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106話:潮と砲、電の設計図

七月の江戸は、朝から湿気がまとわりつく。水路沿いの柳は青々とし、風の通らぬ奥座敷では硯の墨が早くも重たくなっていた。

 藤村は、障子を半ば開け放った座敷に膝を据え、広げた海図の上を指で辿っていた。

 関門海峡――下関と門司の狭間に横たわる水路。潮の早さと複雑な流れは、古くから瀬戸内と外海の境を成す“潮の門”である。今、その潮をどう使うかが、四国連合艦隊への対策の肝になっていた。


 「藤村様、潮汐表、今月分すべて揃いました。」


 小四郎が木箱に詰めた紙束を差し出す。潮の満ち引きと月齢、風向きの観測記録が一日ごとに記されている。藤村はそれを受け取り、海図の端に広げた。


 「ほら、ここだ。」

 指が、赤鉛筆で印を付けた幾つかの時刻を示す。

 「この刻限、潮は東から西へ速く流れる。外海から入る艦は転回を余儀なくされ、錨を打つ。そこで側面に集中射を浴びせれば、動きは封じられる。」


 障子の陰で聞いていた渋沢が、帳面にその時刻を写し取る。

 「潮を武器にする……敵の大砲より先に、潮が奴らを縛るわけですな。」


 「そうだ。だが潮だけでは足りん。観測と通信だ。」

 藤村は次の紙を広げた。それは海峡両岸の稜線を示す地図で、赤い点が幾つも打たれている。

 「ここに観測点を置く。見張りは旗流で砲側へ合図を送るが、旗だけでは遅い。だから簡易電信を併用する。」


 「電信……あの銅線と音のやつですか?」

 小四郎が目を丸くする。

 「そうだ。打電は短く、着弾の修正だけに使う。“右に一艘長”“仰角半分”――これで一分も掛からず砲手に届く。」


 畳の上に、潮汐表、稜線図、電信符号表が並ぶ。そこに小栗上野介が入ってきた。

 「話は聞いた。航路の障害はどうする。」


 藤村は、別の紙束から図面を抜き出す。

 「沈杭、係留鎖、浮標。これを航路の両端に置き、通れる幅を狭めて曲げる。敵は速度を落とすしかなくなる。」


 小栗は図面を手に、黙って頷いた。

 「障害は潮と同じく、敵の足を止めるものだな。」


 「ええ。そして足を止めたところを、火工作で叩く。」

 藤村は声を低めた。

 「敵の石炭庫、炊事線――夜間に小艇で接近し、火を放つ。狙いは艦を沈めることではない。疲れと不安を与えるのが先だ。」


 渋沢が筆を止め、顔を上げる。

 「夜戦か……兵は疲れますが、敵も同じ。」


 「だからこそ、医療と衛生だ。」

 藤村は、机の端に置かれた箱を指差した。中には石鹸、酸乳の小瓶、竹筒に入った清潔水が収められている。

 「前線には必ずこれを置く。感染症で兵を失うのは、銃弾より悔しい。」


     ◇


 昼を過ぎると、座敷には大阪からの使いが到着した。手には舟運の新しい時刻表。

 「大坂—下関の定時舟運、すべてこの形で回します。」

 使いの男が広げた紙には、日別の便と積載品目が細かく記されていた。《檸緑》、干納豆、干芋……それぞれの数量と積載順序までが決められている。


 「いい。兵站は潮と同じで、間を外せば詰まる。」

 藤村は時刻表の端に朱を入れた。

 「この積載表は港にも掲げろ。誰もが一目で動きを分かるように。」


 そのとき、小栗が帳簿を開き、硬い声を発した。

 「海軍四十四隻、総額三百三十三万六千両。この会計は特会で回す。一般会計とは混ぜるな。帳簿も色を変えろ。」


 渋沢が頷く。

 「はい。特会は藍、一般は墨で。」


 こうして机の上には、潮と風の時刻、障害物の位置、観測と通信の手順、兵站の動線、そして会計の色分けまで――戦と商い、双方の設計図が並んでいった。


     ◇


 夕刻、庭の向こうに西日が差し込み、地図の海が金色に染まる。

 藤村は筆を置き、静かに目を閉じた。

 潮の門を制する者が、この戦を制する。鉄と電は道具だが、道具を生かすのは人の知恵と間合いだ。

 そのことを、改めて胸に刻んでいた。

翌朝、羽鳥政庁の一角にある軍務局の長屋では、机や畳の上に大きな紙が幾重にも広がっていた。地図、潮汐表、港湾図、積載表――すべてが「関門対策」と朱で書かれた木札の下に並べられている。


 「藤村様、この線は本当に潮で曲がるのですか?」


 小四郎が、細い筆で航路に引かれた緩やかな弧を指差す。

 「曲がるとも。満潮と干潮の交点では、潮の引きが船尾を押す。舵を切りすぎれば座礁、切らねば岸に寄りすぎる。」

 藤村は答えながら、杭打ちの位置を赤で書き加えた。

 「杭は沈めておく。上は海面下、見えぬ高さに留める。敵は避けられず、速度を落とす。」


 横で聞いていた渋沢が、障害線の資材調達の目録を書き写す。

 「杭はケヤキ、長さ三間半、頭に鉄輪……これだけの数を揃えるには、常陸と越後の材を合わせても足りますかね。」

 「足りる。越後からの筏は、次の大潮で江戸に入る。」


 廊下から慌ただしい足音が近づき、小栗上野介が姿を見せた。

 「藤村、下関からの使いが来たぞ。潮と風の観測役を増員したいと。」

 「よかろう。観測は戦の目だ。目が多ければ、敵の動きも早く掴める。」


     ◇


 午前中は観測隊の訓練が行われた。政庁裏手の丘に立てられた櫓の上で、若い隊員たちが望遠鏡を手に、遠くの水面を覗き込む。

 「見えます、黒い帆柱、北東に一隻!」

 「旗で伝えろ!」

 隊員の一人が、訓練用の信号旗を手早く振る。その様子を藤村は櫓下から見上げ、渋沢に声を掛けた。

 「旗だけでは、ここから砲座まで五分かかる。電信なら半分以下だ。」


 櫓の根元では、二人の通信兵が簡易電信機を操作していた。銅線は丘の斜面を下り、仮設の砲座に繋がっている。

 「トン・ツー、トン・ツー……『右舷二点、距離短し』!」

 砲座の兵が頷き、架台の角度をわずかに変える。旗と電信の併用は、まだぎこちないが、確実に伝達の時間を縮めていた。


     ◇


 昼過ぎ、軍務局の別棟では兵站会議が開かれた。壁一面に、大坂—下関間の航路図と日別積載表が貼られている。

 「《檸緑》は瓶詰二百本を毎便、干納豆は木箱二十、干芋は二十斤入りを十五袋……これが七月分の標準です。」

 港奉行が読み上げると、番頭衆が次々に朱で確認印を押していく。


 藤村は積載表を手に取り、順序を指でなぞった。

 「日持ちするものは下段、湿気に弱いものは上段。積み下ろしを早くし、港滞留を減らせ。」

 「はい。」

 「それと、積載量は必ず日計で記録。欠けや余りは翌便に回すな。全て港で精算する。」


 横から渋沢が補足する。

 「記録は二通。港と政庁の両方に置く。互いに突き合わせれば、不正も漏れもなくなる。」


     ◇


 午後になると、海軍会計の色分け帳簿が初めてお披露目された。机の上に並んだのは、藍と墨、二種類の表紙を持つ分厚い帳簿だ。

 「藍は海軍特会、墨は一般会計。数字を混ぜれば罰金だ。」

 小栗の声音は厳しかった。

 「海軍の四十四隻、総額三百三十三万六千両――これを一般と一緒にすれば、どちらの勘定も見えなくなる。」


 藤村は藍の帳簿を開き、初期記入の欄に筆を入れた。

 「船名、建造地、建造費、就役日、修繕予定。これを一目で追えるようにする。」

 渋沢が頷き、墨の帳簿には港と倉口座の取引明細を記す。色で分けられた二つの数字が、戦と日常を明確に隔てていく。


     ◇


 夕刻、再び櫓の上に登った藤村は、潮の流れを確かめた。海峡に見立てた入り江では、杭打ち用の材木が筏で運ばれている。杭の頭には鉄輪が光り、沈められる日を待っていた。


 「明日の満潮時に沈杭を三本、試しに打ちます。」

 港奉行の報告に、藤村は短く答える。

 「よし。敵が来る前に、海がどう変わるか、目で見ておけ。」


 背後で小四郎が潮汐表に印をつける。

 「明日は午の刻、潮が西から東へ最大流速です。」

 「なら、訓練もその刻限に合わせる。」


 潮、風、障害、砲、通信、物資、帳簿――その全てが一枚の地図に収束していくのを、藤村は深く感じていた。

 勝つための設計図は、ここから形を持ち始めたのだ。

翌日の午前、羽鳥政庁裏の広場は、早くも木槌の音と掛け声に包まれていた。中央には関門海峡を模した大きな模型が据えられ、その両岸には縮尺を合わせた港や砲座のミニチュアが並んでいる。潮の流れを再現するため、水槽の下には手回しの水車が仕込まれ、若い士官たちが交代で回していた。


 「この刻限、潮は東から西へ――船は下り流れに押され、舵が利きにくい。」


 藤村の声に合わせ、小四郎が水槽の航路へ小さな模型船を浮かべ、ゆっくりと押し進める。すると、岸に近い杭列に船体が接触し、あっけなく傾いた。


 「敵は回避しようと舵を切るが、その瞬間、側面が晒される。ここで集中射を浴びせるのだ。」


 模型の砲座から、小粒の木球が放たれ、船に命中して水面が波立つ。士官たちは一斉に頷き、手元のノートに印をつけた。


     ◇


 午後、訓練の場は港外の湾に移った。練習スクーナー二隻が、入り江の入り口を挟むように位置取り、片方が「敵艦」、もう一方が「味方砲座」役となる。


 「敵艦、転回開始!」


 観測櫓から旗が振られると、すぐさま電信線を通じて砲座に信号が入る。

 「右舷二点、距離二百四十間、修正一度半!」

 砲側の指揮官が号令し、砲手たちが角度を合わせる。砲声が響き、沖に白い飛沫が上がった。


 「弾着、二間短し!」

 観測員が叫び、再び修正値が送られる。二度目の発射で、木製の「敵艦」目標の帆柱が倒れた。


 桟橋に立つ藤村は、小栗と視線を交わした。

 「これなら、潮と電信で敵の動きを封じられる。」

 「だが、旗と電信の二重化は必須だな。線が切れれば全てが遅れる。」


     ◇


 夕刻、今度は火工作の演習が始まった。小舟三隻が、艦影に見立てた木枠へ接近し、油を染ませた麻袋を投げ込む。袋は水面に浮かび、しばらくして煙が立ち上る。


 「狙うは炊事線と石炭庫だ。火は敵の心を揺らす。」

 指揮役の古参兵が、若者たちに向かって叫ぶ。


 舟から戻った若者のひとりが、藤村に息せき切って報告した。

 「藤村様、潮に押されると接近の角度がずれます!」

 「ならば接近路を二つ用意せよ。一つは潮上から、一つは潮下からだ。」


     ◇


 同じ頃、政庁の一室では兵站班が別の戦いをしていた。壁には大坂—下関の定時舟運ダイヤが貼られ、各便の積載欄に赤と黒の数字が並ぶ。


 「干納豆は湿気を避けて船倉の上段、檸緑は瓶詰を割らぬよう麻布で仕切る。」

 番頭の指示に、記録役が頷きながら書き込む。


 藤村が入ってくると、皆が姿勢を正した。

 「積み残しは港で売り切れ。翌便への持ち越しはなしだ。」

 「はい。」

 「積載は日別、日計と月計で二重管理。港と政庁、双方で突き合わせる。」


 机の上には、藍色表紙の海軍特会帳簿が広げられていた。

 「この積載も、海軍分は特会で記録せよ。一般会計と混ぜるな。」


     ◇


 夜、広場では小型の提灯が灯り、限定の夜襲訓練が始まった。薄明かりの中、舟が音もなく進み、標的に近づく。信号旗は使わず、短い笛と手振りだけが合図だ。


 「火袋投下!」

 小さな炎が水面を滑り、やがて帆布に燃え移った。周囲を見守る兵たちは歓声を上げたが、藤村は静かに口を開いた。

 「本番では歓声は命取りだ。声は飲み込み、動きだけで伝えろ。」


 その言葉に若者たちは背筋を伸ばし、再び舟を漕ぎ出した。


     ◇


 演習のすべてが終わる頃には、港の上に満天の星が広がっていた。昭武は六分儀を手に、星の位置を測りながら航路図に書き込んでいる。

 「兄上、これで潮と星の両方が分かります。」

 「よし。海は裏切らぬ、読む者さえ誤らなければな。」


 藤村は最後に潮汐表を確かめ、翌日の満潮刻限に赤い印をつけた。

 その印は、戦の号砲が鳴る瞬間を告げる“時”の証でもあった。

七月の夕暮れは、港に長い影を落とした。

 演習を終えた兵たちが桟橋から引き上げ、倉庫前の広場に集まっている。潮風に混じって、焚き火の煙と煮物の匂いが漂っていた。


 「今日はよくやったな。」

 藤村が声を掛けると、若い砲手たちは一斉に背を伸ばした。潮と汗で硬くなった上衣を脱ぎ、桶の水を頭からかぶる者もいる。


 「旗も電信も、思ったより早く伝わりました。」

 観測役を務めた士官が、まだ赤い頬を冷やしながら報告する。

 「潮の読みが合えば、砲の準備にも余裕ができます。」


 藤村は頷き、ふと周囲を見渡した。そこかしこに、木箱を椅子代わりに座り込む者、砲車の車輪に背を預けて弁当を広げる者がいた。笑い声も混じるが、その瞳にはまだ緊張の色が残っている。


     ◇


 倉庫の脇で、小栗が地図を広げていた。地図の上には、関門海峡の潮流線と航路の障害物が赤と黒で描き込まれている。


 「沈杭と浮標の位置はこれでいいか?」

 「はい、潮上側から侵入する艦を強制的に曲げられます。」

 藤村は図を指でなぞりながら答える。


 小栗は小さく笑った。

 「紙の上では簡単だが、杭一本の位置がずれれば、敵の進路は変わる。だから現場での検証が要る。」


 そのやり取りを耳にした若い水夫が、恐る恐る口を開いた。

 「杭を打つのは、潮の止まる刻ですよね?」

 「ああ、そうだ。潮止まりの短い間に打ち込み、杭の頭を海面下に沈める。」

 藤村が説明すると、水夫は安堵の笑みを見せた。


     ◇


 夜になると、政庁の一室で兵站班が灯火を囲み、明日の積載表を作っていた。

 「干納豆は二百俵、檸緑は二百五十箱、干芋は百二十箱……」

 番頭が読み上げ、記録役が小筆で数字を記す。


 渋沢が横から口を挟む。

 「これらは全部、特会の勘定に入れる。海軍の帳簿と混ぜれば、数字が濁る。」

 記録役たちは一斉に「はい」と応じた。


 その横で、小四郎が二重計算の検証をしていた。

 「日計と月計が一致しました。」

 「誤差は?」

 「なしです。」

 藤村は目を細め、軽く肩を叩いた。

 「数字を守るのも、港を守るのと同じだ。」


     ◇


 翌朝、港では訓練を終えた兵や水夫たちが、思い思いに海を眺めていた。

 「本当に来るんですかね、外国の艦隊が。」

 ひとりが呟くと、隣の年長の砲手が応じた。

 「来る。来なくても備えは無駄じゃない。」


 彼らの背後で、昭武が六分儀を構え、若者たちに星の位置を測らせていた。

 「これは戦のためだけじゃない。海を知れば、商いも広がる。」

 そう言うと、若者たちの顔が少し和らいだ。


     ◇


 昼頃、藤村は港の端に立ち、出港する舟を見送った。荷は整然と積まれ、信号旗が風を受けてはためいている。

 「この秩序を、戦の場にも持ち込む。」

 小栗が隣で頷いた。

 「港も戦場も、乱れたら終わりだ。」


 遠ざかる舟の白帆を見ながら、藤村は胸中で潮の刻限を数えていた。

 満潮、干潮、風位、そして人の動き――そのすべてが、これからの戦と商いを左右する。


     ◇


 夕刻、政庁に戻ると慶篤が待っていた。手には評定用の要点メモがある。

 「これが、今日の訓練を踏まえた修正版です。」

 藤村は受け取り、一読して笑みを浮かべた。

 「よくできている。だが、責任者の名を忘れるな。」

 慶篤はすぐに末尾に自らの名を記した。


 外では、港からの潮風が窓を揺らした。戦も商いも、その風に乗ってやって来る――藤村はそう感じながら、机上の潮汐表に視線を落とした。

潮風が会計所の窓を震わせた。下関行きの定時舟が桟橋を離れたのだろう。木製の窓枠越しに、藤村は机上の色分け帳簿を見つめた。

 海軍別建て会計――総額三百三十三万六千両にのぼる四十四隻分の艦船費を、一般会計とは絶対に混ぜぬ。そのために作られた新帳簿だ。表紙には朱で「特会」とだけ記され、縦罫線の枠には赤と黒の二色が使い分けられている。


 「色を分ければ、一目で紛れがわかる。だが、人間の目より怖いのは“つい”という油断だ。」


 藤村は自らの言葉を胸に繰り返しながら、勘定役の若者に朱筆を渡す。

 「入金は赤、出金は黒。転記のたびに日付と証文番号を必ず添えろ。」

 「はい。」若者は深くうなずき、丁寧に墨を含ませた。


 帳場の隅では、小栗が腕を組み、勘定台の並びを見ていた。

 「この額、この数……混ぜれば一月もせず帳が腐るぞ。」

 「だからこそ“別建て”です。」藤村は応じる。

 「兵の俸銀や港の修繕とは、同じ銭箱に入れぬ。艦の銭は艦のためだけに動かす。」


 窓外から、潮鳴りと人足の掛け声が届く。桟橋では、干芋・干納豆・《檸緑》が日別の積載表どおりに舟へと運ばれていた。大坂から下関までの航路表とダイヤは既に港詰所に掲げられ、風待ちの商船や武器輸送船がそれを見て自ら積み込み順を調整する。


 「潮は味方にも敵にもなる。」藤村は呟き、傍らの積載表を指で押さえた。

 「潮汐と荷の順を合わせれば、一日が縮まる。逆なら三日は失う。」


 昼過ぎ、会計所の隣室で兵站会議が始まった。地図の上には大坂、下関、そして江戸までを結ぶ太い線。沿岸の港には時刻と積載品目が書き込まれている。

 「大坂発は毎月上旬と中旬の二便。下関着は潮を見て三日後、そこから陸揚げと再積みを経て関門へ。」

 兵站奉行が棒で指し示すと、番頭の一人が問う。

 「干納豆は前線向け、干芋は主に備蓄か?」

 「そうだ。干納豆は塩気が強く、湿気にも耐える。干芋は士卒の間食と負傷兵の食料にする。」

 「《檸緑》は?」

 「旗本や指揮官への支給だ。暑気あたり防止と、士気の維持になる。」


 小栗は黙ってそのやり取りを聞き、やがて地図の端に視線を落とした。

 「この航路に、もし途中から四国連合艦隊が干渉してきたら?」

 藤村は即答した。

 「潮汐戦術で足止めします。関門での作戦と同じく、敵が転回や投錨で潮に逆らうときを狙い、通過を阻む。兵站はその裏を抜けさせる。」


 その場の空気が一瞬張り詰める。机上の航路線が、まるで細い脈のように皆の目に映った。これが途切れれば、前線は飢え、弾薬は尽きる。逆にこれを守れば、数の劣る味方にも勝機が生まれる。


 午後、藤村は倉庫群を回った。酸乳瓶の木枠、干芋の標準箱、干納豆の俵――全てに荷札が掛けられ、積載日と行き先が墨書きされている。

 「荷札を無くすな。港を三つ越えたら、同じ顔の箱が三倍に増える。」

 倉庫番が笑いながらも真剣に頷く。

 「荷札の紐も二重にしてます。」


 会計所に戻ると、若い書役が別建て帳簿を抱えて駆け込んだ。

 「藤村様、今朝の下関便、荷積み完了の電信が入りました!」

 「電信文を。」

 「“積載完了、潮良好、予定通り出港”とあります。」

 藤村は目を細め、机上の潮汐表と照らし合わせた。

 「この潮なら、途中で風を失っても二日で着く。」


 傍らで小栗が感心したように鼻を鳴らした。

 「軍事も商いも、こうして数字で積み上げれば虚は出ぬな。」

 藤村は軽く笑い、朱筆で帳簿の「完了」の欄に印を入れた。


 日が傾く頃、桟橋からまた掛け声が響いた。次の便の荷役が始まったのだ。

 藤村は帳簿を閉じ、硯の蓋をそっと下ろした。

 この赤と黒の線が、前線の兵を生かし、海の潮と鉄を動かす――その確信が、潮風とともに胸に満ちていた。

この準備がやがて関門での迎撃戦を支える礎になる。

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