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105話:江戸博覧会—数字で魅せる

梅雨入り前の江戸は、薄曇りながらも風が柔らかかった。

 日本橋のたもとには、まだ朝早いというのに人だかりができている。檜造りの仮設櫓には、青地に白抜きの大きな旗が翻っていた。そこには《檸緑》の文字と、酸乳、干芋の図柄が並ぶ。


 「ほら、あれだ。羽鳥の博覧会ってやつだ。」

 「飲み物を試しにくれるんだとよ。しかも外国のやり方だって。」


 噂はすでに町中を駆け巡っていた。藤村が仕掛けたのは、武家も町人も分け隔てなく味わえる「試飲・試食会」だった。しかも、ただ振る舞うだけではない。列の横には帳場が置かれ、前受金を支払えば、その場で予約札が渡される。これは《檸緑》や酸乳、干芋を確実に入手できる引換証でもあり、いわば販売の先取りであった。


 「一本いくらだ?」と町人風の男が尋ねる。

 「檸緑は瓶返しで八文引き。酸乳は産後用と普通用がある。」番頭が手際よく答える。

 「瓶返しってのは、また面白え仕組みだな。」

 「瓶は笠間の統一口径です。洗って何度も使える。無駄がありません。」と、隣で控えていた女中がにこやかに説明する。


 檸緑の瓶を手にした年配の商人は、しげしげと口径や栓を眺め、「おお、蓋もきっちり締まるな。これなら船で揺れてもこぼれまい」と感心していた。


 広場の奥では、干芋の試食台が賑わっている。四角く揃えた切り口、均一な厚みと乾き具合。以前のばらつきだらけの干芋とは比べものにならなかった。

 「歯切れがいいな。」

 「甘みもそろってる。これは値が付くわ。」


 こうした細やかな品質統一は、藤村が農政と加工現場の両方に口を出し、標準規格を定めた成果だった。干芋箱の側面には「常」の焼印が押され、港でも即座に産地と規格が分かる。


 舞台の脇に、帳簿を開いた渋沢が控えている。藤村が歩み寄ると、彼は小声で告げた。

 「前受け、今朝だけで四千八百両に届きます。」

 「上出来だ。数字を見せることで、次が動く。」


 その横では、昭武が外国人通訳を相手に、英仏両語で《檸緑》の製法や酸乳の効能を説明していた。黒板に「Lemon Green」「酸乳—Fermented Milk」と書かれ、彼の筆跡はまだ幼さを残しながらも、はっきりと力強かった。

 「兄上、こう書くと外国の方も分かりやすいそうです。」

 「うむ、数字と同じで、形が揃えば意味も揃う。」


 さらに会場の一角には、武器商との覚書が極秘裏に展示されていた。表向きは「航海用品取引」と書かれているが、関係者だけが中身を確認できる仕組みだ。年商二十七〜三十万両、粗利四・五〜六・六万両——これらの数字は、武器という商材の規模と収益性を如実に示していた。

 「ただ見せるだけじゃなく、“見せたい相手”にだけ見せるのが肝心だ。」藤村は低く呟いた。


 昼を回ると、日本橋の広場はさらに人で溢れた。武家の奥方、豪商の奉公人、旅の僧侶まで足を止め、檸緑を口にし、干芋を噛み、酸乳の白さに驚きの声を上げる。

 「これは体に良いのかい?」と問う女将に、藤村はうなずいた。

 「下痢を減らす。井戸水の悪さも消せる。」

 「それはありがたい。夏場は子がすぐ腹をやられるでな。」


 広場の端では、港の潮汐表と信号旗の説明も行われていた。大洗港に常備される予定のもので、潮の満ち引きや風向きを旗で即座に伝える仕組みだ。

 「これで上海への積み出しも遅れずに済みます。」と港役人が胸を張る。

 「潮を読むのは商いを読むのと同じだ。遅れは損、早すぎても損だ。」


 午後、会場中央で藤村が高台に立ち、短く挨拶をした。

 「今日は味わってもらうために集まっていただいた。しかし、味は一口、数字は一生だ。これらがいくらの価値を生み、どれだけの人を養うか——それを皆で確かめていきたい。」


 拍手が湧く中、藤村は内心で慶喜の顔を思い浮かべていた。この催しは、慶喜直裁で「通信・兵站・衛生」の三本柱を常設化する布石でもある。慶篤には、この場で決裁の型を肌で覚えさせている。

 「論点、費用、代替、期日——これを現場で見るんだ。」と耳打ちすると、慶篤は頷き、熱心にメモを取っていた。


 やがて夕刻、博覧会の櫓に夕陽が差し込み、瓶の中の檸緑が金色に輝いた。

 潮風が吹き抜け、人々の笑い声と商談の声が交じり合う。藤村は、その光景をしばし無言で見つめた。

 数字は冷たいが、人が加われば温かくなる——今日の日本橋が、それを証明していた。

博覧会の熱気がまだ残る日本橋の裏手、藤村は関係者だけを集めた控えの間に入った。

 障子を閉め切ると、外のざわめきは一気に遠のき、墨の香りと帳簿をめくる音だけが広がる。


 「本日の前受け四千八百両、これはすべて専用勘定に入れます。」渋沢が数字を示す。

 「瓶返金分の差し引きも、同じ勘定で回すんだ。」藤村は頷きながら、別紙にさらさらと朱で印を入れた。


 机の上には、檸緑、酸乳、干芋それぞれの在庫表が並ぶ。どれも港や倉口座と連動し、すぐに数量と出荷予定が見えるようにしてあった。

 「干芋は上海向けが先行で三百箱。酸乳は羽鳥と水戸が主、江戸は予約分のみです。」

 「酸乳は鮮度が命だ。保管日数を超える分は容赦なく落とせ。」

 「もったいなくは……」と若い書役が言いかけたが、藤村は首を振った。

 「もったいないのは腹を壊すことだ。信用は取り返せぬ。」


 脇で控えていた昭武が、英仏両語の在庫表を手にしていた。

 「兄上、港の役人にもこれを渡しておきます。外国船に即答できるように。」

 「よし。数字は言葉より早く伝わる。」


 そのとき、小四郎が帳簿を抱えて駆け込んできた。

 「本日の売上と前受け金、日計と月計が一致しました!」

 「検算は?」

 「三度、やりました。」

 「誤差ゼロなら、今日はもう十分だ。次は控の書式も自分で作れ。」


 藤村は懐から小さな図を取り出した。それは大洗港の潮汐表と信号旗の組み合わせ図で、干物標準箱の焼印「常」も添えてある。

 「この印があれば、港の秤検査でも一目でわかる。量目をごまかす者は即日過料だ。」

 渋沢が笑みを浮かべる。

 「商人は印を見ると、値切るより早く銀を出しますからな。」


 さらに藤村は、倉口座に関する覚書を番頭層へ示した。

 「武器商との契約は、表に出せぬ部分が多い。しかし数字は隠さぬ。年商二十七〜三十万、粗利は四・五〜六・六万。この範囲で計画を立てろ。」

 「対外秘、ですね。」

 「そうだ。だが内で共有せねば動けぬ。」


 控えの間の空気は、外の賑わいとは別種の熱を帯びていた。数字が並び、朱筆が走り、港、倉口座、農政、衛生——それぞれの糸が一つの帳簿に繋がっていく。


 そこへ慶篤が入ってきた。裃姿のまま、手には自ら書いた決裁要点メモを持っている。

 「藤村、この型でよいか。」

 藤村は受け取り、一読して頷いた。

 「論点、費用、代替、期日——順序も明快だ。だが一つ足りぬ。」

 「何が?」

 「『誰が責任を持つか』だ。」

 慶篤は一瞬黙り、やがて自らの名を末尾に書き足した。

 「これでいい。」藤村の声には、わずかに笑みが混じった。


 やがて場を収め、藤村は博覧会会場に戻った。外は夕暮れで、櫓の旗が赤く染まっている。

 人波の中には、港役人や農村の名主、商人、そして興味深そうに覗き込む外国人たちの姿もある。


 「潮汐と商いは、同じだな。」渋沢が隣で呟く。

 「潮を読むのは利を読むこと。間を外せば、すべて流される。」藤村はそう応えた。


 その視線の先には、港の方向を指す案内板が立っていた。大洗港——そこから潮と風を掴み、上海へ、さらには遠い海へと繋がる道がある。今日の数字と、人々の笑顔、その両方がその道の燃料になることを、藤村は確信していた。

翌朝、藤村は日本橋から船で大洗へ向かった。

 早暁の川面はまだ薄青く、櫓の音が水を割る。舟は隅田川を下り、江戸湾から沖へ出ると、潮の匂いが強くなった。


 「潮は下げに変わります。」

 舵を取る船頭がそう告げると、藤村は頷き、港役人に持たせた木箱の封を確かめた。中身は干物の標準箱と「常」の焼印、それに潮汐表だ。

 「この焼印は、大洗港と霞ヶ浦を結ぶ定時船の信用の証しだ。量目を誤魔化せば即日過料、例外はない。」


 大洗港に着くと、まだ朝靄が残る埠頭に、浜の女や商人、港役人が集まっていた。

 「これが『常』の印だ。」藤村は干物箱を掲げ、皆に見せる。

 「今後、この印があるものは量目を改めずに通す。ないものは秤に掛け、誤差があれば過料だ。」

 港役人がうなずき、印の押し方を若い衆に教え始めた。女たちは興味津々で覗き込み、「これが江戸で売れる箱かい」と囁き合う。


 その横で、渋沢が港事務所に潮汐表と信号旗を掲げる。

 「この旗が赤白縞なら、出港可。青なら欠航。旗の意味は全員に覚えさせろ。」

 漁師の一人が笑った。

 「風見鶏よりわかりやすいな。」


 港の奥には、霞ヶ浦から来た定時舟が着いていた。荷の多くは干物と酸乳瓶だ。瓶口はすべて統一され、酸乳と檸緑、洋酒も同じ規格になっていた。

 藤村は荷を降ろす人夫に声を掛けた。

 「瓶は返せ。二文で買い戻す。」

 「わかってますよ、旦那。瓶も銭だ。」


 その後、藤村は港の秤場に入り、検査の様子を見守った。秤に掛けられた干物箱は規定通り、誤差はほとんどない。

 「これなら上海へ送っても恥をかかぬ。」渋沢が呟く。

 「量目を守ることが、港の値段を守ることだ。」藤村は淡々と答えた。


     ◇


 昼前、港を離れた藤村は近郊の田野に向かった。そこでは農夫たちが手押し除草器の実演を見ている。

 「この歯車が草を掻き取り、根ごと浮かせる。腰を折らずに歩くだけだ。」

 郡奉行が説明すると、農夫たちが順に柄を握り、畝を歩いた。

 「こりゃ楽だ。背が伸びるわ。」

 「草はどこに捨てる?」

 「畦に積んで乾かし、堆肥に混ぜる。捨てるものは何もない。」


 藤村はその様子を見ながら、懐から施肥暦と用水番表を取り出した。

 「基肥は堆肥に油粕を混ぜ、追肥は干鰯を薄く撒く。用水番は表に従って回す。水を溜めすぎるな、根が腐る。」

 農夫たちは紙を受け取り、指で日付をなぞる。中には読み書きの出来ぬ者もいたが、番の色分けと印で理解していた。


     ◇


 午後、大洗に戻ると、港の倉に若者たちが集まっていた。練習スクーナーの乗組員候補だ。

 昭武が黒板に「六分儀」の絵を描き、英語とフランス語で部位の名前を書き込む。

 「この目盛りを読むのだ。海上での位置は、星と太陽が教えてくれる。」

 若者たちは真剣に頷き、順に六分儀を覗いた。視線の先には午後の太陽があり、その位置が航路の道標になる。


 藤村は桟橋に出て、帆を張る練習を見守った。風を受けた帆布が膨らみ、船体がわずかに傾く。

 「海も畑も同じだな。」隣の渋沢が笑う。

 「潮と風、肥と水、どちらも間を見極めねばならぬ。」藤村は目を細めた。


 その背後で、小四郎が日計表を書き写していた。出納の誤差はゼロ、検算も済ませたという。

 「今日はこれで終わりだ。」藤村が告げると、小四郎は少し誇らしげに頷いた。


     ◇


 夕暮れ、大洗の港に赤白の信号旗が揺れた。翌朝の出港は可。

 藤村は港の端に立ち、霞ヶ浦へ戻る舟の影を見送った。その向こうには、江戸、そして上海へと続く海の道がある。

 港と田野、帳簿と旗、潮と風——そのすべてを繋ぐ糸を、藤村は確かに感じていた。

江戸への帰路、藤村は港の水先案内人に手を振って別れた。舟は夕凪の海を滑るように進み、やがて隅田川に入る。

 川面には家々の灯が映り、夜風が涼やかだった。


 日本橋に着くと、そこは昼間にも増して賑わっていた。大通りの真ん中に特設の棚が組まれ、《檸緑》の瓶と酸乳の壺、干芋の籠が並べられている。傍らには「江戸博覧会」と墨書きされた大きな幕。藤村は周囲を見渡し、人の群れと商品の配置を確かめた。


 「旦那、これ、もう行列ですよ。」

 声を掛けたのは渋沢だ。棚の前には町人、旅人、武家の妻らが列をなし、試飲用の小盃を手にしている。

 「酸乳は口当たりが柔らかい。檸緑は、あと口が涼しい。」

 売り子の娘たちが笑顔で声を張り、列の進みを整えていた。


 藤村は会計台に歩み寄り、記帳役の小四郎を覗き込む。

 「今のところ、前受は?」

 「四万八千両です。干芋の箱が思ったより早く動きます。」

 「冬場を見据えての買い込みだろう。腐らぬ品は、銭を呼ぶ。」


 通りの端では、武家の若侍が干芋の標準箱を手に取り、重さを確かめていた。側にいた年配の商人が声を掛ける。

 「それは常陸物、量目は正しい。大洗港の焼印がある。」

 若侍は頷き、箱を肩に担いで去っていった。


     ◇


 その夜、日本橋近くの貸座敷で、慶喜を囲む小宴が開かれた。

 「見事な催しだったな、藤村。」慶喜は杯を傾けながら言った。

 「銭も物も動かさねば意味がありません。数字で魅せるのが一番です。」

 「まさにそうだ。」慶喜は笑みを浮かべたあと、真顔になった。

 「そなたに頼みたいことがある。『通信』『兵站』『衛生』を常設の組織としたい。評定を通さず、直裁で進める。」

 藤村は息を整え、深く頭を下げた。

 「承ります。人も帳も、すぐに整えます。」


 その脇で慶篤が静かに聞いていた。藤村は帳面を取り出し、書き付けを見せる。

 「決裁は、この型で。論点、費用、代替案、期日、そして結論。評定で習ったことを、実地で繰り返す。」

 慶篤は紙を受け取り、何度も目を走らせた。

 「形を守れば、迷いが減るのですね。」

 「そうです。形は器、器があれば中身は崩れません。」


     ◇


 翌日、藤村は幕府勘定所の一室で、数名の与力・勘定方を前に立った。机上には分厚い覚書が置かれている。

 「米国との武器取引、年商二十七万から三十万両、粗利は四万五千から六万六千両。対外秘だが、番頭層には共有する。」

 与力の一人が眉を上げた。

 「この額……半ば藩の歳入規模に匹敵しますな。」

 「だからこそ管理が要る。船積みの期日、積荷目録、銭の流れを三段で押さえろ。」


 渋沢が手元の帳面を叩いた。

 「収益の一部は外貨で運用します。薩英戦争の賠償金、七十五万ドルがある。」

 与力たちがざわめく中、藤村は短く言い添えた。

 「使い道は決めてある。今は眠らせる。」


     ◇


 昼過ぎ、藤村は日本橋の博覧会場に戻った。日差しは強く、檸緑の瓶に光が走る。酸乳の壺を手にした老女が「子や孫に飲ませる」と笑い、干芋の籠を抱えた旅商人が「これで山道を越える」と言う。

 人と品、銭と記録が、途切れなく流れていく。藤村はその光景を胸に刻みながら、次の仕掛けを思案していた。


 ——数字で魅せ、人を動かす。それが、この江戸を支える力になる。

初夏の陽が、港の水面を白く照らしていた。大洗港の防波堤には、真新しい信号旗の棚が据えられ、潮汐表は桟橋脇の掲示板に貼られている。干物の標準箱には「常」の焼き印が鮮やかに押され、荷役の合図とともに積み上がっていった。


 「――今日は南寄りの風、潮は十時に満ちます。」


 港番の若い水夫が声を張ると、荷役人足がうなずき、積み込みの順を変える。上海向けの初荷は、干物百箱と笠間焼の酸乳瓶二千本、それに檸緑の瓶詰が混じっていた。酸乳は船旅には向かないが、港での接待や短距離便での需要が見込まれ、商館との契約に加えられている。


 「藤村様、積載は予定どおりです。」


 番頭が帳面を掲げる。積み込みの手順、箱数、重さ、すべて港秤の検査を経て押印される。不正な量目が出れば即日過料――港の秩序は、こうした地味な規律の積み重ねで守られていた。


 藤村は港口を眺めた。運河の水面が静かに呼吸をするように揺れ、霞ヶ浦からの舟が定時に到着している。半年かけて開削した水路と馬車路の効果は、既に数字となって表れつつあった。霞ヶ浦沿岸から大洗までの移動時間は半分になり、荷の傷みも減った。これなら潮汐表と風読みを組み合わせ、江戸までの定時便も現実味を帯びてくる。


 「これで港は“動脈”になった。あとは……守る手順だ。」


 そう呟いた藤村に、小栗上野介が隣で頷いた。


 「外交の場は、紙の上だけでは回らぬ。潮と砲と船の足を読む者が要る。」


 その日の午後、政庁の一室で「潮汐・測距・弾着修正マニュアル」の雛形作りが始まった。長机には測量図と潮汐表、六分儀や望遠鏡、鉛筆の束が並べられている。昭武は英語とフランス語で航法用語を板書し、若い書記たちが訳語と注を付け足していく。


 「満潮から干潮までの落差は……」

 「この港で六尺。波高が加われば最大八尺半。」


 「測距は?」

 「二百間ごとに白標。昼は旗、夜は灯で。」


 淡々と数字が並び、やがてそれらは一枚の「戦場の潮汐表」へと形を変えていった。単なる港の案内ではない。外からの艦隊が来たとき、どこまで入り込めるか、砲座からの距離は何間か、弾の落下点をどれだけ修正するか――すべてを数字と線で予測するための図だった。


     ◇


 数日後、その雛形をもとに現場訓練が始まった。港の外れ、仮設の砲座に青い布を巻いた模擬砲弾が積まれ、砲兵小隊が整列している。指揮役は若い士官、測距手は六分儀を抱え、信号手が旗を握って待機する。


 「潮、七分。風、南南西。距離、二百五十間――修正二度半!」


 号令とともに砲口がわずかに上を向き、轟音が港に響いた。布弾は遠く水柱を上げ、測距手が落点までの差を叫ぶ。


 「修正、一度! 再装填!」


 桟橋の上では藤村と小栗、そして慶篤が訓練を見守っていた。慶篤は懐から小さな手帳を出し、藤村が書き方を指示する。


 「論点、費用、代替案、期日――この四つは必ず並べろ。現場も机も同じ型で回せる。」


 慶篤はこくりと頷き、訓練の手順を要点だけ抜き書きする。彼の視線の先で、再び砲声が響き、白い飛沫が沖に花を咲かせた。


 午後になると、訓練は海上へ移った。練習スクーナーが二隻、湾外に出て、互いに信号旗で通信を交わす。潮の流れ、風向き、帆の開き方、すべてが刻々と変わる。昭武が船首に立ち、六分儀を覗き込みながら航法用語を英仏両語で指示した。


 「Bearing, two points starboard! ――方位、右舷二点!」


 若い水夫たちは慣れない外国語に舌をもつらせながらも、帆と舵を合わせていく。その姿を藤村は遠望しながら、小さく息を吐いた。


 港は、ただ荷を出し入れするだけの場所ではない。潮を読み、風を計り、人を動かす。商いと戦が交わる境界であり、外交の顔でもあった。だからこそ、秩序を保ち、数字で裏打ちされた動きを叩き込まねばならない。


 夕暮れ、港に戻ったスクーナーが静かに帆を下ろす。桟橋には、朝と同じ信号旗がはためいていたが、そこに立つ人々の顔には、訓練の手応えが刻まれていた。


 「これで、港も人も、潮を読む眼を持った。」


 藤村の言葉に、小栗が短く応じた。


 「後は、実戦で裏切らぬことだ。」


 港の灯が一つ、また一つとともり、夜の潮が音もなく寄せてきた。

夕暮れの大洗港は、昼間の喧噪を引き取ったように、ゆったりと潮の音を響かせていた。

 岸壁に残るのは、荷役を終えた木箱の山と、干物の香りを残す潮風。それらの上を、橙から群青へと変わる空の色が、静かに覆っていく。


 港の中央桟橋では、信号旗の帆柱が風に鳴っていた。赤と白、青と黄――昼間は航路指示に使われた旗が、今は端にまとめられ、次の朝を待っている。

 その足元では、秤検査の道具が整然と箱に納められ、番頭たちが数字を帳面に記していた。


 「今日の過料は三件、全部で二両八分」

 若い検査役が声を張る。

 「全て、不正量目の即日処理です」

 傍らの古参番頭がうなずく。

 「いい、翌日に持ち越せば港の信用が鈍る。今日のけじめは今日のうちにだ」


 その様子を少し離れて見ていた藤村は、海面に視線を落とした。

 波間に、昼間の練習で使われたスクーナーの影が揺れている。

 「……六分儀の扱いはどうだった」

 声をかけると、桟橋の端から昭武が笑みを見せた。

 「最初は目盛りの読み間違いが多くて……でも、三度目には全員が誤差一分以内に収まりました」

 「英仏両語の指示は?」

 「はい、航路と風位は英語、帆の指示は仏語で。慣れればすぐに通じます」


 ふたりの背後を、小四郎が駆け抜けていく。両手には、日計帳と潮汐表が抱えられていた。

 「藤村様、今日の干満はほぼ予定通り! 明朝は満潮が四つ半で、初荷の出帆にぴったりです!」

 息を切らしながらも、声は弾んでいる。

 藤村は頷き、頭を軽く撫でた。

 「よし。明日はその時間を潮汐旗で全港に知らせろ。訓練どおりにな」

 「はいっ!」


 岸壁の灯籠に火が入る頃、練習を終えた若い水夫たちが集まってきた。

 手には帆綱の感触がまだ残り、顔は潮と汗で輝いている。

 「今日の測距、昼間の訓練よりずっと早かったぞ」

 「ええ、弾着修正も二回で済みました」

 笑い声とともに、木靴が石畳を打つ音が響く。


 桟橋の端に立ち、藤村は海面越しに港全体を見渡した。

 信号旗の柱、潮汐表の掲示板、倉庫前の検査秤、そして静かに揺れる練習船。

 全てが、ただの道具や施設ではない――秩序を守るための約束であり、次の航海への支度だった。


 やがて、昭武が手帳を抱えて近づく。

 「藤村様、慶篤公の決裁訓練の件ですが……評定で使う要点メモ、今日の実地を踏まえて修正してみました」

 ページには「論点→費用→代替→期日」の四つを柱にした簡潔な段が並んでいる。

 「これなら即決できます」

 「いい。だが実地の数字を添えろ。机上の議論と港の現実を結べば、誰も軽くは扱えん」


 港の奥では、灯りの下で番頭衆が倉口座の覚書を確認していた。

 米国線との武器取引――年商二十七万から三十万両、粗利四万五千から六万六千両。

 この数字は外には出せないが、港の者たちには現実の動きとして伝えておく必要がある。

 「数字を知る者は、数字で裏切らない」

 藤村のその言葉を、番頭のひとりが深く刻むように頷いた。


 夜風が少し冷たくなり、港の波音が静まっていく。

 岸壁を離れかけたとき、小四郎が再び駆けてきた。

 「藤村様! 外海の見張り台から、北東の風が明け方まで続くとの報せです!」

 「よし、なら帆の角度は……」

 「はい、既にスクーナーに伝えました!」


 若い声と足音が夜の港を駆け抜ける。

 その背を見送りながら、藤村は静かに海に向かって息を吐いた。

 この秩序と段取りが、やがて外交の現場でも生きるだろう――潮を読み、距離を測り、誤差を詰める。戦でも商いでも、それは変わらない。


 港の灯がゆらりと揺れ、遠く沖の闇へと滲んでいく。

 その先には、まだ見ぬ海域と、まだ交わしていない約束が待っている。

 藤村は一度だけ桟橋を振り返り、明日の潮の匂いを胸に収めた。

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