114話:年越しの起工—新宿・鎌倉の礎
正月の空気は、張りつめた糸のように冷たかった。江戸の西口――内藤新宿の大通りに、白い息と真新しい木槌の音が重なる。町年寄、名主、問屋、職人、そして武家。行列の先頭で白布を張った祭壇に、塩と酒と榊が並び、鍬入れの儀がはじまった。
「内藤新宿、市政あらためて起こす――上下水、道路、夜警、秤検査。ここを江戸の新しい“型”にする。」
藤村の口上は短く、よく通った。槌音がやみ、最初の鍬が黒土に入る。凍てた地表が割れ、湿った匂いが立ちのぼった。
通りの端では、若い衆が四角い木枠を抱えて走る。下水の縦坑に落ちないよう、枠には縄が巡らされ、札には大書で「危」。井戸端には木の樋が渡され、手洗い桶の上に紙札――《手・前後》と墨書。湯桶には薄く檸緑が落とされ、すっぱい香りが寒気にひらいた。
「殿様、秤の改めは今夕からで?」
蔵前の米商が声を掛ける。
「今日からだ。市内に“検査印”の刻印を配り、軽重ごまかせば過料。夜警は太鼓一打ごとに見回り記す。道は、水はけのよい砂利の層を厚く、雨でも車が沈まぬように。」
板図を広げると、職人たちの顔がぱっと明るくなった。見てわかる図は、寒の朝でも血を巡らせる。
「それと――秤場の横に“物価札”を立てる。重さと値と日付を並べよ。売り手にも買い手にも逃げ道を作らない。」
小四郎が手早く書き付けを配り、各組の名を拾っていく。胸元の帳面には、納品と検査の印を並べる欄――藤村が作らせた“入荷・検査・印刻・置き場”の四段表が貼りこまれていた。
午の刻、道の片側が開通し、車がゆっくりと通りはじめる。木口の組頭が息を吐いた。
「凍て土のうえで道が持つとは……この砂利はどこから?」
「玉里港の堆。海から運ぶから乾きが早い。大洗の舟が夜明けごとに上げる。」
藤村が応じると、近くにいた問屋が帳面をめくった。
「玉里の倉も着工と聞きましたが。」
「きょう基礎に入る。港の倉は“流れる倉”にする。積む・選る・出すを一昼夜で回す。人は寝る、物は止めない。」
午後、役人が駆け寄ってきた。肩に雪が残る。
「関税の件、慶喜公より御裁可。贅沢品税率、五割五分へ引き上げ。年の収入見込み、二百四十万両。」
渋沢が控えで頷き、短く付け加える。
「超過分から、幕府債務二万両を繰り上げで落とします。」
「よし。数字は約束だ。江戸城の衛生棟にも回せ。手洗い場と煉瓦の排水溝、先に基礎だけでも。」
風がいっそう冷たくなり、雲の縁が群青に沈む。内藤新宿の起工札が立ち、太い筆で「市政」とふた文字が躍った。
◇
翌朝、鎌倉。由比の浜は鉛色の波が寄せては返し、白砂に海霧が低く這っていた。海沿いの平場には縄張り杭が整然と立ち、簡素な祭壇の前に、白い上着の一団が並ぶ。軍医見習いの若者たちだ。
「きょうからここは“養生館”。戦も冬も関係なく、体と場を整える。」
藤村の言葉に重なるように、黒外套の男が一歩出た。痩せた頬、深い眼窩、凛とした声――大村蔵六。
「病は敵の味方です。洗い、煮炊きし、清潔な水を回す。それが勝敗を半分決める。」
並んだ木机に、煉瓦の模型と銅の蛇口、石鹸の型、ガーゼの束。見習いの眼が一斉に光る。壁板に打ち付けられた大きな表には、三つの段が太い線で区切られていた――《手洗い・煮沸》《傷の洗浄》《器具の煮沸・乾燥》。
「この三段は、寒さでも戦でも変わらない。順番を崩すな。」
大村は白墨で○と×を素早く書き分け、若者に手を動かさせる。
「教本は羽鳥でまとめた“野戦衛生覚え書”。別冊に“松陰の講話抄”を添えた。」
藤村が言うと、若者たちの列の後ろで、年配の漁師がうなずいた。
「先生、松陰さまの言葉は、ここの若い衆もよう読んどる。“民の息を正すは、政の初め”てな。」
海風が木札を鳴らし、浜の端で拍子木が打たれる。材木の荷が着き、帳付けがはじまった。小四郎が駆け、入荷・検査・納品の印を拾っていく。横には新しく書かれた札――《納品KPI》と墨が躍る。
「入荷に対して、検査合格が九割、合格から架構まで二日以内。できるか。」
「……やってみせます。」
見習いのひとりが頷いた顔に、潮と寒と高揚が混じる。藤村は海の向こうを見やる。冬の陽が低く、波の鱗がきらりと返った。
「鎌倉は静養と衛生の拠点。砲座は内湾に寄せ、背後に湯と寝床。冬の海で、船を止めない。」
大村が短く笑った。
「湯と寝床のある軍は、朝、強い。」
◇
羽鳥からの早船が、浜に寄せた。帆は霜を含み、船頭の眉に白い粉が積もっている。船から降ろされた行李を渋沢が受け取り、封を切った。
「開拓掛から。北海道屯田兵募集の公告、初年度百戸目標――玉里と内藤新宿の掲示板に回します。」
藤村は頷き、添えられた北辺の地図に目を落とす。石狩の平野に細い青線――用水の候補が描かれている。
「雪が解ける前に、測量を一度入れる。道は短く、川は素直に。――玉里港の倉は?」
「基礎に入りました。杭頭が凍るので、煉瓦釜で温めながら。」
「よし。“流れる倉”の型は江戸で試した。玉里は舟相手にもっと速く。」
浜辺の端から、若い水夫が走ってきた。
「台湾近海の測量も、来月初めに。補給港の候補、三か所。」
「地図は昭武に回せ。港税務の演習に使う。航路と税は、同じ線に乗る。」
◇
夕刻、鎌倉の丘に雪雲がかかり、浜は灰色に沈んだ。養生館の建て方が一段落し、焚き火の火が点々と光る。藤村は浜の端で、慶篤と昭武に小さな板図を見せた。
「内藤新宿の“市政の型”は、これだ。上下水、道路、夜警、秤検査。数字の動かし方は、慶篤。港税と航路は、昭武。」
「はい。」
「はい。」
ふたりの返事が、波音にほどけた。藤村は空を見上げる。雪はまだ落ちない。白い雲の下で、海だけが動いている。
「――慶喜公に“市政モデル地方展開”の案を出す。内藤新宿を型板に、江戸の西と北へ。紙は短く、図は大きく。」
渋沢が横から帳面を差し出した。
「関税の増収、年二百四十万両の見込み。江戸城の衛生棟、羽鳥の通関所、鎌倉の養生館――配分はこの比率で。」
「よし。江戸城は基礎から“清潔動線”で組む。手を洗い、湯で煮て、乾かす。それを建物の“道”にする。」
大村が焚き火の向こうで白衣を脱いだ。
「道があれば、人は迷わない。兵も患者も。」
浜の向こうで波が砕け、火の粉が黒い空に跳ねた。若い見習いが手拭いを絞り、桶に新しい湯を張る。板場に打つ釘の音、運ばれる煉瓦、入荷の印、検査の朱――寒中の起工は音でできている。
藤村は、焚き火の光にかざした板図をたたんだ。内藤新宿の通り、鎌倉の棟、玉里の倉、大洗の舟――線で結べば、冬の海にも血が通う。
「年越しの起工で、年越しの約束をする。道と水と秤を先に置く。人は、そのあとに正しく集まる。」
凍て風が一段強まり、海が低く唸った。若い見習いが焚き火に薪を足し、温い光が一瞬広がった。起工の札が潮風に鳴り、白い紙縒りがわずかに震えた。ここからはじまる年の骨組みが、冷たい空気の中で、確かに立ち上がっていた。
正月三日の朝。羽鳥城の政庁には、まだ凍てついた風が吹き込んでいた。障子を開け放った大広間の中央に、分厚い帳簿と木札が整然と並べられている。帳簿の背には墨書きで「関税」「産業」「借財」「城郭」と題され、墨の匂いがほのかに漂っていた。
「今年度の見込みは、二百四十万両――」
渋沢が低く告げ、筆先で数字を大きく記す。
「贅沢品の税率を五割五分へ引き上げました。輸入酒、絹地、ガラス製品、香水……対象は広い。反発も予想されますが、外商相手の取り引きなので内地の民はさほど影響を受けません。」
藤村は帳簿を覗き込み、顎に手を当てた。
「数字は立つ。だが数字は約束でもある。増収分をどう使うか、先に示してこそ安心を買える。」
慶篤が隣で熱心に耳を傾けていた。まだ若いが、昨年から簿記を学んでおり、帳簿の線を追う目が真剣そのものだ。
「兄……いえ、藤村様。収入の中で、幕府への繰上返済はどのくらいを?」
「二万両。まずは借財の息を止めぬことだ。利子の雪だるまを抑え、余剰は城や港へ回す。」
「なるほど……数字を減らすことも“功”になるのですね。」
慶篤は感心したように頷いた。
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その時、廊下の方から小走りの足音。小四郎が帳簿の束を抱えて駆け込んできた。肩に雪を載せたまま、額に汗をにじませている。
「羽鳥城下の織物工房、増設の願いが届きました。町の女衆や徒弟が、もっと手を貸したいと。」
藤村は書面を受け取り、視線を滑らせる。そこには織機の数、職人の人数、原料糸の出所まで細かに記されていた。
「……良い。工房は生活の糧だ。玉里港の倉が完成すれば、糸も布も滞らず運べる。増設を許せ。」
「はい。」
小四郎は満足そうに深く頭を下げた。その瞳には、数字を扱うよりも人の顔を見て学んだ熱が宿っていた。
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昼過ぎ。玉里港の浜辺では、杭を打ち込む音が絶え間なく響いていた。大工たちは厚着の袖をまくり、凍える潮風の中で巨大な木槌を振り下ろす。地面に並んだ基礎石は、寒気で白く霜をまとい、鉄の鎚で叩かれるたびに乾いた音を返した。
「これが“流れる倉”の基礎か……」
昭武が感心したように声を上げる。
藤村は袖を握り、港の全景を見渡した。
「倉はただの蔵ではない。舟から積み、すぐに仕分け、再び舟に戻す。三段を止めぬことだ。人は交代しても、物は眠らせない。」
渋沢が脇から補足する。
「港の倉庫は、納税や関税の徴収所も兼ねます。記録簿と印札で回転率を示せば、兵も商人も疑わずに済む。」
「なるほど……港の秩序が数字で示されるわけですね。」
昭武は懐から小さな帳面を取り出し、早速メモを書き込んでいた。
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その夜。城の囲炉裏端で、渋沢が新しい公告を読み上げる。
「北海道屯田兵の募集です。初年度は百戸を目標に。家ごとに土地を与え、農と兵とを兼ねさせます。」
慶篤が首をかしげる。
「百戸……数としては小さいですが。」
藤村は火箸で炭をつつき、火の粉を散らした。
「まずは型を作るのだ。石狩平野は寒冷だが、稲作の適地もある。測量と水利を整えれば、百戸が千戸に増える日も来る。」
「道は……運河で繋げられるのですか?」
小四郎が口を挟む。
「そうだ。常陸の運河と同じだ。海と川と田を一つの線で結ぶ。――だからこそ港が要る。玉里、大洗、鎌倉、下関……そして松陰の領する港も。」
囲炉裏の火が赤く燃え上がり、四人の顔を順に照らした。その光の中で、藤村の言葉は熱を帯びて響いた。
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やがて、外の夜空に鐘が鳴り響いた。雪混じりの風が廊下を渡り、紙障子を震わせる。藤村は立ち上がり、帳簿と公告を巻物に束ねた。
「年を越した。次は“約束”を形にする番だ。数字は紙に、道は土に。人はそこに生きる。……それを見せてやろう。」
障子を開け放つと、冷気が一気に流れ込む。遠く玉里港の方角に、夜明かりが小さく瞬いていた。それは倉の建設を続ける大工たちの灯――寒風に抗い、なお消えぬ灯火だった。
冬の海は、容赦なく冷たかった。黒潮がぶつかる台湾近海は荒れやすく、潮の流れは複雑に絡み合っていた。だが、甲板に立つ坂本龍馬の表情は晴れやかだった。
「見いよ、弥太郎。この潮の力、帆を持ってすりゃ敵やなし。友やぜよ」
龍馬は片手を大きく振り、海図の方角を示す。舷側に立った弥太郎は、鼻先を赤くしながら測量器を覗いていた。
「……潮は友かどうかは知りませんが、金勘定には容赦なく響きます。荷を積んだ船が沈んでしまえば、元も子もありませんき」
彼は懐から帳簿を取り出し、波に濡れぬよう布で覆いながら細かく数字を書き込む。龍馬はそれを見ると声を上げて笑った。
「おまんは何でも帳簿じゃのう、弥太郎。けんど、それがあるけぇ港は生きる。藤村様も言うちょったろう? “数字は現場の匂いと共に”っちゅうて」
その言葉を思い出したのか、弥太郎は小さく頷いた。
「確かに……この測量も、やがては貿易港の基礎になりますき。銭の匂いは、こうして潮風に混ざって運ばれてくるがです」
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甲板では、他の隊員たちが測量器具を据え付け、陸影を確認していた。南方の山並みは濃い緑に覆われ、ところどころ白波が岩肌に砕け散っている。
「龍馬さん! 湾の入り口、深さ十六尋、潮の流れは西へ早し!」
「よし、記しとけ! この湾は艦が寄せられる……弥太郎、ここはどうじゃ」
龍馬が叫び、弥太郎は海図に朱を入れる。
「寄港地としては優秀……ただし、背後に市がない。補給は難しいでしょう」
「なら市を作りゃええ! 市場がなけりゃ、俺らで作る。港があるところ、人は必ず集まるきに」
龍馬の声は波音に混じりながらも、確かな熱を帯びていた。その熱は周囲の水夫たちをも鼓舞し、彼らは互いに笑いながら測量を続けた。
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夜、船室に灯がともる。ランプの下で、龍馬と弥太郎は並んで海図を広げた。赤い線で引かれた航路が複雑に絡み合い、点々と湾や岬の位置が書き込まれている。
「これでだいたいの測量は済んだのう。後は風の癖と潮の回りを、もう少し見極めたい」
龍馬が言うと、弥太郎が黙って紙片を差し出した。そこには港の収支予測が細かく記されていた。
「物資を積んだ場合、この港は一年で三百艘の寄港が見込めます。もし航路を常陸・下関・玉里と繋げば、五年で二倍。銭に換算すれば――」
龍馬はその数字を覗き込み、目を丸くした。
「おお、弥太郎! おまんの頭の中には金銀の雨が降りよるがか!」
「いえ、これは未来の雨です。今はまだ、ただの数にすぎません」
ふっと笑う龍馬の目に、遠い海の光が映っていた。
「その未来を、この手で引き寄せるんじゃ。弥太郎、藤村様は“南の海を測れ”と言うた。きっと、ここに日本の新しい道があるがよ」
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やがて帰途に就く頃、海は荒れ始めた。波は船体を叩き、帆柱が軋む。だが龍馬は舵の傍らで笑い続けた。
「見い! 波は高うても、俺らは沈まん。日本も同じぜよ。荒波を越えて、新しい海へ出る!」
その言葉に、水夫たちが声を合わせて応えた。
弥太郎は必死に帳簿を押さえながらも、口の端に笑みを浮かべた。
「龍馬さん……あなたと一緒なら、荒波も計算に入りますき」
そのやり取りを、藤村に届ける報告の草案に書き留めながら、二人はなおも波を切って進んだ。
台湾の海は、ただの測量地図では終わらない。そこから未来の日本の航路と商いが、確かに芽吹こうとしていた。
羽鳥城の執務室に、冬の朝日が斜めに差し込んでいた。障子の向こうには、霜をかぶった庭石と、わずかに煙る松の枝が見える。その静謐を破るように、早馬が城門を駆け抜けた。使者の手には、厚い巻物と帳簿が抱えられている。
「坂本龍馬、岩崎弥太郎両名より――台湾近海測量報告にございます!」
報告を受けた藤村は、机の上に広げられた地図の上に巻物を置かせた。封を切ると、潮流や水深、湾の形状が克明に描かれている。その端には龍馬特有の大きな筆致で、冗談めかした言葉が書き添えられていた。
「潮は友ぜよ。寄せれば必ず市ができる」
藤村は思わず口元を緩め、横で覗き込んでいた小四郎が苦笑した。
「龍馬殿らしい……しかし、この湾の深さ、艦隊の寄港には十分かと」
弥太郎の手による細かな帳簿も添えられていた。そこには船の寄港数、物資搬入の回転率、想定される関税収入まで細かく記されている。
「一年で三百艘、五年で倍増……銭の計算まで済んでいるか」
藤村は感心しつつ、渋沢を呼んだ。
「すぐに全数値を検算せよ。この湾を補給港候補に加える」
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その日の午後、評定の間に慶喜が姿を現した。京から戻ったばかりの将軍は、冬装束に身を包み、席に着くなり報告書を手に取った。
「龍馬の字は相変わらず奔放だな」
慶喜は笑みを浮かべつつも、視線を走らせ、やがて眉を動かした。
「この湾……深度十六尋、背後に山影少なし。砲台の設置にも向く」
藤村が頭を下げる。
「はい。寄港だけでなく、軍事的価値も高いかと。航路は大洗・玉里・下関を結び、さらに台湾を経由すれば、清国南岸、さらに南洋へと道が開けます」
「つまり……日本が南へ伸びる足場となるわけだ」
慶喜の声に、重臣たちがざわめいた。
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議題は台湾測量報告を基にした兵站再編に移った。机上には地図が広げられ、赤い線が海路を示している。
「大洗から玉里、鎌倉を経て下関、そして台湾。この線が一本になれば、西国への補給は半減の時間で済む」
藤村の言葉に、慶篤が身を乗り出した。
「兄……いえ、藤村様。港と港を繋ぐ倉庫はどう配置されますか?」
「中継倉庫を各港に設ける。積載・仕分け・再積載を一昼夜で終える体制だ。さらに鎌倉には静養所を兼ねた養生館を置き、傷病兵を海防の背後で治す」
小四郎が頷きながら書き留める。
「建材搬入はKPIで管理します。納期遅延をなくせば、鎌倉拠点は予定通り春に開設できましょう」
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やがて議題は外交へと移った。昭武が仏語の文書を手に立ち上がる。
「台湾を補給港とする件、英仏へは“航路の安全確保”として説明可能です。彼らにとっても通商の安定は利益となる」
「加えて……」藤村が口を挟む。
「四国賠償の枠組みを活かし、彼らに対して“秩序を守る日本”を示す。港を整え、病を防ぎ、税を明確にする。これが信用となる」
慶喜は静かに頷いた。
「秩序ある勝者……それこそ我らの姿か」
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夕刻、会議が終わった後、慶喜と藤村は廊下を並んで歩いた。庭の砂利には白い霜が降り、吐く息がかすかに漂う。
「藤村、お前の描く線は確かに雄大だ」
慶喜は歩みを止め、庭を眺めながら言った。
「江戸、新宿、鎌倉、大洗、玉里、下関、そして台湾……一本の線で国を繋ぐ。だが、その線を守る兵も銭も要るぞ」
「承知しております。兵の足は倉と港で支え、銭は関税と賠償で繋ぐ。欠ければ線は切れます。だからこそ、速さと秩序が要となります」
慶喜は目を細め、軽く笑った。
「無欲に見えて、計算ずくよの」
藤村は深く頭を下げた。
「計算の先に、人の暮らしがある限り――それで良いと存じます」
⸻
その夜、執務室に戻った藤村は、改めて龍馬と弥太郎の報告に目を通した。冗談交じりの筆致と、几帳面な数字が並ぶ帳簿。異なる二つの気質が、一枚の紙の上で見事に調和していた。
「潮は友……そして数字は裏付けか」
藤村は筆をとり、京の慶喜へ宛てて書状をしたためた。
――「台湾湾測量、寄港・軍事双方に利あり。線は繋がりつつあります。次は、それを守る器を築くのみ」――
墨を乾かしながら、藤村は静かに目を閉じた。
外では雪が舞い、港の方角から鐘の音が響いていた。
その音はまるで、新しい航路の胎動を告げるかのように、凛として冬の夜を震わせていた。
雪がまだ残る羽鳥城下に、南方から戻った測量隊が到着した。旅装を解いた隊長は、懐から油紙に包んだ地図を取り出し、藤村の前に広げた。紙面には複雑な海岸線と、深い入り江が細かく記されている。墨で書き込まれた注記には、潮の流れ、風向き、湾の深度が克明に並んでいた。
「ここが台湾湾です。深度十六尋、軍艦の停泊に十分な広さを持ちます。外海の波を遮る岬があり、荒天にも耐えましょう。」
説明を聞いた藤村は黙って指先で湾の形をなぞり、やがて低く言った。
「……ここを押さえれば、南洋への門になる。」
地図の周りに集まった役人や武士たちがざわめいた。会津から来た副使は眉をひそめる。
「本当にそこまでの価値があるのか。遠すぎはせぬか。」
藤村は静かに首を振った。
「遠いからこそ価値がある。琉球と長崎の中間、補給を置くにはこれ以上の場所はない。」
傍らで渋沢が手帳を繰り、声を上げた。
「行軍日程の試算では、江戸を発して玉里港を経由し、大洗で補給。その後下関で交代すれば、十日で台湾に至ります。」
「十日……」と誰かが呟いた。
その響きには、ただ距離の数字ではなく、新しい航路がもたらす未来の重みが宿っていた。
──
夕刻になると、話題は自然に外交へ移った。書院の片隅で、昭武が英語と仏語に訳された文案を机に広げる。
「この湾を報告するにあたり、“新たな交易路の安全確保”という形で伝えます。侵略や占領の意図ではなく、秩序の名の下に。」
若い声には不安よりも自信が漂っていた。慶篤も横から覗き込み、眉を上げる。
「つまり、“守るための拠点”と強調するわけか。」
「はい。」昭武は小さく頷いた。「内外の視線を意識すれば、言葉ひとつで印象は変わります。」
藤村は静かに笑みを浮かべた。
「よく分かっているな。外交は槍でなく、筆で戦うものだ。」
──
夜更け、囲炉裏の火が赤く燃える中、藤村は再び地図を広げた。台湾湾から江戸、玉里、大洗、下関へと伸びる線が、灯火の下で赤く浮かんで見える。
「この線が生きれば、我らの呼吸は南まで届く。」
誰に語るでもなく呟いた言葉が、火の爆ぜる音に紛れて消えていった。
雪の夜明け、羽鳥城の天守から港を見下ろすと、白い息を吐きながら荷を積む人々の姿があった。氷の張った樽を割り、織物を防水布で覆い、舟へと積み込んでいく。寒さは容赦ないが、彼らの手は迷いなく動いていた。
藤村は静かに吐息をつき、その光景を背に執務室へ戻った。机の上には、昨日届いた京からの密書が広げられている。そこには簡潔に一文が記されていた。
――「春の動乱に備えよ。兵站を血管とし、政を心臓とせよ。」
墨痕まだ新しい慶喜の筆跡に、藤村は深く頷いた。
──
午前、羽鳥城の作戦室では再び評議が開かれていた。慶篤、昭武、小四郎、渋沢の面々が集い、壁には日本列島と台湾を結ぶ巨大な地図が張り出されている。
「大洗から玉里、そして鎌倉、内藤新宿。この線をどう繋ぐかが肝要だ。」
藤村は赤い筆で地図に線を引いた。その筆跡は太く、迷いがなかった。
「補給港は玉里と下関。大洗は北方からの積み出しを支え、鎌倉は静養と防衛、内藤新宿は陸路の咽喉だ。これらが一本の血管となれば、春の戦は必ず動く。」
慶篤が、やや不安げに地図を見つめる。
「……ですが兄上、いや、藤村様。あまりに広すぎはしませんか。糧食や兵の行き来で、どこかが滞ればすぐ崩れます。」
藤村は静かに笑んだ。
「だからこそ数字だ。日計の誤差をゼロにせよと申したはずだろう。」
小四郎が深く頷き、帳簿を広げる。そこには米、酒、織物、武具といった品目ごとの流通量が細かく記され、赤と青の印が刻まれていた。
「一日の遅延も許しません。倉庫の入出庫も、港の荷揚げも、すべて刻みで数えます。」
渋沢が横から紙片を差し出す。
「関税超過分による繰上返済も進めています。今年度二万両、幕府債務の穴埋めが可能です。」
藤村は頷き、紙片を重ねた。財の流れも、人の流れも、今や一本の血管の中にある。
──
昼下がり、鎌倉の測量隊から早馬が届いた。巻物を広げると、海辺に新たな養生館の基礎図が描かれていた。大村蔵六が筆を入れた説明文には、こう記されている。
――「戦の勝敗は、病を制する者にあり。養生館は軍医見習いを抱え、衛生を学ばせる場とすべし。」
墨跡を追いながら、藤村は胸の奥に温かな火を感じた。松陰が築いた教育の炎を、大村が医の形で受け継いでいる。鎌倉の潮風の中で、若き医師たちが学ぶ姿が鮮やかに浮かんだ。
──
夕刻、港の倉庫に足を運ぶと、木札の音が響いていた。赤、青、黄の衛生札が次々に取り換えられ、商人たちが手を洗い、荷を計り、帳簿に記す。夜警の提灯が並ぶ街路では、子どもが雪を蹴りながら走り、笑い声を上げていた。
「市政の骨組みが動き始めましたな。」
渋沢の声に藤村は頷く。
「新宿の市政モデルを地方へ広げる。数字が人を守る時代だ。」
白い息が夜空に消えていった。
──
その夜、藤村は執務室にひとり残り、火の灯りの中で筆を走らせた。書状の宛先は慶喜。そこには、こう綴った。
――「新宿市政モデル、稼働開始。鎌倉養生館、着工。玉里港倉庫、基礎固め完了。台湾湾測量、十分の成果。すべて次代に繋がる骨組みにございます。」
墨が乾く頃、外では雪がしんしんと降り続いていた。音のない夜の中、藤村の胸には確かな手応えが宿っていた。
それは、戦の喧騒ではなく、秩序の灯がゆっくりと広がっていく感覚だった。