109話:停火の七日—港を武器に
蝉の声がまだ残る夕刻、京都二条城の奥御殿は、夏の湿り気を孕んだ空気で満ちていた。
障子の向こうで、庭の白砂が茜色に染まりはじめる中、十四代将軍・徳川慶喜は直垂の裾を整え、正座していた。背後には、近習が静かに息を潜めている。
「将軍様、勅使にございます」
近習の声に頷くと、襖が滑るように開き、袍を着た勅使が進み出た。両手に抱えた黒漆塗りの箱が、畳に影を落とす。蓋が開かれ、そこから取り出されたのは、朝廷の金泥で縁取られた勅書だった。
書き付けには「長州追討」の四文字が、厳しい筆致で踊っている。
慶喜は一読し、面を上げた。
「三十五藩、総勢十五万を動員せよ、か……」
勅使の退出を見届けると、側に控えていた中奥の用人が問いかける。
「御所のご意向は強く、遅滞は許されませぬ」
「承知している。だが、兵だけ集めても動けぬ」
慶喜は脇息に肘を置き、深く息を吐いた。指先は机上の地図をなぞり、長州と京、大坂、江戸の位置を確かめる。
「追討は一面ではない。外に敵を構え、内に財を備えねば、長くは持たぬ」
◇
夜、二条城の執務間。行灯の明かりが、机上の帳簿や軍用地図を淡く照らしていた。
慶喜の正面には勘定奉行と軍艦奉行が座り、その傍らで渋沢が筆を走らせている。
「軍費は?」
「現時点で八十五万。上下五万の誤差見込みです」
「払えるか」
「払います。没収品で四十六万、差押で八万、翌年収の前受けで二十一万、戦功公債で十万、常陸臨時で四万。合わせて八十九万、これで足ります」
慶喜は短く頷くと、脇の使番に視線を移した。
「下関の藤村へ、今すぐ早船を出せ。勅書と、俺の直裁の指示だ」
「ははっ」
使番が辞すと、慶喜は机上の別紙を藤村宛に引き寄せ、筆を取った。
「藤村へ——連合との交渉は“港の安全回復”を枕に進めよ。戦術の勝ちを、政治の勝ちに変えるんだ。慶篤には評定で決裁の型を回させろ。昭武には停戦文案を英仏併記で作らせ、小四郎には日計の誤差ゼロを続けさせる」
墨の匂いが部屋に満ち、筆の音だけが響く。
書き上げると、慶喜は紙を畳み、封蝋で固めた。
◇
翌朝、下関沖。
藤村は港の監督所で、江戸からの飛脚船を迎えた。封書を開くと、中から現れたのは勅書の写しと慶喜の直筆の指示書。
墨痕はまだ新しく、京の湿り気までが紙面に残っているようだった。
「……来たか」
指示を読み終えると、藤村は即座に周囲の者を集めた。
「港の秩序を保った三日間を、交渉の武器にする。民需は守り、軍需は押さえる。この線を崩すな」
「はっ」
「財は八十九万の裏組が立つ。戦はまだ終わらんが、港と交渉は同時に進める」
彼の声には、海戦の熱よりも、陸の安定を積み上げる確かな重みがあった。
港の窓越しに見える海は、まだ戦の煤を映して暗い。だが藤村の視線は、その先にある講和の席と、揺るぎない数字を見据えていた。
朝の海はまだ鉛色で、前日の夕立の名残が波にうねりを与えていた。
下関港の桟橋に、江戸からの早船が静かに横付けされる。帆を畳み終えた船員が船首から封書の包みを抱えて下り立つと、そのまま監督所へ駆け込んだ。
「藤村様、江戸よりの急信にございます!」
封蝋には、京の二条城で用いる将軍家の菊桐印。その朱の濃さが、海霧を押しのけるように鮮やかだった。
藤村は封を切り、まず勅書写しを展げる。四行目の「長州追討」の文字が目に入った瞬間、指先にわずかな緊張が走る。続いて慶喜の直筆指示書を読み進める。
——“港の安全回復”を枕に交渉せよ。戦術の勝ちを政治の勝ちに変えること。
慶篤には決裁の型を回させ、昭武は停戦文案を英仏併記、小四郎は日計の誤差ゼロを継続。
墨の匂いがまだ生々しい。京の湿った空気が紙に移ったように、ほんのりと温度を帯びていた。
藤村は目を細め、書付を畳んで懐に収めた。
◇
「諸君、集まってくれ」
監督所の広間に、港役人、町奉行、軍監、そして商人頭や倉口座の番頭までを呼び集めた。
壁には港の俯瞰図と町の主要路の地図が貼られ、赤青黄の三色の札が吊るされている。
「まず港だ。石炭庫と給水塔は既に我が方で封鎖してあるが、補給を断ちきるには監視を増やす。赤札は軍需、青札は民需、黄札は検査中。札の色を間違えるな、即日罰金だ」
渋沢が傍らで、石炭残量と給水塔の稼働状況を読み上げる。
「石炭は推定で三百トン、給水塔は満水状態です。石炭は搬出路を二か所に絞り、番を倍に増やします」
「良し。水は兵の衛生と洗浄用に回す。酸乳と石鹸を前線に送れ」
◇
次に町奉行に向き直る。
「避難と兵站の通路を完全に分ける。停戦帯の札所は三か所とも維持し、通行票の色分けを徹底だ」
「衝突は昨日まででゼロ。ですが、東の札所で一度だけ兵と民が交錯しかけました」
「番を二人増やし、通訳を必ず置け。外からの船乗りも避難経路に入ってくる」
藤村の視線は常に地図と現場の両方を行き来していた。紙の上の線が、現実の流れと寸分違わぬようにする——それが彼のやり方だった。
◇
昼過ぎ、倉口座の番頭衆が木箱を担いで港倉庫に入ってきた。
「没収品の検数、終わりました」
「数と価値は」
「赤札倉庫十一棟、内訳は銃砲・弾薬・火薬桶で推定四十六万両相当です」
「差押は」
「八万両分。銀地金と鉄材が主です」
藤村は手元の帳面に数字を記し、渋沢へ渡す。
「これに翌年収の前受け二十一万、戦功公債十万、常陸臨時四万を加えて八十九万。勘定所に送れ。将軍の問いは『払えるか』だ、答えは『黒字だ』にする」
◇
午後遅く、港裏の仮設小屋では、昭武が英語とフランス語で停戦文案を板に書いていた。
「Ce port est sûr——この港は安全です、という意味です」
「英語だと?」
「This port is secure. 短くて覚えやすいです」
藤村はその文を見て頷いた。
「停戦交渉では、この言葉が先に立つ。民需を守った記録と写真を添えれば、相手も無視はできまい」
脇で小四郎が日計帳を抱えている。
「本日も誤差ゼロです」
「続けろ。数字は日々の信用だ」
◇
夕刻、港の桟橋から見える海は、まだ遠くに黒煙を漂わせていた。
だが、岸壁の足元には秩序ある荷積みの列、札所で札を掲げる避難民、封鎖された石炭庫の前で番をする兵の姿がある。
藤村はその光景を見渡しながら、胸中で慶喜の言葉を繰り返していた。
——戦術の勝ちを、政治の勝ちに変える。
港に秩序があり、数字が立ち、民が安堵している限り、この場所は交渉の場で強い札になる。それが、追討の勅と二正面作戦を同時に回す唯一の道だった。
日が傾きかけた下関の港は、昼間の熱気をまだ胸の奥に抱えたまま、海風に冷まされていた。
桟橋では、荷車の列が整然と並び、札所の役人が色札を一枚ずつ掲げて通行を促している。青札の避難民は港奥の桟橋へ、赤札の軍需は倉庫群へ、黄札の検査中荷物は秤場へ――すべてが、朝に敷いた路線図の通りに動いていた。
藤村は港監督署の二階からその光景を見下ろし、静かに頷いた。
「この絵を、交渉の場に持っていく」
◇
監督署の奥、薄暗い書付所には写真機と黒布が据えられていた。
異国製のカメラを扱うのは、長崎から呼び寄せた技師だ。三脚を立て、港と倉庫群、札所と避難列が一望できる位置にレンズを据える。
「光がまだ強い。もう少し日が落ちて陰影がついた頃がいい」
技師が言うと、藤村は港役人に指示する。
「その時間まで、列を崩すな。人の流れが画面の中で途切れぬように」
やがて日が西に傾き、港に長い影が伸び始めた。シャッターの音は一度きりだが、その瞬間を封じ込めた硝板が、これからの講和交渉で強い証拠になる。
◇
写真の準備と並行して、文書班が動いていた。
渋沢の机には、港の全景を写した鳥瞰図と、避難経路図、物資検査表が広げられている。
「青札倉庫二十八棟、保全品目は米・麦・塩・衣料。赤札倉庫十一棟、没収品目は火薬・弾薬・銃砲・鉄材」
書記が読み上げる数字を渋沢が整理し、藤村の手元へ回す。
その横で昭武が、停戦交渉用の文案を二つの言語で書き進めていた。
「英語は『This port is secure and civil needs are preserved』、フランス語は『Ce port est sûr et les besoins civils sont protégés』。どちらも『港の安全回復と民間保全』を強調しました」
藤村はその文を指で叩き、顔を上げた。
「良い。数字と写真と、この言葉だ。三つ揃えば相手は軽く扱えぬ」
◇
夜半近く、監督署の一室で、藤村は慶篤を呼び入れた。
「これが明日の決裁案件だ。講和交渉に先立ち、港の保全措置を京の朝廷と江戸の評定に同時送付する」
慶篤は机上の書類を手に取り、眉をひそめた。
「……英仏併記の文書を、京にも送るのですか?」
「そうだ。あくまで証拠として。内でも外でも、同じ形の秩序を見せる」
慶篤は一息置いてから、決裁要点メモに目を走らせた。論点、費用、代替案、期日――そして、責任者欄には自らの署名を加えた。
「これでいい」
藤村は頷き、その紙を表書きの上に重ねた。
◇
翌朝、港の片隅で小四郎が日計の検算を終えていた。
「昨日の青札搬出品は二百三十四件、赤札搬入は七十二件。誤差はゼロです」
「よし。その数字も写真と一緒に添えろ」
「写真と一緒に……ですか?」
「数字だけでは冷たい。だが、数字と景色が並べば温度が伝わる」
その足で藤村は港の外縁、稜線上の観測点へ向かった。ここからは海峡が一望でき、連合艦隊の動きが豆粒のように見える。
観測員が望遠鏡を離し、報告する。
「敵艦隊は西沖で停泊、石炭船が一隻接近中」
「監督署に信号を送れ。写真と文案を仕上げ次第、使者を出す」
◇
昼頃、港監督署の中庭に馬上の伝令が入ってきた。江戸と京へ向けて書簡を積むための馬車が用意され、荷台には封筒と木箱が整然と並ぶ。
木箱の中身は、撮りたての写真、港保全措置の図、検数表、そして停戦文案。
「京まで三日で届くか?」
「昼夜駆けで参ります」
「江戸は水路を併用しろ。日延べは許さん」
馬車が門を出ると、藤村は桟橋に立ち、海峡の潮を眺めた。
潮は満ち、風は東へ。海の道と陸の道が同時に動き出したことを、肌で感じていた。
◇
港に秩序がある限り、数字と景色は嘘をつかない。
それらを束ね、国内外に同じ形で提示する。それが「港の安全回復」を枕にした停火交渉の核になる――藤村はそう確信していた。
午後の陽がまだ港の水面を照らしているころ、藤村は監督署の二階広間に入った。
広間の中央には長机が二列、向かい合うように置かれ、その上には厚紙封筒と木箱が並んでいる。封筒には英仏併記の停戦文案、木箱には撮影したばかりの港全景写真と倉庫保全図、検数表が詰められていた。
「これが揃えば、口先では覆せぬ」
藤村は木箱の封を確かめ、慶篤に目をやった。
「これを京へ届ける使者は、君の選んだ者に任せる」
慶篤はうなずき、控えていた近習の中から三人を呼び出す。彼らは背中に矢立箱と小刀を差し、鞍袋に食糧と雨具を詰めた。
「三日で京へ。道中の口上は一つ、『港は秩序下にあり、民間被害なし』」
短く言い渡すと、近習たちは深く頭を下げた。
◇
港外れの稜線では、観測員が望遠鏡を覗き込みながら信号旗を操っていた。
「西沖の連合艦二隻、微速で移動開始」
旗流が監督署屋上に伝わり、すぐに藤村の耳へ届く。
「潮が変わる時刻だな。港口は保全措置完了と伝えろ」
このやり取りが、そのまま停戦の前提条件――「安全回復」を裏付ける現場証拠になる。
渋沢は机に向かい、検数表の数字を清書していた。
「青札倉庫二十八棟のうち、米百八十俵、麦百二十俵、塩四十五俵、衣料百三十束……」
「赤札は火薬二十八樽、弾薬木箱五十七、銃砲三百九十二丁、鉄材七トン」
その数値を、藤村は停戦文案の末尾に小さく追記した。
「こうしておけば、数字と文が乖離せぬ」
◇
夕刻、監督署の応接室に、連合艦隊の士官二名が現れた。
制服の肩章が夕陽を受けて光る。通訳を介し、彼らは開口一番にこう告げた。
「We received your note about port safety. The Admiral wishes to see the evidence.」
藤村は静かに頷き、用意していた写真と図面を机の上に広げる。
写真には、整然と並ぶ避難列、札所での通行票授与、倉庫の赤札と青札が鮮明に写っている。
士官の一人が身を乗り出し、写真の端を指さした。
「Is this the coal depot?」
「Yes. Sealed. No civilian access, no military resupply without consent.」
短いやり取りだったが、士官の視線にはわずかな驚きが浮かんだ。
◇
その場で昭武が、英語とフランス語で用意した説明文を二人に手渡す。
「Ce port est sûr, les besoins civils sont protégés. This port is secure, civil needs are preserved.」
士官たちは紙を読み、互いに短く言葉を交わしてから、丁寧に頭を下げた。
「We will deliver this to the Admiral.」
退室する彼らの背を見送りながら、藤村は低く呟く。
「言葉は耳から消えるが、紙と景色は残る」
◇
夜、港の静けさを破るのは、時折通る荷車の車輪音と、波止場に打ち寄せる小波の音だけだった。
監督署の灯下で、小四郎が日計帳を閉じる。
「本日の人員移動、避難民八十二、港労働者百二十六。物資搬入二百三十、搬出百八十七。誤差、ゼロです」
藤村はその報告を受け取り、明日の予定表に目を移す。そこには「午前、京への使者出立/午後、連合艦隊副官との再会見」と記されていた。
渋沢が湯呑を差し出しながら言った。
「数字と景色で押せるうちに、港監督権を既成事実にすべきですな」
「そうだ。港は守るだけでは足りぬ。握ったまま、次の手を打つ」
◇
こうして、下関の港は一見平穏な夜を保ちながらも、その内部では数十人の手が休みなく動いていた。
封筒に封がされ、箱に封印札が貼られ、伝令馬が繋がれ、写真の乾板が布に包まれる。
その全てが、「港の安全回復」を事実として示すための、目に見えぬ戦いだった。
翌朝、港の沖合には、連合艦隊の旗艦が微動だにせず停泊していた。
空は高く澄み、海面には波一つない。まるで昨日の戦が遠い出来事だったかのようだが、藤村は胸中でその静けさを警戒と同義に置き換えていた。
「今日は動く」
朝食を終えると同時に、彼は監督署の応接室へ向かい、机の上の停戦文案と写真束をもう一度確認する。紙の角を揃え、乾板の裏に貼った注釈札が剥がれていないかを確かめた。
間もなく、通訳のラロックが扉を叩いた。
「Admiral’s envoy is here. He requests to talk at the pier.」
「港で、か……」藤村は一瞬考え、うなずいた。
「よし、港は我らの舞台だ。景色も証拠に加える」
◇
波止場の中央、満潮線の少し手前に設えられた長机の前で、双方の代表が向かい合った。
連合側は中佐の肩章をつけた英国士官と、フランス海軍の少佐。背後にはそれぞれの副官が控えている。藤村の側には、昭武、渋沢、慶篤、そして通訳のラロック。
「昨日の砲撃以降、港の安全が保たれていると聞く」
英国士官が口火を切る。
藤村は頷き、背後の渋沢に合図を送った。渋沢が木箱を開き、中から数枚の写真と検数表を取り出して机上に並べる。
「This is the evacuation route—no collision between civilians and troops.」
通訳が言葉を添える。写真には、停戦帯を示す旗の下、青札を胸に下げた避難民が秩序正しく港へ向かう様子が写っていた。
フランス少佐が別の一枚を手に取った。
「Et ça?」
「倉庫の赤札と青札です。赤は軍需差押え、青は民需保全」
昭武がフランス語で説明し、少佐はゆっくりと頷いた。
◇
次に、藤村は石炭庫と給水塔の写真を示した。
「Coal depot and water tank—both sealed. No supply to enemy fleet without agreement.」
英国士官は片眉を上げた。
「So you control the steam and the thirst.」
「Yes. And we use the water for hygiene in the front lines—soap and fermented milk to cut infection.」
その一言に、少佐の視線がわずかに鋭くなる。衛生の維持が戦力の維持に直結することを理解している証拠だった。
藤村は間髪入れず、前日の統計を差し出した。
「Casualty rate dropped to half in three days. With hygiene, not firepower.」
この数字は、交渉の場においても十分な説得力を持つ。
◇
やがて英国士官が椅子の背に身を預け、短く言った。
「The Admiral is willing to discuss a ceasefire, if your government ensures this order remains.」
藤村は即座に答える。
「Then the condition is mutual respect for civilian needs, and no hostile act in port waters.」
通訳が両軍の言葉を往復させる間、藤村は机上の写真をわざと整え直した。
その手つきは、「我らはいつでも秩序を保てる」という意思表示でもあった。
◇
協議は一時間ほどで区切られた。結果は「停火予備合意」。三日間の停火と、港内での軍需補給禁止、民需流通の自由確保が条件となった。
この短い期限は、あくまで本交渉のための呼吸を作るものに過ぎない。しかし、藤村にとっては十分だった。
波止場を離れる途中、昭武が小声で言う。
「兄上、三日で何を?」
「三日で港の秩序を“平時の景色”に戻す。写真と数字が揃えば、停戦は延びる」
◇
夕刻、監督署に戻るとすぐ、慶篤が評定用の決裁メモを広げた。
「論点、費用、代替、期日、そして今回の結果を添えて京へ送ります」
藤村はその内容を確認し、赤筆で一行加えた。
「港の秩序は戦の勝敗に勝る――これを結論に置け」
慶篤は深くうなずき、筆を走らせた。
◇
夜、港には灯が点り、赤札と青札が月明かりに浮かび上がっていた。
藤村は桟橋の端に立ち、停泊する連合艦隊の影を遠くに見据える。
明日の朝も、彼らはこの港を眺めるだろう。そのときに映るのは、砲煙ではなく、規律正しく働く人と物の流れ――それこそが、交渉の最大の武器になる。
停火合意の初日、朝の港は既に動き出していた。
夜明けの潮が引き、波打ち際に木靴の足跡が残る。その上を青札を下げた女たちが、籠に干物を詰めて運んでいく。荷車を押す男たちの脇には、赤札を貼られた倉庫が静まり返っていた。
「赤と青が混ざらねぇだけで、こんなに動きが早ぇとはな」
渋沢が検数表を手に感心したように呟く。
藤村は頷き、浜の向こうで作業する役人に目をやった。
「人の動きと潮の動き、どちらも乱れをなくす。それが港の価値だ」
◇
停火二日目、藤村は港監督署の二階から埠頭を見下ろしていた。
桟橋では、酸乳の瓶を洗う女たちの列ができている。瓶口は統一規格で、干物や檸緑の空瓶とも互換があるため、洗浄も検品も早い。洗い上げた瓶は港奥の倉庫に積まれ、そこから次の便に載せられる。
「瓶の回転率は?」
問いかけに、帳面を持った小四郎が即答する。
「昨日で一日半です。江戸に比べれば倍以上の速さです」
「この速度なら、停火中に二巡できるな。記録を残せ」
その背後では、慶篤が慣れた手つきで評定用の決裁テンプレに記入していた。
「現場の数字を添えて京に送ります。論点、費用、代替案、期日……」
「最後に“誰が責任を負うか”を忘れるな」
慶篤は静かに筆を止め、自らの名を末尾に書き入れた。
◇
午後、港の端に白布のテントが並んだ。前線から搬送された負傷兵の治療所だ。
医師が手を洗い、酸乳と石鹸で傷口を洗浄し、包帯を巻く。
「壊疽の進行が遅い。前線に水を回した効果だな」
若い医師が報告すると、藤村は短く答える。
「数字にして残せ。治った数も、死んだ数もだ」
傍らには、昭武が作成した英仏併記の報告書が積まれていた。
《Civilian safety maintained. Medical hygiene implemented. Casualty rate reduced.》
この文言が、そのまま港の外交カードになる。
◇
停火三日目の朝、港の景色はほぼ平時に戻っていた。
干物箱が規則正しく積まれ、潮汐旗が赤白に翻る。
藤村は桟橋をゆっくり歩き、荷役の流れを確かめた。青札の荷車は港の奥へ、赤札は検査場へ直行し、道で交わることはない。
「これが“平時の港”だ。三日でここまで戻せた」
渋沢が笑みを見せる。
「写真に撮るのは今ですね」
藤村はうなずき、写真師に合図を送った。シャッターの音が静かな朝に響く。
◇
その日の午後、藤村は停火延長交渉のため再び波止場の机についた。
英国士官が写真束をめくり、港の景色を確認する。
「Order kept, civilians safe. This is what we require.」
「Then extend the ceasefire. Your ships will anchor in safety, and trade for civilian goods may resume.」
通訳が両軍の言葉を往復させ、英国士官は短く頷いた。
交渉は半刻で終わった。停火は更に七日間延長され、その間に本交渉の場が設けられることが決まった。
◇
夕暮れ、藤村は港の端に立ち、沖の艦影を見つめた。
潮は満ち、桟橋に波が打ち寄せる。停火の七日間は、戦の終わりではない。しかし、この七日で港の秩序と信用を固めれば、砲より重い武器になる。
背後から昭武の声がした。
「兄上、停火の間に何を?」
「港の数字を揃え、写真と文書で包む。それを京へ、江戸へ、そして連合へ届ける」
彼の目には、既に次の手が描かれていた。