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107話:下関炎上—初日海戦の要領

1864年8月5日、夜明け前の関門海峡。長州藩領の壇ノ浦砲台は、まだ薄闇の中に沈んでいた。対岸の九州・門司の灯がちらちらと揺れ、潮の流れは西から東へと早く、海峡の水面を白く泡立たせていた。


 藤村はその稜線上、火の山の観測所に立っていた。足元には六分儀、望遠鏡、潮汐表、そして短文を打てる簡易電信機。ここは長州藩の許可を得て設けられた「観測線の目」である。二日前、長州藩家老・益田右衛門介らとの会談で、藤村は役割分担を明確にしていた。


 「砲の指揮は長州が担う。我らは観測・通信・弾着修正を引き受ける」

 「敵艦の位置と動き、砲の着弾を即座に伝えられるなら心強い」


 長州はこの戦いにおいて孤立していた。相手は四国連合艦隊——英国、仏国、蘭国、米国の混成部隊。前年の下関砲撃事件での報復と、開国要求を突きつけるための来襲である。すでに彼らの大型艦が夜陰に紛れて西方の泊地に集結しているという報せは届いていた。


 海峡は狭く、潮流が激しい。とりわけ満潮から干潮へと転じる「横流れ」の時間帯は、船の転回や投錨が難しくなる。この地形的な癖を、藤村は戦術の骨子に組み込んでいた。

 「敵が潮に抗しながら向きを変える瞬間、そこに側面を撃ち込む」——それが第一条。


 午前四時半、東の空がわずかに白む。観測所の望遠鏡に、海峡西口から進入してくる艦影が映った。二本マストの蒸気フリゲート、その背後には煙突を二つ備えたコルベット艦。煙と朝霧が混じり、艦の国旗がはっきり見えないが、砲列の数と艦形から仏艦と蘭艦と見て間違いない。


 「敵旗艦、海峡入り口。距離、千五百間」

 藤村は即座に距離と方位を観測手に告げ、旗流で壇ノ浦砲台へ送る。同時に電信機を叩き、砲台背後の伝令所に着弾修正用の第1報を送った。


 砲台では、長州藩士が砲身に火縄を近づける準備を整えている。二十八ポンドの滑腔砲、その横には大口径の臼砲も据えられていた。海峡の狭さは、長距離砲よりも短時間での集中射撃を有利にする。


 「敵、転回に入る。潮逆!」

 観測所からの信号に合わせ、砲台の号令が響く。


 第一斉射。轟音とともに白煙が海峡に広がり、観測所の望遠鏡が着弾を追う。敵旗艦の舷側近くで水柱が上がった。藤村は即座に修正値を旗で送り返す。

 「右二度、仰角半度上げ!」


 第二斉射——今度は水柱の向こうに、木材が砕け飛ぶのが見えた。旗艦の動きが鈍り、煙が甲板から上がる。中破級の損害だと藤村は見積もった。


 「交差扇形射、続け!」

 壇ノ浦砲台と前田砲台、そして対岸の門司側に布陣した協力部隊が、扇状に射界を重ねる。狭まった海峡で敵艦は進路を変えられず、舷側を見せたまま砲撃を浴びる格好となった。


 やがて敵艦が黒煙を濃くして後退を始める。だが後続艦が押し寄せ、砲声は絶え間なく続いた。


 砲撃の合間、藤村は医療班にも目を向ける。砲台裏手では、負傷兵が無菌キットで手当を受け、酸乳と清潔な水が配られていた。破傷風や壊疽を防ぐため、創口は石鹸で洗浄し、酸乳の乳酸菌で腫れを抑える——藤村が数ヶ月前から準備してきた衛生対策が、いま現場で活きていた。


 「死亡率が目に見えて低い……」

 長州の医師が驚きの声を上げる。藤村は答えず、再び望遠鏡に目を戻した。


 午前九時、初日の戦いは小康状態となった。連合側は旗艦を含む二隻が中破、複数の砲門が沈黙。こちらは砲台が軽中破、人的損耗は想定の半分以下に収まっていた。


 藤村は観測所から砲台へ下り、長州の指揮官に短く言った。

 「潮と数字は裏切らない。明日も、この間でやります」

夜明け前の関門海峡は、まだ灰色の薄靄に包まれていた。

 その南岸、火の山の中腹に設けられた観測所では、旗手たちが半円形に並び、望遠鏡と測距器を抱えて海峡を睨んでいる。ここからは、彦島の北端から門司の鼻先まで、一筋の水路が掌に載せたかのように見渡せた。


 「――西水道に動きあり!」


 見張りの一人が叫ぶと、望遠鏡を構えていた藤村が、ゆっくりと視界を合わせる。

 靄の向こうに、帆柱と煙突が入り交じる艦影が現れた。フランスの旗、イギリスの旗、さらにオランダとアメリカの国旗が交互に翻る。四国連合艦隊、総勢十隻あまりが縦列を組み、潮流に乗って海峡に進入してきたのだ。


 「第一報、長府本陣へ!」

 副官が信号旗を振り、同時に簡易電信機のハンドルを回す。関門北岸の長州藩砲台にも同じ符号が打ち込まれ、長府城下の作戦室に設けた連絡所に届く。

 この日のために、藤村は長州藩と事前に協定を結び、観測—電信—砲台の三点連絡網を敷いていた。藩同士の政治的な隔たりは深い。だが「敵艦を海峡で止める」という一点で、双方の合意は揺らがなかった。


     ◇


 海峡の潮は、夜明け前に転じ、いまは東から西へ、速さ三ノットで流れている。

 藤村はその流れを計算に入れ、予め砲台へ送る射角修正の指示を準備していた。


 「敵が中水道を抜けたら――潮に押されて転回が遅れる。そこで西岸の第二砲台と南岸の第三砲台が交差射を浴びせる」

 「弾着は旗流で?」

 「いや、今回は電信だ。中継所は火の山と門司の稜線上に置いた。二十秒で届く」


 この「二十秒」が、藤村の作戦骨子の肝だった。従来の旗流や伝令では、敵艦が潮に流される速度に指示が追いつかない。しかし観測所—稜線中継—砲台という電信回線を使えば、弾着修正はほぼ即時に可能になる。


     ◇


 午前四時半、第一波の砲声が響いた。

 彦島沖の敵旗艦が、まだ転回を終えぬうちに、南岸第三砲台からの初弾が水柱を上げる。続いて西岸第二砲台の弾が、艦尾側に白い爆煙を咲かせた。

 観測所の測距手が叫ぶ。


 「命中、艦尾左舷寄り! 煙突に被害!」

 「修正なし、そのまま二連射!」藤村が返す。

 電信手がキーを打つと、二十秒後、再び砲声が轟いた。今度は艦首寄りに弾着し、敵艦の舷側から炎が立ち上がる。


 「敵、投錨! 消火に掛かる!」

 「よし、潮汐窓はあと十五分――西流が強まる時間帯に、再転回は困難だ。集中射を続けろ!」


 火の山の観測所から見下ろす海峡は、砲煙と朝靄が入り交じり、視界は刻々と変わる。だがその中で、藤村は潮の流れ、煙の流れ、そして敵艦の舵角を見極めていた。


     ◇


 長州側の砲台では、藤村の指示どおり弾が飛び、敵艦二隻が中破級の損害を負った。うち一隻は複数の砲門が沈黙し、動きが鈍っている。

 しかし藤村の視線は次の潮目へ移っていた。


 「十五分後、潮が緩む。その瞬間に敵は離脱を図る」

 「追撃を?」

 「いや、南岸砲台の予備砲だけで牽制だ。本隊は弾薬温存。初日で弾を使い切れば、次はない」


 そう言いながらも、藤村は視界の端で港に停泊する小艇の列を確認した。夜戦用の火工作艇――石炭庫や艦載炊事線を狙う、彼のもう一つの作戦の切り札だった。

 だが今はまだ時ではない。敵が疲労し、補修のために錨を下ろしたとき、その刃を抜くつもりでいた。


     ◇


 観測所の背後では、医療班が臨戦態勢を取っていた。破傷風や壊疽を防ぐため、酸乳・石鹸・清潔水を備えた「無菌キット」が並べられている。

 「前線搬送は一時間以内、洗浄後に酸乳を投与、創面は晒で覆う」

 医官が短く指示を出す。藤村は振り返り、静かに言った。

 「兵を失うより、銃を失う方がまだましだ。命は数字に現れる。日報に死亡率を記せ」


     ◇


 正午前、海峡に再び砲声がこだました。敵艦は予想通り西流が弱まった隙を突いて離脱を試みたが、出口で待ち構えていた砲台が最後の一撃を浴びせた。

 「命中! 敵艦、左舷舵効かず!」

 観測所の測距手の声が響く。藤村は満足げに頷き、短く命じた。

 「追撃やめ、初日の戦はここまでだ」


 こうして初日の戦果は、敵二隻中破、複数砲門沈黙。こちらは砲台が軽中破し、人的損耗は想定を下回った。

 火の山の風は、戦の煙を押し流しながら、次の潮の匂いを運んできた。藤村はそれを深く吸い込み、静かに眼を閉じた――まだ、これは始まりにすぎない。

潮の匂いが観測所にも濃く立ちこめてきた。

 火の山の麓、南岸第三砲台は砲声と指揮の声で満ちている。弾薬運搬役が汗まみれの顔で走り、測距手が何度も望遠鏡と方位盤を往復する。


 「観測所より――距離二百四十間、右舷前方一度修正!」

 伝令が息を切らして叫び、砲側の指揮官がすぐさま号令を飛ばす。

 「一番、二番、仰角そのまま、方位修正一度! ――撃て!」


 砲煙が耳をつんざき、鼻を突く火薬の匂いが広がる。轟音の後、海峡の中央で白い水柱が上がり、観測所から再び電信が届く。

 「弾着良好、次弾同調!」


     ◇


 北岸の長州藩砲台でも同じやり取りが繰り返されていた。

 「おお、潮に押されとる!」

 砲手の一人が指差す先、敵艦は西流に舵を取られ、意図せぬ方向へ流されている。そこを狙い、南北から交差射が浴びせられた。


 「こんなふうに合図が早く来たことはないぞ」

 長州藩の古参兵が唸る。旗流なら一分、二分の遅れは当たり前だ。だが今日は、観測所から電信で直接指示が入る。潮の加減に合わせて、砲弾が水路を挟んで左右から交差する。


     ◇


 砲撃の合間、藤村は観測所で手元の潮汐表を見た。

 「あと十分で潮が最強になる。敵の回頭は不可能だ」

 副官が頷き、電信手に次の指示を送らせる。

 「全砲台、集中射三斉発、その後二分間隔で間断射」


 その命令が届くや否や、南北両岸からほぼ同時に砲声が轟き、海峡全体が煙に包まれた。敵旗艦の舷側に火花が散り、煙突の根元から黒煙が吹き上がる。観測所の測距手が、声を張り上げた。

 「命中二発、煙突損傷、機動低下!」


     ◇


 砲台の裏手、簡易医療所では負傷兵が運び込まれていた。

 「破片、左腕!」

 衛生兵が叫び、医官が即座に袖を裂く。石鹸水で洗浄し、酸乳を染み込ませた晒布で傷口を覆う。

 「これで破傷風は防げる。次!」

 治療は短く、だが確実だった。医療班は戦闘開始前から藤村の指示で無菌キットを準備し、負傷者を受け入れるたびに死亡率を記録している。


 「昨日までの下関の死者率は三割だったが、今日は一割を切るだろう」

 医官の言葉に、藤村は短く「続けろ」とだけ返した。


     ◇


 午前八時、敵艦の一隻が帆を半分畳み、沖へ退こうとしているのが見えた。

 「転回に入った!」

 藤村はすぐさま電信を打たせる。

 「第二砲台、射角三度右! 第三砲台、照準そのまま連射!」


 敵艦は潮に逆らえず、横腹を晒した。その瞬間、二発の砲弾がほぼ同時に命中し、舷側に大穴を開けた。観測所の高台からも、その衝撃が見て取れた。


     ◇


 しかし、敵の反撃も始まった。西岸の第二砲台に砲弾が命中し、石壁が崩れ、砂煙が舞う。

 「死者は?」

 「なし、軽傷二!」

 藤村はほっと息を吐き、すぐに修繕班に指示を飛ばした。

 「壁を塞げ。砲は一門ずつ交代で撃て」


 砲撃は断続的に続き、昼近くになって潮が緩み始めると、敵艦は離脱の動きを見せた。

 「追うか?」副官が問う。

 「いや、今日はここまでだ。初日で弾薬を使い切るな」


     ◇


 戦闘が一段落すると、観測所には疲労と達成感が入り混じった空気が漂った。

 「敵二隻中破、砲門多数沈黙。我の損害軽微」

 副官が戦果を読み上げると、旗手たちや測距手が互いに頷き合った。


 火の山の風が、戦の煙を払い、海峡を再び灰青色に戻していく。

 藤村は望遠鏡を下ろし、潮汐表の次の欄に視線を落とした。

 ――初日でこれだけ動いた。二日目は、さらに潮を味方につける。

戦闘の火蓋が落ちてから半日。海峡はようやく静けさを取り戻しつつあった。

 砲台裏の斜面には、煤で黒くなった顔の兵士たちが腰を下ろし、水筒を回し飲みしている。遠くでは破片の山を片付ける音、負傷者の呻き声が混じる。


 藤村は観測所を離れ、医療所へ向かった。

 簡易な幕の下、藁床に横たわる兵士の腕には、白い包帯が整然と巻かれている。医官の高橋が膝をつき、静かに包帯を締め直した。

 「どうだ」

 「壊疽の兆しはありません。石鹸と酸乳が効いています」

 高橋は小さく笑った。「あの道具一式、最初は半信半疑でしたが、今は兵も安心して傷を見せます」

 藤村は頷き、藁床の兵士に声をかけた。

 「もうすぐ潮が変わる。明日はお前も、また持ち場に戻れる」

 兵士は微かに笑みを返した。


     ◇


 砲台の陰では、長州藩の指揮官・毛利家家臣の桂が藤村を待っていた。

 「いや、今日は助かった。潮と風の読みは聞いてはいたが、こうも当たるとはな」

 藤村は肩を竦めた。

 「潮は嘘をつきません。ただ、読み間違えれば命を落とします」

 桂は真顔で頷いた。「明日も頼むぞ。あの連合艦隊、今日の一撃を忘れはせん」


 短いやり取りの背後で、若い伝令が小走りに近づいてきた。

 「藤村様、慶篤公がお見えです」

 見ると、裃姿の慶篤が汗をにじませながらも、しっかりと足を運んでいた。

 「戦場を自ら歩くとは……」藤村が感心すると、慶篤は小さく息をつき、懐から書付を取り出した。

 「評定の型で、今日の動きをまとめてみました」

 藤村は受け取って目を走らせる。

 論点:潮汐を利用した側面射。

 費用:弾薬使用量、損耗。

 代替:防御優先の配置。

 期日:二日目の戦闘開始時刻。

 ――そして最後に、責任者・慶篤と署名されていた。

 「よくできています。あとは実地の数字を入れれば、幕府でも通用します」

 慶篤の頬に、戦場の熱とは違う紅が差した。


     ◇


 午後、砲兵小隊の前で小栗上野介が兵を集めていた。

 「今日の弾着修正は、半分以上が観測所の指示どおりだった。だがまだ遅れがある」

 兵たちは真剣に耳を傾ける。

 「旗流は速いが、電信はもっと速い。観測と射撃の間の三十秒を十五秒に縮めろ」

 その口調は厳しいが、兵の顔に怯えはなかった。むしろ、互いに誇らしげに視線を交わしている。

 藤村はその様子を遠くから見守り、小栗に近づいた。

 「海も砲も、結局は人ですね」

 「そうだ。鉄よりも、人の動きの方が速く変わる」

 短く交わした言葉の奥に、互いの信頼が滲んでいた。


     ◇


 日が傾き始めると、港の桟橋に漁民や町人たちが集まってきた。戦の間は避難していた者たちだ。

 老漁師が藤村の袖を引く。

 「旦那、あんたらが撃ってくれたおかげで、港が無事だ」

 藤村は笑みを返す。「まだ終わっていません。明日も守ります」

 漁師は力強く頷き、持ってきた桶の中から魚を差し出した。

 「これを食って力をつけてくれ」


 兵たちがその魚を囲み、焚き火の上で焼き始めた。戦の煙とは違う、香ばしい匂いが広がる。

 誰かが酸乳の瓶を持ってきて、火の回りに置いた。

 「戦場でも、これだけは欠かせませんね」

 渋沢が笑い、藤村も頷いた。

 「銭にも命にもなる。そういう品は、忘れられない」


     ◇


 夜、観測所の高台に立つと、海峡の向こうに敵艦の影がぼんやりと見えた。

 星明りの下、潮は緩み、明日の戦の準備を促しているようだった。

 藤村は懐から慶篤の書付を出し、最後の欄に自分の署名を加える。

 「明日も潮を味方につける」

 その呟きが、静かな波音に溶けていった。

夕暮れが迫る中、前線の砲台から港までの坂道を、大八車が途切れることなく下ってきた。荷台には使用済みの砲弾箱、破片となった木材、そして空の水樽が積まれている。

 「戻った荷は、まず重量を計れ。欠けがあれば記録しておけ」

 渋沢が声を張ると、荷受けの兵たちが素早く天秤にかけ、帳簿役へ数字を叫んだ。


 砲撃の合間にも物資は動き続ける。弾薬、食料、水、衛生用品——これらが途切れれば戦は終わる。

 港の奥では、《檸緑》の木箱が次々と小舟に載せられ、沖合の補給船へ渡されていた。干芋と干納豆も、薄い油紙でくるまれた束が兵站倉へ積まれていく。

 「この干納豆は砲台直行だ。火薬の湿気取りにもなる」

 番頭が念を押すと、人足がうなずき、軽い荷から先に担ぎ上げた。


     ◇


 海軍別建て会計の帳場は、港の一角に設けられていた。色分けした帳簿の表紙——深い藍は海軍特会、茶色は一般会計。混用は固く禁じられている。

 「この四十四隻の費用は、総額三百三十三万六千両。今日の消耗分は特会からのみ支出」

 渋沢が朱筆で線を引き、藤村に差し出す。

 「港湾整備や物資輸送の費用は、一般会計から出せません」

 「わかっている。線を引かねば、いずれ境が溶けて借金になる」

 藤村は印を押し、両手で帳簿を閉じた。


     ◇


 夜の港倉庫では、翌日の積み込みのための仕分けが進んでいた。

 壁際に張られた紙には、「大坂—下関 定時舟運ダイヤ」と墨書されている。日ごとの潮汐、発着時刻、積載物資の内訳までが細かく書き込まれていた。

 「七日の一便、檸緑三百瓶、干芋百箱、干納豆五十包……潮は午前の満ちで出す」

 荷役頭が唱えると、書役が横の積載表に赤丸をつけた。


 兵站の柱は「定時性」だった。敵艦の砲撃が止まぬ中でも、物資が予定どおり届くことが士気を保つ。

 藤村は倉庫の奥を歩きながら、瓶の栓、木箱の焼印、荷札の文字を一つずつ確かめた。

 「港で慌てぬよう、ここで不良を落とせ。港は送り出す場所だ、直す場所ではない」


     ◇


 医療班の荷も別の棚にまとめられていた。

 石鹸、酸乳、煮沸済みの清水、包帯、消毒用のアルコール——これらは戦闘物資と同じくらい厳密に管理される。

 高橋医官が手元の札をめくりながら言った。

 「明日は酸乳二十瓶を前線に。破傷風の予防には欠かせません」

 藤村は頷き、札に「優先」と記した赤印を押した。

 「兵が死ぬのは弾ではなく、感染だ。数字を見れば一目瞭然だろう」


     ◇


 港の外れでは、小栗が船頭たちと航路の打ち合わせをしていた。

 「潮は八つに変わる。関門に着く頃は下げに入る。帆と櫓の切り替えを迷うな」

 彼の指は潮汐表の線をなぞり、その合間に航路の危険箇所へ赤い印を付ける。

 「沈杭はこの辺りに並べたな?」

 「はい、敵の大型艦はここを避けるでしょう」

 「なら、ここに浮標を置いて航路を曲げろ」

 小栗の声は低いが、確実に港の空気を引き締めた。


     ◇


 深夜、港の灯が少しずつ落ちていく中、藤村は倉庫の外で一息ついた。

 潮の匂いに混じって、遠く砲台からの微かな音が届く。

 「明日の朝も、今日と同じように回す……」

 彼は懐から小さな手帳を取り出し、そこに短く書き留めた。

 潮汐、積載量、会計処理、医療物資、航路の変更——全てが繋がって初めて、戦は続けられる。


 その手帳を閉じたとき、夜風が旗竿を鳴らし、沖合の波が月明かりを反射して揺れた。

 港は眠らず、数字もまた眠らない。

 それが藤村の兵站であり、下関の海を支える見えない砦だった。

夕刻、関門の海峡にはまだ硝煙の匂いが残っていた。陽が西に傾き、火の山の稜線が赤く縁取られる。砲声はとっくに止んでいるが、耳の奥にはなお、重く腹に響く残響がこびりついて離れない。


 藤村は火の山の観測所から下関の町を見下ろしていた。港の一角では、敵弾で破られた屋根から黒煙が立ちのぼっている。だが炎は広がらず、既に半数以上の火点が消し止められていた。沿岸の消防組と水番、そして兵の連携が間に合ったのだ。


 「被害報告、まとまりました!」

 足早に駆け寄ったのは、観測班の若い記録係だった。両手の帳面には細かい文字と数字がぎっしりと並んでいる。

 「砲台、軽中破三基。砲門損失は四門、修理可能。人的損耗は戦死七、負傷十九。破傷風・壊疽の兆候は今のところなし」

 藤村は眉をわずかに上げる。

 「負傷十九で、その兆候なし……酸乳と無菌キットの運用が効いたな」

 記録係が深くうなずく。

 「はい。手当の際に必ず手洗いと石鹸使用を徹底しました。酸乳は飲用だけでなく、傷の周囲を拭う際にも活用しています」


 背後から慶篤が現れ、帳面を覗き込みながら感嘆の声を漏らした。

 「戦の数字とは、もっと血なまぐさいものだと思っていたが……こうして整うと、ただの記録ではなく、次への道しるべに見える」

 藤村は頷き、帳面の端を指で叩く。

 「論点、費用、代替、期日——戦場でもこれが通用する。明日はこの記録を基に射界と兵站を再調整する」


 潮汐表を掲げた板が観測所の壁に立て掛けられている。朱で記された「潮の窓」には、翌日の午前七時と午後二時半が丸く囲われていた。これが敵の機動に癖を作る時間帯であり、我が方が横流れ射界を重ねられる瞬間でもある。

 「明朝は七つ。今日と同じく潮に乗って転回中を叩く」

 藤村の声は低く、しかし揺るぎなかった。


     ◇


 日が沈むと同時に、前線から医療班が帰ってきた。担架の上には包帯で巻かれた兵が横たわり、その傍らを衛生係が付き添っている。港の臨時診療所では、酸乳の白い壺と石鹸桶、清水桶が三つ並べられ、順番待ちの負傷兵が静かに腰を下ろしていた。


 「壊疽の切除はゼロ。破傷風の兆候もなし」

 医師役の羽鳥が藤村に報告する。

 「やはり、手を洗い、道具を煮沸するだけでこんなに違うとは……」

 藤村はうなずき、背後の慶篤に振り返った。

 「見ておけ、これが数字に表れぬ戦果だ。明日の士気は、ここで保たれる」


     ◇


 その夜、仮設司令所となった町家に、各観測所と砲台からの報告が次々に届いた。机の上には航路図、射界図、弾着修正表、そして潮汐表が重ねられている。

 「敵の旗艦は中破。砲門四つ沈黙。動きは鈍く、次の潮まで修理にかかるだろう」

 「西側の二隻も、砲塔の旋回に遅れが出ています」


 藤村はその報告を受け取り、硯を引き寄せて覚書を書き始めた。

 ——明日の七つ、東側からの横流れ攻撃を主とする。

 ——観測—電信—弾着修正の流れを簡素化、信号旗の符丁を半分に減らす。

 ——沈杭と浮標の位置を一間内に詰め、敵の舵角をさらに制限。


 横で渋沢が兵站の紙束を抱えて立っていた。

 「《檸緑》二百四十瓶、干納豆百斤、干芋百箱、すべて明朝の定時舟に積み込み済みです。水と石鹸も揃っています」

 「よし。兵も砲も腹が減っては動かぬ」


     ◇


 深夜、火の山の観測所に再び上がった藤村は、暗闇に沈む関門海峡を見下ろした。遠くに、損傷した敵艦の影がわずかに揺れている。微かな灯火は、修理の手元を照らすためのものだろう。

 「動きは……ないな」

 隣で望遠鏡を覗く昭武が答える。

 「はい。ですが、夜半過ぎには潮が変わります。敵が動くなら、その時です」


 藤村は懐から小さな懐中潮汐表を取り出し、指で翌日の満潮時刻を確かめた。戦はまだ初日。数字も、風も、潮も、そして人も、すべてが動き続ける。

 「明日も、潮を読む者が勝つ」

 その言葉は、夜の潮騒に溶けていった。

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