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102話:春肥・春算

1864年3月、夜半まで降っていた雨が上がり、朝の霞が畑の上に薄く漂っていた。田の土は黒く、踏めばじわりと水を吸い上げる。三月の風はまだ冷たいが、土の匂いは確かに春を孕んでいた。


 藤村は、羽鳥政庁の土間を出て、郡奉行とともに坂を下った。今日は全郡に施肥暦と用水番表、そして新たに導入するAWD(間断灌漑)の説明書を配布する日だ。


 「藤村様、この辺りは基肥をどう入れますか」

 年配の名主が声をかける。


 「堆肥に油粕を混ぜて一反につき十五貫。追肥は干鰯を薄く撒く。匂いで虫も寄りにくくなる」


 「油粕は江戸経由で?」

 「そうだ。たばこ専売で回る銀から仕入れる。印紙を貼って価格を固定するから、心配はいらん」


 坂の下、広場に農民たちが集まっていた。若い衆が鍬を抱え、女たちは手拭いを首に巻いている。藤村は広場中央の長机に施肥暦を並べた。厚紙の暦には、月ごとの肥入れ時期、用水の開け閉め日、そしてAWDの簡易図が描かれている。


 「この赤い線が“水を抜く日”です。土がひび割れても、苗は死なない。根が強くなる」

 「ほぉ……うちの婆さまは、稲は水の中で育てるもんだと言っとったが」

 「それは半分正しい。半分は、根を甘やかすことになる」


 笑いが起きた。藤村は、番表に印を付けながら続ける。

 「用水は郡ごとに“番”を決めた。名前の横に印を押す。責任を負うのは“印のついた人間”だ」


 若い用水番が手を挙げる。

 「藤村様、この“目盛り板”はどこに立てます?」

 「取水口と排水口、両方だ。水位は一目で分かる。子どもにも分かるように絵印を刻む」


 紙の説明だけでは終わらない。藤村はその足で近くの用水口へ向かった。杭に白木の板を立て、墨で大きく波模様と数字を描く。

 「ここが“満水”だ。ここまで下がったら入れる。下げ過ぎは厳禁だ」

 農民たちがうなずく。土の匂いに墨の香りが混ざった。


 午後、羽鳥城内の書院では、別の稽古が始まっていた。慶篤が机に向かい、細筆で紙を埋めている。横には「論点→費用→代替→期日」と四段に区切った見本の紙。


 「慶篤公、それは費用の欄が少し広すぎます」

 「なるほど……論点の欄をもう少し広げるべきか」

 「評定で一番問われるのは“何を決めたいか”です。費用はその後」


 隅で昭武が六分儀を手に、南中高度を測っていた。

 「兄上、これが分かれば、船でどこにいるかが分かるんですよね」

 「そうだ。ただし、数字の読み違いは命取りだ。英語とフランス語の航海用語も一緒に覚えろ」


 襖の外では、小四郎が日計表と格闘していた。算盤をはじき、鉛筆で数字を確かめる。

 「今日の誤差は……ゼロです!」

 「よし、その調子だ。毎日“ゼロ”を続けろ。それが信用になる」


 翌朝、藤村は小美玉の酸乳工房へ足を運んだ。白壁の蔵の中では、女工たちが瓶詰め作業をしている。笠間焼の工房で作られた新しい瓶は、《檸緑》と同じ口径で統一され、栓も兼用できる。


 「藤村様、これで出荷が週二便、港までの荷車も半分で済みます」

 「よし、瓶は割れ物だ。返却分も必ず数を合わせろ」


 帳場では、たばこ専売の新しい印紙の束が用意されていた。色で等級を分け、通し番号を記し、月ごとの照合作業も書き込む。

 「これを常陸全域に広げます。粗利は月一万二千から一万五千両。これを海軍の償還に充てる」


 港へ出向くと、霞ヶ浦の湖面が光っていた。岸には定時舟の白帆が揃い、荷役が忙しく動く。港秤の前で役人が声を張った。

 「秤、検査済み! 不正量目は過料!」

 舟大工の親方が笑いながら藤村に近づく。

 「これなら大洗まで時刻通りに着きますぜ。運河を抜けりゃ、潮に乗って江戸まで一直線です」


 藤村は湖面の向こうを眺めた。そこから繋がる道筋が、米や薬や石鹸を江戸へ、大阪へ、さらに海の向こうへ運ぶだろう。

 「この流れを絶やすな。潮は人の手でも作れる」


 政庁に戻ると、机上には一通の報告書が置かれていた。薩英戦争賠償金、総額百五十万ドルのうち第一回分七十五万ドル、確かに受領――常陸取り分として外貨準備に計上済み。


 藤村は帳簿を開き、数字をなぞった。専売、医薬、石鹸、《檸緑》。合わせて月二万五千から三万両の現金が動く。紙の上の数字が、港の帆や畑の緑、子どもの笑顔と確かにつながっている。

羽鳥政庁の応接間は、潮の香と紙の匂いが入り交じっていた。南の窓を開け放てば、霞ヶ浦の湖面が陽光を跳ね返し、机の上の地図を白く照らす。


 「来たな、藤村」

 小栗上野介は、旅塵を払う間もなく椅子に腰を下ろした。机の上には、霞ヶ浦から大洗までの水路と、港の見取り図が並んでいる。


 藤村はその隣に腰を下ろし、指で湖と海をなぞった。

 「運河の開削は予定通り進んでいます。延長二里弱、幅三間。土質は砂混じりですが、石枠を先に組んで沈下を防いでいます。開通すれば、霞ヶ浦から大洗まで舟で半日以内。」


 小栗は顎に手を当てる。

 「水路が繋がれば、港が次の課題だな。」


 藤村は頷き、別の紙束を広げた。そこには港のはかりの図面が描かれていた。

 「港秤は、目盛りを月一で検査します。不正があれば即日過料、三度で免許取り消し。」


 「過料は?」

 「小船で銀三匁、大船は五匁。ただし定時便契約の舟は半額にします。時刻通りに出入りする者は、信用で優遇する。」


 小栗が口元をわずかに緩めた。

 「銭を取る口にも、褒美が要るというわけか。」


 「はい。港は税だけでは回りません。商人に“ここを使えば得だ”と思わせる仕掛けが要ります。」


 机の端には、たばこ専売の印紙見本が置かれていた。赤、青、黒――色ごとに銘柄や等級が分けられている。

 「港での取締りも強化します。荷の印紙と通番を照合、不正があれば即没収です。」


 小栗は印紙を手に取り、光に透かして見た。

 「偽造は?」

 「透かしと刻印、二重に入れています。剥がすと“無印”が浮き出ます。」


 ふと、外から船大工たちの笑い声が聞こえてきた。新造の定時舟が、ちょうど港に横付けされたところだった。

 「新造船か」

 小栗が立ち上がり、窓辺に歩み寄る。


 藤村も並んで外を見た。白木の船体が光を浴び、甲板には港秤と同じ目盛り板が備え付けられている。

 「定時舟は積載量を事前申告、港で計量、誤差三分まで許容。それ以上は罰銀です。」


 「随分きついな。」

 「ええ、ですが信用を守るためには必要です。港は銭を生みますが、信用でしか守れません。」


 小栗はしばし黙り、湖面を見つめた。

 「……その信用を運ぶのが、最初の荷というわけか。」


 藤村は小さく笑い、頷いた。

 「そうです。」


 港の上空にはカモメが舞い、遠く大洗の海鳴りがかすかに響いた。

 机の上の地図には、新しい水路と港の印が朱で記されている。その線は、ただの航路ではない――商いと人の往来、そして藩の未来を結ぶ命脈だった。

朝の霞ヶ浦は、まだ薄く霧をまとっていた。水面は灰色の絹のように静まり返り、その向こうで新しい運河口が口を開けている。岸辺には、船大工、舟頭、名主たちが集まっていた。皆の視線は、朱塗りの旗を掲げた一隻の定時舟に注がれている。


 藤村は裃の裾を払って桟橋に立った。背後には小栗が並び、腕を組んで運河の向こうを眺めている。


 「……本当に半日で大洗まで行けるのか?」


 「行けます。流れは北浦へ抜けるよう調整済み。用水板で水位を管理し、潮の満ち引きに合わせて舟を通す仕組みです。」


 小栗が鼻を鳴らす。

 「仕組みは立派だが、人がそれに付いていけるかだ。」


 藤村は笑みを浮かべ、港役人に合図を送った。太鼓が三度鳴ると、舟頭が櫂を押し、舟はゆっくりと運河に吸い込まれていく。両岸の人々が息を呑み、木槌の音も止まった。


 運河の両側には石枠がびっしりと組まれている。前夜の雨にも崩れず、水は澄んだまま舟底を撫でていた。櫓をこぐ音が、壁に反響して妙に近く聞こえる。


 「深さは三尺半、幅三間。二艘がすれ違える広さは確保済みです。」

 藤村の説明に、小栗は黙って頷く。運河の終点には、大洗の白波が待っている。


 ――


 昼前、舟は予定より一刻早く大洗の港に入った。港秤の上では、すでに荷の検査が始まっている。

 「積載、米四十俵……港秤で四十俵一斗。誤差一斗以内、合格!」

 秤役が声を張り上げると、舟頭が胸をなで下ろした。


 藤村は港の隅でその様子を見守っていた。

 「こうして最初の便が無事着けば、信用は広がります。」


 小栗が横で笑う。

 「だが次からは、今日より厳しくやれ。最初だけ大目に見た、などと噂が立てば信用は逆に落ちる。」


 「心得ています。」


 荷の検査が終わると、藤村は港の掲示板に近づき、札を一枚打ち付けた。

 【港秤検査 毎月一日・十五日/不正量目は即日過料 三度で免許取消】

 札を読んだ商人たちがざわつきながらも、次第に静まっていく。


 「藤村様、これじゃあ手抜きはできませんな。」

 老舗の米問屋が苦笑交じりに声をかける。


 「できぬことを前提に港は回します。商いは量で争うより、質で競うべきです。」


 その言葉に、米問屋はしばし考え込み、やがて小さく頷いた。


 ――


 午後、運河を戻る定時舟の上で、藤村は港役人と次の運行予定を確認していた。


 「週三便、霞ヶ浦―大洗を往復。時刻表は町ごとに掲示し、出発時刻に太鼓を打つ。」


 「風が強い日は?」


 「一刻の遅延は許すが、それ以上は欠航。無理に出せば信用を失う。」


 舟は静かな水面を滑る。両岸では、子どもたちが手を振り、農婦が桶を抱えたまま立ち止まっていた。運河は、すでに村の景色の一部になりつつあった。


 「この水路があれば、酸乳も《檸緑》も江戸より早く横浜へ出せます。港秤で荷を揃え、印紙で管理すれば、粗利は月二万両を超える。」


 小栗は舟首に立ち、遠く霞ヶ浦の湖面を指差した。

 「……あとは、この航路に何を載せるかだな。」


 藤村は頷き、視線を運河の先に向けた。そこにはまだ見ぬ荷と、まだ見ぬ人が待っている。

運河を戻る舟は、夕刻には霞ヶ浦の桟橋へ着いた。日暮れ前の湖面は、薄紅に染まり、遠くの葦の影が水に揺れている。

 藤村は舟を降りると、そのまま政庁の広間へ足を運んだ。帳場には港務方、専売所奉行、そして小栗の姿があった。


 「無事に着きましたか。」

 小栗の声は低いが、口元はわずかに緩んでいる。


 「はい。予定より一刻早く大洗に着き、港秤も誤差一斗以内で通過しました。」

 藤村は持参した検査札を机に置く。港務方がそれを手に取り、安堵の息をついた。


 「で――」と小栗が机を軽く叩く。

 「問題はこれからだ。港を回すには銭が要る。利用料をどうする?」


 藤村はあらかじめ用意していた紙束を開き、淡々と読み上げた。

 「定時舟の航路利用料は片道で荷一石につき四文。往復で八文。専売品――《檸緑》、酸乳、衛生三点セットは港での積替え料を免除します。」


 「免除?」港務方が眉を上げる。

 「港の維持費が減るのでは?」


 藤村は首を振った。

 「専売品は印紙税で回収します。港で二度手間を取れば配送速度が落ち、売り上げに響く。優先枠を作り、運河―港―市場まで最短で回すことが、最終的に港の収入増につながります。」


 小栗はじっと藤村を見て、やがて短く笑った。

 「ふん……お前の言うことは回りくどいようで、銭勘定には筋が通っている。」


 「港の維持費は、通行料の半分を積立に回します。残り半分は港務方の運営費。積立は石垣の補修、秤の更新、そして水深測量に充てる。」


 港務方がうなずく。「測量も毎年ですか?」

 「ええ。運河は生き物です。土砂は必ず溜まる。早めに掘り返せば費用は少なくて済む。」


 ――


 会議が一段落すると、小栗が別の帳面を差し出した。

 「専売品の輸送枠は月何便だ?」


 「週三便のうち、うち二便は専売優先。残り一便を市中の荷に開放します。」

 「市中商人の不満は出ぬか?」

 「出ます。しかし、専売品の便は港の掲示板に“満載可”と札を出す。空きがあれば誰でも積めるとすれば、不満は和らぎます。」


 小栗が口の端を上げる。「お前、民心のなだめ方を覚えてきたな。」


 藤村は笑いを返した。

 「民は銭だけで動きません。納得と体面があれば、多少の損も呑みます。」


 ――


 夜、屋敷に戻ると篤姫が待っていた。机上には地図が広げられ、港と運河の線が赤で結ばれている。


 「今日は船の初日でしたのね。どうでした?」

 「一刻早く着きました。港秤も無事です。」


 篤姫は安堵の表情を見せた。

 「では、これで酸乳も江戸へ早く届きますね。」


 「ええ。ただし量はまだ限られます。瓶工房の増設と輸送枠の拡大が必要です。」


 篤姫は地図の端に指を置き、じっと藤村を見た。

 「あなた……こうして線を引くたび、人と人が近くなるのを感じませんか。」


 藤村はしばし考え、うなずいた。

 「港も運河も、銭勘定ではなく、人の道を繋ぐものです。」


 篤姫の目がわずかに柔らかくなる。

 「では、明日も線を引きに行きましょう。」


 ――


 その夜更け、藤村は帳場で港秤の記録と通行料の試算を書き付けていた。灯の下、小四郎がそっと近寄ってくる。


 「藤村様、今日の港秤の検査札、持ってきました。」

 「ご苦労。……どうだ、港は賑やかだったか?」

 「はい、でも商人たちは少し顔が怖かったです。」


 藤村は笑って札を受け取り、硯に筆を浸す。

 「怖い顔も、港の景色のうちだ。やがて笑顔になる日も来る。」


 小四郎は不思議そうに頷き、また帳場を出ていった。

 藤村は筆を走らせながら、運河と港の先に広がる未来を描いていた。

三月の風はまだ冷たいが、田の畦はうっすらと芽吹きの色を帯びていた。羽鳥政庁の広間では、郡ごとの施肥暦と用水番表が積まれ、役人や名主が次々と受け取っていく。


 藤村は巻物を広げ、手で印を押しながら言葉を添えた。


 「基肥は堆肥に油粕を混ぜ、追肥は干鰯を薄く撒く。順を守れば米の味が変わる。水番表は郡の端から端まで掲げよ。水の動きは皆の目で見えるようにするんだ」


 名主たちは頷き、巻物を抱えて帰っていく。誰もが足早で、外の陽を浴びる間も惜しむようだ。


 書院の脇では、慶篤が評定用の「財政要点メモ」を手にしている。紙面には論点、費用、代替案、期日が整然と並ぶ。


 「藤村、これで決裁してみようと思う」


 「よし、では実際に議題をひとつ選べ。……例えば港の秤検査だ」


 慶篤はすぐに筆を走らせ、「検査強化に伴う港人足の増員」と書き、費用欄に数字を入れる。藤村は静かに頷いた。


 「うむ、筋は通っている。あとは結論にもう一歩踏み込め」


 離れでは昭武が六分儀を構え、障子の外の冬空を覗いている。横では英仏の会計用語集が開かれていた。


 「アカウント、コンティンジェンシー……舌が絡まるな」


 笑いながらも、手は迷わない。


 その傍ら、小四郎が出納日計の帳をめくり、二重計上を検出する赤印をひとつずつ入れている。


 「誤差、きょうはゼロです!」


 顔を上げた少年に、藤村は「よくやった」とだけ告げる。


 午後になると、小美玉の酸乳便が荷車で到着する。週二便に増便された初日、笠間からは統一口径の瓶も届いた。酸乳瓶も《檸緑》瓶も洋酒瓶も、口径は同じ。回収と再利用が格段に楽になり、番頭が嬉しそうに瓶を数えている。


 「これで洗い場も半分で済みますな」


 港の秤検査は、この日から新しい規則が適用された。量目をごまかせば即日過料。港番所の壁に大書された札が、冬の海風に揺れる。


 たばこ専売の印紙・通し番号・月次照合は常陸全域へ広がり、推定月粗利は一万二千から一万五千両。藤村は帳場の数字を見ながら、「これで専売・医薬・石鹸・檸緑合わせて月二万五千から三万両の黒字に届く」と静かに口にした。


 帳場の奥には、薩英戦争の賠償金七十五万ドルの証書が置かれている。常陸の取り分として外貨準備に計上され、その厚みが心の支えとなっていた。


 夕刻、政庁の窓から霞ヶ浦が薄紫に染まっていく。湖面には定時舟の帆が点々と並び、大洗へ向かう航路がはっきりと見えた。港と港をつなぐその線は、かつて机上の図でしかなかったが、今は確かな暮らしと収益を運んでいる。


 藤村はその光景を見つめながら、手元の施肥暦をもう一度めくった。農も商も海も、すべてはひとつの帳の上で息づいている――そう感じさせる春の入りだった。

こうして回る銭と物が、半年先、一年先の外貨運用の土台になる。

 薩英戦争の賠償金――総額百五十万ドルのうち、常陸藩取り分として受け取った七十五万ドルは、前年のうちに江戸の蔵に納めてあった。帳面上では「外貨準備」として眠らせているが、その一部は既に形を変えて動き始めている。


 金貨の束から、虎徹、兼定、菊一文字、正宗、加州清光――五振りが生まれ、今は然るべき者の腰に収まっている。鬼丸国綱は将軍・徳川慶喜からの拝領であり、その由緒と共に藤村の胸にも深く刻まれていた。あの授与の日の障子越しの淡い光、白木の台座、漆黒の鞘の冷たさ――すべてが今も鮮やかに残っている。


 刀はもはや倉に飾られるだけの骨董ではない。

 それぞれが持ち主の息遣いを吸い込み、現場で生きている。近藤は虎徹を手に型を磨き、土方は兼定の重みを掌で量りながら実戦に備える。沖田は菊一文字を振るい、その速さと冴えを磨き上げている。河上彦斎は正宗を抜かぬまま、ただ鞘越しに研ぎ澄ます。芹沢は加州清光の柄を握り、豪快な笑いとともに仲間を守る構えを見せる。


 銭の流れは静かでありながら確実だった。

 たばこ専売の粗利、医薬の販売、石鹸や《檸緑》の出荷――これらの収益は毎月二万五千から三万両の現金を生み出し、財政を厚くしていく。海からは霞ヶ浦と大洗を結ぶ定時舟が荷を運び、港では秤の検査が行われ、不正量目には即日過料が科される。小美玉からは酸乳が週二便の定期出荷となり、笠間の瓶工房では酸乳瓶と《檸緑》瓶の口径統一が進む。


 藤村は、その全ての動きを一枚の図として頭に描いていた。

 銭の流れは海から町へ、町から村へ、そしてまた蔵へと帰る。物の流れは蔵から現場へ、現場から人の手へ、そして暮らしの形を変えていく。


 夜、書院の灯の下で帳面を閉じると、篤姫がそっと湯呑を置いた。

 「今日は長かったのですね」

 「長いのはいつものことです」

 藤村は微笑み、湯気の向こうの妻を見た。婚礼からまだ間もないが、彼女はもう藩の動きの一端を自然に理解し、時に的確な言葉を添えてくれる。


 「その刀たち……もう、渡してしまったのですね」

 「ああ。持つべき者の腰でこそ、刃は息をする」

 篤姫は短くうなずき、湯呑を両手で包んだ。


 外は春先の風が障子を揺らし、かすかに花の匂いを運んでくる。

 刀も銭も、人の手で動かしてこそ意味がある。蔵で眠らせればただの鉄と紙、使い道を誤れば災いにもなる。だが、適切な場に置けば、それは人を生かし、国を支える力になる。


 藤村は灯を落とす前に筆を取り、一行だけ書き残した。

 「春を待つ。」


 その言葉は、外貨の眠りにも、刀の静かな輝きにも、そして人々の胸に芽吹きつつある希望にも、等しく重なっていた。

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