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110話:西国縦走—協力の影と包囲の輪

長州沖の潮風は、まだ夏の匂いを残していた。

 藤村は港の高台から、数日前まで肩を並べて敵艦を追い払った長州兵たちの姿を見下ろしていた。荷を担ぐ背中、浜で小舟を引く声――そのどれもが、つい昨日までの「戦友」のように思えてならなかった。


 だが、京から届いた密書は、その関係を一瞬で反転させた。

 「朝廷より、長州追討の勅命下る」

 総勢三十五藩、十五万の動員。表向きは「禁門の変の罪状」による征討だが、藤村はその行間に、政治の計算と都合を嗅ぎ取っていた。

 ――これでは、助けた相手を斬れと言っているに等しい。


 夕刻、臨時の兵站会所にて。

 渋沢が机に広げたのは、赤と青の線で描かれた西国地図だった。赤は追討軍の進路、青は藤村が整備した補給線だ。

 「この補給線、全部切り替えますか?」

 「いや、半分は残せ。撤去すれば民も兵も干上がる。包囲は『締めすぎない』ほうが長く効く」

 藤村は地図の上を指でなぞり、兵と物資の流れを二色の通行札に置き換えていく。白札は避難民、青札は民需、赤札は軍需とした。これは下関で試した「止めない兵站」の応用だった。


 その最中、慶篤からの飛脚が駆け込む。

 「将軍家より直々に――“戦は速やかに、港は荒らすな”と」

 「……わかっている。荒らせば、港の秩序も交渉の口も潰れる」


 夜、野営の灯の下で藤村は帳簿を開いた。

 没収品四十六、差押え八、翌年収の前受け二十一、戦功公債十、常陸からの臨時拠出四――合計八十九万。

 「これが、三十五藩十五万の兵を動かす裏の銭だ」

 渋沢が唸る。

 「払える……いや、黒にできる」

 「そうだ。賠償と没収で埋める。戦の勝ち負けだけじゃない、“計算”でも勝たねばならん」


 翌朝、藤村は先遣部隊とともに長州西岸の街道へ出た。

 行軍路の脇には、早くも《檸緑》の桶が据えられ、兵や民が手を洗っている。小さな工夫だが、行軍病の列は目に見えて短くなっていた。

 「水は命、衛生は兵力だ」

 藤村の声に、部隊の兵たちはうなずく。だが、その視線の先――丘の向こうには、かつて共に火線を潜った長州の村があった。


 昼過ぎ、偵察が戻る。

 「村人は半分が避難、残りは納屋に籠っております。武器は……見えません」

 藤村は短く息を吐いた。

 「青札を出せ。民需は守れ。包囲はするが、腹は空かせるな」


 その夜、野営地の焚き火越しに、長州兵の歌声が微かに届いた。

 藤村は湯呑を置き、闇に向かって低く呟く。

 「助けた相手を攻める……これが“政”か」

 渋沢が隣で火を見つめたまま応じる。

 「勝っても負けても、明日から同じ海で生きるんですな」

 藤村はうなずき、地図を畳んだ。

 西国の夜風が、遠く海の匂いを運んでいた。

西国街道は、秋の気配を孕んだ風が吹き抜けていた。

 藤村は先頭の馬上から、進行路の両脇に立つ臨時の関所を見やった。竹杭に括りつけられた木札――白、青、赤――が、朝日に照らされている。

 「これで兵と民の流れを混ぜぬ。止めるのは軍需だけだ」

 渋沢が頷き、通行札の束を抱えた役人に指示を飛ばす。白札は避難民、青札は食糧や医療品、赤札は兵器・弾薬。港での経験が、今は西国街道全体に移植されていた。


 第一段、補給遮断。

 藤村は地図上の五つの拠点に赤い印を打った。ここを押さえれば、長州領の西から東への軍需輸送が止まる。

 「赤印は石炭庫と製粉所。動力と食い扶持の両方を断てば、兵はすぐに動けなくなる」

 先発の小隊が村道へと逸れ、煙を上げる製粉所を囲む。

 「製粉は民需もあるぞ」

 「青札を貼った袋は残す。赤札だけ搬出だ」

 兵たちは手際よく小麦袋を仕分け、半分を村に残した。無用な反感は、長い包囲戦では毒になる。


 第二段、分断。

 午後、藤村は丘陵の稜線を進んだ。谷間には長州兵の野営が点在し、その間を細い街道が繋いでいる。

 「ここに障害線を引け。杭を打ち、鎖を渡し、間には浮標を置く」

 港で学んだ航路阻害の技を、陸に応用する。

 「敵はここを迂回せざるを得ず、その間に二手に分かれる」

 渋沢が計算尺を取り出し、谷幅と鎖の長さを割り出した。

 「十五間あれば足ります。杭はこの村の栗材が堅い」

 すぐに斧の音が響き、杭が打たれていった。


 第三段、包囲。

 夕暮れ、藤村は街道の分岐点に陣を敷いた。火の灯った炊事場から、干納豆と干芋の匂いが漂う。

 「兵糧は三日分ずつ前線に回せ。《檸緑》は行軍の終わりに配れ」

 「檸緑、ですか」若い兵が目を丸くする。

 「喉を潤すだけじゃない。衛生だ。井戸水より確実に安全だ」

 兵たちの顔に、わずかな安堵が広がった。


 夜半、偵察が戻る。

 「敵は二方向に分かれました。西へは三百、東へは五百」

 「よし、東を包囲する。西は見張りだけ残せ」

 藤村は地図の東側に青い線を描き、包囲網を完成させた。

 「締めすぎるな。民需が滞れば、こちらの背も詰まる」

 その声に、渋沢が静かに笑う。

 「やはり“締めすぎない包囲”ですな」


 明け方、包囲網の外から白札を掲げた荷車がやって来た。荷は野菜と塩。

 藤村は札を確認し、通過を許可する。

 「港でも同じ光景を見ました」

 「港と陸は違うようで同じだ。人と物の流れを読み、必要なものは通す。そうすれば包囲も持つ」


 丘陵の上、朝日が長州領を照らし始めた。藤村は包囲網の先、遠く海の方を見やった。

 ――共に戦った者を囲む。それでも港も町も荒らさない。この矛盾を呑み込むのが、今の役目だ。

 胸の奥に、潮の匂いが微かに残っていた。

包囲網が落ち着きを見せると同時に、藤村は次の段取りに取りかかった。

 停戦会談――その場に並ぶ資料は、砲や兵の動き以上に重い武器になる。


 陣屋の一室。粗削りの長机の上に、羊皮紙や和紙が広げられていた。

 「まず被害内訳だ。港湾施設、民需損害、不法砲撃――三つに分ける」

 渋沢が筆を取り、見出しを大書する。

 藤村は指先で机を叩きながら項目を読み上げた。

 「港湾は、桟橋一本全壊、給水塔半壊、倉庫三棟焼失。金額換算は……」

 「江戸の普請見積りで言えば、桟橋が千二百両、給水塔は四百両、倉庫は一棟あたり三百両」

 渋沢が数字を書き込むと、墨の香が部屋に濃く漂った。


 民需損害はさらに細かい。

 「青札倉に誤って砲弾が入った例は四件。干物三十箱、酸乳瓶百八十本、檸緑瓶二百本が破損」

 「酸乳瓶は笠間口径統一品だから、一本あたり銀一匁換算で……」

 算盤の玉が忙しく弾かれる。

 「檸緑は瓶込みで一瓶八文、破損二百本で……」

 数字が積み上がるたび、損害額の列が伸びていった。


 不法砲撃の項目には、事実と証拠を客観的に残す必要があった。

 「観測記録は?」

 昭武が六分儀と時刻表を持って入ってきた。

 「火の山観測所からの測定で、敵艦砲撃は干潮前後に集中。民家二十七戸の損壊を確認」

 「射線と時刻、砲種を英仏両語で記録しろ。現場写真も添える」

 藤村は机の端に置かれた黒布包みを指差す。中にはガラス板乾板が整然と並んでいた。砲弾で割れた壁、倒れた井戸、砕けた船板――いずれも講和の場で“言葉を超える証拠”になる。


 昼過ぎ、外から荷馬車の音が響いた。

 「記録員が戻りました!」

 入ってきた若い記録係が、血と泥の匂いをまとったまま書き付けを広げる。

 「これが港南側の損害一覧です」

 藤村は一瞥し、赤鉛筆で数字を修正する。

 「推定ではなく実測値を使え。交渉では“およそ”は通用しない」

 「はい!」


 夕刻、机の上には三冊の厚い帳面が積まれていた。

 一冊目は被害内訳書――和文。

 二冊目は英語版。昭武が直訳ではなく、国際法用語を盛り込みながら整えた。

 三冊目はフランス語版。こちらも外交文での慣用句を踏まえた表現にしてある。

 「これで三正面どこからでも突かれる」渋沢が息をついた。

 「突かれるのは構わん。穴を開ける隙を与えなければいい」藤村は言い切った。


 夜半、藤村は明かりを落とし、最後の確認をした。

 机の端には、被害写真を貼り込んだ資料袋。中央には数字の一覧表。脇には通行札の色見本――“港の秩序”を象徴する証拠だ。

 「講和の枕はこれだ。銃口ではなく、秩序と数字で机を揺らす」

 そう呟く声が、静かな陣屋に沈んでいった。

被害資料の束を使者に託した翌朝、藤村は再び部隊の先頭に立って行軍路を進んでいた。

 眼前に広がる道は、前日の雨でぬかるみ、轍には濁った水がたまっている。兵たちは膝下まで泥に沈みながら進み、荷駄の牛も時折足を取られていた。


 「この路で病が出れば、三段目の包囲が保てんぞ」

 藤村は馬を下り、近くの水場に目を向けた。竹で囲った仮設の井戸があり、そこには桶と柄杓が置かれている。だが、水面には落ち葉が浮き、手洗いには到底向かない。

 「まず井戸に蓋だ。雨水も虫も入れるな」

 側にいた郡奉行が頷き、手配に走る。


 その間に、藤村は荷駄から小樽を取り出させた。中には檸緑の原液と酸乳が詰まっている。

 「行軍路に桶を据え、檸緑でうがい、酸乳は食後に少量ずつ配れ」

 「兵糧に酸乳ですか?」と若い足軽が驚いた顔をする。

 「腹を守れば足も守れる。包囲は銃だけじゃない」

 桶は一定距離ごとに常設され、旗差物の色で場所を示すことにした。青地に白丸は手洗い所、緑旗は酸乳配布所。視覚的な合図は、疲れた兵にも一目で分かった。


 午後、部隊は谷間の集落に入った。藤村は村役人を呼び寄せ、井戸の数と水質を尋ねる。

 「清水は二つ、あとは沢水です」

 「沢水は煮沸せよ。兵も村人も同じだ」

 こう言いながら、煮沸用の鉄鍋と薪を軍用倉から供給する。煮沸後は檸緑を混ぜて配る。味は少し酸っぱくなるが、兵たちは口を拭って笑った。

 「井戸水より飲みやすいぞ」

 「檸緑は喉を潤すだけじゃない、菌を殺すんだ」

 藤村の言葉に、村の子どもたちも興味津々で桶を覗き込んだ。


 夕刻、野営地に戻ると、小四郎が日計表を抱えてやってきた。

 「本日の病兵、全体の二%です」

 「昨日より半減だな」

 藤村は帳面に目を落とし、赤鉛筆で印をつける。これらの数字は、後の停戦会談で「我軍の衛生管理」を示す実績にもなる。

 「数字で証明できれば、嘘も誇張もいらん」

 小四郎は深く頷き、日計表の余白に「衛生措置開始後、病兵減」と書き足した。


 夜、焚き火の周りで兵たちが足袋を乾かし、石鹸で手を洗う音が聞こえた。

 「酸乳も石鹸も、最初は贅沢だと思ったが……」と年配の足軽がぼやく。

 「病で倒れるより安いもんだ」

 そう返した若い兵は、桶の水で口をすすぎ、満足げに空を仰いだ。


 その光景を見ていた藤村は、渋沢に小声で言った。

 「この衛生線は包囲と同じ価値がある」

 「ええ、どちらも穴が空けば全てが崩れます」

 焚き火の炎が二人の横顔を照らし、闇の向こうに包囲された町の灯がちらついていた。


 行軍路の桶と旗、檸緑の香り、酸乳の白さ――それらは静かな包囲線の内側に、確かな防壁を築きつつあった。

 藤村はその夜、日誌に短く記した。

 ——病兵列が目に見えて短い。補給と衛生は両輪である。

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