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104話:潮風に映る予防の灯

羽鳥政庁の朝は、潮の香と麦の青い匂いが混じる。

 正門の前に、江戸からの荷車列が並んでいた。駄馬の背には藁で巻いた木箱や、桐の札を打ち付けた樽が揺れている。


 「藤村様、江戸より回送品でございます」


 郡奉行が差し出した目録には、「石鹸百二十」「梅干二百五十壺」「酸乳瓶四十箱」と墨字が並ぶ。その横には小さく「和宮様御承認」の朱印が押されていた。


 これは、江戸城大奥の歳出縮減で余剰となった贈答品と、専売所からの回送品である。

 和宮の承認が下りたことで、大奥の贈答用に積み上がっていた在庫が、こうして羽鳥の衛生課へ回されたのだ。


 藤村は荷を一つ手に取り、封を確かめた。

 「封は江戸政庁のままか」

 「はい、掛け紙も剥がしておりません」


 広場の片隅で、衛生課の役人たちが手際よく荷を振り分けていく。石鹸は巡回診療用に三十箱、残りは郡ごとの衛生講へ。梅干は農家の備蓄用、酸乳瓶は産科と学童給食用だ。


 「この石鹸は江戸の大奥縮減の成果だ。配る時には必ずそう伝えろ」

 「はっ。掲示板にも書きます」


 藤村は視線を遠くに向けた。五月の空は淡く霞み、田の水面が陽を反射していた。

 江戸での改革の果実が、こうして百里離れた村々の手に届く。それは、銭の数字には表れぬ確かな実感だった。

江戸城・西の丸御殿。障子越しに射し込む初夏の光が、畳の目を細く輝かせていた。

 正面に座るのは和宮、隣には大奥年寄・瀧山。藤村は正座し、持参した帳面を前に置いた。


 「――歳出、二万三千両の縮減、確かに承りました」

 瀧山の声音は冷ややかだったが、奥底に柔らかな満足があった。

 「ただし、贈答の縮減は、内々での承認を必須といたします」


 和宮は頷き、視線を藤村に移した。

 「物を減らせば、心まで削ぐと言われます。けれど、贈り物が誰の口にも入らず、棚で埃をかぶるなら、それは侍女の心も冷えます」

 「ですので、羽鳥や農村の衛生課へ回送し、子や母に届けます」

 藤村の言葉に、和宮はほほ笑みを見せた。

 「良いこと。銭の行方も、人の行方も、同じ眼で見られる方は少ない」


 瀧山が帳面に朱を入れ、押印した。これで、大奥歳出縮減の実務は動き出す。

 回送品の第一陣は、すでに羽鳥への道を進んでいるはずだった。


     ◇


 羽鳥政庁の会議室。白壁に掛けられた大きな地図には、郡ごとの診療巡回ルートが赤い糸で結ばれている。

 衛生課長の岡島が、石鹸の箱を指で叩きながら報告した。


 「石鹸は三十箱を巡回用に確保、残りは郡ごとに均等配分。梅干は一壺を十家に分け、酸乳瓶は産科と学童給食に回します」

 「酸乳は足が速い、二日以内に使い切らせろ」

 藤村の言葉に、記録係が筆を走らせる。

 「はい、輸送と同時に巡回隊へ積み込み、到着即日で配布します」


 卓上には、新たに作られた「下痢発生率掲示板」の雛形が置かれていた。縦に村名、横に月日、赤字で患者数、青字で死亡数。

 岡島が指示を加える。

 「村の掲示板に貼り出し、石鹸・酸乳・梅干の配布日と照らし合わせる。効果が一目でわかるように」


 郡奉行の一人が手を挙げた。

 「村によっては字が読めぬ者も多い。印や色で示せぬか」

 藤村はうなずく。

 「赤丸は発症、青丸は治癒、黒三角は死亡――これで誰でも見分けられる。色は染料屋に頼んで日焼けしにくいものを」


 会議の最後に、藤村は静かに告げた。

 「この数字は、我らの成績表だ。減らせば誉れ、増やせば恥と思え」


     ◇


 午後、政庁前の広場で巡回診療隊の準備が始まった。

 馬車の荷台には、酸乳瓶を収めた木箱と、梅干の壺、そして石鹸が積み上げられていく。

 若い医師の一人が酸乳瓶を手に取り、首をかしげた。

 「……これ、本当に二日しか持たないんですか」

 「夏場は一日だな」

 藤村は即答した。

 「だから運びながら配る。渡すときに“明日までに飲め”と必ず言え」


 別の医師が木箱を覗き込む。

 「瓶の口径が揃っていますね。これなら洗って何度でも使えます」

 「笠間の瓶工房に頼んだ。酸乳も《檸緑》も洋酒も、同じ口径だ。栓の規格も統一する」


 荷造りの傍らでは、村役人たちが診療日程の札を受け取っていた。札には「石鹸」「梅干」「酸乳」の文字が大きく書かれ、その下に配布日と場所が記されている。


 藤村は札の一枚を手に取り、指でなぞった。

 「これを村の辻や井戸端に掛けろ。見るたびに思い出すようにな」


 「はい」

 短い返事と共に、役人たちは札を抱えて馬に跨った。


     ◇


 夕刻、政庁の奥で昭武が板に向かい、数値を書き込んでいた。

 「……井戸覆いの数と、手洗い桶の設置数、これを横軸にして、下痢死亡の減少を縦軸にすると――こうなります」

 線は右下がり、配布と設備の効果が一目でわかる。

 藤村は頷き、肩を軽く叩いた。

 「よし、これを評定で見せる。銭だけでなく、命の数字も示す」


 隣で小四郎が筆を動かしていた。

 「藤村様、日計表の検算、誤差ゼロです」

 「いいぞ。数字の癖を覚えれば、不正や漏れはすぐ見抜ける」


 陽はすでに沈み、障子の外には薄い闇が広がっていた。

 江戸から届いた物資と、大奥の節約、そして村の掲示板――そのすべてが、静かに一本の糸で結ばれていくのを、藤村は確かに感じていた。

羽鳥郊外の田道は、初夏の陽を受けて麦が揺れていた。麦の穂先はまだ青く、風に擦れ合ってかすかな音を立てる。

 巡回診療の馬車が、道の端に土煙を上げてやって来た。先頭の旗には大きく「衛生課」の二文字。後ろの荷台には酸乳瓶の木箱、梅干の壺、石鹸が積まれている。


 「藤村様、今日は三か所目です」

 隊の医師・伊東が、額の汗をぬぐいながら報告する。

 「水はあるか」

 「井戸は村の真ん中、桶と覆いもあります」

 「よし、先に井戸を見せてもらおう」


     ◇


 村の辻に馬車が入ると、子どもたちが駆け寄ってきた。

 「酸っぱいの持ってきた!」

 「手を洗うやつだ!」

 笑い声が重なる。

 藤村は子どもらの頭を軽く叩き、「順番だぞ」と笑った。


 井戸端では、年配の女たちが桶を洗っていた。桶の縁には、先日配られた「手洗い・前後」の札がしっかり結び付けられている。

 「ここの覆いは、しっかりしてるな」

 藤村が覆いを持ち上げ、中を覗く。水面には埃も落ち葉も浮いていない。

 「男衆が交代で番をしています。水番表も貼り出しました」

 村役人が胸を張る。


 広場に簡易の机を並べ、配布と診療が始まった。

 「この酸乳は、明日までに飲みきること。冷やすなら井戸の中へ」

 「梅干は腹を壊したときに一粒、あとはおにぎりに入れると良い」

 石鹸を渡すときには、医師が必ず泡立てて見せた。

 「よく泡立てて、指の間もこすれ。井戸の水でも構わん」


 老女が酸乳瓶を抱え、首をかしげる。

 「こんな立派な瓶、また返せばよいのかね」

 「返してくれ。洗って、また酸乳や《檸緑》を詰める。瓶は銭と同じ、何度も回す」

 その言葉に、周囲の者がうなずく。


     ◇


 昼下がり、隣村へ向かう道中。

 麦畑の間を抜けると、腰をかがめて草を引く農夫たちが見えた。手押しの除草器を押している若者もいる。

 「おお、これが新しいやつか」

 藤村が声をかけると、若者が笑った。

 「鍬よりずっと楽で、速く終わります」

 「草が小さいうちに押すのが肝心だ。麦も米も、根を張る前に養分を取られるな」


 除草器の横には、施肥暦と用水番表が貼られた板が立っていた。

 「こうして見えるところに置くと、忘れないだろう」

 「はい。子どもも“今日は赤の日”と覚えます」


 農夫たちは酸乳瓶を受け取り、「産婆殿に持って行きます」と言った。産婆はすでに、産後の母親に酸乳を与える習慣を始めていた。


     ◇


 日が傾くころ、三か所目の村に到着した。ここでは掲示板に赤丸や青丸がびっしり並んでいる。

 藤村が指でなぞる。

 「先月は赤丸が多いな」

 「はい、井戸覆いがまだなくて……今月は黒三角が一つ減りました」

 村役人の声は、悔しさと安堵の入り混じった響きだった。


 「覆いは急げ。木材は羽鳥から回そう」

 藤村はすぐに書き付けを作り、伝令に渡す。

 「今月中に青丸を増やすんだ」


 配布を終え、日暮れの道を馬車が走る。

 荷台は軽くなったが、藤村の懐には新しい数字と村々の表情が残っていた。

 それは帳面の数字以上に、確かな手応えを示していた。

江戸城の奥御廊下は、障子越しに淡い光をたたえていた。初夏の湿りを帯びた風が、遠くの庭から菖蒲の香を運ぶ。藤村は小姓の案内で、和宮付きの上段の間へ向かっていた。


 襖が開くと、まず瀧山が控えているのが目に入った。背筋の通った立ち姿に、長年大奥を取り仕切ってきた重みが漂う。

 「羽鳥よりの帰り、よう参られました」

 瀧山の声は、張りがありながらも柔らかい。


 「こちらこそ、お手を煩わせます」

 藤村は深く一礼した。


 奥には和宮が座していた。浅葱の単衣に薄紫の帯、髪には白い花の簪。穏やかな笑みを浮かべて迎える。

 「遠路ご苦労でございました。羽鳥の村々はいかがでございますか」


 藤村は懐から一枚の紙を差し出した。

 「下痢発生率、三か月で二割減。井戸の覆い設置数と手洗い桶の普及数を表にしました」

 和宮は目を通し、そっと頷く。

 「こうして数字になると、よくわかりますね。村の名まで記してあるのが、なおよろしい」


 瀧山が傍らから口を添える。

 「酸乳や梅干の配布、石鹸の使用指導……どれも地道なことながら、大奥の贈答費を抑えて捻出できるとは」

 藤村は静かに答える。

 「贈答の品を減らしても、心は減らさぬ方法を考えました。菓子や布地のかわりに、地方の良品や薬草茶を贈る。贈られた側も“役立つ物”として喜びます」


     ◇


 和宮は几帳の影に目をやりながら、ひと息置いた。

 「歳出は、どのくらい減らせましたか」

 「年間二万三千両の縮減が確定いたしました」

 和宮の瞳がわずかに輝く。

 「それだけあれば、いくつの井戸が覆えるでしょう」

 「三百基は可能です」

 「……ならば、半分を江戸の町方の井戸にも回しましょう」

 その場の空気が少し和らぐ。瀧山が小さく笑った。


 藤村は次の紙を広げた。そこには疫学表が描かれ、井戸覆い・手洗い桶設置数と、月ごとの下痢による死亡数が対比されている。

 「昭武公が作ったものです。目で見て“これだけ減った”とわかるように」

 和宮は感心したように指で表をなぞる。

 「若い方の発想は面白い。これなら、子どもも覚えますね」


     ◇


 話は再び大奥の内部に及ぶ。

 瀧山が帳面を開き、数字を示す。

 「御化粧料の一部現物支給化、御召し物の仕立て直しの推奨、贈答の統制……これらで経費を削減できましたが、反発もございます」

 藤村は微笑を含ませた声で答えた。

 「反発は、“代わりに何を得られるか”を示せば和らぎます。例えば節約分で村の娘に仕立ての良い襦袢を贈る。江戸の職人が仕立て、大奥からの印を付ければ、誇りにもなります」

 和宮は頷き、瀧山も目を細める。

 「なるほど……節減が恩になれば、誰も損はいたしません」


     ◇


 やがて話は、巡回診療での出来事に移った。

 藤村は、井戸端で酸乳瓶を抱えて首をかしげた老女の話や、手押し除草器を押す若者の笑顔を語った。

 和宮は楽しそうに耳を傾け、時折質問を挟む。

 「酸乳はどれくらい保ちますの」

 「この季節ですと、井戸で冷やして二日が限界です。ですから週二便の出荷にしました」

 「村で産後の母に飲ませていると」

 「はい。母の回復が早くなれば、家の働き手も戻ります」


 瀧山が小さく息をついた。

 「大奥で節約した銭が、こうして人の命を延ばす……ようやく、糸が繋がった気がいたします」


     ◇


 退出の折、和宮が立ち上がり、几帳越しに言葉を掛けた。

 「藤村様。数字は大切ですが、人の顔も忘れぬよう」

 「心得ております。数字の裏に笑顔がなければ、意味は半分です」

 その返答に、和宮は微笑み、瀧山も静かに頷いた。


 御廊下に出ると、夕日が障子を金色に染めていた。

 藤村は歩を止め、懐の紙束を確かめた。それは村々の数字であり、同時にそこで生きる人々の証だった。

 削った銭も、作った表も、すべてはこの証を積み重ねるためにある。

羽鳥政庁の執務所には、朝から人の出入りが絶えなかった。暖簾をくぐるのは、郡奉行や町年寄、医師、商人――いずれも手に帳面や見積りを抱えている。


 「これが大奥節減で浮いた二万三千両の振り分け案です」

 渋沢が帳場の前に紙を広げた。

 「井戸覆いに一万五千両、手洗い桶の設置に五千両。残りは予備費として非常用に確保します」


 「桶の材料は?」

 「杉と檜です。大桶職人に一括発注しますが、節を減らすために、木取りの段階から検品します」

 藤村は頷き、朱筆で承認の印を入れた。


     ◇


 昼過ぎ、港筋から飛脚が駆け込んできた。

 「大洗港の干物、初荷が上海に着いたと!」

 届いた文には、荷受け先からの評判と価格が記されている。定量契約を守ったことで値崩れもなく、焼印の「常」箱が高値で取引されたという。


 「潮汐表と信号旗の常備が功を奏しましたな」

 港奉行が笑みを浮かべる。

 藤村は笑って返す。

 「次は霞ヶ浦からの定時舟と接続して、遅れをなくす。港秤の検査も怠らぬよう」


     ◇


 田野では、施肥暦とAWD(水位管理表)を持った若い郡役人が農家を回っていた。

 「基肥は堆肥と油粕、追肥は干鰯を薄く撒いてください」

 農夫が首をかしげる。

 「薄くってのは、どのくらいだ」

 「この升で半分、畝十間あたりです」

 手押し除草器の実演も始まった。歯車の回転に合わせ、草が浮き上がっていく。見ていた子どもたちが歓声を上げた。


 「これなら腰を痛めずに済むな」

 年配の農夫が目を細める。

 藤村は後ろから声を掛けた。

 「空いた時間で堆肥場の手入れをしてください。草も土も、命のうちです」


     ◇


 政庁に戻ると、昭武が六分儀を手にして待っていた。

 「藤村様、航法用語を英仏両語で板書しました」

 大きな板には、“Latitude”と“Latitude Nord”が並び、その横に日本語で「緯度」と書かれている。

 「よくできたな。これを港の教習所にも置こう」

 昭武は嬉しそうに頷いた。


 隅では小四郎が帳面と格闘している。

 「日計表の誤差、今日もゼロでした!」

 「偉いぞ。数字を正しく積めば、国は狂わぬ」


     ◇


 商業会議の席では、笠間の瓶工房の親方が大きな木箱を抱えてきた。

 「酸乳瓶も《檸緑》瓶も、口径を同じにしました。洋酒瓶もこれに合わせます」

 藤村は手に取って重さを確かめる。

 「よし、これで栓や洗浄の手間が減る。週二便の酸乳もこれで回しやすくなる」


 会計担当が横から口を挟む。

 「たばこ専売の印紙も、通し番号と月次照合で藩内全域に展開完了です。推定粗利は月一万二千から一万五千両」

 藤村は静かに言った。

 「専売、医薬、石鹸、檸緑――合わせて月二万五千から三万両。これで外貨に手を付けずに回せる」


     ◇


 夜、執務所に灯がともる。外貨残高の帳面には、“$750,000”の文字が光っていた。

 「薩英戦争賠償の取り分だな」

 渋沢がうなずく。

 「はい、常陸分はすべて外貨準備に計上済みです」

 「当面は眠らせておく。潮を見るまでは動かさん」


 窓の外、港の灯が瞬いている。大奥の節約で生まれた銭が、井戸と桶となり、酸乳と石鹸となって町に巡る。港からは干物が出て行き、海からは航法の知識が流れ込む。

 すべては一本の糸で繋がっていた。

夕刻、羽鳥の町は西日を受けて淡く染まり、軒先に吊るされた干し簾の影が土間にゆらゆらと揺れていた。港からは、今日の定時舟が帰港する鐘の音が風に乗って届く。


 政庁の座敷では、藤村が一日の記録をまとめていた。机の上には、井戸の新設数、手洗い桶の設置件数、酸乳の出荷量、港の荷役記録――いずれも整然と並び、日に日に行を重ねている。


 障子の外から、控えめな声がした。

 「藤村様、お客様が」


 入ってきたのは、港奉行と郡奉行、それに昭武と小四郎。港奉行が巻物を広げる。

 「本日の潮汐表です。大洗港からの信号は予定通り。上海からの返信信号も確認済み」

 藤村は頷き、印を入れた。


 「干物の次は何を送る?」

 昭武が目を輝かせる。

 「梅干です。酸乳と石鹸と合わせて“三点保存便”に」

 「面白いな」藤村は笑った。「ただし、酸乳は持ちが短い。便数を増やすか、冷却法を考えろ」


     ◇


 夜、庭に出ると、初夏の気配を孕んだ風が通り抜けた。井戸端では女たちが桶の水で手を洗い、子どもたちは笑いながら追いかけっこをしている。その手元が、以前より清潔で、肌もつややかだ。


 「こうして町が変わっていくのを見るのは、何よりの報酬ですね」

 隣に立った郡奉行がしみじみと言った。

 「変わるのは町だけではない。人の心もだ」藤村は応じた。「大奥の節約が、こうして民の生活に形を変えて届く。それを見せることが肝心だ」


     ◇


 その夜遅く、執務所に戻ると、渋沢が帳面を抱えて待っていた。

 「藤村様、収支の中間報告です。専売、医薬、石鹸、檸緑――合わせて月二万八千両ほどの黒字ペースです」

 藤村は筆を止め、帳面をじっと見つめた。

 「外貨に手を付けずにこれだけ回るのか」

 「はい。薩英戦争賠償の七十五万ドルはそのまま備蓄です」

 藤村はうなずき、静かに言った。

 「潮は必ず変わる。その時まで、蓄えておこう」


     ◇


 翌朝、政庁前の広場で港奉行と農政役人が集まっていた。潮風に混じって、堆肥の甘い匂いが漂う。施肥暦を片手に農夫たちが説明を受け、港からは次の便の荷が積み込まれていく。


 「町も田畑も港も、同じ流れの中にある」

 藤村は昭武に語りかけた。

 「だからこそ、数字も心も、どちらも整えなければならない」

 昭武は真剣に頷き、六分儀を握り直した。


     ◇


 夕暮れ時、小四郎が駆け込んできた。

 「藤村様! 今日も日計の誤差ゼロです!」

 藤村は笑みを浮かべ、少年の頭に手を置いた。

 「数字は嘘をつかない。だが、人の気持ちは数字だけでは測れない。覚えておけ」

 小四郎は真っ直ぐにうなずいた。


 政庁の外では、港からの便が戻る鐘の音がまた響く。干物の箱、梅干の樽、酸乳の瓶――それらは港の灯とともに町へ流れ込み、人々の暮らしを少しずつ変えていく。


     ◇


 その夜、藤村は机の前で筆を置き、外の風を感じながらつぶやいた。

 「潮は読める。だが、風は読めない。だからこそ備える」


 灯火の向こう、港の影が静かに揺れた。次に来る波は、まだ誰にも見えない。だが、羽鳥は確実に、ひとつずつ、備えを重ねていた。

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