101話:畦を揃える
1864年二月。
薄氷の朝が去ると、羽鳥は乾いた冬晴れに包まれた。田は刈り株の影を細く伸ばし、風は湖から真っ直ぐに政庁の長屋門を抜けていく。
「藤村様、地所賃貸の目録、整いました」
渋沢が帳面を抱え、座敷に膝をついた。表紙には大書で〈市営地所〉。裏には細かく区画と賃料、更新期日。
「年一万二千、平準に乗せられます」
「よし。地代は滞りが一番厄介だ。月別に薄く割って、滞納は“仕事で返す”欄を作れ」
渋沢が目を細めて笑う。「堀普請と石垣小修繕に充てます」
机の端には、もう一つの帳面。背に赤線、題は〈海軍特会〉。
「第一四半期、拠出十五万の段取りまで。関税と印紙、女手の小売粗利から沈没基金へ――小栗殿も異存なし」
岩崎が指で数字を叩く。「船の腹は銭を喰いますが、順に与えれば順に動きます」
戸口から顔を出したのは、笠間焼の親方だった。
「薬瓶と酸乳瓶、標準型ができやした」
卓上に置かれた試作は、口径も胴も揃い、栓には蜜蝋を塗ったコルクがぴたりと嵌る。
「口は一寸二分、外径は同じで肉厚を二種。刻印は“笠・一”で始めます」
「良い。江戸と大坂へ送る見本は、割っても惜しくない分まで含めて十箱」
そこへ、郡奉行が風を連れて入ってきた。
「羽鳥の人口、五万三百。今月の改めにて」
「……五万を越えたか」
藤村は小さく息をつき、筆先で丸を打った。
「食う口が増えた。畦を揃え、田面をならす。春の苗代は“同じ日に”だ。工兵を回す」
廊下の向こう、庭で小四郎が算木を撫でている。
「小四郎、出納控の書式は覚えたか」
「はい。日付、相手、品名、数量、単価、小計、備考――“空所を作らぬ”が肝、と」
「よう覚えた。空白は嘘を呼ぶ」
昼近く、会津からの飛脚が駆け込んだ。封蝋は深い藍。「会津公社 発足」。
松平容保の達しは簡潔だ。〈在庫現金化二万五千、始める。漆器は等級を三、清酒の印紙は雛形にて承知〉
藤村は渋沢と目を合わせた。
「走り始めたな」
「はい。雪解けを待たず回るでしょう」
午後、書院に慶篤が現れた。白襟を正し、頭を深く下げる。
「藤村、例の“箇条”を」
藤村は薄い紙束を差し出した。表に大きく五つの欄。〈論点/結論/費用/代替/期日〉。
「一息で読むための“骨”です。書く前に、まず五つを空で言えるように」
「論点……結論……費用……代替……期日」
慶篤は指を折り、二度、三度と繰り返した。
「腹に入りますな」
「腹に入れば、座敷でも野でも迷いません」
夕、障子の外は早くも薄暗い。藤村は最後の帳面を閉じ、羽織を引っ掛けた。
「――明日の朝は、畦だ」
誰に言うでもなく呟くと、廊下の先で渋沢が応じた。
「畦が揃えば、心も揃うもので」
庭を渡る風は冷たいが、どこか春の匂いが混じっていた。
翌朝。白い吐息が畦道を流れ、工兵の靴音が田に響いた。
「横杭、六尺間。水準板、目盛り“壱の下”で揃え!」
工兵頭が号令をかけ、若い者が水準器の泡を覗き込む。畦畔の天端が一本の線のように揃っていく。
「藤村様、ここは土が痩せていて――」
名主の指が崩れやすい畦を示す。
「藁を縄にして巻け。土に藁、外に縄。春先の雨を一回、持たせれば勝ちだ」
用水の堰には、昨日打った“用水板”が立つ。墨の目盛りに赤い小釘。
「釘が“参”なら堰板を一枚落とせ。“伍”で上げろ。子どもでも分かる印にした」
若い組頭が頷く。「井戸端で噂になりますな」
昼前、庄屋場で苗代の講が始まる。
「苗代は一斉に播く。ばらばらに播けば、虫が順に渡る。皆で一日で播けば、奴らが追いつかない」
「日取りはいつで?」
「二十四日。寒さが抜ける。鍬は前日に研げ。苗床は薄く、厚くは“死ぬ”」
笑いが洩れ、緊張がほどける。
午後、羽鳥港。空は青く、冬の光が水面で砕けた。
「来たぞ――帆影、二!」
見張りの声に、岸がざわつく。沖合から白い三角帆が滑り込み、細身の船体が風を切る。練習スクーナー、各百二十トン。新しい塗装がまぶしい。
「船名は?」
「蒼鷹、白鐘!」
岩崎が舷側に手を置き、耳を澄ます。
「板の鳴りは上等です。潮を嫌がらない」
甲板に上がると、若い水主たちが列になった。
「航海術課程、初回は“風の読む法”。羅針と砂時計、帆の張り具合、号令は短く」
藤村の声に、皆の背が伸びる。
「蒼鷹は沖出し、白鐘は湖で回頭訓練。怖いのは“風”でなく“油断”だ。忘れるな」
港小屋では、もう一つの印刷物が束になって積まれている。表紙は濃紺、題は〈射撃・散開操典〉。
「番匠に頼んだ木版、上がりました」
兵部の若侍が胸を張る。
藤村は一枚開き、絵図と短い言葉を追った。
「歩は三、止は一。声は短く、動きは長く。――良い。字は少なく、図は多く。誰でも分かる」
そこへ、会津からの二通目が届く。
「容保公より。“清酒印紙、雛形に異存なし。漆器は上・中・並を札で明らかに”と」
藤村は印紙の束を手に取り、光に透かす。
「偽は墨で書けぬ紙にせよ。水印を入れろ。“会”の字を薄く」
「あい分かりました」
日脚が傾き、湖面の色が冷える。
港の端で、慶篤が紙束を持って待っていた。護衛を下げ、控えめに歩み寄る。
「五段箇条、十本書きました。ご覧いただきたい」
藤村は一つ取り、目で辿る。
「論点が長い。結論が遅れる。――“二行で言う”。費用は“銭”だけでなく“人”も書け。代替は“やらない”も代替だ。期日は“天気任せ”を許さぬ」
慶篤は素直に頷いた。「書き直します」
「書いて、消して、また書け。座敷で迷うより外で迷え。外で迷えば、人が助ける」
少し離れたところで、小四郎が出納控を写している。墨が濃すぎて、半紙に滲んだ。
「小四郎、墨は薄く。紙は生き物だ」
「は、はい……!」
指先が震える。藤村は笑って、手本を一行書いてみせた。
「“一文たりとも侮るな”――これが最初の行だ」
日暮れ。政庁へ戻る道すがら、工兵が畦に掛けた縄が夕陽を受けて赤く染まる。揃った畦は遠目にも一本の線になり、田の面は静かに息をしている。
渋沢が肩を並べた。
「畦が揃い、港に帆が立ち、印紙が回る。二月にしては、よく歩きました」
「春待たず、春を迎える支度だ」
「海軍特会、今月分の積み立ては?」
「滞りなし。女たちの小売粗利が、思いのほか骨太だ。あの手の速さは、銭の速さだ」
「では――明日は苗代の“鍬研ぎ”から」
「そうだ。畦を揃えたら、次は刃だ」
風がまた湖の方から吹き、遠く練習スクーナーのマストが細い音を鳴らした。
畦も、帆も、紙の印も――一本の線で結ばれつつあった。
翌日からの羽鳥は、音で満ちた。
鍬が刃こぼれを直す、かすかな擦過音。工兵が杭を打つ乾いた律。舟大工がマストの環金を締める金槌の澄音。どの音も、春を迎えるための拍子だった。
「縄、もう一巻き。藁を噛ませろ、崩れる」
畦の上で藤村が腰を落とすと、年配の百姓が苦笑した。
「藤村様に畦を教えられる日が来るとはなぁ」
「畦は国の縁だ。ここが割れれば、話も割れる」
男は目を細め、縄を締め直した。用水板の赤い釘は“参”を指す。子どもが数人、板の前に集まり、互いに読み合っている。
「三だ。きょうは板を落とす日だ」
「ちゃんと覚えたな。板を落としたら、堰の前で魚を追うんじゃない」
笑いが起き、母親が子の耳を引いた。堰の水は穏やかに落ち、畦の裾を洗っていく。田面は均され、陽が傾くにつれ、微かな光を返した。
昼過ぎ、庄屋場では苗代の種籾を量る台秤が据えられ、藤村の声が落ち着いて響いた。
「一反に一斗二升、増やすな。苗が競えば痩せる。灰を薄く、藁は細く。――手は速く、気は長く」
「二十四日、一斉播きでございますね」
「うむ。朝、鐘一つで始め、三つで終わる。鐘が鳴っても“足りない者”が出る。そこへ工兵を回す」
庄屋が頭を下げ、若い組頭が複写帳を取り出す。薄黄の紙に、村ごとの籾量が映されていく。小四郎が横で筆を走らせ、滲みを指で押さえた。
「墨は薄く、字は太く。遠くからでも読めるように」
「はい!」
午後、風が変わる。湖上の色がひとつ澄んで、練習スクーナーの帆布が張りを取り戻した。甲板には、白い〈射撃・散開操典〉が束になって積まれ、兵の若者がひとり一冊抱える。
「書いてあることは三つだ。散る、伏す、撃つ。――短い言葉でしか書かなかった。理由は分かるな」
藤村の問いに、下士の一人が答える。
「動きながら読むから、であります」
「そうだ。紙は重い。なら、字は軽くする」
操典を胸に、浜の射場へ移る。砂嚢の向こうで標的板が白く立つ。合図は旗一本。声は少ないが、足の運びが揃っていた。
「左散――伏――撃」
乾いた破裂が風に千切れて消える。砂が低く跳ね、硝煙の匂いが陽光に薄まる。新しく配した衛生係がすぐに水壺を回し、手を洗わせる。石鹸の泡が小さく光る。
「泡は敵に見えますか」
後ろで見ていた名主が冗談めかすと、衛生係の若者が赤くなって首を振った。
「泡が見えるほど近づけません」
藤村は笑い、衛生係の肩を叩いた。
「よく言った。戦は“遠くで終わらせる”ほうがいい」
日が落ちると、港の詰所に灯が入る。航海術課程の第一回、〈風の読む法〉。羅針、砂時計、ロープの結び。小さな黒板に、藤村が三つの弧を描く。
「帆は布だが、翼でもある。風を“受ける”のではなく、“逃がしながら抱く”。――つまり、ここだ」
弧の内側に点を打つと、若い水主たちが一様に前のめりになる。岩崎が頷き、老船頭が小さく舌を鳴らした。
「湖でも海でも、風は同じですか」
「同じ“理”で違う“癖”だ。理を先に、癖をあとで」
窓の外でマストが小さく鳴く。帆の端がひと揺れして、灯の炎がわずかに踊った。
夜、政庁の座敷に茶が出た。湯気の向こうで、慶篤が五段箇条の紙を差し出す。
「“江戸城・火除け塗り替え”。論点、乾材不足。結論、江戸周辺の古家材を買い上げて転用。費用、一万二千。代替、土蔵の戸板を一時外す。期日、春彼岸まで――」
藤村は黙って耳を傾け、紙を受け取った。
「結論は先に。字はもっと削る。――ただ、良い。“代替”に“やらない”を入れたのは殊勝だ」
慶篤がほっと笑う。「“やらない”も決断、と教わりました」
「決めたら、次は“誰がやるか”だ。人の名を書け。名が書けぬ策は、策ではない」
脇で小四郎が出納控を揃え、墨を救いすぎないよう注意しながら、明日の苗代の籾配分を書き写している。指の節に墨がつき、額に細い汗が光る。
「小四郎」
「はい」
「きょう、自分の字で“金が動いた”。それを忘れるな。字は刃より重い時がある」
「……はい」
少年の声は揺れたが、目は逃げなかった。
そこへ、笠間焼の親方が遠慮がちに顔を出した。両腕に抱えた木箱から、薬瓶が三本、酸乳瓶が二本。栓の蝋は薄く、均一だ。
「小児科で“ちゅう”と鳴ったら栓が甘い、という札を付けやした。女衆に好かれる工夫で」
藤村は笑い、瓶の一つを光に透かした。
「良い“音”だ。――容保公の清書、届いたか」
渋沢が巻紙を掲げる。
「“印紙、雛形に異存なし。漆器の等級札、色分けを好む”と」
「会津は色で争わない。札の色は穏やかな三つでいい。派手は商いを狂わせる」
渋沢が頷くと、岩崎が指で机を叩いた。
「海軍特会、今月の拠出はこのまま。……女衆の小売、相変わらず銭が速い」
「速い手は、早い朝から生まれる。集金は午の刻にまとめ、夕前に数える。暗いところで数えるな」
話が途切れ、湯が静かに鳴る。障子の外、霜の降りる気配。藤村は湯飲みを置き、ふっと息を吐いた。
「――人が増えた」
渋沢が顔を上げる。
「五万三百。改め、確かです」
「食わせ、寝かせ、産ませ、育てる。……畦と同じだ。“揃える”。揃った畦は水が迷わない。揃った暮らしは、心が迷わない」
慶篤が膝を進めた。
「藤村。わたしは……“揃える”を、政治の言葉にしてもよいですか」
「良い。ただし、揃えすぎるな。人の顔は揃わない。その“ずれ”が、国の余白だ」
慶篤が静かに笑う。「覚えておきます」
遅く、帷が落ちるころ。小四郎が帳を抱えて立ち上がった。
「本日の出納控、締めました。収は地代前受け四百二十、払は縄・杭・石鹸・紙、合計三百九十六。差引二十四」
「よろしい。――二十四両の“軽さ”に油断するな。軽い銭は“消える”」
「はい」
少年は襖の陰で小さく拳を握る。藤村はその様子に目だけで頷いた。
座を辞して廊下に出ると、外は凛と冷たい。湖の方角から、白鐘のマストがひときわ高く鳴いた。風は一定ではない。だが、帆の張りを知っていれば、舟は真っ直ぐに進む。
「明日は畦の見回りと、蒼鷹の帆走だな」
独り言に、暗がりの奥で岩崎が応じた。
「ええ。帆は理、畦は習い。どちらも手を抜けば沈みます」
藤村は肩で小さく笑い、夜気を吸い込んだ。
揃えすぎず、散らしすぎず。水も、人も、風も。
その匙加減の中に、二月の羽鳥は、確かな体温で息をしていた。