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113話:論功行賞—褒美の重さ

冬の気配が、宮中の長い廊下を静かに満たしていた。障子越しの光は薄く、庭の砂に落ちた紅葉の残りが霜に縁取られている。北から吹き込む風は冷たく、廊下を渡るたびに衣の袖がわずかに揺れた。


 大広間の奥、上座には将軍徳川慶喜が座している。裃姿の老中、諸藩の重臣が左右に並び、その視線は一斉に中央へ注がれていた。


 「長州征伐の戦功第一――藤村。」


 低く響く慶喜の声に、広間がわずかにざわめく。藤村は膝を進め、畳に手をつき、深く頭を下げた。


 「勅命と将軍家の信任、恐悦至極に存じます。」


 慶喜の右手には、巻き上げられた沙汰書があった。その紙がほどかれ、老中が朗々と読み上げる。


 「長州分封 三十六万九千石――下関を含む港湾地一帯を、新たに藤村の所領とする。」


 ざわ、と左右の列が小さく揺れた。戦の功としては異例の大領、しかも港を含む要衝地だ。だが藤村の返答は、意外なほどあっさりしていた。


 「……御意。しかし、この領地、拙者には過ぎたるものにございます。」


 その場の空気が一瞬凍りついた。慶喜の眉がわずかに動く。


 「過ぎたる、とは?」


 藤村は顔を上げず、静かに言葉を継いだ。


 「長州の地は、これより民を立て直すことが肝要。ならば、その舵取りは、地を知り、志を持つ者に委ねるべきと存じます。」


 「では、誰を推す。」


 「……吉田松陰殿。」


 広間に再びざわめきが走った。存命の吉田松陰――尊攘の志士として名高く、だが幕府にとっては異色の人物。その名をこの場で挙げるとは。


 慶喜はしばし藤村を見つめ、やがて小さく笑みを漏らした。


 「松陰を藩主とするか。藤村、お前は財政で支えるつもりか。」


 「はい。港の収益、通商の利を背景に、藩の復興を助けます。久坂玄瑞ら気骨ある者も、最初は反発するやもしれませんが……やがて使いこなしてみせます。」


 慶喜は頷き、沙汰書を脇に置いた。


 「よかろう。その意を汲み、この地は松陰に与える。」


 安堵とも驚きともつかぬ空気が広間を包む中、慶喜はふと表情を和らげた。


 「無欲なやつだ……では、他に望む褒美はないのか。」


 藤村はわずかに考え、やがて顔を上げた。


 「恐れながら――江戸の西口にあたる内藤新宿の一帯を、商いと兵站の要地として賜りたく。加えて、鎌倉の沿岸部を、兵の静養と海防の拠点として。」


 その答えに、周囲の重臣たちがまた小さく息をのむ。実利と戦略を兼ね備えた二つの地。港湾とは別の意味で、未来の動脈となる場所だ。


 「なるほど……新宿は街道の咽喉、鎌倉は海門の盾か。」


 慶喜は楽しげに目を細め、老中に視線を送った。


 「書き入れておけ。」


 その瞬間、広間の空気は再び引き締まった。褒美は領地の石高だけではない。拠点、港、街道――それらをどう組み合わせるかが、これからの国を形づくる。


 障子の外、冬の空は白く曇り、雪の気配が漂っていた。藤村は深く一礼し、静かに席へ戻る。その胸の内では、すでに内藤新宿と鎌倉をどう繋ぎ、大洗港・玉里港の動脈と組み合わせるかの図が描かれ始めていた。

評定がひと区切りつくと、老中の一人が手元の帳簿を開き、別の巻物を広げた。


 「さて、長州領の残余について申し上げます。」


 畳の上に置かれた地図には、山口・萩・下関周辺の町と港が細かく描かれている。港湾ごとに色が引かれ、その横には石高と収入見込みが記されていた。


 「下関は松陰殿へ――藤村の推挙によるもの。萩城下と内陸農地は幕府直轄、軍需品の集積地は会津と薩摩へ分配。それぞれ戦功と兵の負担に応じる。」


 重臣たちが頷き、筆を走らせる。軍功藩の代表は深く頭を下げ、安堵の息をもらす。


 「これで兵も領も、無理なく収まります。」


 慶喜は藤村の方を振り返った。


 「お前の言い出しは人を驚かせたが……港を押さえた松陰がどう動くか、楽しみだ。」


 藤村は軽く笑みを返す。


 「彼なら港を活かすでしょう。外との交易を広げ、藩を立て直すはずです。」


 ***


 評定が終わり、別室に移ると、慶篤と昭武が待っていた。まだ年若い二人は、巻物や帳簿を抱え、目を輝かせている。


 「藤村様、今日は褒美の話ばかりで……勉強の話は出ませんでしたね。」


 慶篤の言葉に、藤村は笑って机に座らせた。


 「出さずとも、始めるのは今だ。慶篤、お前は簿記を覚えろ。論点、費用、代替案、期日――評定で通る要点の書き方だ。数字で物を動かせるようになれ。」


 「はい。」


 「昭武、お前は外交だ。まずは仏語と英語の儀礼、それに関税の計算式を覚える。言葉と数字は、国を動かす両輪だ。」


 昭武は真剣な顔で頷いた。


 ***


 そこへ渋沢が帳簿を抱えて入ってくる。


 「関税の年内見込みが出ました。安政五年(1858年)開始以来、今年は百九十万両に届きます。」


 藤村は帳簿を覗き込み、頷く。


 「翌年は贅沢品税率を引き上げる。二百十万は狙えるな。」


 渋沢が指で該当箇所を示す。


 「はい。酒類、絹織物、海外装飾品に重点を置けば、増収は確実です。」


 慶篤が感心したように言った。


 「数字だけでなく、品目まで細かく見るのですね。」


 「そうだ。数字は現場の匂いがしてこそ生きる。」


 ***


 その日の夕刻、羽鳥城下から早馬が到着した。封を切ると、中には陶器、酒、織物の規格統一案が松陰の名で承認された旨が記されていた。


 「動きが早いな。」


 藤村は感心しつつ、傍らの地図に視線を移す。


 「これで玉里港の通関施設設計にも拍車がかかる。軍艦も商船も受け入れられる港がまた一つ増える。」


 慶喜からの褒美で得た内藤新宿の地は兵站の拠点に、鎌倉の沿岸部は静養と海防の基地に――そして大洗港、玉里港、松陰の下関が一本の線で繋がっていく。


 藤村の脳裏には、港から港へと荷を運ぶ船の列と、それを管理する人々の姿が鮮やかに浮かんでいた。

内藤新宿の空は、朝のうち薄く曇り、やがて冬の陽が白く差した。青く塗り直した高札場の脇に、仮の「兵站会所」が立てられている。土間には縄で区切った荷置き場、奥には帳場、外には馬つなぎ杭が十本。標木には大きく「入・出・返」と書かれ、返の札の下には空き瓶回収の桶が並んでいた。


 「ここが江戸西口の“喉”になる。人と荷の流れを、まずは目で見えるように。」


 藤村が言うと、渋沢が頷き、黒板に白墨で三列の表を書いた。左に荷名、中に数量、右に時刻。檸緑の空瓶は何本返り、酸乳の壺はどこへ出るか、干芋の標準箱「常」は今何段積みか――数字は刻々と更新されていく。


 「旦那、返した瓶は本当に二文で戻ってくるんで?」

 近在の女将が半信半疑で桶を覗く。藤村は笑って札を示した。

 「ここに印を押す。瓶は銭だ。割るな、磨け、回せ。」

 女将はうなずき、桶の水で瓶口をすすいだ。冬の光が口径をきらりと光らせる。


 宿場の年寄が煤けた帳面を抱えてやってきた。

 「藤村様、茶屋の並びを変えるって話、ほんとで?」

 「通りに“帯”を作る。東は客の帯、西は荷の帯。交差をなくせば喧嘩も減る。」

 年寄は目を丸くした。

 「道を分けるだけで?」

 「それだけで、人はぶつからなくなる。ぶつからねば、心もぶつからない。」


 外では若い衆が手押し車を押し、印のついた箱を所定の枠に滑り込ませていく。箱の側面の「常」の焼印は、新宿の寒風にさらされても鮮やかだった。やがて、鎌倉からの使いが駆け込む。潮で濡れた襟巻きのまま礼をし、書付を差し出した。


 「鎌倉の沿岸は、由比ヶ浜と材木座を“静養”と“海防”で区分けいたしました。風の弱い日は患者を浜に出し、強い日は松林の中で日を浴びさせます。」

 「桶と石鹸、手水の札は?」

 「常備に。」

 「よし。見張り台と旗の棚、潮汐表も忘れるな。」


 藤村は地図を広げ、内藤新宿と鎌倉を指で結んだ。江戸—新宿—玉里—大洗—下関――運河と街道、港と兵站が一本の糸でつながっていく。そこへ、小柄な医師が長衣の裾を踏みながら土間に入ってきた。


 「藤村様、鎌倉の潮風療法、胸の病に効きます。洗浄と温湯、酸乳の三つを回せれば、寝込む兵は確かに減りましょう。」

 「数字にしてくれ、先生。月ごとに“寝込んだ日”を勘定にする。」

 医師は驚いたように笑った。

 「病を銭で数えるのは不謹慎かと思っていましたが……そうしてこそ軽くできる、ということですね。」

 「そうだ。病も道も、数えて直す。」


 昼時、会所の土間の奥で簡素な賄いが始まった。握り飯に干納豆、薄い檸緑湯。若い人足が湯呑をすする。

 「この青い湯、悪くないな。腹があったまる。」

 「においが薄い日は、手も洗いやすい。」女将が笑う。卓の端では小四郎が日計表をつけ、返瓶と前受の勘定を二度、三度と検算していた。


 「誤差、ゼロでした!」

 「なら、札に“ゼロ”と書け。人は札を見る。人が見るから、数字は守られる。」


 午後、内藤新宿の裏手に、荷の振り分け場を新設した。藁を厚く敷き、粗い雨除けを渡す。番頭の一人が小声で尋ねる。

 「ここまで手を入れるなら、いっそ“逓送”の役所を置いては?」

 「置こう。手紙と小荷物は別の帯で流す。官と民とを一つの帳で回すのは、喉の負担が大きい。」


 渋沢がそうだそうだと頷き、ふと懐から別の書付を出した。

 「北海道調査隊からの報告です。石狩平野、稲の適地あり。風は強いが、用水を工夫すれば。」

 藤村は目を走らせ、すぐに指示した。

 「酸乳の瓶、十箱分を“実験”と札して送れ。産婆講の紙と一緒に。種籾は春先に回す。」


 日が傾くころ、鎌倉へ向かう荷駄隊が会所前を出ていった。先頭の旗には、青い丸で「静養」と書かれ、後続の荷車には寝具と石鹸の箱が見える。馬子が帽子をつまみ、藤村に一礼した。

 「道すがら、悪水の井戸には蓋を。札の赤は怖いが、命が助かる。」

 「承知。」


 夕刻、会所の帳場に灯がともる。今日は内藤新宿に常設の見張り番を増やし、夜間は荷ではなく人の帯を広げると決めた。夜に動くのは人、朝に動くのは荷――帯を時間で入れ替えるだけで、争いも盗難も目に見えて減るだろう。渋沢が朱で印をつける。

 「会津・薩摩・幕府の繰上返済、優先順位をここに。」

 三行の横に小さな丸がつく。

 「港の稼ぎが確実に立つまでは、会津を先に。次に薩摩、最後に幕府本丸。金は恨みになりやすい、順を守れば恨みは薄れる。」

 「書き残しておきます。」


 そこへ、遠州から来たという古刀商が、表でおずおずと頭を下げた。

 「内藤新宿で刀の見世を出してよいものでしょうか。」

 「構わぬ。ただし“札”を守れ。刃物は荷の帯ではなく人の帯へ。柄に布を巻き、裸で運ぶな。」

 男は胸に手を当てた。

 「ありがてぇ。札なら守れます。」


 夜気が降りると、鎌倉の方角から冷たい風が吹き上がってきた。藤村は外へ出る。街道の明かりが点々と続き、遠くに江戸の灯が滲む。背後で小四郎が背伸びをし、帳場の灯をひとつ消した。


 「藤村様、明け方の荷は?」

 「干芋が先、次に空瓶。兵は日が上ってから。寒いときは人を優先する。」

 「はい。」


 ふと、廊下の向こうで慶篤の姿が見えた。裃を脱ぎ、袴の裾をからげている。

 「藤村、現場で“論点—費用—代替—期日”の型、やってみたい。」

 「よし。明朝、荷の帯を切り替える刻に、ここでやれ。紙は短く、言葉は少なく。」

 「承知。」


 風に揺れる札を見上げながら、藤村は静かに息を吐いた。褒美として受けた新宿と鎌倉は、領地というより“習慣を作る場所”だ。帯を分け、札を立て、数字で動かす。人がそれを見て、真似をして、いつかは自分で変える。そうやって、港と街道は国の血流になる。


 遠くで荷車の車輪が軋み、小さな笑い声が路地を渡った。今日決めたことは、明日には人の手で回り始める。回り始めたものは、やがて国を回す。藤村は袖口を直し、静かな夜の街道をもう一度見渡した。こんな寒い夜に、灯の下で札を書き換える誰かの手が、この国の秩序を明日の朝に渡してくれる――その確かさが、胸の奥に温かく灯っていた。

評定が終わり、重臣たちがぞろぞろと広間を後にした。廊下の障子越しに差し込む午後の光はやや傾き、庭の砂利が白く輝いている。

 上座から立ち上がった慶喜は、肩を軽く回し、藤村に視線を送った。その口元に、ふっと笑みが浮かぶ。


 「お前、あの場で松陰の名を出すとはな……まったく予想外だったぞ」


 藤村は膝を正し、静かに頭を下げた。

 「港の地は、私がもらうより、あの人に委ねた方が活きます。私は後ろから支える方が性に合っておりますので」


 「無欲なようで……腹の底では計算ずく、かもしれんな」

 慶喜は冗談めかして言い、袖を払って歩き出す。

 藤村はその背を見送りつつ、胸中で確信を新たにしていた――松陰が港を握れば必ず交易を広げ、民を潤す。その流れは、常陸や江戸の動脈と結びつく。


 ──


 羽鳥城へ戻ったのは、京から大坂を経ての海路と陸路を繋いで三日後だった。

 京を発つとすぐ大坂湾へ下り、蒸気船で紀伊水道を抜け、太平洋沿いに東進する。冬の海は冷たく澄み、波は穏やかだった。船は大洗港へ直接入り、港からは運河を小舟で遡って内陸へ。川面を渡る風は冷たく、霜を帯びた葦がきらめいていた。そこから馬に乗り換え、雪雲の下を北へと急いだ。


 城門をくぐると、慶篤、昭武、小四郎の三人が出迎えに現れた。

 「藤村様、本当に松陰殿に……あの地を?」

 慶篤が開口一番、問いを投げる。


 藤村は頷き、三人を奥の間へ招き入れた。

 「港の力は、人を選ぶ。松陰は地を知り、志がある。私が抱えるより、よほど良い」


 昭武が眉をひそめる。

 「ですが尊攘派の中には、あなたを快く思わぬ者も多いでしょう」


 「最初は反発するだろう。久坂玄瑞のような者は、特にだ。だが功を立てれば褒め、誤れば正す。それを繰り返せば、互いに使いこなせる」


 小四郎が帳簿を抱え、静かに言った。

 「きっと松陰殿にも、藤村様の意は伝わります」


 ──


 その夜、囲炉裏端で簡素な膳を囲みながら、藤村は課題を告げた。

 「慶篤、お前は簿記の基礎を叩き込む。論点、費用、代替案、期日……評定で通る書き方を覚えろ」

 「はい」


 「昭武は外交だ。英語と仏語に加え、関税計算を覚えろ。交渉は言葉と数字が武器だ」

 「承知しました」


 「小四郎は日計の誤差ゼロを続けろ。地味だが、藩の足腰を固める仕事だ」


 三人の表情には、はっきりと覚悟が浮かんでいた。


 ──


 数日後、渋沢が関税収入の帳簿を手に現れた。

 「今年は百九十万両に届きます。安政五年以来の最高額です」


 「来年は贅沢品の税率を上げる。二百十万は狙えるな」

 「はい。酒類、絹、海外装飾品を重点にすれば確実です」


 慶篤が感嘆の声を漏らす。

 「品目まで見極めるのですね」

 「数字は現場の匂いと共にあってこそ生きる」


 ──


 夕刻、羽鳥港から早船が着き、松陰承認の陶器・酒・織物の規格統一案が届いた。

 「動きが早いな……」


 藤村は地図を広げ、鎌倉、内藤新宿、大洗港、玉里港、下関を結ぶ線を指でなぞる。

 「これらの拠点を一本の線で繋げば、内も外も動く。港の秩序は、道と倉と人で支える」


 囲炉裏の火がぱちぱちと鳴る中、雪混じりの風が外を走る。

 藤村はその音を背に、港と街道の結び付けをさらに強める策を、静かに練っていた。

冬の朝の空気は、羽鳥港の石畳を白く硬くしていた。吐く息はすぐに霧となり、櫓の音と混ざって消えていく。港の沖合には、帆を畳んだ小型の運搬船が二隻、静かに浮かんでいた。船縁からは濡れた縄が垂れ、波に合わせて上下している。


 藤村は埠頭に立ち、両手を懐に入れながらその光景を見つめた。足元では、木札を束ねた若い港役人が、箱に焼印を押している。「常」の文字が浮かび上がるたび、白い湯気が立ち昇った。


 「今日の便は、大洗経由で玉里まで回します」

 港監督役の年配の武士が、巻物を広げながら報告した。そこには運河を経由した航路図と、各港での荷役予定時刻が細かく記されている。


 「新宿へ行く荷はどうだ」

 「はい。玉里で陸揚げし、街道筋の新宿拠点まで三日で届けます。鎌倉向けの物資も同じ便に積んでいます」


 藤村は頷き、地図上で大洗港から玉里港、そこから街道で内藤新宿へ、さらに鎌倉へ至る線を指でなぞった。すべての拠点が、まるで一つの血管のように繋がっていく。



 港の隅では、鎌倉から来た職人たちが、海防施設の模型を囲んでいた。鎌倉沿岸は冬の高波に備えるため、石垣と防波堤の補強が急務だった。模型の上には、砲座や見張り櫓の位置が小さな旗で示されている。


 「鎌倉の潮流と風向きは、ここ十年で変わってきています」

 職人の一人がそう指摘すると、藤村はすぐに紙を取り、玉里港の観測記録と照らし合わせた。


 「……なるほど、外海に面した防波堤はもう一間伸ばす必要があるな。砲座は南東へ五間ずらせ」


 指示を受けた職人たちは頷き、模型の旗を一つひとつ移動させていった。その横顔に、寒風が吹きつけ、白い息が流れた。



 昼近く、港に一艘の早船が入った。船首には「萩」と染め抜かれた旗。松陰の使者だった。船べりから飛び降りた若い使者は、濡れた裾も構わず藤村の前に進み出る。


 「藤村様、松陰公よりの書状をお届けに参りました」


 封を切ると、中には統一規格の港積載表と、下関港での兵站運用案が細かく記されていた。荷の重さ、積み下ろしの順番、通行札の色分けに至るまで、現場の知恵が凝縮されている。


 「……さすがだな」

 藤村は紙を畳み、使者に笑みを向けた。

 「港は生き物だ。人と荷と潮の流れを合わせれば、必ず強くなる。松陰公にそう伝えてくれ」


 使者は深く頭を下げ、再び船へ戻っていった。



 午後、藤村は港の倉庫群へ足を運んだ。ここには玉里、大洗、鎌倉、下関の各港から運ばれた物資が一時的に集められる。倉庫の入り口には赤札・青札・黄札が掲げられ、用途ごとに仕分けられていた。


 「青札は民需、黄は検査中、赤は軍需だ」

 渋沢が横から説明を添える。

 「札の色で港内の動線が変わります。間違いがなければ、荷は一刻も無駄にしません」


 兵士と荷役人夫たちが、札を確認しながら黙々と荷を運んでいく。木箱の中には酒樽、織物、陶器、そして鎌倉で焼かれた干物が詰まっていた。港の片隅では、酸乳の瓶詰めも行われており、冬の冷気を利用して保存性を高めている。



 日が傾く頃、藤村は港の高台へ上った。そこからは埠頭全体と沖合の船影が一望できた。遠く、大洗の方角に帆を掲げた船がいくつも並び、その先には霞む玉里港の灯がわずかに見える。


 「この流れが止まらぬ限り、内も外も豊かになる……」

 呟く藤村の脳裏には、将来の構想がさらに広がっていた。


 内藤新宿は街道の咽喉として物資と人を受け入れ、鎌倉は海防と静養の拠点として機能する。大洗と玉里は運河を通じて背後地を結び、下関は西国の玄関口として、松陰の治める港町が交易の波を呼び込む。


 すべての港が、互いに補い合う――それこそが藤村の描く未来の国土の姿だった。



 その夜、羽鳥城に戻った藤村は、囲炉裏端で暖を取りながら地図を広げた。港ごとの収支、街道の宿場、兵站倉庫の配置が緻密に描き込まれている。


 渋沢が湯呑を差し出しながら言った。

 「動きが早すぎると、周囲がついて来られませんぞ」


 「だからこそ、見える形にするんだ。道も港も、数字もな」


 囲炉裏の火がぱち、と音を立てる。外は雪が降り始め、港の灯りは遠く霞んでいた。

 だが藤村の胸の内では、すでに春の航路図が鮮やかに描かれていた――その先にある、港と街道の完全な結び付きと、揺るがぬ秩序を信じて。

雪の舞う羽鳥城下を、夜明け前の早駆けが駆け抜けた。馬の蹄は凍った土を叩き、白い息が闇の中に溶ける。城門が開くと同時に、その使者は中へ入り、厳めしい声で名を告げた。


 「京より急報――来春の兵站再編について、至急上使との協議を!」


 藤村はまだ囲炉裏端で湯を啜っていたが、その声を聞くや即座に立ち上がった。襟を正し、使者から巻物を受け取る。封を切ると、そこには新設される兵站港の候補地一覧、陸路・海路の行軍日程、そして港間の補給間隔が細かく記されていた。



 午前のうちに、城の作戦室には慶篤、昭武、小四郎、渋沢らが集められた。壁一面には地図が広げられ、赤い糸が港と港、宿場と宿場を結んでいる。


 「京からの指示は、玉里港と下関を補給港とし、大洗・鎌倉・内藤新宿を結ぶ兵站線を来春までに完全整備せよ、というものだ」


 藤村の声に、慶篤が地図へ視線を落とす。

 「……この線がすべて繋がれば、西国への物資輸送は半減する日数で済みますな」


 「そうだ。ただし、海路と陸路を無理に繋げば、かえって隘路ができる。そこで――」


 藤村は赤糸の交点に白札を置き、そこへ数字を書き込んだ。

 「ここに中継倉庫を設ける。積載・仕分け・再積載の三工程を一昼夜で終える体制だ」


 昭武が手元の帳簿をめくり、物資ごとの重量と回転率を読み上げる。

 「酒樽、干物、織物、酸乳……重量と傷みやすさで順番を決めれば、港内の混乱は避けられます」



 昼過ぎ、藤村は鎌倉からの測量隊を迎えた。彼らは鎌倉沿岸の地図を机に広げ、海防と港機能の両立案を提示した。


 「鎌倉は海防砲座を内湾寄りに移し、その背後に兵の静養所を併設します。これで冬場でも航行を維持できます」


 藤村は頷き、指先で大洗港との距離を測った。

 「潮待ちの時間を最短にすれば、玉里港経由で江戸まで五日……十分に間に合う」


 このやり取りを聞いていた渋沢が、紙片を差し出した。

 「各港の維持費試算です。大洗・玉里・鎌倉・下関の四港で、年間十八万両。兵站線全体で二十二万両です」


 「財源は?」

 「四国賠償の分配分と、来年の関税増収分で全額賄えます」



 夕刻、城の上階から港を見下ろすと、帆柱が雪明かりに黒く浮かんでいた。小舟が幾つも沖に向かい、入れ替わりに新しい船が入ってくる。港の灯は雪に反射し、赤や青の札が倉庫の壁で淡く光っていた。


 藤村は黙ってその光景を眺めた。目に映るのは単なる荷役の往来ではない。鎌倉へ伸びる海道、内藤新宿へ続く街道、大洗と玉里を結ぶ運河――それら全てが一本の動脈として脈打つ姿だ。



 夜、執務室に戻ると、机の上にもう一通、京からの書状が置かれていた。差出人は慶喜。


 ――「来春、西国情勢は大きく動く。港と街道の結び付きは、戦と政の両方を左右する。お前の描く線を、必ず形にせよ」――


 墨痕の残るその文を見つめ、藤村はゆっくりと息を吐いた。

 「形にする……か」


 囲炉裏の火が小さく爆ぜ、部屋の隅で影が揺れた。雪はやむ気配を見せず、港からの鐘の音が遠く響く。藤村の胸の内では、すでに春の兵站線が完成した地図が描かれていた。


 その地図の上では、港と港、街と街、人と人――すべてがひとつの秩序のもとで動いていた。

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