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108話:陸の三日—補給を断ち、港を握る

夜明けとともに、下関の町は火と煙の匂いに包まれていた。

 海からの砲声はようやく遠のき、代わって浜から港へと、荷馬車のきしむ音が響く。昨日の砲戦を生き延びた船乗りたちが、まだ煤のついた顔で波止場に集まり、沈んだ艦や行方の知れぬ仲間の話を交わしていた。


 藤村は、陸戦の初動部隊を率いて旧城下の西端に立った。視線の先には、退却する兵の列と、その横を必死に荷を引く避難民の姿が重なる。


 「このままでは衝突する……」

 低く呟くと、即座に指示を飛ばした。


 「停戦帯を敷け。ここから北へ二町、兵は左、民は右。

  通行票を作る。白は避難、赤は軍需、青は民需だ」


 半紙に大きく色札を刷らせ、通行所を三か所設置。役人と通訳を配置し、進むべき道を指し示す。兵の列から外れた荷車の女が、不安げに顔を向けた。


 「お武家様、こっち行ってもいいのかい?」

 「青札なら港まで通れる。そこで船に乗れ」


 安堵の息をもらし、女は札を胸に抱いて歩き出した。


 背後では渋沢が帳簿を抱え、流れを観察している。

 「交差がゼロになれば、物も人も速く動きますな」

 「それが三日後の港の価値になる。数字で残せ」


 午前、市場では商人たちが店を畳み、品を箱に詰めていた。そこへ藤村隊の兵が駆け込み、木札を掲げる。

 「赤札の倉は軍需没収、青札は保全だ」

 「食い物はどうだ?」

 「青札なら民需、残す。だが火薬や金属は預かる」


 異議を唱える者もいたが、赤札の規則は徹底された。兵の動きは素早く、港への搬送路は乱れなかった。


 午後、藤村は港の石炭庫へ向かった。高い板塀の向こうから、黒い粉塵が風に乗ってくる。

 「中は?」

 「敵艦用の石炭、まだ半分残っています」

 「封鎖する。港監督署の印を二重に押せ」


 門には鎖と封印札が掛けられ、この時点で敵の蒸機運用に不可欠な燃料は事実上、こちらの手に落ちた。


 続いて水運タンクへ向かう。塔の蛇口からは、一定の間隔で水が落ちている。

 「この水は?」

 「艦のボイラー冷却用。飲用には向きません」

 「なら兵の洗浄用に回せ。酸乳と石鹸を合わせて前線へ」


 若い兵が驚いたように問う。

 「洗いに?」

 「感染症を減らす。戦は砲だけではない」


 夕刻、停戦帯の端で藤村は日誌に書き留めた。

 ——避難民 452人、民需青札倉 28、軍需赤札倉 11、衝突件数 0。


 数字は冷ややかだが、その背後には、人の安堵と町の静けさが宿っている。

 渋沢がその横顔を見ながら呟いた。

 「これが講和のカードになりますな」

 藤村は前を見据えたまま答えた。

 「港を守るのは銃口じゃない、秩序だ。それを見せつける」


 三日間——この秩序が港を握り、補給を断ち、そして交渉の場で重い意味を持つことを、藤村はもう確信していた。

港の東側、潮の香りが濃い一角に、藤村と渋沢は足を運んでいた。朝から張られた停戦帯の効果で、避難民と兵の流れは乱れず、それぞれの動きが港の方へと集まっていく。


 「港監督署、こちらです」

 案内役の若い役人が、古びた木造平屋の扉を押し開けた。中には地図や港湾台帳が山のように積まれ、その上に赤札と青札の束が無造作に置かれている。


 藤村は地図を広げ、指先で倉庫群の並びをなぞった。

 「ここが石炭庫、こっちは給水塔。ここは民需倉庫だな」

 「はい、青札は全て民需、赤札は軍需と判断しました」

 「間違いがあれば即座に修正する。港の秩序は、印の信頼で保たれる」


 港の南桟橋では、荷役人足たちが倉庫から荷を出し、台車に載せていた。赤札が貼られた倉庫からは火薬樽や艦用部品が運び出され、番兵の監視下で一箇所に集められる。青札の倉庫は鍵を掛けられたまま、番頭と港役人が交互に見張りにつく。


 「赤札の物資はすべて集積所へ。民需に混ぜるな」

 藤村の声が響く。足元では、潮風が木箱の隙間から石炭の匂いを運んできた。


     ◇


 昼前、港裏手の石炭庫に向かうと、板塀の中では人夫たちが炭袋を数えていた。

 「総量は?」

 「百八十屯、うち百は敵艦用と推定されます」

 「積み出しは禁止だ。封印しろ。封印札は二重、港監督署と藤村隊の印を押す」


 渋沢が手帳に数字を書き込みながら問う。

 「これで敵艦の機動は?」

 「最低でも三日は動けん。潮の窓を一つ逃せば、また三日は閉じる」

 藤村の声には、港と戦場を一つの時計で見ている確信があった。


 その足で給水塔へ。高さ三丈の塔から、桶に水が落ちている。

 「これはボイラー用ですな」渋沢が覗き込む。

 「飲用には回せんが、洗浄や手洗いに使える。酸乳と石鹸を合わせ、前線の衛生区画に送れ」

 「戦場で手を洗うなど、笑う者もいましょうが」

 「笑わせておけ。笑っている間に感染症は減る」


     ◇


 午後になると、港の埠頭に木箱が並び始めた。赤札は軍需集積所へ、青札は保全倉庫へ振り分けられ、台帳に数量が記されていく。


 「青札倉二十八、赤札倉十一。避難民四百五十二人搬出完了」

 報告を受けた藤村は、短くうなずいた。

 「衝突件数は?」

 「ゼロです」

 「よし。三日後、この数字が講和の場で生きる」


 埠頭の端では、避難民の一団が船に乗り込んでいた。女が小さな包みを抱えたまま、振り返って深く頭を下げる。その視線の先に藤村が立っているのに気づくと、ほっとしたように船縁に腰を下ろした。


 渋沢がその様子を見て呟く。

 「人と物がぶつからぬようにするだけで、町の顔つきが変わりますな」

 「秩序は兵より強い。敵に渡すのは港でも砲でもない、混乱だ」


     ◇


 夕刻、港の監督署で簡単な会計試算が行われた。机の上に広げられた紙には、大まかな数字が並ぶ。

 「軍費八十五万、誤差五万」渋沢が読み上げる。

 「払えるか?」と慶喜の使者が問う。

 藤村は一呼吸置いて答えた。

 「賠償と没収で黒にする」


 その言葉は港の外に出ることはなかったが、部屋にいた者の目に確かな光を宿らせた。


 夜、桟橋に灯がともる。封印札が揺れる倉庫、潮の匂いのする石炭庫、静かに滴る給水塔。三日間の秩序が、この港の価値を変え、交渉の武器となる——藤村はそれを肌で感じていた。

午後の下関港は、陽射しの白さの中に、昨日までの硝煙の匂いをまだ孕んでいた。

 波止場の向こうには、黒い山が静かに積み上がっている。石炭——長州藩が保有する蒸気艦、そして外国商人から借り受けた武装輸送船のために備蓄された燃料だ。積み替えを待つ間、板塀の中に収められていたが、今はその門前に我が隊の兵が立っていた。


 「中の量、改め終わりました!」

 報告に駆け寄ってきたのは、港監督署から臨時徴用した若い書役だった。顔には煤の筋が走り、白い半纏が灰色にくすんでいる。

 「残量、およそ百五十トン。昨日の砲戦で消費はなし。敵艦はまだ港内に寄せられず」

 藤村は頷き、傍らの渋沢に目を向けた。

 「封鎖だ。二重に。港印と藩印を重ねろ。鎖もかけろ」

 渋沢はすぐに番頭に指示を飛ばし、赤地に黒で「没収」と記した札を大きく門に貼らせる。

 板塀の隙間から、黒く鈍い石炭の粒が陽を浴びて鈍く光った。それは港を支える血液のようであり、同時に敵艦の喉元を潰すための締め縄でもあった。



 石炭庫を押さえた足で、藤村は港裏の給水塔へ向かった。

 塔は煉瓦造りで、直径二間の鉄製タンクが天に突き出している。梯子を上りきると、上面のハッチから水面が鈍く反射して見えた。

 「塩分は?」

 検査役が紙片を水に浸し、変色を確かめて答える。

 「ほとんど淡水、しかし飲用には少し苦いです」

 「艦のボイラー冷却用だな。飲み水には回すな。兵の洗浄と医療用に使え」

 近くにいた衛生係が驚いた顔をした。

 「この水を洗いに……ですか?」

 「戦場の死因の半分は病だ。酸乳と石鹸を合わせて前線へ運べ」

 藤村の声に、渋沢が頷く。すでに荷駄には白い石鹸箱と、酸乳瓶を収めた木枠が積み込まれていた。



 昼過ぎ、港の荷揚げ場に赤札と青札が並び始めた。

 赤札は軍需没収、青札は民需保全の印——倉庫ごとに札の色で運命が分かれる。

 「こっちは青札、穀物は残す。赤札は鉄板と火薬、即座に移送」

 兵たちが手際よく札を打ち付け、荷の出し入れを監督する。

 荷主の商人が近づき、眉をひそめた。

 「この布地は?」

 「青札、民需だ。港を離れぬ限り、手出しはせぬ」

 その言葉に、商人はほっと息をつき、青札の貼られた倉の戸を自ら固く閉じた。



 港の秩序は、数字と動線で守られていた。

 停戦帯からここまでの道には三つの通行所があり、白札(避難)・赤札(軍需)・青札(民需)の三色で振り分けられている。通行所には役人と通訳が立ち、兵と民の流れを完全に分けた。

 「兵站列は左、民は右——交差ゼロを守れ!」

 藤村の指示に、各所の伝令が声を張る。


 こうした動線管理は、兵站の混乱だけでなく、避難民と兵の衝突を防ぐ効果もあった。

 港監督署の臨時記録には、この日だけで避難民276人、民需青札倉16、軍需赤札倉8、衝突件数ゼロと記されている。



 夕刻、藤村は港の見張り台に上がった。

 潮はゆっくりと満ちに入り、湾内の水面は西日を受けて黄金色に揺れていた。

 「敵艦影、なし」

 監視兵の報告に、藤村は短く答えた。

 「よし。港を握っているうちは、敵は息を詰めるしかない」


 下方では、封鎖された石炭庫と給水塔が夕陽に赤く染まっていた。

 その鎖と札は、単なる物理的な封印ではなく、港の秩序を握るための“宣言”だった。

 渋沢が隣で低く言った。

 「これで港は、丸ごとこちらの駒ですな」

 藤村は頷き、遠く沖の水平線に目を凝らした。そこにはまだ姿を見せぬ連合艦隊の影が、見えない糸のように張り詰めているように思えた。

港を押さえて二日目の朝、下関の空は湿り気を帯びた曇天だった。

 波止場に立つと、海の向こうにうっすらと灰色の影が見える。遠望用の望遠鏡を覗いた渋沢が、低く報告した。

 「連合艦隊、沖合に停泊。接岸はしておりません」

 「石炭庫の封鎖が効いている。港に入らねば補給できぬ」

 藤村は短く答え、背後の倉庫街に視線を移した。



 倉庫には、前日から貼られた赤札と青札が整然と並んでいる。

 赤札の倉には鎖が掛けられ、番兵が立つ。中には火薬樽、鉄板、砲弾用の鉛塊などが積まれ、港監督署の押印が二重に施されていた。

 一方、青札の倉では穀物や干魚、布地、木炭などの民需品が守られている。商人たちは札を誇らしげに掲げ、取引相手に「これは安全だ」と胸を張った。


 午前の港は、避難民と兵站列が別々の道を通るため、驚くほど静かだった。

 停戦帯の通行所では、白札の避難民が手押し車を引き、青札の民需品を積んだ荷車が港へ向かう。その横を赤札の軍需品列が無言で通り過ぎる。

 「交差は?」

 「昨日と同じ、ゼロです」

 書役が差し出した帳面には、避難民163人、青札倉11、赤札倉5、衝突ゼロと記されていた。



 昼前、藤村は石炭庫の鎖を再確認に訪れた。

 港役人が鍵束を揺らし、笑みを見せる。

 「昨夜、長州の残兵が様子を見に来ましたが、門前で引き返しました」

 「港の燃料を握るというのは、喉元を握るのと同じだ。見せつけることが肝心だ」

 門の鎖に触れ、札の紙質が湿気で柔らかくなっているのを確かめると、藤村は新しい札に貼り替えさせた。

 「紙も鎖も、気が緩めば意味を失う」



 午後、港監督署の二階で、軍費の初版試算がまとめられた。

 長机の上には、各地の支出明細が積まれ、渋沢がその束を開いて読み上げる。

 「砲台補修、弾薬補充、衛生物資搬入……合計八十五万両。誤差は五万の範囲です」

 傍らの慶喜が眉を動かした。

 「払えるか」

 藤村はすぐに答えた。

 「賠償金と没収品の売却で黒に転じます。三か月で埋められます」

 慶喜は短く頷き、帳面の端に自らの花押を入れた。



 夕刻、藤村は再び波止場に立った。

 海は夕陽を浴びて赤く染まり、沖の艦影は相変わらず遠い。

 渋沢が隣で呟いた。

 「敵は港に近づけず、燃料も水も得られない……焦れますな」

 「焦れさせるのが狙いだ。港を生かしたまま、敵の喉を締め続ける」

 藤村の目は、沖の艦隊のさらに向こう、交渉の場を見据えていた。


 港の秩序、補給の封鎖、会計の数字——それらすべてが、三日後の講和の席で重みを持つことを、藤村は確信していた。

港を押さえて三日目の朝、下関の空気は一段と湿り、海霧が低く垂れ込めていた。

 藤村は港監督署の二階から、倉庫街と波止場を見下ろしていた。赤札と青札の倉庫が規則正しく並び、通行所では白札の避難民が静かに港を抜けていく。


 「この光景を残せ」

 振り返った藤村が指示すると、待機していた若い士官が、三脚の上に黒い木箱――写真機を据えた。

 「港全景、停戦帯、倉庫の札、三方向から撮れ」

 シャッターのレンズ蓋が外され、湿板の匂いが漂う。士官は慎重に露光時間を数え、また蓋を戻した。


 渋沢が帳簿を抱えて入ってくる。

 「避難民、累計六百八十七人、衝突ゼロ。青札倉五十二、赤札倉二十九」

 「数字と写真、両方で押さえる。片方だけでは説得力に欠ける」

 藤村は机上の地図を広げ、港周辺に赤と青の小旗を立てていった。



 午前十時、監督署の会議室で、外国語に堪能な通訳官たちが並んだ。

 机の上には、前夜までにまとめられた英語・フランス語の報告文が積まれている。

 「冒頭はこうだ――“Restoration of Order at the Port of Shimonoseki, and Protection of Civilian Property”」

 藤村が読み上げると、フランス語担当が続けた。

 「Réintégration de l’ordre au port de Shimonoseki, et préservation des biens civils」

 慶篤がその訳文を手に取り、細かな語順を確認する。

 「“prevention of conflict between refugees and military logistics”——ここは数字と並べたいな」

 「そうだ、交差ゼロという事実は一行でも強い」


 記録係が、避難民の列や札を掲げる商人の姿を描いた挿絵も添える。

 「写真は海の向こうでは時間がかかるが、絵は即日で送れる」

 渋沢が頷き、船便のスケジュールを確認した。



 昼過ぎ、藤村は港の石炭庫へ赴いた。

 門の鎖はそのままで、封印札も新しい。

 「撮れ」

 写真士が三脚を構え、黒い覆いの中に顔を隠す。硝煙のような薬品の匂いが漂い、湿った板がケースに収められていく。

 「これは“港監督権の実施”の証拠になる」

 傍らで渋沢が書き留める。

 「英仏文書の『control over military supplies』の項に入れましょう」


 さらに、港裏の給水塔にも向かった。兵が石鹸と酸乳を運び、洗浄用水を分配している。

 若い兵が笑みを浮かべて手を振った。

 「昨日から前線の傷口がきれいに保てます!」

 藤村は頷き、通訳に指示する。

 「この衛生手順も記録だ。講和の場では、戦を止めた後の町の生き方を示せ」



 午後、監督署の一室で「講和資料」の編纂が始まった。

 長机の中央に置かれたのは、大判の帳簿と地図、そして十数枚の写真板。

 「順序はこうだ」

 藤村は指で机を叩きながら列挙した。

 「一、停戦帯と通行票制度。二、港監督権による民需保全と軍需封鎖。三、石炭庫と水運タンクの掌握。四、衛生措置による感染死の減少。五、衝突ゼロという実績」


 慶篤がその横に小見出しを付ける。

 「Evidence 1, 2, 3……と番号を振ると、外国人にも分かりやすい」

 「よし、次に数字だ。支出、没収品の評価額、賠償金の充当計画、すべて英仏両語で載せろ」

 渋沢が計算尺を滑らせ、軍費八十五万両の試算と、没収品売却による黒字化の見込みを数行にまとめる。



 夕刻、海霧が晴れ、沖合の艦影が赤く染まり始めた。

 藤村は桟橋に立ち、港に向かってくる一艘の小舟を見つけた。旗流信号が揺れ、「NO COAL, NO WATER」の文字が読み取れる。

 「向こうも察しているな」

 藤村は小さく笑い、桟橋の上で一行だけ手帳に書いた。

 ——港は握った。次は、その握りを交渉の力に変える。


 背後で、監督署の窓から慶篤と渋沢が顔を出す。

 「準備は整ったぞ、藤村」

 夕陽が三人の顔を照らし、港の秩序を証明する札の列が金色に光っていた。

八月八日の夜、港監督署の一室は灯火が遅くまで消えなかった。

 机の上には、乾かしたばかりの写真板と、墨で書かれた英仏文書の束、そして帳簿から抜き出した数字表が並んでいる。

 「これで、講和の“弾”は揃った」

 藤村は椅子に深く腰を掛け、目の前の山を見つめながら呟いた。


 渋沢が、そのうちの一枚を持ち上げる。

 そこには、停戦帯を示す通行所の様子が写っていた。白札を胸に避難民が歩き、青札を掲げた荷車が港へ向かう。

 「衝突ゼロを示す、この一枚……向こうは信じたくなくても信じざるを得ませんな」

 「数字と絵と写真、その三つを揃える。それが“事実”の形だ」



 翌朝、港の沖に二艘の艦船が現れた。

 マストに掲げられた信号旗は、停戦交渉の使節来訪を告げている。

 藤村は桟橋へ向かい、慶篤と並んでその接舷を待った。

 小舟が艦から降り、白い軍服の士官と通訳、書記官が港へ上がってくる。


 「我々は中立監視の立場から来た。港の現状を視察したい」

 通訳を通して告げられた言葉に、藤村は頷き、淡々と応えた。

 「歓迎する。ただし順路は我々が案内する」



 最初に案内したのは通行所だった。

 士官たちは札の色分けと、避難民・民需・軍需の仕分けを興味深そうに見ていた。

 「この青札は、どうやって発行する?」

 「現地役人が物資の中身を確認し、民需と認めれば即日交付する」

 士官は青札の紙質と印影を手に取り、「偽造は?」と問うた。

 藤村は短く答えた。

 「複製防止の水印が入っている。数は日ごとに記録済みだ」


 次に赤札の倉庫を見せた。

 封鎖された門、板塀の内側に積まれた石炭や木箱。

 「軍需物資はすべてこの形で保全している。港監督署の封印を二重に掛け、鍵は役人と士官双方が保持する」

 士官はうなずき、手帳に何やら書きつけた。



 港裏の給水塔では、兵が洗浄用の水を汲み、酸乳や石鹸を持って前線へ向かっていた。

 藤村はその場で木箱の蓋を開け、中身を見せる。

 「戦闘の負傷者を感染症から守るための衛生物資だ。前線の死亡率はこの三日で目に見えて下がった」

 士官の一人が酸乳を手に取り、匂いを確かめた。

 「これが……乳酸の匂いか。医師に見せたい」



 視察が終わると、監督署の会議室に戻った。

 長机の上には、朝のうちに用意しておいた「港秩序回復と民間保全」に関する資料一式が並ぶ。

 慶篤が冒頭文を読み上げ、通訳が英仏両語で続けた。

 「停戦下において、避難民と兵站物資の衝突を防ぎ、港の民需を保護した。軍需品は封鎖・没収し、記録と証拠を保持している」


 渋沢が続ける。

 「軍費八十五万両(±五万)を試算。没収品の売却と賠償金充当により、最終的に黒字化が見込まれる」

 士官の目がわずかに見開かれた。

 「軍事行動で黒字とは……」

 藤村は淡々と応えた。

 「港の秩序は、数字に換えられる」



 午後、士官たちは港を離れた。

 見送りの桟橋で、慶篤が小声で尋ねる。

 「向こうは信じるでしょうか」

 「信じざるを得ない。写真と数字は嘘をつかない。しかも現場で見せた」


 沖の艦に戻る小舟を見送りながら、藤村は手帳に次の一行を書き足した。

 ——港の秩序を握る者は、戦の終わり方を選べる。



 夜、監督署の灯火はまた遅くまで消えなかった。

 机の上では、次の段取りが静かに進んでいる。

 資料の複写、送付先の振り分け、次回交渉の議題整理。

 その中心で藤村は、赤札と青札の予備を手に取り、灯りに透かして見た。


 これらの札は、戦の三日間だけの道具ではない。

 講和が成れば、港の恒常的な監督制度として生きるだろう。

 港が生きれば、町が生き、町が生きれば国も生きる。


 藤村は静かに札を机に置き、外の潮騒に耳を澄ませた。

 その音はもう、砲声ではなく、秩序を抱いた港の呼吸だった。

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