97話:港に揺れる影、潮に運ばれた噂
秋晴れの空は高く澄み、羽鳥政庁の瓦屋根を柔らかな陽が包んでいた。
政庁前の石畳には、早朝から人と物の流れが絶えない。役人たちは帳簿や文箱を抱え、職人たちは新造の鉄砲や測量器具を運び込んでくる。門番の足軽も、今日はどこか誇らしげに胸を張っている。
(あの日から、もう一年か……)
執務棟二階の窓から光景を見下ろす主人公の脳裏に、昨年の記憶が鮮やかによみがえる。
文久二年――1862年11月。常陸藩が抱えていた六十六万両超の巨額債務は、予定よりもはるかに早く、全額を完済した。藩主・徳川斉昭の代から続く重荷を下ろしたその日、政庁は拍手と歓声に包まれ、羽鳥の町中が祭りのような賑わいとなった。あの日の安堵と達成感は、今も胸の奥に温かく残っている。
そして今――1863年10月。
薩英戦争での勝利は、常陸藩のみならず全国に「羽鳥式経済改革」の名を轟かせた。江戸・京・大坂からは財政再建や借金返済の相談が殺到し、関東の周辺藩はこぞって役人を派遣し、帳簿や徴税法を学びに来るようになった。羽鳥の名はもはや、農と商と軍の改革を成し遂げた藩として定着している。
障子が静かに開き、勘定奉行・中根市之丞が現れた。
「殿、諸役人すべて揃いました」
「よし、始めよう」
階下の大広間は、すでに藩の重鎮で埋まっていた。上座には斉昭が威厳を漂わせて座し、その左右には家老・奉行衆が並ぶ。主人公は斉昭の正面に控え、机上には数巻の巻物が整然と並べられていた。
斉昭の声が広間に低く響く。
「昨年、我らは借財を返し終えた。それは一つの終わりであり、同時に始まりでもあった。自由を得た今こそ、その力を国力に変える時だ」
主人公は巻物を広げた。そこには、新たな軍制改革の骨子が記されている。
「次の施策は『農兵隊』の近代化です。これまで農閑期に招集していた兵を、村ごとの訓練場で常時鍛え、全員が銃を扱える国民兵とします」
広間がざわめく。武士階級に限らず、百姓や町人までも銃兵とする構想は、常識を覆すものだった。
「各村に射撃場と訓練場を建設します。的場は土塁で囲い、安全を確保し、鉄砲や空砲による訓練を可能とします。さらに――」
主人公は別の巻物を開いた。そこには細身の銃の図が描かれている。
「女性や高齢者でも扱える軽量の銃を製造します。口径を小さくし、反動を軽くしたもので、護身や村の防衛に用います」
斉昭は短く笑った。
「面白い……女も爺も鉄砲を持つ世が来るか」
記録係の筆が紙を走る音だけが響く。この軍制改革は単なる兵制変更ではなく、民衆の意識を変え、「自ら守る国民」という新しい常陸を形づくる事業だった。
会議が終わり、主人公は中庭に出た。秋の陽光が紅葉しかけた庭木を照らし、池の水面がきらめく。遠くからは鍛冶場の槌音が響き、煙突からは白い蒸気が空へと立ちのぼっていた。
(銃声と蒸気――この二つが、これからの時代を動かす)
胸中には、近代兵制と産業化が交差する未来図が、はっきりと描かれていた。
秋の羽鳥は、朝晩の冷え込みが一段と増してきた。
城下の街路を渡る風は、稲刈りを終えたばかりの田から運ばれてくる土と藁の香りを含み、鼻腔をくすぐる。通りには新米を積んだ荷車や、干し柿を吊るした軒先が並び、農も商も一息ついた安堵の空気を漂わせていた。
そんな空気の中でも、羽鳥政庁の長屋門の前は慌ただしかった。早朝から藩士や飛脚が次々と出入りし、呼び出された役人たちは手に書付や帳簿を抱え、足早に奥へ消えていく。
俺もその一人だった。書状の束を抱え、足を進める。
廊下を進むと、行き交う同僚たちが小声で挨拶を寄越す。
「おはようございます。……例の件、関東諸藩からまた依頼が増えました」
「そうか」
軽く頷きながら、頭の中で依頼先の藩名を整理する。下総、上総、上野、そして武蔵の北部――いずれも財政再建を急ぐ藩だ。
羽鳥式経済改革が国内で注目を集めるきっかけとなったのは、昨年十一月の債務完済だった。
当初の計画通り、全額を返済しきったことで藩の財政は完全に息を吹き返し、さらに薩英戦争での勝利が追い風となり、藩の信用は急上昇した。
その信用は、周辺藩からの「借金返済相談」という形で押し寄せてきた。
最初は二、三藩程度だったが、いまや十を超える藩が訪ねてくる。藩主・徳川斉昭もこの状況を利用し、関東全域での連携強化を進める構えだ。
書院に入ると、すでに上座には斉昭公が腰を下ろしていた。
背筋は伸び、視線は鋭い。だが、口元には満足げな笑みが浮かんでいる。
「来たか。……これが各藩からの新たな依頼か」
「はっ」
俺は膝をつき、束ねた書状を差し出す。斉昭公はそれを手に取り、一通ずつ目を通しながら短く頷いた。
「ふむ……いずれも急を要するものばかりだな。だが、羽鳥の仕組みをそのまま移せば、二年と経たぬうちに改善は叶う」
「ただし、各藩の内情に合わせた調整が必要になります。人材と制度、両方の視察班を組んで派遣するのがよろしいかと」
「うむ、任せる」
机上の地図に視線を移すと、赤い印が各地に散っていた。これが相談を受けた藩の所在地だ。
南北に広く分布し、距離も事情もまちまちだ。だが、それを統一の仕組みで動かせれば――常陸藩は単なる一地方藩から、関東経済の中枢へと変わる。
その時、控えていた用人が口を開いた。
「殿。軍制改革の件も、そろそろ発表を」
「そうだな」
斉昭公の声色が引き締まる。
「農兵隊の近代化――全員が銃を扱える国民兵の構想は、もはや夢物語ではない。先日の会議で承認した通り、各村に射撃場と訓練場を設ける」
俺は隣に置いていた設計図を広げた。射撃場の平面図、土盛りの防弾壁、的の位置。
「女性や高齢者でも扱える軽量銃の試作も、鍛冶職人に依頼済みです。これなら、戦闘に直接参加できない者も自衛が可能になります」
斉昭公は満足げに頷き、ふと視線を上げた。
「時代は変わる。銃声と蒸気の音が、世を覆うのだ。我らは遅れてはならぬ」
その言葉に、部屋の空気が一層引き締まった。
障子越しに差し込む秋の光が、地図と設計図の上に淡く広がる。
俺は深く一礼し、次の指示を受けるために膝を進めた。
会議がひと段落すると、斉昭公は席を立ち、奥の小間へと移った。
俺も書類を抱えてその後に続く。小間は政庁の奥、畳敷きの四畳半で、外の喧騒から切り離された静けさがあった。障子の外では紅葉が風に揺れ、その葉が時折、庭の白砂に落ちていく。
「さて――」
斉昭公は腰を下ろすと、机の上に置かれた茶碗を手に取った。香ばしいほうじ茶の香りがふわりと立ちのぼる。
「薩英戦争の勝利で得た余剰金の使い道だが……そなたの意見を聞きたい」
「はっ」
俺は巻物を広げ、予算案の項目を指し示す。
一つは港湾整備。鹿嶋や那珂湊の港に蒸気船の入港設備を整え、海外からの物資流入を迅速化する案だ。
二つ目は製鉄所の拡張。すでに羽鳥で試験操業を始めた洋式高炉は好調だが、量産化にはさらに炉の数を増やす必要がある。
三つ目は教育投資。藩校・弘道館の一部を改築し、算術や兵学だけでなく、西洋式測量・機械工学の講義を行う学舎を増設する。
斉昭公は一つずつ読み、静かに頷いた。
「どれも必要だ。だが――優先すべきは鉄だな」
「はい」
「鉄を制する者は時代を制す。武器も船も鉄から始まる。製鉄が滞れば、すべてが遅れる」
その声には迷いがなかった。俺も同意だった。
「とはいえ、港湾整備も急務です。外国商船が立ち寄る港を押さえれば、常陸藩は関東の玄関口となります」
「うむ……だが港は一度に整えられぬ。順を追ってだ」
ふと、障子の外で足音がした。控えの間から用人が現れ、膝をついて報告する。
「江戸からの急使にございます。将軍家より、薩英戦争の戦後処理に関する諮問とのこと」
「来たか……」
斉昭公の瞳が鋭く光った。
「そなたも同席せよ」
俺たちは急ぎ広間へ移動した。広間にはすでに江戸からの使者が控えており、丁寧に頭を下げる。
「常陸藩の戦勝と、その後の秩序回復における貢献、誠にご苦労にございます。将軍家より、この戦果をいかに諸外国に示すか、ご意見を賜りたいとのこと」
「ふむ……」
斉昭公はしばし沈思し、やがて言った。
「まず、戦果は誇示せず、事実を淡々と伝えることだ。誇張はかえって相手を刺激する。だが、我が国の防衛力を侮るなという意思は、はっきりと見せねばならぬ」
俺も補足する。
「そのためには、鹿児島で押収した洋式砲や部品を江戸に運び込み、諸藩の使節に公開すると良いでしょう。実物を見せることで、噂や虚言でなく事実として刻まれます」
使者は深く頷き、書き留めた。
「また、常陸藩は今回の戦役で多くの英式兵器を接収したと聞きますが、それらは?」
「既に分解・分析を終えている。弾薬は安全に保管し、銃器は村ごとに一挺ずつ試験配備した」
「……さすがに抜け目がございませぬな」
使者の言葉に、斉昭公は笑みを浮かべた。
会議が終わると、俺は政庁裏の鍛冶場へ向かった。
屋根の高い工房の中では、炉が赤々と燃え、鉄を打つ音が響き渡っている。火花が散り、熱気が頬を刺す。
「おう、来たか」
声をかけてきたのは鍛冶頭の市川だ。腕は逞しく、煤にまみれた顔が誇らしげだ。
「これを見てくれ」
市川が布をめくると、そこには銀灰色に輝く銃身が並んでいた。英国製エンフィールド銃を参考にしつつ、部品の一部を改良した試作銃だ。
「軽いな……」
持ち上げると、確かに標準的なものより一回り軽く、肩に馴染む。
「村の百姓でも扱えるよう、部品の肉抜きを工夫した。強度は落ちてねぇ」
俺は頷き、工房を後にする。外に出ると、陽はすでに傾き始め、街路が黄金色に染まっていた。
道端では子供たちが焚き火を囲み、木の枝で焼き芋を突いている。笑い声が風に乗り、どこか遠くの未来まで届くように思えた。
――この平穏を、守らなければならない。
そう強く心に刻み、俺は政庁へと足を向けた。
翌朝。空は一面の曇り空で、海からの湿った風が城下の通りをなでていた。
俺は斉昭公からの命で、那珂湊港の整備状況を確認するために現地へ向かった。馬の背に揺られ、冬を迎える田畑を抜け、河口へと至ると、遠くにクレーン代わりの櫓が見えてくる。
港は、戦後処理と並行して整備が進められていた。岸壁には石を積み上げる作業が続き、船大工たちが木材を削る音が途切れなく響く。海上では、数艘の小舟が足場代わりに並び、作業員たちが杭を打ち込んでいた。
潮の匂いが強く、湿った空気が頬に貼りつく。港口では、外国船の入港を見据えた計測作業が行われており、測量用の望遠鏡が水平線に向けられていた。
「おはようございます!」
若い港務役が駆け寄ってきた。まだ二十歳そこそこだが、声には張りがあった。
「例の荷揚げ場の補強、昨日終わりました。あとは桟橋をもう一段高くします」
「冬の荒波にも耐えられる高さか?」
「はい。西洋式の設計を真似しました。材木は常陸の山から切り出した檜と杉です」
足元の石畳には、潮に濡れた板材やロープが山積みされている。その間を行き交う職人たちは黙々と手を動かし、誰も無駄口を叩かない。
港の奥には、英式の小型蒸気船が係留されていた。薩英戦争で鹵獲した船を修理したもので、船体の黒い塗装が朝の薄明かりを鈍く反射している。煙突からは薄い白煙が立ちのぼり、機関の温め運転が行われているのが分かる。
港の視察を終えると、俺は近くの倉庫へ足を運んだ。中では輸入物資の仕分けが行われており、麻袋や木箱が床いっぱいに並んでいた。
「これが、最新の火薬成分です」
港務役が取り出した小瓶には、黒く細かな粒が詰まっていた。
「英国のものより湿気に強いそうです。次回の砲術訓練に回します」
俺は瓶を受け取り、光に透かす。粒が均一で、粉塵の舞い上がりも少ない。確かに湿気対策が施されている。
そのとき、外から甲高い笛の音が響いた。港に停泊していた和船が帆をたたみ、ゆっくりと接岸してくる。船首には、見覚えのある旗――水戸藩の商隊旗が翻っていた。
「戻ったか……」
商隊の長・石井が桟橋を渡ってくる。冬の日差しを受けて顔は少しやつれていたが、目には活気があった。
「旦那、予定より早く戻りましたぜ。長崎での荷がうまくまとまりましてね」
「何を仕入れた?」
「こちらを」
石井が差し出した木箱の蓋を開けると、中には磨き上げられた真鍮製の航海用コンパスがずらりと並んでいた。
「英国製でございます。これで沿岸の測量もはかどります」
さらに別の箱からは、舶来のガラス製ランプや耐塩性の鉄釘が現れた。港湾建設に不可欠な品々だ。
取引の報告を終えると、石井は声を潜めた。
「……長崎で聞いた話ですが、西国のある藩が密かに外国商人から軍艦を買い付けているそうで」
「薩摩か?」
「名は伏せられておりましたが、恐らく……」
俺は息をつき、港務役に目配せして周囲を下がらせた。
「この件は、斉昭公に直接報告する。口外はするな」
「はっ」
昼過ぎ、政庁に戻ると広間では再び重臣たちが集まり、港湾と製鉄所の進捗報告を受けていた。俺は港の状況と西国の噂を報告し、即座に情報網の強化が決まった。
「敵は外だけではない……内にもある。油断は許されぬ」
斉昭公の低い声が、場の空気を引き締める。
会議の後、俺は廊下を歩きながら、自分の足音がやけに大きく響くのを感じた。
港で見た職人たちの姿、商隊が持ち帰った物資、そして不穏な噂――それらが頭の中で絡まり合い、一つの予感となって胸を占める。
常陸藩は確かに力をつけている。だが、それを脅威と見る者も必ず現れる。
外に出ると、日は西の山に傾き、庭の池が夕映えを映して金色に輝いていた。池の縁に立ち、俺は冷たい風を吸い込みながら、遠くの海を思った。
港に立つ櫓の姿が、あの海の先に広がる時代の波を待ち受けているように見える。
――嵐が来る前に、備えを整えねばならない。
そう心に誓い、俺は歩みを政庁の奥へと向けた。