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99話:未来を描く者たち――二つの海軍会計

1863年12月・初冬、江戸。薄雲の切れ間から差す白い日が、城の石垣を冷たく照らしていた。勘定所奥の座敷には火鉢が二つ、黒板が一つ。算木と決算簿の山を前に、小栗上野介が脇息を正す。晴人は白墨を握り、息を整えた。


 「――では、棚卸の“確定”から入ります」


 白い線が黒板を走る。数字は容赦なく並ぶが、声は静かで、落ち着いていた。


 「幕府一般債務、一二〇〇万両。こちらは利下げ交渉を継続。……そして本日の本丸、“海軍分”は別立てで扱います。艦船四十四隻ぶん総契約三三三万六千、支払済九十万、未払二四三万六千」


 小栗が短くうなずく。「合算で一四四三万六千。だが、まとめて語れば底が抜ける。分けよう」


 「はい。“二つの会計”に割ります。一般は既定の整理線上。海軍は“特会”として起票し、十年満期・年六%の海軍公債に分離。さらに沈没基金――年六十万両を別積みに。元金に手は付けない。三座(江戸・大坂・長崎)で分散保管、運用益は基金へ合算、開封は『評定印三つ揃い』」


 御用金商の代表が扇子で頬をあおぎ、「六%とな」と苦笑した。晴人は目だけで笑ってみせる。


 「薄利で長く、です。軍艦は“海の城”。巨きな支出は“見える形”で説明できなければ続きません。公債は“約束の紙”です。約束の紙で海を養う。――上野介、よろしいですか」


 「よい。海軍特会は別勘定。沈没基金は年六十万だ。責任は半々、藤村」


 「お預かりします」


 端で記録を取っていた若い書役が、かじかんだ手を火鉢にかざしながら、小声で問う。


 「藤村様……支払いの合図は、やはり“電信”で?」


 「そうだ。来春までに江戸―羽鳥―水戸の一線を通す。文言は短句で、数字は算用数字。送受の押印は二名以上――書いておけ」


 小栗が笑い、白墨を指で弾いた。「紙と糸で金が動く時代か。……ようやく面白くなってきた」


 扇の閉じる音が順々に重なり、会は締まった。


     ◇


 1863年12月上旬、羽鳥屋敷。霜を踏む音が砂利にやさしく響く。書院では、晴人が巻紙を広げ、少年に向き直った。凛とした眼の少年は、藤田東湖の四男・小四郎。隣には若殿・昭武が算盤をいじっている。


 「では“電信手順書”、清書に入るぞ。昭武、見本を読む。小四郎、耳で聞いて手で写せ」


 晴人はゆっくりと読み上げた。


 「一、送信前ニ回線試験ヲ行フ事。二、文言ハ短句ニ区切リ、数字ハ算用数字ヲ用フ。三、重要電ハ“朱割印”ヲ付シ、受信簿ニ相互署名」


 「“短句”……はい。……“朱割印”……はい」


 小四郎の筆が走る。昭武が首をかしげた。


 「沈没基金の“触れぬ規則”は、いかが書きます」


 「『元金不触ふしょくの条』でいい。『評定印三、欠ければ封を切るべからず』――漢字は固いが、固くてよいところだ」


 昭武はうなずき、紙の隅に小さな印を練習して押した。かすれた朱が愛おしい。


 「よし、体が冷えた。庭で深呼吸だ。肩を開く“朝稽古式体操”、いち、に、さん……」


 白い息が揃って立ちのぼる。紙の上の未来は、からだで支える――晴人はそれを、少年たちの胸に置いていった。


     ◇


 1863年12月中旬、江戸・蔵前。羽鳥薬会所の支所は湯気とハッカの匂いに満ちている。奥の机に、笠間から届いた陶瓶の試作がずらりと並んだ。口径、胴、底の厚み――少しずつ違う。


 「薬瓶は“一合・二合”の二型に絞る。口は同径で栓を共通に。胴に“羽鳥・衛”の浮き出し印だ」


 笠間の陶工が頷き、瓶を爪で弾いた。澄んだ音が返る。晴人は別の棚から、肩の落ちた厚手の瓶を手に取った。


 「こっちは《御美玉酸乳》用の標準。倒れにくい肩、厚い底、釉下に小さな“桜”。栓は蝋引きの挿し込み。二本ずつ縄で組んで運ぶ」


 番頭が帳面に朱で“規格決定”と書き、続けて干し芋の籠を持ってきた。帯状の芋がきれいに並ぶ。


「干芋は“厚み二〜三分、乾度しなり一つ・折れ二つ”。竹尺で検査、規格外は自家用へ。――大洗から“予備便”、横浜経由で上海へ試送する。通関は“印紙貼付”を役所に通した。紙一枚で揉め事が減る」


 「印紙で“品”にするわけですね」


 「そう。“印と格”で値段が決まる。……石鹸の印も忘れるな。“羽鳥・衛”は約束だ」


 店の隅では若い母親が子の手を洗い、子が泡を追って笑っている。番頭がそっと囁いた。


 「石鹸、“大”が湯屋で跳ねます。帳面、黒に近いです」


 「よし。湯屋には“手洗い前後”の札を添え札に。――銭も健康も、札一枚から動く」


     ◇


 1863年12月中旬、江戸城普請部屋。図面が壁を埋め、木の匂いが濃い。小栗が朱筆で箇所を指した。


 「第Ⅰ期、進捗三割。石垣の根継ぎは二の丸・三の丸、砲座は外堀沿いに三基。御殿は土蔵造りへ耐火化、上水は枡の入れ替え。……城中の“御伝場”まで電信の線を通す」


 晴人は頷く。「見た目が変われば、人は安心します。瓦が火に強い、壁が厚い、上水が澄む。数字の前に“目”で信用を作る」


 「数字の男が、うまいことを言う」


 「数字の男だから、です」


 二人は同時に笑い、朱で“了”と入れた。


     ◇


 1863年12月下旬、羽鳥・練兵場。吐く息が白く、霜柱がきしむ。横隊が三つ、縦隊が二つ。号令が凍て空に響いた。


 「常備、三千二百へ。――砲兵小隊二、各四門。衛生小隊、新設」


 晴人の声に、砲の脇で白衣の組が一歩進み出る。若い隊士が帽子を押さえた。


 「藤村様、衛生は“何から”で?」


 「手洗いと煮沸。傷の洗いは清水、包帯は煮る。戦は“倒れぬこと”から始まる」


 「了解!」


 別の端では、厩の前に並ぶ馬の群れ。毛色の異なる体が鼻息を白く吐く。


 「南部・下総から二百五十頭。翌春搬入、騎兵見習中隊を立てる。まずは馬に人を慣らす。――人に馬を慣らすのは、もっと後だ」


 若い隊士たちが照れ笑いを交わす。遠く、霞ヶ浦の方角へ目をやれば、蒸気の白が細く立った。


 「うみには“霞ヶ浦艇隊”。蒸気ランチ二隻、整備に入る。上海では練習スクーナーを二隻契約――各百二十トン。帆と蒸気で“二つの海”を渡る」


 「“二つの海”、ですか」


 「会計の海と、海の海。どちらも沈めない」


 笑いが起き、しかし背筋は伸びた。


     ◇


 同日夕刻、大洗の小さな岸壁。北風が樽と木箱の隙間を抜け、海鳥が低く鳴く。笠間の瓶と干芋の箱に、丁寧に“印紙”が貼られていく。封蝋の赤が薄闇に映えた。


 「横浜へ。そこから上海の羽鳥会所へ。……予備便だ、慌てず騒がず、丁寧に」


 晴人の声に、荷役が「へい」と短く返す。舟が離れると、岸の焚き火がぱちりと鳴いた。寒さのなかで、甘藷を焼く匂いがささやかに暖かい。


     ◇


 1863年12月晦日、羽鳥屋敷。机の上で二冊の帳面が開いている。“幕府一般会計”と“海軍特会”。外では風花がちらつき、小四郎が筆を拭いた。


 「藤村様、“元金不触の条”、書けました」


 「見せてみろ……うん、良い字だ。昭武、“電信手順書”の清書は?」


 「ここまで。『数字は算用数字ヲ用フ』の“算用”が難しくて」


 「その難しさが、国を強くする。――紙で約束し、糸で確かめ、土を固め、芋を干す。どれも、同じ線の上にある」


 火鉢の炭が赤くなり、遠くで除夜の鐘の試し撞きがはじまった。晴人は二つの帳面にしるしを入れ、静かにふた言。


 「一般は“暮らし”の線。海軍は“外の風”の線。……どちらも、来年は太くする」


 小四郎が真似をして、紙の端に小さく線を二本引いた。昭武が笑い、障子の向こうで風が鳴る。


 1863年は冷たく沈み、しかし線は確かに伸びている。江戸の冬は長い。けれど、二つの会計と、二つの海――それを繋ぐ人の手は、もう温まっていた。

1863年12月・初冬、江戸・両替町。薄い陽が瓦を撫で、店々の暖簾が乾いた風に鳴った。羽鳥会所の仮窓口には、商人・船頭・職工まで小さな行列ができている。看板には黒々と「海軍公債 十年満期・年六分」とある。


 「次の方。――お名前と、口数を」

 

 帳場の若い書役が丁寧に筆を走らせると、前に進んだのは皺の多い手の女だった。小間物屋の女将だという。懐から出したのは、手拭いに包んだ金と、丁寧に折った羽鳥紙幣。


 「……一口だけ、買わせておくれな。うちの孫が江戸前で船頭になるて言うんだよ。海の“約束の紙”があるなら、あの子も沈まない気がしてね」


 「ありがたくお預かりします。受け取りはこの“約定書”。沈没基金は別積み、元金は触れません」


 背後から、晴人が静かに補う。

 

 「約束は長いほど強くなる。十年先に“返す”と決めた紙は、明日の飯にも、来年の船にも効いてきます」


 女将はうなずき、約定書を胸に抱き込む。「紙でも、手に重いねぇ」――小さく笑って去っていった。列の後ろで見ていた若い船大工が、「藤村様、二口」と言って頭を下げる。金の音は小さいが、人の気持ちは大きい。帳場の墨は乾かぬ間に、次の名を吸い取っていった。


     ◇


 1863年12月中旬、羽鳥・霞ヶ浦の岸。薄霜の草を踏み、二隻の蒸気ランチの鍋が音を立てる。黒い煙がまっすぐに伸び、湖面を薄く曳いた。


 「圧、十分。前進、微速」


 機関掛の合図とともに、船はきしりと前へ出る。舷側で見守る晴人に、艇長が声を張った。


 「藤村様、湖上での運用は“郵便・電信補給・救難”の三つに絞りやす」


 「いい。湖は道であり、学び場でもある。若いのを順に乗せろ。舵を切り、風を読む“背中”を増やすんだ」


 水面を渡る風がひゅうと鳴った。対岸では練兵場の号令が微かに届く。砲兵小隊の新編成、衛生小隊の手洗い指導――陸と水が別々のようでいて、根は一本でつながっている。晴人はポケットから一枚の紙を出し、皺を伸ばして艇長に渡した。


 「“湖上警備心得”。短句に直した。『人命第一』『天候急変ノ恐レアレバ退ク』『報告ハ電信最短』――この三行を、毎朝声に出せ」


 「承知!」


     ◇


 1863年12月半ば、江戸城・御伝場。乾いた畳の上、試験用の電信機が据えられている。四角い木箱に巻かれた線、針金、電鍵。昭武が背筋を伸ばし、隣で小四郎が緊張に耳を尖らせた。小栗と晴人は少し離れて見守る。


 「では、羽鳥へ“初送”だ。文句は――『海軍特会 元金不触 評定印三』。短いが象徴に足る」


 晴人が合図し、昭武が電鍵を打つ。カチ、カチ、カチ――乾いた音が冬の空気を刻む。指先はまだ強張っているが、目は真っ直ぐだ。間もなく受信側から返答。針がふるえ、紙の上に点と線が落ちる。


 「……読み取り、“受領”。羽鳥より返す――『了』」


 小四郎が小さく拳を握った。「届きました!」 小栗が満足げに頷く。「紙と糸で金が動く、と言ったな。今、確かに動いた」


 晴人は二人の肩にそっと手を置いた。


 「良い手だ。昭武、その手で“電信手順”を清書してくれ。小四郎、お前は『受信簿』を。人の目で裏打ちされた紙が、約束を長持ちさせる」


 「はい!」


     ◇


 1863年12月中旬、浅草寺裏の空き地。藁束を束ねた的が三つ、土手の向こうに並ぶ。号令とともに、砲兵小隊が砲を押し上げる。車輪が霜柱を砕き、白い息が一斉に上がる。


 「装填!……照準!……撃て!」


 腹に響く重い破裂音。土煙がゆっくり広がり、的の藁がばさりと崩れた。晴人は耳を押さえ、間を置いて声を飛ばす。


 「外れた班、照準ではなく“滑走”を見直せ。滑る地面で車輪がずれる。――衛生班、耳栓の配布を急げ。砲兵に耳は要るぞ」


 白衣の衛生小隊が軽快に走る。塩の溶液、包帯、耳栓、煮沸用の小鍋。砲の横で、彼らの手元だけが家庭の台所のように秩序立っている。


 「藤村様、女手も交代に入れますか」


 「入れろ。包帯は女のほうが早い。腕力が要るところは男が支える。――“倒れない軍”を作るんだ」


     ◇


 1863年12月下旬、南部馬喰町の仮飼い場。粗い毛並み、湿った鼻面、黒曜石のような瞳。並んだ馬の肩が朝日に光る。手綱を握る老馬喰が、晴人に頭を下げた。


 「南部と下総、合わせて二百五十頭。春にはもっと揃います。いずれも脚がよく、気性は素直。――ただ、若い手では勝てません」


 「承知した。『馬と人の順番』は必ず守らせる。まず人が歩き、次に隣で馬が歩く。走るのはずっと後」


 近くで見ていた若い隊士が、そっと手綱を撫でる。「……あったけえ」 馬の鼻息が白く揺れ、隊士の頬にかかった。老馬喰が笑う。


 「そいつに惚れられたようですな。惚れられたら、もう半分は勝ちです」


     ◇


 1863年12月下旬、蔵前・羽鳥薬会所支所の裏庭。笠間から届いた薬瓶の箱に、番頭が「印紙」を貼っていく。橙の夕陽が蝋で濡れた栓を照らし、干芋の籠から甘い匂いが立つ。


 「横浜へ、予備便を出す。――印紙が“商品”を“制度”に変える。貼る手は丁寧に、言葉は短く、顔は笑って」


 若い小僧が緊張してうなずく。石鹸を買いに来た湯屋の番頭が、晴人に頭を下げた。


 「“手洗い・前後”の札、掛けました。最初は笑われましたが、今じゃ客のほうが先に手を出す。変なもんで」


 「変じゃない。大事な“変”だ。笑いながら、命が一つ助かっている」


     ◇


 1863年12月二十七日、江戸・小石川。小さな会所に、商人衆と旧藩士が集まった。晴人は卓に二冊の帳面を置く。表紙には、それぞれ「一般」「海軍」と墨書きされている。


 「――“二つの海軍会計”です。暮らしを立て直す“陸の海”と、外へ出る“水の海”。どちらも沈めない。利は薄く、約束は厚く。やることは、紙にし、印を押し、守る。簡単ですが難しい。だから一緒にやる」


 古着商の年配が手を挙げた。「わしらの銭が“海”になるとな。十年は長いが……孫のために一口だけ」 隣で元旗本が続く。「わしも一口。――昔の槍は、今は紙でよかろう」 笑いが起き、墨の匂いの中に、人の体温が混じっていく。


     ◇


 1863年12月晦日、羽鳥屋敷。雪雲が低く、風花が時折舞う。書院では、昭武が最後の一枚を清書している。「電信手順書」。小四郎は受信簿を揃え、角を指でつまんで直した。


 「よし、終いだ。――明日から新しい年。数字は変わらない。紙も変わらない。変わるのは“人の癖”だけだ」


 晴人が立ち上がり、二人の額を軽くこつんとやった。昭武が笑い、小四郎が少し照れた顔で「グッド・ナイト」と小声で言う。障子の向こうで、遠い寺の鐘が一打、冷たい空へ昇っていった。


 “二つの会計”。“二つの海”。どちらも紙で結ばれ、人で温まる。江戸の初冬は厳しいが、火鉢の炭のように、小さな赤があちこちで確かに燃え始めていた。

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