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13話:一椀の湯気、誰かの希望

仮設の炊き出し場には、焦げつくような土と煙の匂いが漂っていた。夏の終わりが近いというのに、空気は重く湿っている。咳き込む声があちらこちらから聞こえ、晴人の眉間には自然と皺が寄っていた。


 湯気の立つ鍋の中には、わずかな大根と人参、細かく切った芋の皮。味噌すら加えられない、ただの湯煮だ。それでも、空腹と熱に苦しむ人々にとっては、この一杯が命の灯となる。


 晴人は、そっと鍋をかき混ぜた。杓子を握る手は、ここ数日まともに休めていないせいか、僅かに震えている。


 「晴人さん……三丁目の御年寄が、熱が下がらなくて……」


 声をかけてきたのは、近所の娘だ。薬箱を背負い、必死に駆け回る姿は、まるでこの町の希望のようだった。


 「分かった。終わったらすぐ行く。とりあえず冷やした水で額を拭いて、様子を見ててくれ」


 晴人が静かに返すと、娘は深くうなずいて駆け戻っていった。その背中を見送ってから、彼は大きく息を吐いた。


 そのときだった。


 「……お主、自分の顔を鏡で見たことがあるか?」


 背後から、低く、どこか呆れたような声が聞こえた。


 振り向けば、藤田東湖が立っていた。羽織に袴姿、目元には相変わらずの厳しさがあるが、ほんの少しだけ柔らかさも見える。


 「……どうでしょう。朝、顔を洗ったくらいで……」


 晴人が苦笑まじりに答えると、東湖は眉をひそめた。


 「冗談を言っている場合か。眼の下には隈、唇は乾ききっている。民のために倒れては、元も子もないぞ」


 「はい。気をつけます……」


 東湖は無言で湯気の立つ鍋を覗き込んだ。中身の乏しさに、わずかに顔をしかめる。


 「これだけか……味付けは?」


 「ありません。調味料は限られていますし、消化も考えて薄くしています。身体が弱っている方も多いので」


 「……なんと、凄まじいな。まるで、地獄に仏のような働きぶりだ」


 晴人は思わず、苦笑を漏らした。


 「仏ってほどじゃありませんけど……それでも、やらないと誰かが死ぬ。だから、やります」


 東湖は黙って頷いた。目線の先にいたのは、空腹で目を落としながら列に並ぶ老人たちと、母親に背負われた幼い子ども。誰もが、弱く、静かで、しかし確かに生きている。


 「……俺は、昔、大切な人を助けられなかったことがあります」


 晴人は、ぽつりと語りだした。


 「もし今、誰かの力になれるなら、その分まで生きて働きたい。命を使うなら、救うために使いたいんです」


 その言葉に、東湖の眼差しがわずかに変わった。驚きとも、賞賛ともつかぬ、しかし真摯に受け止める目だった。


 「ならば、その覚悟。私が見届けよう。今、この水戸で、お主の行いは確かに町を変えつつある」


 そう語りかけたとき、場の空気がふわりと動いた。


 「失礼します。炊き出しの様子を拝見しても?」


 やけに礼儀正しい声とともに、ひとりの青年が現れた。


 東湖が振り向いた瞬間、その目がわずかに見開かれる。


 「……あなたは。まさか、この水戸にまで来られたとは……」


 青年は、浅黒い肌と鋭い目元を持ち、袴の上に旅羽織をまとっている。手には使い込まれた旅鞄。そして、その背には凜とした思想家の気配が漂っていた。


 「吉田寅次郎――長州藩士にございます」


 彼は深々と頭を下げた。


 「安政三年の今、斉昭公のご厚意により、水戸に“預かり”の身として滞在させていただいております。身分は幽囚同然ながら、学問と志の研鑽を許されております」


 東湖の眉が動く。


 「密航未遂の件……お噂は届いておりましたが、こうして再びお目にかかれるとは。斉昭公は、あなたの才を惜しまれていた」


 松陰――いや寅次郎は、静かに微笑んだ。


 「この国がいかにして異国の圧力に立ち向かうか。そのために、今は力を蓄えるべき時と心得ております。水戸での皆様の動き、学と行動の両輪に、深く敬服しております」


 そのまなざしには、投獄や幽閉の苦難を経た者だけが持つ、底知れぬ覚悟があった。


 東湖が苦笑を浮かべた。


 「まったく、風の噂というものは侮れん」


 晴人は呆然と、その青年――吉田松陰を見つめた。後に時代を動かすその人物を、いま自分が目の前で迎えている。その事実に、心が小さく震えていた。


 「あなたが……」


 松陰が晴人の方を向く。


 「あなたが、あの晴人殿ですね。実に興味深い。ぜひ、もっと町のこと、聞かせてくださいませんか」


 晴人は、軽く息をのみながら、うなずいた。


 「……はい。できる限り、お話しします」


 


 この日、水戸の町にまたひとつ、新たな縁が芽生えた。


 それが、未来を変える大きなうねりとなることを、晴人はまだ知らなかった。

一歩、また一歩と、晴人は仮設の街並みを進んでいた。


 仮設小屋は藩士や町人が力を合わせて造ったものだ。瓦礫を除き、簡易の木組みに藁葺きを乗せ、風をしのげる程度の作りだが、家を失った者たちには十分な「居場所」だった。


 「……想像以上ですね。臨時の町が、まるで一つの生き物のように息づいている」


 松陰の声には、素直な驚きが混じっていた。人の往来、湯気の立つ炊き出し所、桶を運ぶ少女、薬草を仕分ける男たち。まさに、町そのものが鼓動しているようだった。


 「もともと、ここは米蔵の跡地でした。水は近くの井戸から引いて、排水も整備しました。湿地が多くて、疫病を防ぐにはまず環境から……って、そう考えて整えたんです」


 晴人が説明する横で、松陰は目を細めて辺りを見回していた。


 「学問というものは、文字の中で踊っているうちは絵空事に過ぎぬ。だが、これは違う。思想が、形になっている」


 ふと、泣き声が耳に届いた。振り向けば、小屋の陰で子どもが転んで膝をすりむいていた。政次郎が走ってきて、素早く抱きかかえ、手拭いで傷を拭きながら何かを囁くと、子どもは泣きやんだ。


 「……あの子、政次郎です。俺の……いや、この町の希望みたいな子です」


 晴人の声に、どこか誇らしさがにじんでいた。


 松陰はその視線を、炊き出し所へと戻した。火の番をしながら、空の桶を肩に担ぎ、声を枯らして子どもたちを呼び寄せる女衆の姿。その手元に注がれる汁物の湯気が、夕暮れの光に溶けて、町に柔らかい彩りを添えていた。


 「これは……江戸の学舎でも、京の公家の屋敷でも見たことがない。人が、人として、互いを生かし合っている」


 「みんな、それぞれ傷を負ってる。でも、誰かのために動くことで、自分の居場所を見つけてる気がするんです」


 東湖の声が、背後から重なるように届いた。


 「晴人は、町の空気を変えた。武士も町人も、子どもも老婆も、今は“誰かの役に立ちたい”と願っている。強制ではなく、自然とね」


 松陰は、目の前に広がる情景を静かに見つめたまま、頷いた。


 「思想とは、心の中だけにあるものだと思っていた。だが、ここでは、それが人の形を借りて歩いている……そう感じます」


 晴人は少しだけ顔を伏せ、東湖はにやりと笑った。


 「俺はな、あの男が何者か、まだ見極めきれていない。だが、政次郎が笑ってる限り、信じていいと思ってるよ」


 その言葉に、松陰は静かに一礼した。


 「あなたが見守っているのなら、きっと大丈夫でしょう。――この町は、まだ変われる。未来の灯は、消えていない」


 空は薄曇りだったが、遠くの炊き出し所から立ちのぼる湯気が、まるで人々の想いを天に届けているように見えた。

仮設町の一角、まだ陽の高い昼下がり。炊き出しの湯気がのぼるなか、晴人と松陰は薬草小屋の前に腰を下ろしていた。天幕越しに差す光が、二人の間にほのかな温もりをつくっている。


 「まさか、ここまで整っているとは……。水戸という地に、これほどの“行動する思想”が息づいているとは思いませんでした」


 感嘆の声をもらす松陰の瞳には、仮設町の暮らしがまるで宝石のように映っていた。炊き出しを分ける女衆、帳面片手に物資を管理する少年、泣きじゃくる子に膝を貸す老人。誰もが自らの役割を持ち、互いを生かす一端になっていた。


 「……江戸で見たどんな講義よりも、生きている。いや、生きているというより……命が、ここで巡っている」


 晴人は少しだけ息を吐き、頭をかいた。


 「元はといえば、僕は“町の仕組み”を知っていただけなんです。どう水を引き、どう分配し、どう病を防ぐか……ただ、それを形にしただけで」


 「その“だけで”が、いかに困難か……」


 松陰の言葉は穏やかだったが、その声には、深い敬意がにじんでいた。


 「私は、いずれ海を越えて、世界を学ぼうと思っていました。西洋の技術、思想、軍事、そして……自由。だが、いま分かった気がします。『学ぶ』というのは、ただ知識を得ることではない。あなたのように、命の在り方を変えることができてこそ、本物だ」


 晴人はうつむいて微笑む。


 「僕は逆ですよ。旅にも出たことがないし、語学だって、ほんの触りしか。でも、命を繋ぐには、まず目の前にいる人を知らなくちゃならない。それを教えてくれたのは、この町なんです」


 松陰はしばらく黙っていた。だが、やがて、真っすぐに晴人を見つめて言った。


 「あなたに学びたい。私が海の彼方に求めたものは、ここにあるのかもしれない。――今、この町で塾を開けるなら、私は開きたい」


 その言葉に、隣で聞いていた藤田東湖が思わず吹き出した。


 「おいおい、いきなり開塾か。さすがの晴人も、師範代までは務まるまいぞ?」


 「いえ、私が問いたいのは学問ではなく、生き方です。晴人殿の行いは、私の理想に肉薄している。私はそれを“思想”と呼ぶより、“導き”と呼びたい」


 「……買いかぶりです」


 晴人は苦笑したが、松陰は真剣な顔のままだった。


 「いえ、これは決意です。私は西を見ていました。しかし今は、北関東の小国に未来を見ています。もし、あなたが時間を許してくれるなら、共に歩みたい」


 晴人は、東湖と顔を見合わせる。


 「この町に吉田松陰の塾ができるなら……それこそ、どれだけの子どもたちが救われるか」


 東湖の言葉に、晴人も小さく頷いた。


 「松陰先生。今はまだ、足元を整えるので精一杯です。でも、いつかこの町が、本当に“学べる場所”になるなら……あなたの力を、貸してください」


 松陰はまっすぐに晴人の手を取った。


 「では、それまで私は、ここで“弟子”となりましょう。密航など、もはや愚かの極み。命を懸けて得るべきは、世界ではなく、この町です」


 その握手は、静かな決意をたたえていた。


 ──炊き出し所から、子どもたちの笑い声が響く。


 その響きが、松陰の胸に、たしかな未来の像を刻んでいた。

夕暮れが仮設町を薄紅に染め始める頃、晴人は吉田松陰とともに、町の南端にある水路の分岐点に立っていた。


 ここは、かつての米蔵跡地を再整備する際、最も頭を悩ませた場所だった。小高い地形が水の流れを阻み、湿気と悪臭が疫病の温床となっていた場所。今はそこに、緩やかな傾斜と二筋の溝が設けられ、町全体に水が巡るよう調整されている。


 「この水の流れを見ていると……まるで、人の営みそのもののようですね」


 松陰がぽつりと呟く。


 「最初は、どこに流れるのかさえ分からなかった。あちこちでせき止められて、濁り、淀んで、腐って……でも、少しずつ整えてやると、不思議なほど素直に流れるんです。人の心と、よく似てますね」


 晴人はしゃがみ込み、手のひらで冷たい水をすくった。


 「清い水は、町を潤し、病を癒やし、心を鎮める。逆に汚れた水は、命を蝕む。人の営みの根っこは、実はこんな単純な循環にある気がして……」


 「あなたの言葉には、血が通っている」


 松陰はそう言って、静かに笑った。


 「私が目指していた“開国”や“富国強兵”という言葉は、どこか紙の上で響いていた。だが、あなたの語る“町の形”は、生きている。知識を持つだけでは人は変われない。人を変えるのは、知識に温もりを加えた“行い”だと……ようやく分かった気がします」


 夕日が、町の屋根々々を黄金色に照らす。


 遠く、薬草小屋のあたりで、子どもたちの笑い声がはじけた。政次郎の姿も見える。子どもたちに何かを語りながら、手を振っている。いつの間にか、彼の周囲には同じ年頃の子どもたちが集い、小さな“学び舎”のような空気すら漂っていた。


 「彼が、政次郎くんですね?」


 「ああ、あの子は、最初に僕が助けた子でした。身寄りがなくて、病気がちで……でも今では、ああして他の子たちを笑わせてる」


 「彼もまた、あなたの“思想”の継承者ですね」


 そう言った松陰の瞳には、穏やかな情熱が宿っていた。


 「私は……ずっと焦っていたのかもしれません。開国が遅れれば、日本は植民地になる。列強に呑まれ、文化も誇りも失う。だからこそ、世界を知り、力を得ねばならない――そう思い詰めていた。でも」


 彼は一歩、晴人の隣に立ち、町の灯を見下ろした。


 「もし、この町のような場所が全国に広がっていけば。民が知を得て、助け合い、病を恐れず、他者と語り合えるなら……それこそが、“開国”より先に成すべき、本当の変革かもしれません」


 「吉田先生」


 晴人はまっすぐに松陰を見た。


 「僕の知識なんて、未来の断片にすぎません。でも、それが人の命を守るなら、誰かの希望になるなら、何度でも差し出します。僕は、命を救うために、ここにいます」


 松陰は、ふっと目を細め、優しく言った。


 「それを聞いて安心しました。……私は、やはりここで塾を開きたい。水戸に残り、この町で子どもたちと過ごしながら、自分の中にあった焦燥と向き合いたい」


 その言葉を聞いた晴人は、どこか肩の力が抜けたように微笑んだ。


 「なら、政次郎を最初の生徒に」


 「ふふ、それは心強い」


 二人は、しばし無言で水の流れを眺めていた。


 だがその時、小走りで近づいてきた藤田東湖の声が静寂を破った。


 「おい、塾を開くって話、俺にも聞かせろよ。お前らだけで進めてたら、嫉妬するだろうが」


 東湖は冗談めかしながらも、目は真剣だった。


 「この町に“思想の火種”を灯す。それは容易くない。だが、いまなら分かる。誰か一人の声から始まって、それが広がっていくこともあるってな」


 「だからこそ、あなたが必要なんです」


 松陰は、深く頭を下げた。


 「東湖先生。あなたの在り方が、この町の根を育てた。ならば、私はその幹となり、枝葉を育てたいと思います」


 その言葉に、東湖は照れ隠しのように鼻を鳴らした。


 「しょうがねぇな。じゃあ、せいぜい水戸の餓鬼どもを泣かせてやれ。俺の若い頃みたいに、厳しく育ててやんな」


 松陰は微笑み、遠くを見た。


 炊き出し所の煙が、ゆっくりと夜空へ昇っていく。


 その先にある未来を、三人の男は静かに見つめていた。

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