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100話:春を待つ婚礼と、新たな歩み

1864年正月、陽はぴんと冷たく、匂いだけが新しかった。白木の香、新畳、淡い檜。婚礼はひどく静かだった。祝う人が少ないのは、貧しいからでも、人気がないからでもない。意図して人を絞った。喧騒は旗になるが、政略に要るのは、見えない結び目である。


 相手は篤姫――いまは天璋院とも号される、将軍家の顔。前将軍の御台所である彼女を、ふたたび“政の結び目”に据える。大奥の求心、朝幕の往来、薩摩と徳川の細い綱。派手な祝宴は、かえって結び目をほどく。だから、人を減らした。代わりに、文と印と誓詞を増やした。


 将軍・徳川慶喜は、御用台の陰に控え、短く頷いた。大老・徳川斉昭は、静かに座を正し、「家を立てるのは器ではない。名分である」と言った。水戸中興の学匠・藤田東湖は、祝詞の末尾に一行、「名は看板、名分ははり」と添えた。佐久間象山は黙礼だけして、婚礼の場の隅に置かれた電信器の線を一度つまんで離した。音は鳴らないが、理は鳴った。


 「此度は、よろしく。」


 「こちらこそ。」


 飾りのいらない言葉だけが、畳に落ちた。婚礼ののち、晴人は従四位下・侍従を拝命し、一橋の名跡を分家格で賜って「一橋 慶昭」と改名となった。これは単なる“美称”ではない。御家門並みに相当――親藩格の席次、参内資格、奥向き裁可に副署できる地位、老中列座に準ずる発言の場、十万石並みの家格、葵の紋の公許。評議の座で誰の隣に座れるか、どの印判を預かれるか、それが変わる。橋の名は、橋の務めを背負う印でもあった。


 「名は道。」慶喜は短く言い、晴人の肩に手を置いた。「公武の間を行き来する道だ。お前が歩けば道になる。」


 屋敷の者は相変わらず「藤村様」と呼んだ。篤姫はそれを面白そうに、そして少し誇らしげに聞いていた。名は増えた。だが、歩幅は変わらない。


 昼下がり、羽鳥の書院。冬の光が紙の上の用水路に走る。二人は肩を並べ、地図と帳面を開いた。婚礼の帳はすでに閉じられている。儀礼費一万八千両――祝儀と贈答で相殺を進め、純の流出は四千両。渋沢の字が端正にそれを支える。


 「銭の出入りが真っ直ぐで、見ていて気持ちが良いわ。」


 「名は看板、帳は背骨です。背骨が通れば、足も出ます。」


 篤姫は微笑み、地図の一角を指した。「裏作は、この郡から。川が真面目に働くところが好き。」


 「用水板を立てます。水位が一目で見える“目盛り板”。子どもでも読める印に。」


 「女たちも井戸端で眺めて噂にするでしょうね。」


 政の芯は生活にある――ふたりの会話はそこへ自然に降りていく。外では、締め太鼓が遠くの社から小さく響いた。


 翌日、江戸・勘定所奥の座敷。小栗上野介と晴人が黒板を挟んで座る。傍らに海軍伝習所の書役、さらに象山が半眼で数式を覗き込む。帳面を束にした御用金商の顔も並んだ。


 「まずは棚卸から。」晴人は白墨を走らせた。「幕府一般債務、一千二百万両――利下げ交渉進行中。海軍特会、艦船四十四隻、総契約三百三十三万六千、支払済九十万、未払い二百四十三万六千。合わせて約一千四百四十三万六千。」


 「海軍は別建てに。」小栗がうなずく。「十年満期六パーセント、沈没基金は年六十万。横須賀の地所は押さえる。乾ドックは仏法で見積。それで回るか。」


 「回します。」晴人は三行の線を引いた。「財源は三つ。関税、印紙税、そして“女性の小売”の粗利。三つを束ねて海軍会計に流す。一般会計とは混ぜない。沈没基金は“鉄の灯明”です。」


 象山が小さく笑った。「理財は理学。二重簿記は兵学。混ぜれば濁る、分ければ澄む。いい黒板だ。」


 御用金商が咳払いした。「印紙税は、市中が渋るやもしれぬ。」


 「渋れば、渋らぬ者が売れるだけです。」晴人は柔らかく笑う。「たばこ専売の印紙で証明します。通し番号と月次突合。剥がせば“無印”が露わになる。正直者が得をする仕掛けに。」


 そのとき、障子の向こうで控えの声。「会津中屋敷より、松平容保公の使者。」


 使者の礼は簡素で、声は急がない。「会津、四十万両の借入につき、十八ヶ月の整理案、御助力願いたいとの仰せ。」


 晴人は包みの図を開いた。「会津は“会計一元化”から。“会津公社”の箱をつくり、歳入歳出をそこに通す。藩札は新発行停止、既発行は公社券へ振替。債権者は三群――短期高利・中期・長期。六ヶ月ごとに利足を落とし、元金は公社券で一部ロール。担保は三つ――年貢米の定額売渡、漆・絹の専売益、会津木綿の問屋印紙。印紙税は半年周知、施行はその後。最初の六ヶ月は“痛み”、次は“息継ぎ”、最後で“走る”。」


 小栗が肘をついて目を細める。「箱の壁は数字、蓋は印。鍵は人の誠実、か。」


 「ええ。」晴人は頷いた。「会津から帳場人を三人、江戸へ。こちらからも三人を会津へ。互いに見えるように。」


 「海は船で勝つ。だが、港は算盤で勝つ。」小栗は口角を上げた。「横須賀は海軍の“灯台”に、会津公社は陸の“灯台”に。」


 その日の夕刻、羽鳥・蔵前通り。たばこ専売の新札が、朝の光に淡く光る。判取り場では女たちが印紙を貼り、通し番号を声に出して読み上げていた。


 「三百二十一、貼りました。」


 「三百二十二、確認。」


 晴人が顔を出すと、番頭が慌てず頭を下げる。「藤村様、江戸の突合、月末に間に合わせます。」


 「声を出すのが一番の見張りだ。」晴人は一枚を手に取り、紙の縁を撫でた。「剥がせば跡が残る――よくできている。」


 道向こうの湯屋には、新しい札。「衛生三点セット」。石鹸、手水紙、大判タオルが同じ棚に並ぶ。番台の婆が晴人を見つけて笑った。


 「これでねえ、手のひび割れが減ったよ。客も“前後に手洗い”の札を見て、素直に洗うんだ。」


 「桶の横、札は下がりすぎていないか。」晴人が屈んで紐の結びを直すと、婆は目を丸くした。


 「藤村様が、そんなことまで。」


 「札が見えなければ、札は無いのと同じです。」


 港の茶屋では《檸緑》の定価札が立ち、子どもたちが空瓶を抱えて走る。返金は二文。返却籠が満ちるたび、札がぱちんと弾かれる。


 「返ってくるものは、信じられる。」売り子の未亡人が言った。「こういうのは、張り合いが出ます。」


 「瓶に番号を。」晴人が指で示す。「数字は嘘をつけぬ。」


 通りの角で、江戸支所の若い薬売りが声を張る。「石鹸と煎じ茶! 手洗い、前後!」


 通りを歩く篤姫が足を止め、晴人に目で笑う。晴人は軽く会釈し、声のする方へ指を立てた。「あれが、いちばんの薬です。」


 その背を、白襟の若者が追い抜いていく。藤田小四郎だ。志の熱は消えていない。だが、眼の端に、印紙と秤の目盛りを一度映した。力の出しどころを、測るように。


 夕暮れ、裏手の蔵。渋沢が新しい印紙の束を広げ、女たちが印影を確かめる。小四郎(藤田のほうではなく、こちらは手代の小四郎)が帳面を抱えて走り込んできた。


 「藤村様! 用水板、二つ目の村に立ちました。目盛りは子どもが読めました!」


 「よし。絵を描いて掲げろ。麦は幾日、菜種は幾日、水をどこまで――文字が読めぬ者にも読ませる。」


 夜、羽鳥屋敷の長廊下を渡ると、燈台のように一室が明るい。篤姫が束ね髪のまま帳面を見ていた。


 「今日、湯屋で女の人たちが、手を見せ合っていたの。」篤姫は掌を見せた。「石鹸の話で笑い合っていたわ。ああいう笑いは、強い。」


 「笑いは最良の担保です。」晴人は、火鉢の灰を掻いた。「返すべきを返し、残すべきを残す。」


 障子が細く開き、用人が膝をつく。「会津中屋敷より――殿が、直接に。」


 ほどなく松平容保が座した。疲れはあるが、着座の背は揺れない。礼が終わると、容保はまっすぐに言葉を置いた。


 「京の務めに遅れは出さぬ。しかし、会津の帳は、剣だけでは整わぬ。恥を忍んで願いに上がった。」


 晴人は紙束を差し出す。「十八ヶ月の道筋です。最初は“痛み”――短期高利を公社券へ付替、利足は一段落とす。次は“息継ぎ”――漆・絹・会津木綿の専売益を担保に、年二回の配当を約す。最後は“走る”――年貢米の定額売渡で資金繰りを平らに。箱は一つ、“会津公社”。印紙は半年後、まずは触れさせるだけ。」


 容保は紙に目を通し、しばし黙した。「――これなら、人が折れずに済む。」


 「人が折れねば、藩は折れません。」晴人は静かに応じる。「会津から帳場人を三人、こちらへ。こちらからも三人、会津へ。互いに嘘がつけぬように。」


 容保の目が柔らいだ。「借りは、いつか返す。」


 「借りは、いま返っています。」篤姫が控えの間から一歩出て、丁寧に礼をした。「御所の静けさは、御台所の静けさから。」


 容保は思わず笑みを返し、深く頭を下げた。


 正月明けの訓練場。雪をかむ土の上、号令に合わせて列が動く。常備三千二百。うち四百は近衛(教導)。新編の砲兵小隊が、四門ずつ計八門を引き出して横隊に開いた。


 「照準、水平! ――据え!」


 砲耳の角度を読み上げ、火門に火縄が入る。乾いた冬気に、黒煙が低く漂う。晴人は距離板を確かめ、教導役の近藤に声をかけた。


 「砲の寄せ、二足分短く。後装の試作は春だ。いまは“同じ角度”を身体で記憶させる。」


 「承知。」近藤は短く答え、合図を送る。土方が巻尺を持って列の間を歩き、沖田が号令のテンポをわずかに上げた。剣も砲も、規格と呼吸で整う。


 別の土手では、騎兵見習が素走りをしている。南部と下総から契約した軍馬二百五十頭は、春に入る。いまは木馬で鞍と脚のみを鍛える。


 「馬は来ぬが、脚は来る。」晴人が笑うと、若い兵が照れて頭を下げた。


 港からの飛脚が、上海の契約書を掲げて走る。練習スクーナー百二十トンを二隻。霞ヶ浦艇隊の蒸気ランチ二隻も、部材が上がった。湖の風が、舳先の形を覚えさせる。


 「船は海で育つが、操は湖で育つ。」岩崎が鼻を鳴らす。「まずは艇隊で癖を取る。」


 産業の場では、笠間焼の薬瓶・酸乳瓶の標準型が決まる。口径、重さ、栓の形、焼きの温度――紙の上の数字が、棚の上の同じ形に変わっていく。干芋は厚みと乾度を規格。甘さが均一なら、値も安定する。


 会所では、関税の帳に印紙税の箱が並び、女子小売の粗利が小川のように集まってくる。海軍会計の沈没基金に、ぽとりぽとりと落ちる音が、確かにした。


 「六十万、年ごとに。」渋沢が数字を叩く。「関税、印紙、女売りの三本で――いけます。」


 「いかせます。」晴人は短く返した。「二つの海軍会計を立てたのは、艦と人を同じ秤に載せないためです。」


 「艦は鉄、人は灯。」渋沢が笑う。「消えない灯で。」


 夜の羽鳥。障子の向こうで、電信の線が微かに風を鳴らす。書院では、昭武が算盤を弾き、手代の小四郎が端に膝をついて記録を写していた。慶篤から届いた文には、簡潔に「水戸は“背骨”を支える」とある。


 「一里四十町。羽鳥から江戸まで何里。」


 「十六里半です。」昭武は即答し、続けて英語の復唱を重ねる。「グッド・イブニング。」


 「よろしい。」晴人は笑みを抑えた。「明日は会津の“箱”の図を描く。箱の壁は数字、蓋は印。鍵は人の誠実だ。」


 「鍵は、人。」


 ことばを確かめるように昭武が繰り返す。小四郎は筆を止め、顔を上げた。


 「藤村様、明朝は、産婆講の集まりが。」


 「行く。酸乳の量をもう少し増やす。蜂蜜の配り方も、短い札に。」


 廊下を戻ると、篤姫が灯のそばで針を置いた。「今日も、よく働いた顔。」


 「よく笑った顔、でもあります。」


 ふたりは縁に並んで座る。庭の梅はまだ固い蕾。遠くで太鼓が一度だけ鳴り、静けさが戻る。


 「名は看板、歩は習慣。」篤姫がゆっくり言う。「看板は民に見せるもの、習慣は民の中で直すもの、でしょう?」


 「はい。」晴人は頷き、篤姫の視線を受け止めた。「あなたの歩幅に、合わせます。」


 「なら、急がず、でも止まらず。」


 火鉢の炭がちろりと鳴った。


 翌朝、その紙の端に、晴人は小さく書きつけた。たった五文字。


 「春を待つ。」


 その紙は箱の蓋に貼られ、田の板に墨で写され、会所の壁に小さく掲げられた。箱の中身は銭と数字。けれど、箱を運ぶのは人の手である。人の手は温かく、冬でも、灯は消えない。次に動くのは、会津の箱と、湖の船――そして、京の空の雲行きだ。気配は静かに、しかし確かに、こちらへ向かっていた。

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