12話:西の空に、竜の気配
空は晴れわたり、田の水面を渡る風は緩やかだった。
だが、その静穏はまるで、遠雷を孕む空のようでもあった。
――安政三年三月。
江戸からの早馬が、水戸城に到着したのは朝方のことであった。
御目付役から届いた封書を受け取った藤田東湖は、その場で封を切り、眼光を鋭くする。
「……日米和親条約の追加文書だな。新たな交渉に関する備忘が添えられている」
周囲に控えていた藩士たちが、ざわりと揺れた。
「条約……下田と函館の開港は既に済んでいたのでは……?」
「問題はこれからだ」
東湖は静かに言った。
「この文書は、ペリー来航から始まった“序章”の延長にすぎぬ。
これから欧州列強が相次いで来日し、さらなる通商、さらなる譲歩を迫ってくるであろう」
その言葉に、若き藩士たちが思わず息を呑んだ。
蒸気船という言葉を初めて聞いた時と同じように。
そんな空気の中、東湖はふと振り返った。
「晴人、おぬしに見せたいものがある」
そう言って手渡されたのは、一通の外交文書の写しだった。
表題には、“To the Emperor of Japan”――ペリーが携えた開国要請文書の英文写本がそこにあった。
「……まさか、これを……」
「読めるのか?」
「……少し、ですが」
その時、背後から声がかかった。
「ほう、それを読めるとはな」
現れたのは、旅装をまとった一人の男。
濃紺の羽織を肩に引っ掛け、鋭い眼差しで書簡を覗き込む。
「浦賀で俺も一通見た。だが、内容までは……。その文、威圧と礼儀が混ざってる」
男は畳に腰を下ろし、懐から一冊の手帳を取り出した。
中には、英語と日本語がびっしりと書き込まれている。
「これは……?」
「独学さ。言葉を知らなければ、話も通じないだろう?」
男はそう言い、晴人に手帳を渡した。
「だが、“通じる”だけじゃ駄目なんだ。“意味”を知らなきゃな。
――この手紙、何が一番の毒か分かるか?」
「……“最恵国待遇”でしょうか。これを認めれば、他国にも同様の条件を与えねばならない。
一国の独立交渉権を、最初の一国に握られる危険性があります」
男は静かに頷いた。
「やっぱり、ただの若造じゃないな」
その名を晴人はまだ知らない。
しかしこの日、この“知の共有”こそが、やがて常陸の未来を大きく変えていく礎となるのだった。
「勝麟太郎。江戸の者だ。諸国を見聞してる最中に、水戸に寄らせてもらってる」
勝――その名に、晴人の記憶が呼応する。
幕末という時代を駆け抜け、のちに“海舟”と称される男。
「君、どこでその言葉を学んだ? もしや、長崎で蘭学を?」
「……いえ。私は……」
言い淀んだ晴人を見て、勝はふっと笑った。
「まあ、種明かしはあとでもいい。だが、“読む”ということは、“知る”ことだ。知った上で、どうするかが問われる」
障子の向こう、風に乗って鐘の音が響いた。
城下に広がるのは、恐れと憤り、そして期待――攘夷か、開国か。答えのない問いが街を覆い始めていた。
勝は言った。
「俺はな、異国が怖いと思ったことはない。けれど、何も知らずに突っかかるのは、ただの蛮勇だ。……君も、そう思うんじゃないか?」
晴人はゆっくりと頷いた。
「はい。知ればこそ、備えられる。……それが、未来を守る唯一の手段だと」
勝の目が細くなる。
「気に入った。……また来よう、この町には“火種”がある」
彼はそう言い残すと、立ち上がり、障子をくぐった。
外の風は、わずかに西から吹いていた。
晴人は立ち尽くしたまま、そっと手元の英文に目を落とす。
“Friendship and commerce…”
異国の言葉が、静かに胸に染み入った。
勝麟太郎が去った後も、晴人はしばらく書庫の畳に座ったまま、胸の鼓動を鎮めていた。
思えば、自分がここに来て以来――どれだけの出会いがあっただろうか。
東湖、斉昭、村田蔵六、子どもたち、町の人々……そして今、新たな名が記憶に刻まれた。
(勝海舟……)
幕末の巨人。
だが、今はまだ無名の一介の視察官だ。
その彼が、自分の目を見て「また来る」と言い残したことが、なぜか胸を熱くした。
「まだ、変えられるかもしれない」
言葉が口から漏れる。
この時代は動き出している。黒船という名の外圧は、人々の意識を揺さぶり、価値観を塗り替える。
攘夷か、開国か。
その前に、まず“生き延びること”を考えねばならないのだと、晴人は強く思った。
◯
数日後――
水戸城下の一角にある学問所の庭で、晴人は久々に顔を見せた東湖と再会していた。
「勝という男、どうだった?」
「……目が鋭く、笑い声が朗らかで、底が見えませんでした」
東湖は口元を緩める。
「ふむ。そういう男は“時代に選ばれる”ことがある。案外、お主と似ているやもしれんな」
晴人は首を横に振った。
「いえ、私はまだ、民の命を守ることしかできていません。政治の舵取りなど、とても……」
「そう思う者ほど、船を沈めぬのだよ」
東湖は、庭に咲いたアジサイの花に目をやる。
「お主は変わった。最初に見たときは、“恐れ”で動いていた。だが今は、“未来”を見ている目をしておる」
その言葉が、胸に響いた。
――自分は、恐れていた。
この時代の重圧も、異国の圧力も、自分にできることの小ささも。
だが、少しずつでも前に進めるのなら――と、晴人は思えるようになっていた。
◯
その日の夕方、晴人は町の見回りに出た。
黒船来航の知らせは、すでに町人たちの間にも広まっていた。
「戦になるのか?」「異人が攻めてくるのか?」――ざわめきは、静かに恐怖を広げていた。
晴人は、炊き出し所の井戸の前に集まった人々に、穏やかに語った。
「異国の使節は、今のところ戦を仕掛けてきてはおりません。必要なのは、恐れることではなく、“備えること”です」
「備える……?」
「はい。水を清く保つこと、病にかからぬよう手を洗うこと、情報を冷静に受け取ること。――それが、町を守ることに繋がります」
最前列にいた老婆が、ゆっくりと頷いた。
「お前さんの言葉は、耳にやさしいのう。……だが、腹にも沁みてくる」
笑いが起きた。
晴人も、はにかみながら頭を下げる。
◯
夜。
診療所の裏庭にて、村田蔵六が木箱を開きながら言った。
「黒船が来たとなれば、流行病も増える。避難民が集まる地は、いつも最初にやられる」
「はい。水戸も、その例外ではないと思っています」
晴人の声に、村田は感嘆の目を向けた。
「よく見えている。……お主が“見える目”を持っているのは、天性のものか、それとも――未来を知っておるのか」
「……知っている、かもしれません」
晴人は、静かに言った。
「私は、これから起こる多くの悲劇を“知っている”気がします。けれど、それでも、守れる命があるなら守りたい」
蔵六は黙って聞いていたが、やがて頷いた。
「では、わしも腹をくくるとしよう。水戸にもうしばらく残る」
「ありがとうございます……!」
頭を下げる晴人に、蔵六は手を振った。
「礼などいらん。医の道とは、命に仕えること。――人は、そうそう変われるもんじゃないが、“命を救われた恩”は、忘れんもんじゃ」
その言葉に、晴人は深く頷いた。
夜空には星がまたたいていた。遠く、海の向こうにいる異国の使節たちにも届くかのように。
翌朝、水戸城下の一角にて、晴人は村田蔵六とともに、新たな炊き出し小屋の資材調達に奔走していた。
川沿いの材木商にて、木の寸法を測り、使えそうな竹を選び、補強用の縄の強度を一つひとつ手で確かめる。
その合間、村田がふと呟いた。
「まるで、戦場の陣地づくりじゃのう」
「戦場……というより、“生活の最前線”でしょうか」
晴人は笑って言ったが、その笑みには決意がにじんでいた。
――ここを守ることは、国を守ることと等しい。
そう考えるようになっていた。
勝海舟の言葉が耳に残っている。
『異国を知ることも、また防衛だ』
だが、その“異国”とやらは、鉄の船に大砲を積んでやってくる。
言葉を交わす前に、恐怖が国を覆い尽くす。そんな予感がした。
◯
昼過ぎ、学問所にて臨時の集会が開かれた。
水戸藩の中堅藩士や役人らが集められ、晴人もその末席に座る。
議題はただ一つ――黒船来航に際し、藩としてどう対処するか。
「攘夷こそ、武士の道なり!」
声を張り上げたのは、剣術所に籍を置く年若い藩士だった。
「異人など、恐れるに足らん! 我らの気概を見せるときだ!」
席のあちこちで頷く者もいれば、渋い顔をする者もいた。
「だが、相手は火を噴く鉄の船を持っておる……」
「それを恐れては、日本は終わりだ!」
声がぶつかり、熱気が充満していく。
そのとき、奥の席で東湖が静かに口を開いた。
「攘夷とは、心の誠なり。だが、戦を始めてはならぬ」
その一言に、場が鎮まった。
「異国を追うことと、民を守ること。どちらが先か――心ある者は、己に問うてみよ」
沈黙が落ちる。
東湖の隣で、斉昭もまた唇を引き結んでいた。
彼の中にもまた、武断と現実の間で揺れるものがあるのだろう。
◯
会が終わると、東湖が晴人を呼び止めた。
「勝と話したそうだな」
「はい」
「何を語った?」
晴人は正直に話した。英語の書簡のこと、勝の考え、そして“知ることが力になる”という教え。
東湖は深く頷いた。
「勝は、江戸で異国の事情に通じた稀な男だ。お主と話が合うとは、面白い」
そして、言葉を継ぐ。
「わしは攘夷の志を失ったわけではない。だがな、晴人――この国は、今や選択を迫られておる」
「開くか、閉ざすか、ですか」
「いや。命を繋ぐか、断ち切るか、じゃ」
その言葉が、静かに心に沁みた。
◯
夕刻、晴人は町の裏通りを歩いていた。
まだ若い町娘たちが、井戸端で不安げに噂をしている。
「黒船って、山より大きい船なんでしょ?」
「しかも、火を吹くって……」
「もうすぐ戦が始まるの?」
――違う、と言いたかった。
だが、それを言い切ることができないのが現実だった。
そのとき、小さな声がした。
「お兄ちゃん!」
振り向くと、あの“見回り隊”の少年たちが走ってきた。
「町の人が、変な張り紙してるよ!」
案内されて向かうと、そこには「異人は神の罰」と書かれた貼り紙が、何枚も掲げられていた。
晴人は眉をひそめた。
「誰が……」
村の陰に、人影が動く。
近づこうとしたとき、何かが飛んできた。
石だった。
「異人の手先か、てめぇ!」
怒声とともに、十代の若者たちが飛び出してきた。
町の不安が、形を持ちはじめていた。
「異国の言葉を話す奴なんて、信用できるかよ!」
晴人は、傷ついた口元を押さえながら、ただ一言だけ返した。
「……だからこそ、知るんだ」
「は?」
「恐れる前に、知るんだ。わたしたちはまだ、何も知らないまま、怒っている」
若者たちは一瞬、動きを止めた。
その隙に、晴人は静かに言った。
「おれは、敵でも味方でもない。ただ――この町が壊れていくのを、黙って見たくないだけだ」
風が吹いた。
夏の気配を運ぶ風が、貼り紙を一枚、剥がしていく。
◯
その夜、勝海舟は江戸へと戻る途中、舟の上で空を見上げていた。
「晴人、か……。おもしれぇ男だったな」
隣にいた配下が聞き返す。
「水戸の者と、意気投合など珍しゅうございますね」
「どこにいても、時代を担う者はおる。――目が離せねぇよ、水戸という土地は」
水面に揺れる月が、まるで“竜の眼”のように輝いていた。
数日後の夕暮れ、晴人は学問所の裏庭に一人でいた。
木々のざわめきに耳を澄ませながら、足元に生える雑草をぼんやりと引き抜いている。
あの日、投石された頬にはまだうっすらと痕が残っていた。だが、痛みよりも心に残るのは、少年たちの叫び――不安と怒りがない交ぜになった言葉だった。
「恐れる前に、知るんだ……か」
自分で言ったその言葉が、今はひどく重く響いていた。
知れば、理解できると思っていた。だが、現実はそう簡単ではない。
異国の軍艦が浦賀に現れた。それだけで、町は揺れる。
言葉も、論理も、届かない感情が、確かにあった。
――けれど、それでも立ち止まるわけにはいかない。
そう思ったそのとき、背後から足音がした。
「こんなところで独り、草でも摘んでおるのか」
振り返ると、東湖が立っていた。
少し崩した着流しに、扇子を手に持っている。どこか茶目っ気を感じさせる笑みだった。
「いえ……ちょっと、考え事を」
「ならば、よい」
東湖は傍らに腰を下ろした。しばし無言の時が流れる。
沈みゆく太陽が、庭の片隅に影を作っていた。
「勝が言うておったぞ。お主のような者が、次の世に必要だと」
「……次の世、ですか」
「今の世が、壊れるのは時間の問題じゃ。そうならぬよう、わしらは動いておるがな。……だが、黒船が来た。異国は、いよいよ扉を叩いておる」
その声には、重みと諦めの両方があった。
「殿も、心中穏やかではなかろう。いずれ、上様に迫られる時が来る。開国か、攘夷か」
晴人はゆっくりと息を吸い、言った。
「開くか閉じるかよりも……どう守るか、を考えるべきです」
「ほう?」
「民です。情報です。水です。食です。医です」
一つひとつ、指を折るようにして言葉を続けた。
「開いても閉じても、守らなければならないものがある。その備えなくして、どんな選択をしても……意味がないと思います」
東湖の扇が、ピタリと止まった。
「……まこと、そうじゃな」
その言葉に、わずかに笑みが戻る。
「わしも、“国を守る”という言葉を、戦だけに使うてきたわけではない。だが、あまりにも、この国の者どもは……“備え”をせぬ」
「だから、今のうちに“備える町”を作りたいのです」
「水戸でか?」
「はい。いずれ、災厄が訪れても、持ち堪えられる町。情報が届き、子どもが学び、病に負けず、腹を満たせる町。それが一つでも存在すれば――それを、他に広げられる」
東湖は黙って頷いた。
◯
数日後、晴人は再び、城下の広場にいた。
そこでは、村田蔵六が地面に棒で図を描いていた。
周囲には町人たちが集まり、何ごとかと注目している。
「――で、この水路をこう掘って、井戸と繋げりゃあ、湧き水の流れが安定すっぞ!」
「先生、それは……何とか言う技術なんですか?」
「流体工学、じゃな。ちと難しい言葉かもしれんが、水の流れは力の流れじゃ」
町人たちは、蔵六の言葉に耳を傾けながら、次第に頷いていた。
その様子を少し離れた場所から見ていた晴人の胸には、静かな高鳴りがあった。
――村田さんを、水戸に呼んでよかった。
彼は医だけでなく、水、建築、そして“未来の常識”を持っている。
今のうちにそれを町に根づかせなければ――黒船の次の嵐が来た時、持ちこたえる術がない。
やがて蔵六が振り返った。
「そこの若ぇの!」
「はい?」
「医者の心得、少しはあったよな? 草の煎じ方や、血止めの仕方……町の連中に教えてみねぇか?」
晴人は驚いた表情を見せた。
「俺が、ですか?」
「医は伝えてなんぼだ。お前が一人で背負ってどうする。知っとることがあれば、渡せ。それが生き残る道だ」
そう言い切った蔵六の姿は、どこか頑固で、どこか優しかった。
晴人は、ふと未来の姿を想像した。
――学び合う町。
――誰もが、自分の知る“術”を、次へ繋げる町。
それは、教科書もなく、制度もなくてもできることかもしれない。
そして、いつか“教育”という名の未来へ続いていく。
◯
その夜、家に戻った晴人は、書き物机に向かい、ふと筆を執った。
紙の端に、小さくこう記した。
『知は、盾となる』
その言葉が、やがて町の掲示板に貼られ、子どもたちが口ずさむようになるのは、もう少し先のことである。