113話:論功行賞—褒美の重さ
冬の気配が、宮中の長い廊下を静かに満たしていた。障子越しの光は薄く、庭の砂に落ちた紅葉の残りが霜に縁取られている。北から吹き込む風は冷たく、廊下を渡るたびに衣の袖がわずかに揺れた。
大広間の奥、上座には将軍徳川慶喜が座している。裃姿の老中、諸藩の重臣が左右に並び、その視線は一斉に中央へ注がれていた。
「長州征伐の戦功第一――藤村。」
低く響く慶喜の声に、広間がわずかにざわめく。藤村は膝を進め、畳に手をつき、深く頭を下げた。
「勅命と将軍家の信任、恐悦至極に存じます。」
慶喜の右手には、巻き上げられた沙汰書があった。その紙がほどかれ、老中が朗々と読み上げる。
「長州分封 三十六万九千石――下関を含む港湾地一帯を、新たに藤村の所領とする。」
ざわ、と左右の列が小さく揺れた。戦の功としては異例の大領、しかも港を含む要衝地だ。だが藤村の返答は、意外なほどあっさりしていた。
「……御意。しかし、この領地、拙者には過ぎたるものにございます。」
その場の空気が一瞬凍りついた。慶喜の眉がわずかに動く。
「過ぎたる、とは?」
藤村は顔を上げず、静かに言葉を継いだ。
「長州の地は、これより民を立て直すことが肝要。ならば、その舵取りは、地を知り、志を持つ者に委ねるべきと存じます。」
「では、誰を推す。」
「……吉田松陰殿。」
広間に再びざわめきが走った。存命の吉田松陰――尊攘の志士として名高く、だが幕府にとっては異色の人物。その名をこの場で挙げるとは。
慶喜はしばし藤村を見つめ、やがて小さく笑みを漏らした。
「松陰を藩主とするか。藤村、お前は財政で支えるつもりか。」
「はい。港の収益、通商の利を背景に、藩の復興を助けます。久坂玄瑞ら気骨ある者も、最初は反発するやもしれませんが……やがて使いこなしてみせます。」
慶喜は頷き、沙汰書を脇に置いた。
「よかろう。その意を汲み、この地は松陰に与える。」
安堵とも驚きともつかぬ空気が広間を包む中、慶喜はふと表情を和らげた。
「無欲なやつだ……では、他に望む褒美はないのか。」
藤村はわずかに考え、やがて顔を上げた。
「恐れながら――江戸の西口にあたる内藤新宿の一帯を、商いと兵站の要地として賜りたく。加えて、鎌倉の沿岸部を、兵の静養と海防の拠点として。」
その答えに、周囲の重臣たちがまた小さく息をのむ。実利と戦略を兼ね備えた二つの地。港湾とは別の意味で、未来の動脈となる場所だ。
「なるほど……新宿は街道の咽喉、鎌倉は海門の盾か。」
慶喜は楽しげに目を細め、老中に視線を送った。
「書き入れておけ。」
その瞬間、広間の空気は再び引き締まった。褒美は領地の石高だけではない。拠点、港、街道――それらをどう組み合わせるかが、これからの国を形づくる。
障子の外、冬の空は白く曇り、雪の気配が漂っていた。藤村は深く一礼し、静かに席へ戻る。その胸の内では、すでに内藤新宿と鎌倉をどう繋ぎ、大洗港・玉里港の動脈と組み合わせるかの図が描かれ始めていた。
評定がひと区切りつくと、老中の一人が手元の帳簿を開き、別の巻物を広げた。
「さて、長州領の残余について申し上げます。」
畳の上に置かれた地図には、山口・萩・下関周辺の町と港が細かく描かれている。港湾ごとに色が引かれ、その横には石高と収入見込みが記されていた。
「下関は松陰殿へ――藤村の推挙によるもの。萩城下と内陸農地は幕府直轄、軍需品の集積地は会津と薩摩へ分配。それぞれ戦功と兵の負担に応じる。」
重臣たちが頷き、筆を走らせる。軍功藩の代表は深く頭を下げ、安堵の息をもらす。
「これで兵も領も、無理なく収まります。」
慶喜は藤村の方を振り返った。
「お前の言い出しは人を驚かせたが……港を押さえた松陰がどう動くか、楽しみだ。」
藤村は軽く笑みを返す。
「彼なら港を活かすでしょう。外との交易を広げ、藩を立て直すはずです。」
***
評定が終わり、別室に移ると、慶篤と昭武が待っていた。まだ年若い二人は、巻物や帳簿を抱え、目を輝かせている。
「藤村様、今日は褒美の話ばかりで……勉強の話は出ませんでしたね。」
慶篤の言葉に、藤村は笑って机に座らせた。
「出さずとも、始めるのは今だ。慶篤、お前は簿記を覚えろ。論点、費用、代替案、期日――評定で通る要点の書き方だ。数字で物を動かせるようになれ。」
「はい。」
「昭武、お前は外交だ。まずは仏語と英語の儀礼、それに関税の計算式を覚える。言葉と数字は、国を動かす両輪だ。」
昭武は真剣な顔で頷いた。
***
そこへ渋沢が帳簿を抱えて入ってくる。
「関税の年内見込みが出ました。安政五年(1858年)開始以来、今年は百九十万両に届きます。」
藤村は帳簿を覗き込み、頷く。
「翌年は贅沢品税率を引き上げる。二百十万は狙えるな。」
渋沢が指で該当箇所を示す。
「はい。酒類、絹織物、海外装飾品に重点を置けば、増収は確実です。」
慶篤が感心したように言った。
「数字だけでなく、品目まで細かく見るのですね。」
「そうだ。数字は現場の匂いがしてこそ生きる。」
***
その日の夕刻、羽鳥城下から早馬が到着した。封を切ると、中には陶器、酒、織物の規格統一案が松陰の名で承認された旨が記されていた。
「動きが早いな。」
藤村は感心しつつ、傍らの地図に視線を移す。
「これで玉里港の通関施設設計にも拍車がかかる。軍艦も商船も受け入れられる港がまた一つ増える。」
慶喜からの褒美で得た内藤新宿の地は兵站の拠点に、鎌倉の沿岸部は静養と海防の基地に――そして大洗港、玉里港、松陰の下関が一本の線で繋がっていく。
藤村の脳裏には、港から港へと荷を運ぶ船の列と、それを管理する人々の姿が鮮やかに浮かんでいた。
内藤新宿の空は、朝のうち薄く曇り、やがて冬の陽が白く差した。青く塗り直した高札場の脇に、仮の「兵站会所」が立てられている。土間には縄で区切った荷置き場、奥には帳場、外には馬つなぎ杭が十本。標木には大きく「入・出・返」と書かれ、返の札の下には空き瓶回収の桶が並んでいた。
「ここが江戸西口の“喉”になる。人と荷の流れを、まずは目で見えるように。」
藤村が言うと、渋沢が頷き、黒板に白墨で三列の表を書いた。左に荷名、中に数量、右に時刻。檸緑の空瓶は何本返り、酸乳の壺はどこへ出るか、干芋の標準箱「常」は今何段積みか――数字は刻々と更新されていく。
「旦那、返した瓶は本当に二文で戻ってくるんで?」
近在の女将が半信半疑で桶を覗く。藤村は笑って札を示した。
「ここに印を押す。瓶は銭だ。割るな、磨け、回せ。」
女将はうなずき、桶の水で瓶口をすすいだ。冬の光が口径をきらりと光らせる。
宿場の年寄が煤けた帳面を抱えてやってきた。
「藤村様、茶屋の並びを変えるって話、ほんとで?」
「通りに“帯”を作る。東は客の帯、西は荷の帯。交差をなくせば喧嘩も減る。」
年寄は目を丸くした。
「道を分けるだけで?」
「それだけで、人はぶつからなくなる。ぶつからねば、心もぶつからない。」
外では若い衆が手押し車を押し、印のついた箱を所定の枠に滑り込ませていく。箱の側面の「常」の焼印は、新宿の寒風にさらされても鮮やかだった。やがて、鎌倉からの使いが駆け込む。潮で濡れた襟巻きのまま礼をし、書付を差し出した。
「鎌倉の沿岸は、由比ヶ浜と材木座を“静養”と“海防”で区分けいたしました。風の弱い日は患者を浜に出し、強い日は松林の中で日を浴びさせます。」
「桶と石鹸、手水の札は?」
「常備に。」
「よし。見張り台と旗の棚、潮汐表も忘れるな。」
藤村は地図を広げ、内藤新宿と鎌倉を指で結んだ。江戸—新宿—玉里—大洗—下関――運河と街道、港と兵站が一本の糸でつながっていく。そこへ、小柄な医師が長衣の裾を踏みながら土間に入ってきた。
「藤村様、鎌倉の潮風療法、胸の病に効きます。洗浄と温湯、酸乳の三つを回せれば、寝込む兵は確かに減りましょう。」
「数字にしてくれ、先生。月ごとに“寝込んだ日”を勘定にする。」
医師は驚いたように笑った。
「病を銭で数えるのは不謹慎かと思っていましたが……そうしてこそ軽くできる、ということですね。」
「そうだ。病も道も、数えて直す。」
昼時、会所の土間の奥で簡素な賄いが始まった。握り飯に干納豆、薄い檸緑湯。若い人足が湯呑をすする。
「この青い湯、悪くないな。腹があったまる。」
「においが薄い日は、手も洗いやすい。」女将が笑う。卓の端では小四郎が日計表をつけ、返瓶と前受の勘定を二度、三度と検算していた。
「誤差、ゼロでした!」
「なら、札に“ゼロ”と書け。人は札を見る。人が見るから、数字は守られる。」
午後、内藤新宿の裏手に、荷の振り分け場を新設した。藁を厚く敷き、粗い雨除けを渡す。番頭の一人が小声で尋ねる。
「ここまで手を入れるなら、いっそ“逓送”の役所を置いては?」
「置こう。手紙と小荷物は別の帯で流す。官と民とを一つの帳で回すのは、喉の負担が大きい。」
渋沢がそうだそうだと頷き、ふと懐から別の書付を出した。
「北海道調査隊からの報告です。石狩平野、稲の適地あり。風は強いが、用水を工夫すれば。」
藤村は目を走らせ、すぐに指示した。
「酸乳の瓶、十箱分を“実験”と札して送れ。産婆講の紙と一緒に。種籾は春先に回す。」
日が傾くころ、鎌倉へ向かう荷駄隊が会所前を出ていった。先頭の旗には、青い丸で「静養」と書かれ、後続の荷車には寝具と石鹸の箱が見える。馬子が帽子をつまみ、藤村に一礼した。
「道すがら、悪水の井戸には蓋を。札の赤は怖いが、命が助かる。」
「承知。」
夕刻、会所の帳場に灯がともる。今日は内藤新宿に常設の見張り番を増やし、夜間は荷ではなく人の帯を広げると決めた。夜に動くのは人、朝に動くのは荷――帯を時間で入れ替えるだけで、争いも盗難も目に見えて減るだろう。渋沢が朱で印をつける。
「会津・薩摩・幕府の繰上返済、優先順位をここに。」
三行の横に小さな丸がつく。
「港の稼ぎが確実に立つまでは、会津を先に。次に薩摩、最後に幕府本丸。金は恨みになりやすい、順を守れば恨みは薄れる。」
「書き残しておきます。」
そこへ、遠州から来たという古刀商が、表でおずおずと頭を下げた。
「内藤新宿で刀の見世を出してよいものでしょうか。」
「構わぬ。ただし“札”を守れ。刃物は荷の帯ではなく人の帯へ。柄に布を巻き、裸で運ぶな。」
男は胸に手を当てた。
「ありがてぇ。札なら守れます。」
夜気が降りると、鎌倉の方角から冷たい風が吹き上がってきた。藤村は外へ出る。街道の明かりが点々と続き、遠くに江戸の灯が滲む。背後で小四郎が背伸びをし、帳場の灯をひとつ消した。
「藤村様、明け方の荷は?」
「干芋が先、次に空瓶。兵は日が上ってから。寒いときは人を優先する。」
「はい。」
ふと、廊下の向こうで慶篤の姿が見えた。裃を脱ぎ、袴の裾をからげている。
「藤村、現場で“論点—費用—代替—期日”の型、やってみたい。」
「よし。明朝、荷の帯を切り替える刻に、ここでやれ。紙は短く、言葉は少なく。」
「承知。」
風に揺れる札を見上げながら、藤村は静かに息を吐いた。褒美として受けた新宿と鎌倉は、領地というより“習慣を作る場所”だ。帯を分け、札を立て、数字で動かす。人がそれを見て、真似をして、いつかは自分で変える。そうやって、港と街道は国の血流になる。
遠くで荷車の車輪が軋み、小さな笑い声が路地を渡った。今日決めたことは、明日には人の手で回り始める。回り始めたものは、やがて国を回す。藤村は袖口を直し、静かな夜の街道をもう一度見渡した。こんな寒い夜に、灯の下で札を書き換える誰かの手が、この国の秩序を明日の朝に渡してくれる――その確かさが、胸の奥に温かく灯っていた。
評定が終わり、重臣たちがぞろぞろと広間を後にした。廊下の障子越しに差し込む午後の光はやや傾き、庭の砂利が白く輝いている。
上座から立ち上がった慶喜は、肩を軽く回し、藤村に視線を送った。その口元に、ふっと笑みが浮かぶ。
「お前、あの場で松陰の名を出すとはな……まったく予想外だったぞ」
藤村は膝を正し、静かに頭を下げた。
「港の地は、私がもらうより、あの人に委ねた方が活きます。私は後ろから支える方が性に合っておりますので」
「無欲なようで……腹の底では計算ずく、かもしれんな」
慶喜は冗談めかして言い、袖を払って歩き出す。
藤村はその背を見送りつつ、胸中で確信を新たにしていた――松陰が港を握れば必ず交易を広げ、民を潤す。その流れは、常陸や江戸の動脈と結びつく。
──
羽鳥城へ戻ったのは、京から大坂を経ての海路と陸路を繋いで三日後だった。
京を発つとすぐ大坂湾へ下り、蒸気船で紀伊水道を抜け、太平洋沿いに東進する。冬の海は冷たく澄み、波は穏やかだった。船は大洗港へ直接入り、港からは運河を小舟で遡って内陸へ。川面を渡る風は冷たく、霜を帯びた葦がきらめいていた。そこから馬に乗り換え、雪雲の下を北へと急いだ。
城門をくぐると、慶篤、昭武、小四郎の三人が出迎えに現れた。
「藤村様、本当に松陰殿に……あの地を?」
慶篤が開口一番、問いを投げる。
藤村は頷き、三人を奥の間へ招き入れた。
「港の力は、人を選ぶ。松陰は地を知り、志がある。私が抱えるより、よほど良い」
昭武が眉をひそめる。
「ですが尊攘派の中には、あなたを快く思わぬ者も多いでしょう」
「最初は反発するだろう。久坂玄瑞のような者は、特にだ。だが功を立てれば褒め、誤れば正す。それを繰り返せば、互いに使いこなせる」
小四郎が帳簿を抱え、静かに言った。
「きっと松陰殿にも、藤村様の意は伝わります」
──
その夜、囲炉裏端で簡素な膳を囲みながら、藤村は課題を告げた。
「慶篤、お前は簿記の基礎を叩き込む。論点、費用、代替案、期日……評定で通る書き方を覚えろ」
「はい」
「昭武は外交だ。英語と仏語に加え、関税計算を覚えろ。交渉は言葉と数字が武器だ」
「承知しました」
「小四郎は日計の誤差ゼロを続けろ。地味だが、藩の足腰を固める仕事だ」
三人の表情には、はっきりと覚悟が浮かんでいた。
──
数日後、渋沢が関税収入の帳簿を手に現れた。
「今年は百九十万両に届きます。安政五年以来の最高額です」
「来年は贅沢品の税率を上げる。二百十万は狙えるな」
「はい。酒類、絹、海外装飾品を重点にすれば確実です」
慶篤が感嘆の声を漏らす。
「品目まで見極めるのですね」
「数字は現場の匂いと共にあってこそ生きる」
──
夕刻、羽鳥港から早船が着き、松陰承認の陶器・酒・織物の規格統一案が届いた。
「動きが早いな……」
藤村は地図を広げ、鎌倉、内藤新宿、大洗港、玉里港、下関を結ぶ線を指でなぞる。
「これらの拠点を一本の線で繋げば、内も外も動く。港の秩序は、道と倉と人で支える」
囲炉裏の火がぱちぱちと鳴る中、雪混じりの風が外を走る。
藤村はその音を背に、港と街道の結び付けをさらに強める策を、静かに練っていた。
冬の朝の空気は、羽鳥港の石畳を白く硬くしていた。吐く息はすぐに霧となり、櫓の音と混ざって消えていく。港の沖合には、帆を畳んだ小型の運搬船が二隻、静かに浮かんでいた。船縁からは濡れた縄が垂れ、波に合わせて上下している。
藤村は埠頭に立ち、両手を懐に入れながらその光景を見つめた。足元では、木札を束ねた若い港役人が、箱に焼印を押している。「常」の文字が浮かび上がるたび、白い湯気が立ち昇った。
「今日の便は、大洗経由で玉里まで回します」
港監督役の年配の武士が、巻物を広げながら報告した。そこには運河を経由した航路図と、各港での荷役予定時刻が細かく記されている。
「新宿へ行く荷はどうだ」
「はい。玉里で陸揚げし、街道筋の新宿拠点まで三日で届けます。鎌倉向けの物資も同じ便に積んでいます」
藤村は頷き、地図上で大洗港から玉里港、そこから街道で内藤新宿へ、さらに鎌倉へ至る線を指でなぞった。すべての拠点が、まるで一つの血管のように繋がっていく。
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港の隅では、鎌倉から来た職人たちが、海防施設の模型を囲んでいた。鎌倉沿岸は冬の高波に備えるため、石垣と防波堤の補強が急務だった。模型の上には、砲座や見張り櫓の位置が小さな旗で示されている。
「鎌倉の潮流と風向きは、ここ十年で変わってきています」
職人の一人がそう指摘すると、藤村はすぐに紙を取り、玉里港の観測記録と照らし合わせた。
「……なるほど、外海に面した防波堤はもう一間伸ばす必要があるな。砲座は南東へ五間ずらせ」
指示を受けた職人たちは頷き、模型の旗を一つひとつ移動させていった。その横顔に、寒風が吹きつけ、白い息が流れた。
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昼近く、港に一艘の早船が入った。船首には「萩」と染め抜かれた旗。松陰の使者だった。船べりから飛び降りた若い使者は、濡れた裾も構わず藤村の前に進み出る。
「藤村様、松陰公よりの書状をお届けに参りました」
封を切ると、中には統一規格の港積載表と、下関港での兵站運用案が細かく記されていた。荷の重さ、積み下ろしの順番、通行札の色分けに至るまで、現場の知恵が凝縮されている。
「……さすがだな」
藤村は紙を畳み、使者に笑みを向けた。
「港は生き物だ。人と荷と潮の流れを合わせれば、必ず強くなる。松陰公にそう伝えてくれ」
使者は深く頭を下げ、再び船へ戻っていった。
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午後、藤村は港の倉庫群へ足を運んだ。ここには玉里、大洗、鎌倉、下関の各港から運ばれた物資が一時的に集められる。倉庫の入り口には赤札・青札・黄札が掲げられ、用途ごとに仕分けられていた。
「青札は民需、黄は検査中、赤は軍需だ」
渋沢が横から説明を添える。
「札の色で港内の動線が変わります。間違いがなければ、荷は一刻も無駄にしません」
兵士と荷役人夫たちが、札を確認しながら黙々と荷を運んでいく。木箱の中には酒樽、織物、陶器、そして鎌倉で焼かれた干物が詰まっていた。港の片隅では、酸乳の瓶詰めも行われており、冬の冷気を利用して保存性を高めている。
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日が傾く頃、藤村は港の高台へ上った。そこからは埠頭全体と沖合の船影が一望できた。遠く、大洗の方角に帆を掲げた船がいくつも並び、その先には霞む玉里港の灯がわずかに見える。
「この流れが止まらぬ限り、内も外も豊かになる……」
呟く藤村の脳裏には、将来の構想がさらに広がっていた。
内藤新宿は街道の咽喉として物資と人を受け入れ、鎌倉は海防と静養の拠点として機能する。大洗と玉里は運河を通じて背後地を結び、下関は西国の玄関口として、松陰の治める港町が交易の波を呼び込む。
すべての港が、互いに補い合う――それこそが藤村の描く未来の国土の姿だった。
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その夜、羽鳥城に戻った藤村は、囲炉裏端で暖を取りながら地図を広げた。港ごとの収支、街道の宿場、兵站倉庫の配置が緻密に描き込まれている。
渋沢が湯呑を差し出しながら言った。
「動きが早すぎると、周囲がついて来られませんぞ」
「だからこそ、見える形にするんだ。道も港も、数字もな」
囲炉裏の火がぱち、と音を立てる。外は雪が降り始め、港の灯りは遠く霞んでいた。
だが藤村の胸の内では、すでに春の航路図が鮮やかに描かれていた――その先にある、港と街道の完全な結び付きと、揺るがぬ秩序を信じて。
雪の舞う羽鳥城下を、夜明け前の早駆けが駆け抜けた。馬の蹄は凍った土を叩き、白い息が闇の中に溶ける。城門が開くと同時に、その使者は中へ入り、厳めしい声で名を告げた。
「京より急報――来春の兵站再編について、至急上使との協議を!」
藤村はまだ囲炉裏端で湯を啜っていたが、その声を聞くや即座に立ち上がった。襟を正し、使者から巻物を受け取る。封を切ると、そこには新設される兵站港の候補地一覧、陸路・海路の行軍日程、そして港間の補給間隔が細かく記されていた。
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午前のうちに、城の作戦室には慶篤、昭武、小四郎、渋沢らが集められた。壁一面には地図が広げられ、赤い糸が港と港、宿場と宿場を結んでいる。
「京からの指示は、玉里港と下関を補給港とし、大洗・鎌倉・内藤新宿を結ぶ兵站線を来春までに完全整備せよ、というものだ」
藤村の声に、慶篤が地図へ視線を落とす。
「……この線がすべて繋がれば、西国への物資輸送は半減する日数で済みますな」
「そうだ。ただし、海路と陸路を無理に繋げば、かえって隘路ができる。そこで――」
藤村は赤糸の交点に白札を置き、そこへ数字を書き込んだ。
「ここに中継倉庫を設ける。積載・仕分け・再積載の三工程を一昼夜で終える体制だ」
昭武が手元の帳簿をめくり、物資ごとの重量と回転率を読み上げる。
「酒樽、干物、織物、酸乳……重量と傷みやすさで順番を決めれば、港内の混乱は避けられます」
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昼過ぎ、藤村は鎌倉からの測量隊を迎えた。彼らは鎌倉沿岸の地図を机に広げ、海防と港機能の両立案を提示した。
「鎌倉は海防砲座を内湾寄りに移し、その背後に兵の静養所を併設します。これで冬場でも航行を維持できます」
藤村は頷き、指先で大洗港との距離を測った。
「潮待ちの時間を最短にすれば、玉里港経由で江戸まで五日……十分に間に合う」
このやり取りを聞いていた渋沢が、紙片を差し出した。
「各港の維持費試算です。大洗・玉里・鎌倉・下関の四港で、年間十八万両。兵站線全体で二十二万両です」
「財源は?」
「四国賠償の分配分と、来年の関税増収分で全額賄えます」
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夕刻、城の上階から港を見下ろすと、帆柱が雪明かりに黒く浮かんでいた。小舟が幾つも沖に向かい、入れ替わりに新しい船が入ってくる。港の灯は雪に反射し、赤や青の札が倉庫の壁で淡く光っていた。
藤村は黙ってその光景を眺めた。目に映るのは単なる荷役の往来ではない。鎌倉へ伸びる海道、内藤新宿へ続く街道、大洗と玉里を結ぶ運河――それら全てが一本の動脈として脈打つ姿だ。
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夜、執務室に戻ると、机の上にもう一通、京からの書状が置かれていた。差出人は慶喜。
――「来春、西国情勢は大きく動く。港と街道の結び付きは、戦と政の両方を左右する。お前の描く線を、必ず形にせよ」――
墨痕の残るその文を見つめ、藤村はゆっくりと息を吐いた。
「形にする……か」
囲炉裏の火が小さく爆ぜ、部屋の隅で影が揺れた。雪はやむ気配を見せず、港からの鐘の音が遠く響く。藤村の胸の内では、すでに春の兵站線が完成した地図が描かれていた。
その地図の上では、港と港、街と街、人と人――すべてがひとつの秩序のもとで動いていた。