に商人や町人から寄付が集まり始めております」
「記録を残すことが次の寄付を呼ぶ。数字と事実が人を動かす。必ず続けろ」
浜辺には、建材を積んだ荷車が次々と到着していた。小四郎がその場を仕切り、入荷や納品の数を帳簿に記していく。彼は新しく導入した出来高日計簿を広げ、建材の種類ごとに数字を書き込んでいた。
「木材、石材、釘……すべて揃いました。これなら予定どおり基礎工事を始められます」
「よし、小四郎。その数字が、この養生館の命綱だ」
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夜、鎌倉の宿に戻った藤村は、囲炉裏端で渋沢と報告書を広げた。
「関税会計の数字を見直した。衛生費の振り分けを明記し、会津藩の債務返済用基金を新設する」
「会津の負担は重いですからな。基金を通せば、不公平感も和らぎましょう」
藤村は筆を置き、火に照らされた天井を見上げた。新宿の桶、鎌倉の養生館。いずれも小さな始まりだが、確実に人々の暮らしを変えていく。
「衛生は兵だけのものではない。町も村も、人が生きる限り必要だ」
囲炉裏の火がぱちぱちと鳴る。その音は、未来の都市と農村の姿を、彼の胸に静かに描いていた。
江戸城西の広間に、分厚い帳簿と算盤の音が響いていた。二月の冷気を押し込めた座敷の中では、火鉢の熱がじんわりと立ち上り、帳簿に影を落としている。
渋沢が帳簿を開き、墨を付けた筆を走らせながら言った。
「今年度、関税収入の見込は二百四十万両。新設された贅沢品税率五十五パーセントの効果が出ております」
藤村は眉をひそめ、数字を見つめる。
「これだけの増収があるなら、衛生費に十五パーセントを充てても揺るがぬな」
「はい。三十六万両が衛生事業に回せます」
障子越しに雪の白光が差し込む。藤村は筆を取り、紙に「衛生費三割増額」と大書した。その文字を見ていた老中の一人が、不安げに声を上げた。
「衛生のためにそこまで割く必要があるのか。兵を動かす費用に充てるべきではないか」
藤村は顔を上げ、静かに言った。
「兵が倒れれば、いくら軍備を重ねても無駄になる。新宿の桶を見よ。手を洗わせただけで下痢患者が二割減った。これは戦に勝つ力に直結する。衛生は兵糧と同じだ」
老中は押し黙り、算盤をいじる音だけが広間に残った。
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午後、藤村は羽鳥城へ戻った。雪の積もる堀の外では、工事の掛け声が響いていた。堀の水を抜き、泥をさらい、石を積み直す作業である。足場には凍える職人たちが縄を握り、石を滑車で吊り上げていた。
現場監督が駆け寄り、頭を下げる。
「堀の改修、予定より五日早く進んでおります。水路も一部付け替えを完了しました」
藤村は頷き、石垣の並びを見上げる。
「堀は城の肺だ。淀めば病を呼ぶ。水を巡らせよ」
堀の外側には新しい水門が据えられ、その横には消毒用の桶が置かれていた。兵も職人も作業の前に手を洗い、汚れを落としてから縄に触る。寒中に冷水で手を洗う姿は厳しいものだが、誰もが習いとして受け入れていた。
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その夜、羽鳥城の奥座敷で評定が開かれた。慶篤、昭武、小四郎が並び、渋沢が帳簿を脇に控える。
「江戸城の二期工事はどうなっている」
藤村の問いに、昭武が巻物を広げる。
「火薬庫の基礎工事、進捗五割に達しました。並行して衛生棟の基礎も着工済みです」
慶篤がその図面を覗き込み、感心したように言った。
「火薬庫と衛生棟が並ぶのですね」
「火と薬と病、どれも城を崩す要因だ。同じ基盤に置き、監督を一元化する」
小四郎は帳簿を広げ、数字を指で叩いた。
「江戸城工事費の一部は、衛生費から転用できます。倉庫や井戸を整備すれば、戦時にも役立ちます」
藤村は頷き、視線を三人に巡らせる。
「数字を結び付けろ。会計に線を引けば、人も動く」
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翌日、藤村は会津藩の使者を迎えた。彼らは深く頭を下げ、負債返済の件について切り出した。
「我が藩は戦の負担により、いまだ債務が重く……」
藤村は机上の帳簿を指し示す。
「基金を設けた。関税の超過分から二万両を繰り上げて返済に充てる。これは幕府の決裁も下りている」
使者の目に光が宿った。
「……ありがたき幸せ」
藤村は筆を取り、基金の仕組みを説明した。
「返済は数で示す。贔屓も情も要らぬ。基金に積み上がる銀は、公平に債務を減らす」
使者は深く頭を下げ、雪の中を去っていった。
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夜更け、藤村は羽鳥城の廊下を歩いていた。堀を渡る冷たい風に頬を打たれながら、心中で繰り返す。
「衛生は兵を守り、城を守り、町を守る。数字で示せば、人も納得する。これで秩序は生き続ける」
ふと見上げると、雪雲の切れ間から星が覗いていた。その光は遠く江戸城の衛生棟にも届き、やがて鎌倉の養生館にも反射するだろう。
藤村の胸には、ひとつの確信があった。――衛生は力である。戦を制すのは剣でも大砲でもなく、清潔と数字の積み重ねなのだ。
羽鳥城の書院には、まだ朝の冷気が残っていた。障子の外には雪が積もり、松の枝が白く垂れ下がっている。炭をくべた火鉢の赤がかすかに揺れ、その熱に頼りながら、慶篤・昭武・小四郎の三人が文机の前に座していた。
藤村は巻物を広げ、筆で「模擬評定」と大書した。
「慶篤、お前は評定を司る役を演じろ。議題は『新宿市場の秤検査制度を地方にも拡張すべきか』だ」
慶篤は驚き、そして真剣に背筋を伸ばした。
「はい。……では、まず費用と収益を整理します」
彼は渋沢から渡された帳簿を開き、目を走らせる。
「秤を一町村に一基ずつ置き、検査役を雇えば年間二百両。これにより偽り秤を防げば、商人と農民双方の損失を減らし、年間三百両の増益が見込める」
藤村は口元に笑みを浮かべた。
「よし。結論は?」
「費用より利益が上回るゆえ、実施すべし」
「だが反対派が現れたらどうする?」
慶篤は一瞬考え、静かに言った。
「数字で説くのみです。利益を示せば、やがて納得するでしょう」
藤村は頷き、次に昭武へ視線を送った。
「お前は外交の演習だ。六分儀を使い、港から港への航路を記録せよ」
昭武は机の上に広げられた航海図を手に取り、六分儀を覗いた。
「角度は三十二度。玉里港から鎌倉までの日程は……二日半。海流を加味すれば、三日を見込むべきです」
「よし。数値で語れ。それが外交の言葉となる」
小四郎は黙々と帳簿を繰っていた。日計簿の数字を一行ごとに指差し、誤差を探す。やがて顔を上げ、淡々と告げた。
「今日も誤差はゼロでした」
「それでよい。地味でも、この積み重ねが国を支える」
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午後、城下に朗報が届いた。京からの使者が駆け込み、懐から文を差し出したのだ。
「御台所、和宮様ご懐妊の由」
広間にざわめきが走った。重臣たちの顔に安堵と喜びが広がり、誰もが深く息を吐いた。
藤村はその場に静かに座し、心の内で思った。――この知らせは、幕府と朝廷を結ぶ新たな絆となる。政局に漂う不安の霧を、しばし晴らす光となろう。
「めでたい……」
慶篤が微笑む。
「民も安心するでしょうね」
藤村は頷いた。
「だが同時に、国を治める責任は重さを増す。守るべき命が増えるのだから」
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その夜、評定の場では新たな議題が上った。台湾近海で漂流民が襲われる事件が相次ぎ、これにどう対処するかというものだ。
老中の一人が口を開く。
「台湾近海は荒れ、原住民がしばしば難破者を襲うと聞きます。だが遠方に兵を差し向ければ、国庫を圧迫する」
別の者が首を振る。
「漂流民を見捨てれば、国内外に面目を失う。人命軽視は国を滅ぼす」
広間の視線が藤村に集まった。
藤村は静かに口を開いた。
「まず探索船を派遣せよ。兵ではなく、測量と救助を兼ねる小艦隊でよい。漂流民を保護し、その記録を示せば、内にも外にも日本が人命を重んじる国であることを示せる」
「費用はどうする」
渋沢が帳簿を開く。
「関税増収の一部を充てれば足ります。衛生費と同じく、人を守るための支出です」
老中たちは顔を見合わせ、やがて静かに頷いた。
昭武が進み出て言った。
「探索船の派遣なら、外交の場でも強い証となります。フランス語、英語で記録を残せば、欧州列強も日本の誠意を認めざるを得ません」
藤村はその言葉に笑みを浮かべた。
「よし。昭武、お前がその文を草案せよ」
若き顔に決意の光が宿った。
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評定の後、藤村は廊下を歩きながら一人考え込んでいた。和宮の懐妊――それは国の安定を約束する兆しだ。だが同時に、外には荒れる海があり、救わねばならぬ民がいる。
障子越しの月光が廊下に淡く差し込み、雪を白く照らしていた。藤村はその光を踏みしめるように歩き、心に誓った。
――教育で人を育て、家庭の喜びを守り、外交で人命を救う。それらすべてを秩序に繋げるのだ。
羽鳥城下に吹きすさぶ風は、まだ冬の冷たさを孕んでいた。だが、大通りにはすでに春を見越した賑わいが芽生えていた。織物工房の新築棟が軒を連ね、真新しい木の香りと染料の匂いが空気を彩る。大工の掛け声、機織り機の試し音が重なり、街全体がまるで一つの工房のように響いていた。
藤村は裃姿のまま工房の視察に訪れ、梁に刻まれた印を見上げた。そこには、藩の規格統一で決められた寸法が記され、織物の幅と長さがぴたりと揃うよう指示されている。
「幅は一尺二寸、長さは三丈半。これ以上でもこれ以下でも市に出すな。基準を守れば値が安定する」
藤村の言葉に、若い織工たちは黙って頷き、手を動かし続けた。彼らの眼差しには不安よりも、むしろ自らの技が大きな網の中に組み込まれる誇りが宿っていた。
渋沢が脇から声を添える。
「規格を決めれば取引は早く、商いの争いも減ります。市場での値切りは半減するでしょう」
「よし。秩序は数字で作る。それを肝に銘じろ」
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その足で藤村は玉里港へ向かった。冬の空は澄み渡り、港には帆柱が林立している。岸壁には新たな倉庫の基礎工事が進んでおり、石材が山のように積まれていた。
工事監督が駆け寄り、深々と頭を下げた。
「倉庫の基礎は半ばまで進みました。春までに屋根をかけ、夏には荷を受けられる見込みでございます」
藤村は図面を受け取り、指で倉庫の区画をなぞった。
「酒、陶器、織物、米……すべて別々に仕分けできるようにせよ。火薬庫と隣接させるな。港は秩序ある胃袋でなければならん」
その声を受け、職人たちは気合いを新たに石を運び、杭を打った。
港の海面には冬の日差しが反射し、まぶしい光が波間を走る。その先に、鎌倉・大洗・下関を結ぶ線を藤村は思い描いた。倉庫はただの建物ではない――兵糧と商品とを結び付け、国の呼吸を保つ心臓部だった。
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同じ頃、北方からも報告が届いていた。北海道調査隊が石狩平野に至り、稲作に適した湿地帯を見つけたというのだ。
羽鳥城の作戦室に広げられた地図には、北国の大地が淡く彩られている。調査隊長の報告には、雪解け水を利用した用水路の可能性や、寒冷地に強い稲の試作案が記されていた。
「石狩の地は広い。稲百戸を植えるに足る余裕がある」
藤村はそう言い、書役に命じて公告文をしたためさせた。
「屯田兵を募る。初年度百戸を目標とする。農を守り、武を兼ねる者を集めよ」
この言葉が城下に張り出されると、農の次男三男や浪人崩れが群がるように集まった。皆が口々に「北で新しい地を得られる」と声を上げる。未来を夢見る眼差しは、羽鳥の冬空よりも明るく輝いていた。
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その夜、城内の一室で行われた会合では、城郭の進捗も報告された。
「羽鳥城は堀の改修を進めております。水門を広げ、流水を速めることで、淀みを防ぎます」
「江戸城第二期は、火薬庫の基礎が半ばに至りました。衛生棟の建設も始まりました」
報告を聞きながら、藤村は静かに頷いた。
「堀は城の肺だ。淀めば病に侵される。江戸の火薬庫は国の牙である。疎かにするな」
書き留める筆先の音だけが部屋に響く。工事の進捗は数字で示され、遅れや費用の超過も隠さずに報告された。秩序は、透明な記録から生まれるのだ。
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会合を終え、藤村は夜更けの城下を歩いた。織物工房からはまだ機の音が響き、港からは石を運ぶ車の軋む音が続いていた。
冬の空に月が昇り、その光が雪に反射して街を照らす。工房、倉庫、城郭、そして北の石狩――それらが一本の糸で繋がるように、藤村の胸の中に浮かんでいた。
「人を育て、地を耕し、倉を満たす……すべては秩序のため」
彼はそう呟き、夜風を深く吸い込んだ。
その息は白く凍り、やがて闇に溶けて消えた。だがその胸の内に描かれた未来の図は、雪解け水のように力強く、確かに動き始めていた。
羽鳥城の奥御殿。障子を透かす午後の日差しは淡く、外庭には薄雪がまだ溶け残っている。広間に集まったのは藤村を筆頭に、渋沢、小四郎、慶篤、昭武。机の上には関税会計の巻物がいくつも積まれ、朱と墨で記された数字が鮮やかに目を射た。
「今年度より、関税収入の一五%を衛生費に振り分ける」
藤村の言葉に、部屋の空気がきりりと引き締まる。
「港、市場、宿場に手洗い所を設ける。石鹸の備蓄は夜警に、桶と檸緑水は戸長に。どこにいても、人が水で手を洗える国を作るのだ」
渋沢が帳簿を繰りながら応じる。
「衛生費として二十八万五千両を計上できます。今年の関税予測は二百四十万両。余力は十分ございます」
「よし。そのうち五万両は会津藩の債務返済基金へ回せ」
藤村の指示に、小四郎が眉を上げた。
「会津を優先とは、理由は?」
藤村は机の上の地図に手を伸ばし、会津の領地を指さした。
「会津は兵をよく動かした。長州征伐でも、その足軽は凍土を踏み越え、誰よりも早く陣を敷いた。忠義の地を軽んじれば、秩序は瓦解する。ゆえに債務を繰り上げてでも報いるのだ」
その言葉に慶篤は深く頷き、書き留める筆を走らせた。
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財政の配分が一段落すると、次は外交の話に移った。渋沢が一通の書簡を広げる。そこには「台湾沿岸に漂着した日本人漁民保護」の件が記されていた。
「台湾近海に漂流した漁民を保護せよ、との議が京から届いております。探索船を派遣すべきとのこと」
昭武が身を乗り出す。
「探索船の派遣は、外国に示す良き布石となりましょう。漂流民を救い、帰還させる。それを公に伝えれば、日本が海民を見捨てぬ国であると示せます」
藤村はしばし考え、やがて頷いた。
「よかろう。まずは測量兼ねて小型船を二隻派遣する。坂本龍馬を総括とし、岩崎弥太郎を会計役に任ずる。若き者に海を任せ、実地で鍛えるのだ」
渋沢は意外そうに目を見開いた。
「龍馬殿を、ですか」
「海を駆け、交易を夢見る者にしか見えぬ地平がある。彼に任せれば、台湾の海の価値を必ずや掘り起こすだろう」
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会議が終わる頃、奥から女中が慌ただしく駆け寄ってきた。手にした小さな巻物を藤村へ差し出す。
「宮中よりの急報にございます」
巻物を開くと、そこには和宮懐妊の吉報が墨書されていた。広間に一瞬の沈黙が落ちる。
慶篤が目を見張り、声を震わせて言った。
「これは……吉兆にございますな」
昭武も顔をほころばせる。
「国の未来に、新しい命が宿る。これほどの喜びはありません」
藤村は静かに目を閉じ、深く息を吐いた。
「和宮様のお身が安らかであるように。新たな命は国の支え、秩序の証しだ」
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その夜、藤村は囲炉裏端で独り、渋沢の帳簿を開いた。数字は冷たい。だがそこに込められた人の営みは温かい。港に並ぶ桶、鎌倉の養生館で休む兵、石狩で鍬を振るう屯田兵――すべてはこの数字に支えられている。
「秩序とは、数字と人の両輪だ」
彼は小さく呟き、巻物を閉じた。外では雪がしんしんと降り続いている。だがその雪の下で、港も市場も村も動いていた。手を洗い、倉を築き、海を渡り、命を育てる――そのすべてが、次の春を迎えるための確かな歩みだった。
夜半の羽鳥城。
雪雲が去り、凍てつく星空が広がっていた。城の高殿からは港の灯が遠く瞬き、規則正しい鐘の音が、まるで心臓の鼓動のように響いていた。
藤村は静かに筆を置き、机の上の巻物を整える。数字と人、衛生と兵站――すべてを繋げる網の目が少しずつ形を帯びてきている。だが彼の目の前には、まだ果てしない道が続いていた。
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翌朝。
城の学問所には、慶篤、昭武、小四郎の三人が集まり、巻物や帳簿を広げていた。朝の冷気で指がかじかむのを気にも留めず、彼らは熱心に筆を走らせている。
「模擬評定、開始」
藤村の声に、三人の姿勢が正された。
「慶篤、お前が評定役だ。課題は『新宿の市政費用をどう捻出するか』。論点を整理し、費用を割り振り、期日を定めよ」
慶篤は一瞬ためらい、それから口を開いた。
「関税収入のうち余剰分を充てる……いや、それでは不安定か。夜警の費用は地元商人からの市税で、道路整備は幕府からの補助を求めるべきかと」
藤村は頷き、朱筆で紙に印をつける。
「よし。筋は悪くない。数字に裏付けを与えよ。それがなければ誰も動かぬ」
次は昭武の番だった。彼は六分儀を手に取り、窓の外に星を測る。
「この座標と日付をもとに、台湾への航路を算出できます。英仏の地図と照合すれば誤差は一割以内に」
藤村は思わず笑みを浮かべた。
「言葉と数字で海を掴むか。よいぞ。外交の場では、その冷静さが剣にも盾にもなる」
小四郎は黙って帳簿を広げ、出来高日計簿を差し出した。
「昨日の羽鳥市場の出来高です。入荷、販売、廃棄……すべて合算済み。誤差はゼロです」
その几帳面な筆跡を見て、藤村はしばし感心した。
「地味だが、これが足腰を固める。国は数字の土台で立つ」
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午後、清河八郎が訪れた。羽鳥城下から駆けつけてきたのだろう、肩にまだ雪をまとっていた。
「藤村様、修身講義と剣術稽古を合わせた草稿をまとめました」
彼が差し出した巻物には、武の鍛錬と学問の修め方を結びつける言葉がびっしりと書かれていた。
「心を鍛えるは剣にあり。剣を正すは学にあり。学を活かすは政にあり」
藤村は黙って読み、やがて顔を上げる。
「よく書いたな。剣と学を両立させることは難しい。だが、それを示すことこそ若者の規範となる」
清河は深く頷いた。
「私は志士を導き、民を鍛えます。けれど藤村様、あなたが背後で全てを支えていることを……決して忘れはしない」
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その夜。
藤村は再び城の櫓に立っていた。港の彼方に、小さな光がゆらめいている。大洗港へ向かう船か、あるいは玉里へ戻る船か。港と港を結ぶその灯は、やがて大きな秩序の光となるだろう。
「手を洗う国、港で繋がる国……そして未来を守る国」
そう呟きながら、彼は冬空に光る星を仰いだ。台湾へ伸びる海路も、鎌倉の養生館も、内藤新宿の市政も――すべては一本の線で結ばれている。
その線はやがて、日本という国の未来そのものを描き出すのだ。
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