103話:港の秩序—初荷、潮を読む
春の潮は、港の色を変える。
大洗の浜は朝から活気に満ち、潮の香りと魚を干す甘い匂いが入り混じっていた。浜小屋の屋根からは白い煙が細く立ち上り、沖合では練習スクーナーが帆をたわませて風を読む。
浜辺の中央に設けられた倉口座の仮屋の前で、藤村は浜役人と並び立っていた。背後には「常」の焼印を押された標準箱が積み上げられている。
「これが、新しい干物標準箱か。」
役人が感心したように手で撫でると、まだ新しい木の香りが立った。焼印は大きく、遠目にも「常」の字がはっきりと読める。
「箱の深さも容量も揃えてある。上海向けの契約はこの箱基準だ。」
藤村は浜辺に立つ潮汐表の柱を指さした。
「これと信号旗を常備する。潮の満ち引き、風向き、出港合図――全部、誰でも見て分かるように。」
波の向こうでは、二隻のスクーナーがゆっくり旋回していた。甲板では若い水夫たちが六分儀を構え、太陽の高さを測っている。船首では昭武が板に向かい、英語とフランス語で航海用語を書き連ねていた。
「Port, bâbord… Starboard, tribord…」
波の音に混じって、少年の声が港に届く。
浜の一角では、田野から持ち込まれた新しい手押し除草器の実演が始まっていた。組頭の掛け声に合わせ、農夫が苗の間を押し進めると、回転刃が柔らかく泥をかき混ぜ、雑草を絡め取っていく。
「鍬より早えな…」
「腰が楽だ。」
見物していた老農たちがうなずき、若い者が順番に試しては笑みを漏らした。
浜風に揺れる信号旗が、青から赤に変わる。出港の合図だ。倉口座の番頭が帳簿を手に現れ、藤村の前に広げた。
「上海向け初荷、干物三百箱。箱代込みで契約額は…」
「これで潮の刻限までに積み終える。過不足はその場で記すように。」
港の片隅では、番頭層に向けて密やかな覚書が手渡されていた。米国線経由で武器を扱う倉口座の数字――年商二十七万から三十万両、粗利四万五千から六万六千両。その表情は引き締まり、声は低かった。
「これは外には漏らすな。港の秩序は、まず内の秩序からだ。」
藤村は浜全体を見渡した。人、物、情報――それらが潮のように行き交い、ひとつの呼吸を作っている。
やがて、帆柱の間から初荷を積んだスクーナーが沖へと滑り出し、白い航跡を曳いた。
「潮を読むのは船だけじゃない。港も、人もだ。」
呟く藤村の横で、浜役人が深く頷いた。
昼近く、港の喧騒がひと段落すると、藤村は浜から少し離れた倉口座の母屋へと足を向けた。厚板の廊下は潮風に磨かれて光り、奥の座敷からは番頭たちの低い声が漏れてくる。
「藤村様、こちらへ。」
呼び込まれた座敷では、浜役人のほかに、大洗と霞ヶ浦を結ぶ陸路運送を取り仕切る車方組頭、それに干物組合の年寄が顔をそろえていた。
机上に広げられていたのは、港から霞ヶ浦西岸までの馬車路と新たに開削された短運河の図だった。藤村はその図面に手を置き、ひと息おいて口を開いた。
「この道と水路で、霞ヶ浦からの舟が直接港の船積みに繋がる。干物だけでなく、米・塩・陶器も同じ流れに乗せる。」
年寄のひとりが深く頷く。
「この道ができてから、荷が二日早く着くようになりましてな。馬も疲れが少ない。」
藤村はうなずき、懐から一枚の札を出した。
「これは潮汐表と連動した出港札だ。霞ヶ浦側の積出所にも同じ旗を掲げる。港と湖を同じ呼吸で動かすためだ。」
机の端では、若い番頭が帳簿をめくりながら数字を読み上げていた。
「三月の港収入、定期便契約分を含めて干物で千八百両。うち港使用料が百五十両、荷役賃が二百両。」
「荷役賃は作業小屋の維持に回せ。使用料の三割は港の秩序維持に充てる。秤の検査や警固の賃金だ。」
藤村の視線は、壁際に置かれた大きな秤に向かう。秤の皿には鉄の分銅がずらりと並び、その横に朱の封印が貼られていた。
「この封印が破れていたら即日過料だ。不正量目は港全体の信用を壊す。」
車方の組頭が大きく頷いた。
「道でも同じにいたします。荷車の計量も封印を。」
話は自然と内陸の物流に及んだ。干物はもちろん、笠間からの酸乳瓶、檸緑の瓶、常陸の陶器や干芋――それらが港から海路に乗り、上海や横浜へと流れていく。
「瓶口の統一は笠間の窯元がよくやってくれた。酸乳も檸緑も洋酒も同じ蓋が使える。港での積み替え時間が半分になる。」
藤村の声に、番頭たちの顔が明るくなる。
その時、奥から使いが駆け込んだ。
「藤村様、上海商会からの使者が到着。契約の確認だそうです。」
応接間に通されたのは、色褪せた外套の中国人商人と、その通訳を務める若い長崎通詞だった。
「本日の初荷、干物三百箱、予定通り積み込みました。」
「良し。契約数量は季節ごとに変わるが、箱の規格は変えない。」
商人は笑みを見せ、契約書の束を差し出した。朱印が押され、数字が並ぶ。
「潮と箱は、信用の印です。」
「こちらも同じだ。港の信用は互いで守る。」
やがて、契約が締結され、通詞が丁寧に訳すと場が和らいだ。藤村は席を立ち、窓の外に見える港の帆影を眺めた。
「港は物を運ぶだけではない。人と人の約束を運ぶ場所だ。」
その日の夕刻、藤村は浜を再び歩いた。潮汐表の下では、若い水夫が六分儀を抱えて立ち、水平線に沈む夕日を測っていた。昭武がそばで指を差し、数字を英語とフランス語で繰り返す。
「Angle… angle… soixante degrés…」
「そう、六十度だ。」
その光景に目を細め、藤村は心の中で計算をした。港の使用料、専売の粗利、酸乳や檸緑の販路、上海との契約額――それらの数字が潮の満ち引きのように頭の中を流れ、やがて一つの形に収束していく。
「この潮は、国を養う潮だ。」
港の波止場から陸側に二町ほど歩くと、荷車の車輪が土煙を上げながら列を成していた。霞ヶ浦からの積荷が運ばれてきたのだ。干物の箱には焼印で「常」の字、米俵には港使用料の札が差し込まれている。
藤村は荷車の脇に立ち、封印札の色を確かめた。札は青が「港通過」、赤が「港直送」。荷受人にとっては、札の色一つで荷の扱いと経費が変わる。
「この赤は上海向け、青は横浜だな?」
荷役頭が頷いた。
「はい。色は遠目でも見えるように柿渋で染めております。間違いが減りまして。」
荷車の行き先は二手に分かれる。一方は港の蔵へ、もう一方は町はずれの笠間焼の工房へ向かう。港から工房までは、一日二便の馬車が走っていた。酸乳瓶や檸緑瓶の口径統一が進んだことで、工房の梱包作業は短く済むようになった。
工房に着くと、炉の熱気と陶土の匂いが迎えた。ろくろを回す音、釉薬を塗る刷毛の音が響く中、藤村は窯元の親方と向き合った。
「瓶の口径、前回の検品では誤差一分以内でした。これで港での積み替えが一層楽になります。」
親方は額の汗を拭い、笑った。
「昔は酒瓶、薬瓶、茶瓶と口がみんな違ってましたからなあ。今は同じ型で作れるから、職人の腕も揃ってきました。」
藤村は、工房の片隅で瓶を布で磨いていた若者に声をかけた。
「その瓶はどこ行きだ?」
「上海行きの酸乳です。週二便の荷に間に合わせるように作っています。」
「港の潮汐表は見たか?」
「はい、馬車の出る刻限も合わせています。」
話しながら藤村は、瓶の口を指でなぞった。滑らかな縁には、工房ごとの印はなく、常陸藩の紋だけが刻まれている。それはもう港の共通語になりつつあった。
午後、藤村は馬車で内陸へ向かった。田畑では、手押し除草器の実演が始まっている。農夫たちが車輪付きの器具を押すと、草が根から掻き取られていく。
「これなら腰を曲げずに済む。」
「麦の芽も痛めませんな。」
藤村は笑って頷いた。
「除草は芽の丈が三寸の時に一度だけ。あとは施肥暦を見て追肥だ。干鰯は薄く撒け、厚く撒けば根が焼ける。」
田の端では、用水番表を手にした名主が水位板を覗き込んでいた。目盛りの横には「今日の水番」の名札が掛かっている。
「水は夜のうちに入れ、昼は落とす。昼夜を逆にすると虫が増える。」
「心得ました。」
その日の夕刻、藤村は羽鳥屋敷に戻ると、書院の机に三つの帳面を並べた。
一つは慶篤用の評定要点メモ。論点、費用、代替案、期日が簡潔に書かれている。
二つ目は昭武用の航海日誌。英仏の会計用語と六分儀の図解が並び、港の緯度と潮汐の測定記録が添えられている。
三つ目は小四郎用の日計表。出納の誤差があれば朱で印をつけ、翌日に原因を探る。
小四郎が畳に正座して控えていた。
「本日の出納、誤差ゼロでございます。」
「よし。誤差は病と同じ、早く見つければ軽い。」
昭武が六分儀を持って入ってきた。
「港での観測、今日は風があって難しかったです。」
「だからこそやる価値がある。潮は毎日違うが、約束の日は同じに来る。」
夜、帳面を閉じる前に、藤村は専売の粗利と港収入、酸乳や檸緑の出荷額を合算した。月に二万五千から三万両――数字は潮のように、確かに満ちつつあった。
机上の隅には、薩英戦争の賠償金七十五万ドルの控えが置かれている。それはすぐには使わず、外貨準備として静かに眠らせていた。外海に出る船も、港に集う人も、この金を知らずに動いている。だが藤村には、それが未来の潮を呼び込む重りであることが分かっていた。
「潮を読む者は、銭も読む。」
独り言のような声が、静かな夜の書院に溶けた。
港の波止場から陸側に二町ほど歩くと、荷車の車輪が土煙を上げながら列を成していた。霞ヶ浦からの積荷が運ばれてきたのだ。干物の箱には焼印で「常」の字、米俵には港使用料の札が差し込まれている。
藤村は荷車の脇に立ち、封印札の色を確かめた。札は青が「港通過」、赤が「港直送」。荷受人にとっては、札の色一つで荷の扱いと経費が変わる。
「この赤は上海向け、青は横浜だな?」
荷役頭が頷いた。
「はい。色は遠目でも見えるように柿渋で染めております。間違いが減りまして。」
荷車の行き先は二手に分かれる。一方は港の蔵へ、もう一方は町はずれの笠間焼の工房へ向かう。港から工房までは、一日二便の馬車が走っていた。酸乳瓶や檸緑瓶の口径統一が進んだことで、工房の梱包作業は短く済むようになった。
工房に着くと、炉の熱気と陶土の匂いが迎えた。ろくろを回す音、釉薬を塗る刷毛の音が響く中、藤村は窯元の親方と向き合った。
「瓶の口径、前回の検品では誤差一分以内でした。これで港での積み替えが一層楽になります。」
親方は額の汗を拭い、笑った。
「昔は酒瓶、薬瓶、茶瓶と口がみんな違ってましたからなあ。今は同じ型で作れるから、職人の腕も揃ってきました。」
藤村は、工房の片隅で瓶を布で磨いていた若者に声をかけた。
「その瓶はどこ行きだ?」
「上海行きの酸乳です。週二便の荷に間に合わせるように作っています。」
「港の潮汐表は見たか?」
「はい、馬車の出る刻限も合わせています。」
話しながら藤村は、瓶の口を指でなぞった。滑らかな縁には、工房ごとの印はなく、常陸藩の紋だけが刻まれている。それはもう港の共通語になりつつあった。
午後、藤村は馬車で内陸へ向かった。田畑では、手押し除草器の実演が始まっている。農夫たちが車輪付きの器具を押すと、草が根から掻き取られていく。
「これなら腰を曲げずに済む。」
「麦の芽も痛めませんな。」
藤村は笑って頷いた。
「除草は芽の丈が三寸の時に一度だけ。あとは施肥暦を見て追肥だ。干鰯は薄く撒け、厚く撒けば根が焼ける。」
田の端では、用水番表を手にした名主が水位板を覗き込んでいた。目盛りの横には「今日の水番」の名札が掛かっている。
「水は夜のうちに入れ、昼は落とす。昼夜を逆にすると虫が増える。」
「心得ました。」
その日の夕刻、藤村は羽鳥屋敷に戻ると、書院の机に三つの帳面を並べた。
一つは慶篤用の評定要点メモ。論点、費用、代替案、期日が簡潔に書かれている。
二つ目は昭武用の航海日誌。英仏の会計用語と六分儀の図解が並び、港の緯度と潮汐の測定記録が添えられている。
三つ目は小四郎用の日計表。出納の誤差があれば朱で印をつけ、翌日に原因を探る。
小四郎が畳に正座して控えていた。
「本日の出納、誤差ゼロでございます。」
「よし。誤差は病と同じ、早く見つければ軽い。」
昭武が六分儀を持って入ってきた。
「港での観測、今日は風があって難しかったです。」
「だからこそやる価値がある。潮は毎日違うが、約束の日は同じに来る。」
夜、帳面を閉じる前に、藤村は専売の粗利と港収入、酸乳や檸緑の出荷額を合算した。月に二万五千から三万両――数字は潮のように、確かに満ちつつあった。
机上の隅には、薩英戦争の賠償金七十五万ドルの控えが置かれている。それはすぐには使わず、外貨準備として静かに眠らせていた。外海に出る船も、港に集う人も、この金を知らずに動いている。だが藤村には、それが未来の潮を呼び込む重りであることが分かっていた。
「潮を読む者は、銭も読む。」
独り言のような声が、静かな夜の書院に溶けた。
潮の匂いが、春先の港に混じっていた。まだ肌寒い風に乗って、干したばかりの魚の香りと、焙じ茶を淹れた湯気が交じる。大洗港の岸壁には、新しく据えられた秤と標準箱が整然と並び、その脇には「常」の焼印が押された木箱が高く積まれている。
「これが、干物標準箱……」
篤姫が手を触れると、木肌はまだ新しく、微かに松の香りが残っていた。
「はい、港ごとに箱の大きさや厚みが違えば、商いが混乱します。ここで揃えるんです」
藤村は焼印の位置を確かめながら答えた。
「焼印は……ああ、“常陸”の“常”ね。見た目にもわかりやすい」
近くでは番頭が、秤の皿に載せられた干物を目盛りに合わせて調整している。小さな誤差も許されぬよう、分銅を指先でそっと動かしていた。
「これなら、上海に送っても文句は出ません」
そう口にしたのは、海運を任された佐川だ。
「契約量を守り、箱も秤も規格通りなら、あとは船の速さと潮だけです」
港務所の壁には新しい潮汐表と信号旗の一覧が掛けられ、波止場の青年たちが旗を上げ下げする練習をしている。
「この赤と白の組み合わせは……」
篤姫が指すと、藤村が即答する。
「“出港準備完了”の合図です。潮の変わり目に合わせて、無駄なく舫を解けるように」
外海に出るタイミングを誤れば、船足は鈍り、契約の納期を破る。上海向け初荷の契約は、定量・定時・定質が条件だった。港の隅では、木札に墨で「納期厳守」と書かれた標語が掲げられている。
◇
昼過ぎ、田野では別の光景が広がっていた。
「おお……これは何ですか?」
名主の一人が驚いた声を上げた。目の前には、鉄の輪と短い柄がついた手押しの道具。
「手押し除草器です。こうして苗と苗の間を押してやると――」
藤村が押し進めると、歯車のような刃が土を軽くかき回し、小さな草が根ごと浮き上がった。
「早い……鎌でやるより何倍も早いぞ」
若い衆が歓声を上げる。
「それに腰を曲げなくて済みます。腰痛の爺さまも使える」
藤村は笑ってみせる。
「各郡を巡回し、作り方も教えます。地元の鍛冶屋が真似して作れるように」
◇
夕刻、港の沖合いには二隻の練習スクーナーが帆を畳んで浮かんでいた。桟橋には昭武が立ち、板書用の黒板にチョークを走らせている。
「英語では“latitude”、仏語では“latitude”……同じだが、発音が違う」
若い船員たちが一斉に復唱する。手には六分儀、目はまだ慣れない星の高さを追っている。
「次、これは?」
「……longitude!」
「良し。では測ってみろ。南中時刻を逃すなよ」
甲板上では、古参の水夫が若い者に舵の切り方を教えていた。風を受けた帆のしなりが、春の光を柔らかく反射する。
藤村は桟橋の端からその光景を見つめ、静かに息をついた。
「潮も風も、人も、合わせねば船は進まない」
隣に立った佐川が笑う。
「港でも同じですな。商人も漁師も役人も、みな歩調を揃えねば」
◇
夜、倉口座の座敷には帳場頭や番頭が集まり、藤村が一枚の覚書を広げた。
「これは倉口座の武器取り扱いに関する数字です。米国線での年商二十七から三十万両、粗利は四万五千から六万六千両。対外秘ですが、内部で共有します」
番頭の一人が眉をひそめた。
「武器の取引は……危うくはありませんか」
「相手を選びます。幕府と公認先のみ。私船への横流しは即刻破門、過料も科す」
藤村の声は低く、しかし揺るがなかった。
篤姫が帳面を覗き込み、静かに言った。
「商いは銭だけでなく、信用で成り立つのね」
「ええ。信用を失えば、港も船も止まります」
座は静まり、炭火のはぜる音だけが響いた。港の外では、夜潮が静かに満ちていく。初荷を積んだ船が、明日の潮に乗る準備を整えていた。
大洗港の朝は、まだ陽が低いうちから潮の匂いで満ちていた。沖の水平線は薄く金に縁どられ、陸に近い水面には春の風が細かなさざ波を刻む。桟橋の両側には、干物を詰めた標準箱がずらりと並び、側面には焼印の「常」の字が鮮やかに浮かんでいた。これが常陸物であることを示す証しであり、同時に「規格品」を意味する新しい商標だった。
藤村は港番所の縁台に腰を掛け、帳簿をめくる番頭と潮汐表を突き合わせていた。表は大きな和紙に木版で刷られ、港内の見張り所や倉口座にも配布されている。干潮・満潮の時刻、潮位、月齢――すべてが一目でわかるように印され、横には信号旗の掲揚手順まで添えてある。
「本日の満潮は、辰の刻前後(午前八時半)か。初荷の積み込みはそこを狙え」
藤村の声に、沖を待機していた艀の棹手たちが頷いた。上海行きの定量契約――干物三千箱と塩蔵鯖二百樽は、潮の動きに合わせて一斉に積み込まれる手筈になっている。
番頭の一人が帳面から顔を上げた。
「藤村様、昨日の計量で二箱、不正量目が出ました。中身の干物が二割減っております」
「誰の荷だ」
「田野浜の庄助です」
藤村は小さく息を吐いた。
「即日過料だ。港秤は飾りじゃない。次にやれば、出入り差し止めだと伝えろ」
「ははっ」
港の片隅では、木製の大秤が検査役の手で揺られている。新しく据えられた秤は台も目盛りも堅牢で、荷主や船頭が立ち会う中で厳格に検量が行われる。以前は目分量や袖の下で帳尻を合わせる者もいたが、今は数字が絶対だった。
桟橋を離れた藤村は、すぐ隣の倉口座へ足を向けた。ここでは武器商いの帳簿が開かれている。米国線との取引は年商二十七万から三十万両、粗利は四万五千から六万六千両。これらの数字は番頭層だけに共有され、対外的には固く秘されている。
「表に出せば、余計な口出しが増える。数字は倉の奥で守れ」
藤村の言葉に、番頭たちは深く頷いた。
昼下がり、港の裏手にある瓶工房では、酸乳瓶と《檸緑》瓶、さらに洋酒用の瓶が整然と棚に並んでいた。どれも口径が同じに統一されており、栓やコルクも共通規格になっている。これによって港での積み替えや梱包が格段に速くなり、輸送コストも減った。
工房主の男が、焼き上がったばかりの瓶を手に取りながら言った。
「藤村様、この口径統一、最初は面倒かと思いましたが……今じゃ逆に楽で仕方ありません。栓の在庫も減りましたし、船積みの時に口径違いで困ることもなくなりました」
「港は流れる場所だ。瓶も、荷も、人も、詰まらせない工夫を続けろ」
「承知しました」
午後になると、たばこ専売の検査役が港に現れた。印紙は色別に、通し番号は墨の太字で打たれている。帳簿と現物を突き合わせ、月次照合を厳格に行う。藩内全域での展開は始まったばかりだが、推定月粗利は一万二千から一万五千両と見込まれ、財政の安定化に直結する規模だった。
「この専売、港でもやるのですか」
検査役の問いに、藤村はうなずく。
「港は陸の延長だ。物が動けば税が動く。たばこも例外じゃない」
夕刻、港務所の帳場に戻ると、外貨の帳簿が開かれていた。薩英戦争の賠償金――総額百五十万ドルのうち、常陸の取り分七十五万ドルはすでに昨年のうちに受領済みで、外貨準備として計上されている。今はまだ動かさず、機会を見て大口の輸入や軍備更新に使う算段だった。
「七十五万ドル……船も、砲も、港も、すべての元手になる額だな」
藤村が帳簿を閉じると、港務所の窓から、夕陽に赤く染まる波間が見えた。潮はゆっくりと満ち、次の航海の準備を急かすようだった。
その夜、港近くの町屋で行われた小さな寄合では、商人や船頭たちが集まり、専売の新制度や印紙の扱い、港秤の検査基準などについて活発に意見を交わした。時折、笑い声とともに杯が打ち合わされ、商いの空気は和やかさと緊張が入り混じっていた。
「秩序があれば、港は強くなる。強い港は、国を養う」
藤村の言葉は、寄合の場を静かに包んだ。外では潮騒が絶え間なく響き、港町の夜は次の朝へとゆっくり溶けていった。