98話:慶篤を人に返す日 ―補佐と教育の新たな使命―
薄曇りの空が江戸の瓦を鈍く光らせていた。冷えた風が石畳を渡り、落ち葉を転がす。勘定所奥の座敷には、重ねた決算簿と算木、そして新しく据えられた黒板が置かれている。
「お待たせいたしました。羽鳥政庁・藤村晴人にござる。」
畳の向こうで、勘定奉行・小栗が軽く会釈した。左右には御用金商の代表、御留守居、そして大奥出納の老女が並ぶ。
「本日は、幕府債務の棚卸から始める。」
晴人は黒板に白墨を走らせた。
「総額、一千二百万両。内訳、御用金・短期借入・延滞。利足は十五パーセントを頂点に、平均十二。……このままでは利子で溺れる。」
ざわめきが起こる。御用金商の一人が咳払いをした。
「利足を削ると申されても、こちらも元金の調達が……」
「三箇年整理を提案する。」
白墨で二本線——上段に“いま”、下段に“三年後”。
「第一、利足の上限を十五から『八』へ切下げ。第二、短期債は“整理公債”へ振替——十年・年六パーセント。第三、三年のうちに高利債を段階的に退く。公債は市中売買可。底値は羽鳥会所が支える。担保は塩・鉄・たばこ専売、それに江戸城第Ⅰ期工事の受益収入。」
小栗が目を細めた。「市中で公債を回す……信用は?」
「羽鳥紙幣の実績がある。江戸・長崎・名古屋の両替商に公債窓口。買い入れの“底”は会所が引き受ける。利は薄く、信用は厚く、だ。」
老女が扇を畳んだ。「大奥の取計らいは如何に?」
「歳出に上限枠。化粧・衣装・贈答は現物支給へ切替。米・絹・油を品目指定。勘定の外で銭が動かぬよう、茶屋口の監査を置く。」
空気が一段引き締まる。寺社奉行が口を開いた。
「寺社造営は?」
「新築停止、修繕優先を布告。材と人足を江戸城第Ⅰ期へ。」
「第Ⅰ期とは。」
晴人は板図を開く。
「石垣根継ぎ、外郭砲座増設、御殿耐火、上水改修、そして“電信”。進捗一割、支出六万五千両。来春、外堀沿いに試験砲座三基。」
御用金商の代表が身を乗り出した。「電信……とは?」
「江戸―羽鳥―水戸を結ぶ有線。合図は言葉より速く、瓦版より正確だ。勘定も命令も“遅れ”を削る。」
沈黙ののち、小栗がうなずく。「三箇年整理、承る。だが市中の反発は避けられぬ。」
「反発は数字で潰す。」
晴人は帳面を閉じ、別の包みを開けた。
「羽鳥薬会所・江戸支所を増設。大坂・名古屋にも支所。薬草茶と“衛生石鹸”を売る。病は銭を喰う。ことにコレラ。」
簡易グラフを黒板に描く。
「今月の死亡、前年同月比『三割減』。石鹸で手を洗い、煎じ茶を飲ませ、井戸に石灰。ただそれで、人は死なずに済む。」
老女が目尻をぬぐった。「……三割も、減るのですか。」
「減ります。減らさねば、借金は永遠に減らない。」
晴人は深く一礼した。
「三箇年整理、これにて諮りたい。」
小栗が座を見渡し、ゆっくり頷く。「異議、なし。」
扇が閉じる音が重なり、座敷の空気にわずかな温度が戻った。
◇
会議を辞して表へ出ると、晩秋の風が頬を刺した。羽鳥薬会所・江戸支所は蔵前通りの角に看板を掲げる。暖簾には「薬草茶・衛生石鹸」。店内は湯気とハッカの香り。
「番頭、売れ行きは。」
「はい、藤村様。煎じ茶は安価な“番”が町人に、山査子入りの“特”は武家に。石鹸は湯屋がまとめ買いを。」
「湯屋との約定は守らせろ。桶の横に“手洗い・前後”の札を掛ける。」
裏では女中たちが小鍋を囲み、丸い石鹸を布で包む。
「あの……藤村様。手が荒れなくなりました。」
差し出した掌は白く、ひび割れが浅い。
「よかったな。あとは水を冷やさぬ工夫だ。」
通り向かいの町医者が声をかけた。
「ここの茶を飲ませてから、腹を下す子が減りました。うちは診察料が減って赤字ですが……いや、良い赤字ですな。」
晴人は笑い、小包を渡す。
「《御美玉酸乳》。小美玉の酪農組が試作だ。産科で少し使ってくれ。」
「酸っぱい匂い……子に飲ませるのですか。」
「温めて蜂蜜を一滴。産後の母にも効く。」
医者が不思議そうに頷く背を見送り、帳場に寄る。欄外に小さな朱印——「前年同月比—三〇%」。数字は冷たいが、人の体温を確かに持ち始めていた。
◇
夕刻、水戸中屋敷。薄暮の庭を渡り、晴人は上段の間へ通された。障子の奥で、徳川斉昭が待つ。目は衰えず、声は低く、よく通る。
「よう来たな、晴人。」
「ははっ。」
斉昭はすぐ本題へ。
「水戸の行く末は、慶篤に懸かる。そなた、慶篤の“補佐”となれ。」
晴人は黙って膝を正す。斉昭は二通の文を差し出した。
「水戸家達書。評定へ列すだけでなく、財政・軍政・土木・港務の四件につき“執務”を許す。これまでの実務を“形”にする。口は封じ、手を動かす者に道を開く。……そして、これは密状。“慶篤を人に返せ”。主意は、そなたが書け。」
硯が寄り、文紙が置かれる。筆の先が、迷わず走る。
「第一、朝の『式体操』を卯の刻に。肩と肋をひらき、呼吸を整える。
第二、膳の改め。塩を減じ、麦飯半、菜多く、油控えめ。《御美玉酸乳》少量。
第三、歩くこと。雨を除き、日々千五百歩。月に二度は城外へ。
第四、人と交わること。月一度、城下の子への御下問、または職人肝煎との面談。
第五、寝起きの刻を一定に。宵の燈は早く。書は短く、身を長く。
第六、病の記録。脈・体温・顔色・食の量。朝夕、小姓が記し医と共有。」
「……よい。」斉昭の声が和らぐ。「政は機略だけでは続かぬ。人が息をし、歩き、笑い、働くことの上に政が載る。」
襖が開き、白髪交じりの男が入る。藤田東湖である。傍らに小柄な少年——小四郎が膝をついた。
「遅参、恐れ入り候。」東湖は条目を読み、ふっと綻ぶ。
「知らしむべからず——の時代は長かった。だが、知らしめねばならぬ時もある。殿の御身が軽くなり、歩まれるを城下が見れば、民は知る。“人が政だ”と。朱は入れぬ。条目はこのまま出せ。」
「先生のご賛意、痛み入ります。」
「それから——歩行は声掛けを入れよ。掃除の子へ一声、職人の手元へ一声。言葉は薬より深く効く。」
「追記します。『歩行の途上に三所、声掛けを定む。』」
斉昭は満足げに頷き、達書の末尾へ朱を押した。血のような赤が紙へ吸い込まれる。
「もう一つ。昭武の教育を、そなたに。」
「算術・兵学・語学(蘭仏英)・政体学・作事。羽鳥工学館の綱要を、個別の綴りに落とします。」
「紙で十分よ。」斉昭は笑みを含む。
東湖が身を乗り出した。「小四郎を小姓に付ける。朝夕の記録・伝令・素読・書記。月一回、品行の査定を受けよ、小四郎。」
「は、はいっ。藤村様、よろしくお願いいたします!」
「明朝は庭で“式体操”。号令はお前が掛ける。大きな声で、急かすな。」
「承知!」
◇
夜、羽鳥屋敷。灯の下、昭武が算盤を弾く。
「一里四十町、江戸から水戸まで何里じゃ。」
「十里半、にございます。」
「よし。次は英語だ。グッド・モーニング——」
「グ、グッド・モーニング。」
「明朝は庭で体操、肩を開け。慶篤公にも同じだ。」
襖の外、小四郎の筆音。
「朝稽古式体操、英語、算術、兵学——」
「小四郎、声に出して書かずともよい。」
「は、はい!」
「電信はいつ繋がりますか。」昭武の目が輝く。
「冬のうちに江戸城まで。春には水戸へ。音より速い“糸”だ。」
「音より速いものが、糸で来るのですね。」
「そうだ。幕府の闇も、江戸の光も、同じ糸で結ぶ。」
「グッド・イブニング!」小四郎が襖から顔を出す。
「上出来だ。」晴人は笑い、硯を置いた。
江戸の夜は冷え、星は乾いていた。だが黒板の数字も、石鹸の泡も、庭の体操も、すべては同じ一条の線で結ばれつつある。三箇年は長い。けれど、夜は必ず明ける。
——まずは、明朝の体操からだ。
勘定所脇の座敷は、人心の熱で冬の朝だというのに薄く汗ばむほどだった。床の間の脇に帳場机、卓上には新しく刷らせた「整理公債」見本と利札の束。町年寄と両替商、御用金商が円座を組む。
「——では、八分にて固定。十年、年六の整理公債へ振替えていただく。」
晴人は静かに言い、見本の利札を一枚ちぎって見せた。
「利払いは年二回。利札は切り取り式、受取は江戸・長崎・名古屋・羽鳥の四か所。」
狐色の羽織を着た御用金商の与三郎が眉をひそめる。
「藤村様、八分は飲みましょう。が、紙は紙。いざという時の銭の足は早い。売りたくなったら誰が買うんで?」
「底は羽鳥会所が持つ。」晴人は即答した。「市中の相対も可。帳合を通して価格を出す。——“紙で食えぬ”と言うなら、紙で橋を架ける現場を見に来い。」
ざわ、と円座に揺れが走る。町年寄が手を上げた。
「ひとつ、条件を。早期償還の条項を付けては? 歳入りが上向いた折には、残本を前へ繰れるように。」
「書き足そう。」晴人はその場で条項案に筆を入れる。「“財の余裕ある年は前倒し償還可、ただし年一度限り”。」
老練な両替商が利札の紙を指でしならせた。
「この紙、よく出来てますな。透かしに三つ巴、それと……小さな“羽”の印。」
「贋作を防ぐ工夫だ。」晴人は微笑んだ。「通り一遍の公儀の紙では、抜かれる。」
小栗が後ろで腕を組み、短く告げる。
「本日より受け付ける。——異議ある者は来週の同刻に、数字と代案を持って参れ。」
与三郎がふっと笑い、両手をついて頭を下げた。
「へい、藤村様。紙で橋を見せて貰いやしょう。」
◇
蔵前通りの角——羽鳥薬会所・江戸支所は、朝から湯気の匂いに満ちていた。暖簾の「薬草茶・衛生石鹸」の字が、通りを行く女衆の目を引く。
「親方、石鹸は十個単位だ。桶の脇に“手洗い・前後”の札、忘れるな。」
晴人が言うと、湯屋の主が頭を掻いた。
「へいへい、藤村様。だがうちの若い衆、泡だらけで遊び始めるんでねぇか。」
女中が笑った。
「昨日も子が“泡が消えねえ”って泣いてねぇ。けど、手の割れが治ってきたんですよ。」
店の隅で、町医者が盃ほどの湯飲みを手にする。
「“番”の茶は苦味がよい。腹の子にやる“薄”も出してくれ。」
「ある。山査子少なめ、葛多め。」番頭が素早く包む。
戸口から産婆が顔を出した。手には白い小瓶。
「これが《御美玉酸乳》かえ。匂いは……すっぱ。」
「温めて蜂蜜一滴。」晴人が小瓶を指先で揺らす。「産後の母にまず匙一。舌が慣れたら、子にも少し。」
産婆は目を細め、うなずいた。
「試してみるよ。あたしらの手も洗う。病を遠ざけるのは、まず自分からだでね。」
番頭が帳面を持ってくる。欄外に朱で小さく「同月比—三〇%」。
「藤村様、先週からの町内の“腹くだし”、三割減で。」
「札は貼ったか。」
「貼りました。“手洗い・前後”。子が声に出して読むんです。」
◇
正午前、外堀沿い。石垣の根継ぎ現場は、槌の音が絶えない。浅葱の作事奉行手付が走り回り、土台の石に新しい白い帯——石灰のモルタルがのぞく。
「棟梁、継ぎの目は乾かしすぎるな。風でひびが入る。」
晴人が腰をおろし、手甲の棟梁が汗を拭った。
「へい。砂の配合を替えやした。藁すさを挟むと、ひびが走りにくくて。」
「御殿の耐火は?」
「土壁の中に“竹網”でござんす。漆喰を厚く三度。梁に鉄板は無理だが、火返しは利きやしょう。」
「予算は守れ。」
棟梁が苦笑する。
「耳が痛ぇでさ。」
外郭砲座の型枠には、初めて見る“角”が立つ。両脇に弾薬小屋。砲身を据える架台の木組みを、羽鳥から呼んだ大工が見てうなる。
「上等だ。潮風で腐らぬよう、松脂を熱で染ませろ。」
その時、坂の上から若者が駆け下りて来た。羽鳥工学館出の伝令、肩からは黒い箱。
「藤村様、電信の“線”が繋がりやした! 半町先の仮小屋で試し打ちできやす。」
◇
仮小屋の中。机の上に、真鍮の鍵と小さな指針——西洋の針が乗っている。傍らに乾電池と銅線の束。安田と呼ばれる若い蘭学者が、興奮を押し殺して頭を下げた。
「藤村様、羽鳥会所まで“糸”が通りました。試し文、お願い申します。」
晴人は、鍵に指を置いた。
「……“江戸”」
「“羽鳥”受信、よろし、でございます!」安田が針を読む。
鍵の音が小屋に澄む。晴人は間を刻み、短く打つ。
「“債務 三箇年 見込よし 薬会所死減 三割減 工事一割進捗”」
数息ののち、針がまた振れた。安田が声を弾ませる。
「“羽鳥”応答——“電信ヨキ道具 次ハ水戸へ 夜ニ備エ灯ヲ”」
小屋の隅から、工学館の徒弟が拍手をしかけて慌てて手を引っ込めた。
「静かに。」晴人は笑みを抑える。「これで“遅れ”を削れる。——合図ひとつで、町が動く。」
安田がうなずく。
「線の節は、蔵前と湯島の二か所に中継小屋を。夜は油で灯を守ります。」
「よし。電信の札は“触れ”で出す。読み方は大工でも覚えられるよう、絵で。」
◇
日が傾き、伝馬町の大店の二階。屏風の陰に、小栗と町年寄、寺社奉行、そして晴人。卓上には二つの布告案が置かれている。
「——“寺社新築停止・修繕優先”。」
寺社奉行が読み上げ、扇で顎を撫でた。
「反発は……」
「“修繕”に銭が回る。宮大工の手間は減らぬ。」晴人は静かに返す。「瓦の輝きは、直せば戻る。今は“新たに建てない”。それだけだ。」
小栗が次の紙をめくる。
「“大奥歳出上限枠・現物支給”。」
老女の筆跡で端に小さく書き添えがある——“守ります”。
「——出るのだな。」小栗が鼻で笑う。
「出ます。枠があるから、知恵が出る。銭があるから、欲が出る。」晴人は言い切った。
町年寄が窓の外を見やり、低く言う。
「明日、掲示場に貼りやす。人は見る。笑う者も出ましょうが、冬が来れば分かる。石鹸で病が減りゃ、口も減る。」
◇
夜。水戸中屋敷の奥。障子の向こうに灯が揺れ、徳川斉昭が膝を進める。側には藤田東湖、小四郎が控える。
「評定の席次は、このように。」用人が座図を差し出す。
「藤村は“水戸家評定列席・発言権”。しかも、財・軍・土木・港務の四件は“持ち”。——実務は、最初からやっておる。形が付いたまでよ。」
斉昭の言に、東湖が頷く。
「形は人を救いも縛りもします。今宵の形は、救う形だ。」
そこへ、廊下を走る軽い足音。
「失礼いたします!」小四郎が両手で板を掲げて入る。板には大きな字で——「慶篤公 朝の式体操 十五分完了 膳:麦飯半 菜:二品 歩:三百歩」
斉昭の目が柔らかくなった。
「歩は少ないな。」
「……明日は四百歩に増やします。」小四郎が緊張して声を正す。
晴人は笑い、板の端に筆で小さく書き添えた。
「“声掛け三所、忘れず”。」
東湖が晴人を見た。
「言葉は薬より深い、か。」
「はい。人の心は、書付の外にあります。」
◇
翌朝。浅草寺裏の掲示場は、早くも人だかりだった。布告が二枚、並ぶ。足を止めて読む町人、鼻で笑う若侍、口をあんぐり開ける子。
「“寺社は新しく建てぬ、直す方。”——そりゃまた、倹約だねぇ。」
桶屋が呟くと、隣の瓦師が肩をすくめた。
「直せば手間は出る。わしらにはありがてぇ。」
その横で、白い前掛けの女が「衛生石鹸」の札を指でなぞる。
「手洗い、前と後。覚えときな。」
子が大きな声で読み上げる。
「“まえと、うしろ!”」
駆け足で通り過ぎる小僧が、ふと立ち止まってもう一枚を読む。
「“整理こうさい”って何だ。」
隣の両替商が笑った。
「紙で銭をあずけて、紙で銭を受け取る。紙が橋をかけるんだとよ。」
「橋?」
「おう、橋だ。明日へ渡る橋だ。」
その頃、外堀の仮小屋では、真鍮の鍵がまた小さく鳴った。安田が針を読み、顔を上げる。
「羽鳥より。“水戸線、工事はじめ”。——糸が伸びやす。」
安田の背に、晴人の声が落ちる。
「伸ばそう。闇と光を結ぶのは、細い糸一本で足りる。——太くするのは、我々の手だ。」
江戸の空は薄く晴れ、冬日が石畳を白く撫でた。数字は黒板の上で減り、人の手は泡で白くなり、石は新しい目で積み直される。声は糸を走り、掲示の紙は風に鳴る。
幕府の闇と江戸の光が、ゆっくりと、しかし確実に同じ方向へと揃い始めていた。