111話:萩、落つ—講和と三百万ドル
萩城下は、秋の風が吹くたびに冷えた潮の匂いを運んできた。
町の外からは、諸藩の陣営の旗が幾重にも重なって見える。三十五藩、総勢十五万——その圧は、城中の者たちに否応なく現実を突きつけていた。
この日、武家屋敷の広間には白畳が敷かれ、三方に屏風が立てられている。そこは、長州藩の命運を背負った者たちが最後の時を迎える場だった。
最初に進み出たのは藩主・毛利敬親。
齢を重ねた体を真っ直ぐに保ち、正座すると静かに口を開いた。
「国を失ったは、この老の不明ゆえ……」
その声は掠れていたが、部屋の隅々まで届いた。脇差に手をかけると、短い息とともに刃を引き、介錯の刀が閃いた。
続いて家老三名——福原越後、益田右衛門介、国司信濃。
福原は潔く、益田は「民を頼む」と言い残し、国司は震える手を必死に押さえていた。
外では町人たちが固唾を飲み、障子の向こうから伝わるわずかな衣擦れの音に耳を澄ませていた。
さらに、参謀四名——宍戸左馬之介、佐久間佐兵衛、竹内正兵衛、中村九郎。
彼らは若く、まだ刃を握る手に血の温もりが残っている。宍戸は「戦場に残してきた者の無念を」と呟き、佐久間は真っ直ぐに正面を見据えた。竹内は唇を噛み、最後まで何も言わず、中村は深く頭を下げてから座についた。
そして、高杉晋作、伊藤博文、井上馨、山縣有朋、桂小五郎——維新の志士として名を残すことになる彼らも、この場では同じ被告だった。
藤村は、その列を見つめながら心中で思う。
(この者たちの未来を断つことが、この戦の終わりを早める)
高杉は皮肉な笑みを浮かべ、「世の巡りは面白い」と一言残す。伊藤は黙して目を閉じ、井上は冷ややかな眼差しで藤村を見返した。山縣は拳を固く握り、桂は微かに笑みを浮かべたが、その瞳の奥は深く沈んでいた。
広間の外には渋沢が控え、時刻と順序を帳面に記していた。
「午前で八名、午後に残り……」
藤村は短く頷き、屏風の向こうから響く介錯の刀音を静かに受け止めた。
この瞬間、長州は武としての力を完全に失った。だが藤村の胸中には、冷たい達成感と同時に、言いようのない虚しさが広がっていた。
(人を断つことで国を守る……これが本当に正しいのか)
午後、萩城下の空気は一層重くなっていた。
午前の処刑場から戻った藤村は、城下町の中心に設けられた臨時政庁に向かった。土間には山口・萩一帯から集められた役人や町年寄が詰め、木札や帳面を手にひっきりなしに出入りしている。
渋沢が立ち上がり、手元の帳簿を広げた。
「没収済みの軍需倉は四十六棟、差し押さえ八棟。これだけで四十五万両を現金化できます」
「次は翌年収の前受けだ」
藤村の声に、会計方の役人が頷き、書付を差し出す。そこには米・塩・油の納入契約と、城下の有力商家による前金の額が記されていた。
「二十一万両、年明けの収穫に合わせて納める約束です」
「戦功公債は?」
「十万両分、すでに藩内と商家への割当完了」
「常陸からの臨時拠出は?」
「四万両、今月中に到着予定」
計算すれば八十九万両——講和と戦後処理を乗り切るための最低限の資金が揃う。
藤村は朱筆を走らせ、全ての金額に二重丸を付けた。
「これで外向きに『払える』と示せる。交渉の場に座るための切符だ」
政庁の奥では、昭武が英語とフランス語を並記した文案を机に広げていた。
「兄上、停火交渉の文案です。『港の安全回復』を冒頭に置き、その後に賠償と補償の要求を並べました」
紙面には整った筆致で、破損港湾・民需損害・不法砲撃の具体的な被害項目と金額が記され、最後に**“Compensation for stability of future commerce: 3,000,000 dollars”**と太字で締められていた。
「数字の根拠は?」
「現地測量と港役人の記録、すべて添付します」
藤村はその表を見て頷き、「これなら英仏も反論しづらい」と呟いた。
その傍ら、小四郎が日計帳を抱えて駆け寄る。
「本日の収支、誤差ゼロです。軍需と民需の仕分けも完了しました」
「よし、誤差ゼロを続けろ。それが港の秩序の証になる」
小四郎は誇らしげに胸を張り、再び帳場へと戻っていった。
◇
夕刻、藤村は萩の港へ向かった。
海は凪ぎ、沖には停泊中の外国艦の影が見える。岸壁には赤札と青札が貼られた倉庫が並び、兵士と港役人が二人一組で見回りをしていた。
「軍需は赤札、民需は青札——この色分け、外国商館にも通じます」
港監督官が胸を張ると、藤村は頷き、足元の石畳に視線を落とした。
ここには昨日まで戦火の灰が降り積もっていた。だが今は、漁師が網を繕い、商人が樽を転がし、子供が海藻を干している。
(民の営みを守った——それを写真に収め、交渉の場へ持ち込む)
桟橋の端には、カメラを構えた外国人技師が立っていた。藤村は通訳を介して依頼する。
「赤札と青札の倉庫、そして市場の賑わいを撮ってくれ。港の秩序が戻った証として」
技師は笑顔で頷き、黒い布の下に身を隠す。シャッター音とともに、港の光景がガラス板に刻まれた。
◇
夜、政庁の一室では、慶篤が評定用の決裁テンプレートを広げていた。
「兄上の型を評定で回してみました。論点、費用、代替、期日——そして責任者名」
藤村はその紙を一読し、満足そうに頷く。
「型を守れば、現場も京も江戸も同じ速さで回る」
「はい。次は講和条項の草案をこの型に落とし込みます」
障子越しに聞こえる波音は、昼間よりも柔らかくなっていた。
だが藤村の胸の奥では、まだ張り詰めた糸が解けない。
(この港の秩序と資金、そして数字——すべてを、講和の場で最大の武器にする)
その決意とともに、彼は机上の英仏併記の文案をもう一度見つめ直した。
萩城下に夜が明けるころ、港の沖には四国連合艦隊の旗がまだ見えていた。戦火は止んだものの、艦影が在るだけで町の空気は張り詰めている。
藤村は政庁奥の会議室に入ると、机の上には大判の地図と被害一覧表が広げられていた。港湾の損傷個所、破壊された倉庫の位置、焼失した民家の数——すべてが赤い印で記されている。
「この赤印だけで二百七十箇所。補修費は……」
渋沢が筆を走らせながら答える。
「約十二万両。ただし港の石造倉庫は石材不足で倍かかります」
「港の回復費は講和の第一項目だ。数字を過小にするな、相手は値切ってくる」
昭武が横から英仏併記の書類を差し込んだ。
「兄上、ここに『民間保全を実施した勝者』としての宣言文を入れました。英語では“Restorer of Civil Order”、仏語では“Restaurateur de l’ordre civil”です」
「良い響きだ。写真と一緒に置けば説得力が増す」
机の隅には、昨日撮影した港の写真が並んでいた。青札の貼られた倉庫、賑わう市場、笑顔の子供たち。藤村はそれを指先で並べ替え、交渉資料の順番を決めていく。
「最初に港の全景。次に保全された倉庫。そして市場。最後に数字の表——これで港の秩序が回復していると一目でわかる」
◇
午前中、藤村は港に出た。青い海を背に、連合艦隊の士官が数名、桟橋に立っていた。通訳を通して握手を交わし、書類の一部を見せる。
「これは我々が実施した民間保全の記録です。港の秩序回復はすでに完了しています」
士官の一人が写真を手に取り、何度も頷いた。
「秩序の回復が証明されれば、艦隊の撤収理由になる。だが賠償の額は別だ」
藤村は笑みを崩さずに答える。
「それは承知の上です。だからこそ、客観資料を揃えています」
背後では港役人が潮汐表を確認し、定時便の積荷を船に運び込んでいる。《檸緑》の木箱、干芋の俵、酸乳瓶の籠。連合艦隊の士官たちは、その規律ある荷役にしばし見入っていた。
◇
午後、政庁に戻ると、会計方が賠償金の試算表を持ってきた。
「三百万ドル、内訳はこちらです。港修復、民需損害、不法砲撃による被害、それぞれ金額をドル換算しています」
藤村は計表を一読し、昭武の文案と照合した。
「単位も書式も揃っているな。英仏双方に同じ資料を渡す」
「支払期日は?」
「三年分割。初年度で三分の一を現金、残りを公債で——この条件でまず出す」
慶篤が隣でそのやり取りを黙って見ていた。藤村は意図的に声を落とす。
「決裁の型は同じだ。論点、費用、代替、期日、責任者——これを会議でも崩すな」
「はい」慶篤は手元のメモに小さく書き足した。
◇
夕刻、港近くの古い商館で、非公式の会談が開かれた。机上にはランプが灯され、両脇に英仏の士官、中央に藤村と通訳が座る。
「我々は港の秩序を回復し、民間を保全した。その事実を互いに認めた上で、停火と講和の条件を議論したい」
士官の一人が頷き、眼鏡越しに資料をめくる。
「写真と統計は説得力がある。だが補償額は高い」
「高いのではない、適正です。これを削れば、港の復興は遅れ、通商の安定は損なわれます」
場の空気は静かだが、張り詰めていた。藤村は一歩も譲らず、だが声は穏やかに保ち続けた。
(数字は冷たい。しかし、この数字の裏には人の暮らしがある。それを崩すわけにはいかない)
会談は夜更けまで続き、条件の骨子だけがまとまった。
帰り道、港の灯が波間に揺れているのを見て、藤村は小さく息を吐いた。
明日からは、この骨子を実際の条文と期日に落とし込む作業が始まる——戦は砲声で終わらない。机の上でこそ、本当の決着がつくのだ。
静まり返った会議室の中央で、藤村は椅子の背に軽く身を預け、ゆっくりと深呼吸をした。窓の外には、四国連合艦隊の旗が翻っている。硝煙と鉄の匂いが、まだ潮風に混じっていた。
机上には、几帳面に揃えられた四つの資料束。赤、青、緑、黄の色帯で分けられ、それぞれに英語、フランス語、ドイツ語、オランダ語の見出しがある。藤村は視線を巡らせ、一枚目を静かにめくった。
「Gentlemen, first, the numbers.」
英語で口を開くと、英代表が顎を引いた。港湾被害の一覧表が広げられる。桟橋、倉庫、潮汐塔――破損状況と修復費用が数字で並び、その横に鮮明な写真が貼られていた。
「This damage was caused by unlawful bombardment against civilian facilities. It costs not only silver, but trust.」
短い沈黙。英代表の眉がわずかに動く。
次に、青い帯の束を手に取る。
「Messieurs, regardez bien ces chiffres.」
フランス語での説明は、数字よりも情景を重視した。焦げた梁、裂けた波止場、散乱する荷。
「Ce n’est pas seulement un port détruit, c’est un marché mort.」
仏艦長が低く唸り、通訳の耳に何事か囁く。
藤村は間を置かず、緑の帯を開く。
「Meine Herren, hören Sie genau zu.」
ドイツ語は、支払期日と分割方法を端的に告げるために選ばれた。
「Dreihundert Millionen Dollar, innerhalb von drei Jahren, in drei Raten.」
プロイセンの将校が腕を組み、真剣な眼差しを返す。数字の硬さは、感情よりも重く響く。
最後に、黄色の帯をめくった。
オランダ語で、藤村はゆっくりと、一語ずつ確かめるように言った。
「Wie de haven heeft vernield, betaalt voor de haven.」
——港を壊した者が、港を払う。
その文は、静かな波のように会議室に広がり、全員の胸に落ちた。
「Gentlemen, Messieurs, meine Herren…」藤村は再び英語に戻る。
「Three principles for this peace: first, compensation for restoring port order; second, indemnity for unlawful military bombardment; third, financial security to stabilize future trade routes—three million US dollars in total.」
机の上に置かれたのは、支払いスケジュールと配分の内訳表。昭武が監修し、各列に英・仏・独・蘭語が併記されている。
沈黙ののち、英代表が低く問う。
「And if we refuse?」
藤村は微笑みもせず、窓の外の港を指さした。
「Then the port remains closed. Every tide, every wind, will be ours to decide.」
その瞬間、潮風が窓から吹き込み、机上の紙をわずかに揺らした。誰も手を伸ばさない。揺れる紙の音が、この交渉の重みを代弁していた。
交渉の後、控室に戻った藤村は、机に肘をついて一息ついた。昭武が黒板の端にメモを書き込み、渋沢は即座に勘定帳へ数字を転記する。
「三百万、三年で三割ずつ。それで港は完全に立ち直ります」
「いや…立ち直るだけじゃない。次の十年、いや二十年を動かす力になる」
藤村は立ち上がり、控室の窓越しに港を見た。陽光が水面に散り、遠くの艦影を照らしている。潮と風と数字――すべてが、彼の掌の上にあった。
机の上には三つの原本が並んでいた。
一つは英語、一つはフランス語、そしてもう一つはドイツ語だ。どの紙面にも、同じ内容が別々の文字で記されている。見慣れた漢字も仮名もないのに、藤村は行ごとの意味をすらすらと追い、誤字や句読の位置まで確かめていた。
「ここ、『compensation』の前に“full and final”を足してください。未払いの口実を潰します」
英語文を指して低く告げると、昭武がペンを走らせた。フランス語の列では同じ位置に「intégrale et définitive」と記され、ドイツ語には「vollständig und endgültig」の文字が入る。
「ドイツ語もお出来になるのですか」と、端に控えていたプロイセン海軍武官が半ば驚いたように言う。
藤村は軽く笑った。
「数字と約束事は、どの言葉でも同じ顔をしていますから」
署名台の前に、英国、フランス、オランダ、そして幕府代表が順に並んだ。英国代表は顎を引き、あからさまに渋い顔をしている。フランス代表は無表情を崩さず、淡々とペンを取った。オランダ代表は静かに頷きながら、整った筆跡で署名を終える。
「三百万ドル、全額を三期で支払う——そのために、港の秩序回復が前提となる」
昭武がフランス語で読み上げ、藤村が同じ内容を英語で追い、最後にドイツ語で締めた。会議室の空気は、長く張り詰めた弦のようだったが、全員が署名を終えると、その弦はようやく弛んだ。
英国代表が小さく吐息をつき、フランス代表は懐中時計を取り出して時間を確かめた。オランダ代表は笑みを浮かべ、
「港を守る秩序は、海を渡る船にとって何よりの保証です」
と、柔らかい声で言った。
——港の安全回復。
藤村はその言葉を心の中で繰り返す。戦の勝敗も、賠償金も、結局はこの一言に集約される。港が秩序を保ち、人と物が止まらずに流れること。それが、外交の武器であり、未来の財源でもあった。
◇
数日後、大砲の音が消えた港に、再び帆船が入ってきた。赤札の掛けられた倉庫は軍需品として封鎖されたままだが、青札の倉は戸板が外され、人々が出入りしている。
「《檸緑》はこっちだ! 瓶は返せば二文引きだぞ!」
荷役の声が桟橋に響き、干芋の箱が次々と船から降ろされる。潮風に混じって、酸乳の酸味と干物の香ばしさが鼻をくすぐった。
港役人は潮汐表を片手に、積み込みの順を調整していた。信号旗が風にたなびき、入港許可を待つ船が湾外で列を作る。荷馬車は青札を掲げ、検査所を通って町へ向かった。兵站用の赤札荷は軍用桟橋へ直行する。
「戦のあとで、この速さ……」
渋沢が感心したように呟く。
「速さは信用だ。港が死ねば、街も死ぬ」
藤村は短く返し、桟橋の先を見据えた。
◇
港監督署の執務室では、講和合意の写しが木箱に収められていた。英語、フランス語、ドイツ語、それぞれに幕府の朱印が押されている。藤村はその箱を自ら鍵で閉め、封印の縄を結んだ。
「これが三百万ドルの礎です。払わせるためには、約束を守る姿を見せ続けねばなりません」
昭武が頷く。
「港の数字と町の静けさ、その両方を写真に残しておきましょう」
机の端には既に、港全景や秩序ある荷役の様子を撮影した写真乾板が並んでいた。英語とフランス語で添え書きを付け、外交文書の付録にする手筈だった。
◇
夕暮れ時、藤村は桟橋の端に立ち、赤く染まる海面を見つめた。潮は満ち、港の内外を大きな船影がゆっくりと行き来している。
戦で失われた命や壊れた町の姿は消えない。だが、それでも潮は満ち引きし、人と物は動き続ける。
「港を守る限り、次も勝てる」
呟きは波に溶け、遠く外海へと消えていった。