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96話:港と町に息づく新しい風

開港地・横浜は、朝からざわめきに包まれていた。

 海沿いに並ぶ異国商館の白壁は、秋の陽光を反射して眩しく、港には碇を下ろした帆船の林が沖まで連なっている。潮の匂いに混じり、見慣れぬ香料の甘い香りや、燻製肉のような芳ばしい匂いが漂い、鼻腔をくすぐった。


 藤村晴人は、通詞を伴って港の一角に立つ英国商館へ足を踏み入れた。

 高い天井からは磨き上げられた真鍮のシャンデリアが吊られ、広い窓から差し込む光が床板を白く照らす。足元の木は油で磨かれ、足音が反響するたび、異国の城に紛れ込んだかのような錯覚を覚えた。壁際には木箱や樽が規則正しく積まれ、その上には色とりどりの布の束や、見慣れぬ紙の巻物が置かれている。


 「こちらはバス・タオルでございます」

 通詞が、棚から一枚の布を持ち上げた。

 手拭きに慣れた晴人は、その厚みと柔らかさに思わず息を呑む。両手で広げれば、まるで薄い布団のようにふんわりと膨らみ、陽に透かしても繊維は密に詰まっていて光をほとんど通さない。掌で撫でれば、細かな毛羽が指先を包み込み、微かな温もりすら感じられた。


 「……これはすごい」

 思わず口をついた言葉に、商館の英国人が誇らしげに笑った。


 「そしてこちらが、トイレット・ペーパー」

 通詞が差し出したのは、細長い芯に巻かれた柔らかい紙の筒。

 和式の落とし紙よりも薄く、手に取るとしなやかにたわむ。それでいて水を含ませても破れにくいという。


 晴人は一度、目を細めてその白さを見つめた。

 (……この質感、この手触り……もしこれを江戸や大坂に持ち込めば)


 脳裏に、市場の盤面が広がる。高級路線は大名や豪商、贈答用に。中級は町人や湯屋向け、庶民も手が届く価格に。普及品は農村や作業場へ。価格帯を段階的に設定し、一気に流通網を押さえる。布と紙、二つの新しい生活必需品が市場に投げ込まれた時、どれほどの金が動くか――港の潮騒よりも早く、晴人の胸は沸き立っていた。


 商館を出ると、潮風が頬を撫でた。

 その風の冷たささえ、頭を冴えさせる。

 (布と紙――この二つで藩の財政を押し上げる。やるべきことは決まった)


 ⸻


 帰藩した晴人は、すぐに唐綿の仕入れを命じた。上海の取引先に書状を飛ばし、長綿を大量に手配する。港から荷が届くや否や、藩の織工場へと運び込まれた。


 工房は、いつもよりも張り詰めた空気に包まれていた。織機の前には職工たちが集まり、晴人が描いた改造図面を覗き込む。

 「縦糸の一部を浮かせて、輪状に立たせる……これが“パイル織”か」

 老練な織工が試し織りの布を手に取り、指先で表面を撫でる。その顔に驚きが浮かんだ。

 「……これは、汗も水も一度で吸い切るでしょうな」


 高級品には金糸の縁取りを施し、外交や贈答の場で使えるように仕立てる。中級品は町人や湯屋向けに丈夫さと吸水性を両立させ、普及品は農村や作業現場用にして価格を抑える。三本立ての生産体制――どの階層にも行き渡る、抜け目のない戦略だった。


 さらに晴人は、湯屋組合の会合に自ら赴いた。

 「入浴料に新品のタオルを含めるのです。客は持ち帰れる。料金に上乗せは必要ですが、その分湯屋も潤い、藩も潤います」

 最初に契約を結んだのは、江戸と大坂の老舗湯屋十五軒だった。


 数日後、湯屋の脱衣所では、湯上がりの客が新品のタオルで肩を拭い、その手触りに目を見張っていた。

 「こんな贅沢、殿様の御用かと思ったわ」

 「家でも使いたいねぇ」

 その言葉は、湯気と共に町中へ広がっていった。


 やがて旅籠からも引き合いが来た。遠方からの客にとって、旅先で手にする新品タオルは、旅情と共に記憶に深く刻まれる。


 工房の織機は昼夜を問わず鳴り続け、木槌と機の音が絶え間なく響いた。春の終わりには日産二百枚、夏の盛りには五百枚体制が整い、販路は全国五十カ所以上にまで広がった。


 秋、番頭が分厚い帳簿を抱えて晴人の前に座った。

 「今年の見込み利益、三万五千両でございます」

 湯飲みを静かに置いた晴人の口元が、わずかに緩む。

 「……悪くない。これで藩の借財が、もう一段減らせる」

タオルの事業が軌道に乗ったころ、藤村晴人は次の一手に移った。

 机の上には、英国商館で見たあの白く柔らかな紙が置かれている。和式の落とし紙とはまるで違い、しっとりとした手触りで、何より表面が滑らかだった。


 「和紙職人を呼べ」


 命を受け、城下の有名な紙漉き職人たちが集められた。晴人は紙を広げ、指先で端をつまみながら説明する。

 「この紙は、水で濡れても破れにくく、肌を傷つけぬ柔らかさを持つ。これを真似しつつ、日本の材料で作るのだ」


 職人たちは首を傾げながらも挑戦を始めた。楮や三椏に加え、木綿くずを細かく砕いて混ぜ込み、何度も漉いては乾かす。最初は硬すぎたり、すぐ破れたりと失敗が続いたが、三か月後、ようやく理想に近い柔らかさが生まれた。


 次は形だ。英国式は芯に巻き取る形式だったが、日本では収納や運搬を考えて少し小ぶりに改良し、竹芯を使って軽量化した。

 「巻き取り式にすれば、使い勝手が格段に上がる」

 晴人は試作品を手にし、くるくると引き出しては満足げに頷いた。


 販売戦略も抜かりない。標的は大湯屋と旅籠、そして武家屋敷。特に裕福な家や大きな宿は、衛生や体面を重んじる。

 晴人は町医者や役人を招き、「この紙は病を減らし、町の衛生を守る」と語らせた。紙は贅沢品から「必要品」へと印象を変え、購入への抵抗が薄れる。


 やがて江戸と大坂、長崎、横浜の主要施設で採用が始まると、客は一様に驚嘆した。

 「冷たくも痛くもない」

 「子どもにも安心だ」


 湯屋では、湯上がりに新品のタオルを手渡された客が、そのまま用を足し、この柔らか紙を使う――その贅沢な流れが評判を呼んだ。


 工房はすぐに拡張され、日産一千ロール体制へ。巻き取り機を増設し、職人を倍に増やして昼夜問わず生産を続ける。契約先は百軒を超え、注文は途切れない。


 秋の終わり、番頭が帳簿を手にして報告に来た。

 「年間利益、推定一万五千両。布より回転が早く、利益率も高うございます」

 晴人は静かに頷いた。

 「布と紙、両輪が揃ったな。町の暮らしも、藩の財も、これで大きく変わる」

江戸の下町。

 湯屋の暖簾をくぐった客は、湯上がりに新品のふわふわタオルで汗を拭き、そのまま用足し場へと向かう。そこで手渡されるのは、巻かれた柔らか紙。

 指先で触れた瞬間、思わず声が漏れる。

 「これほどの贅沢、将軍家でもなかなか味わえまい」


 旅籠では、遠方からの客がその快適さに驚き、土産話として持ち帰る。商人や旅人の口コミは、川を下る舟のように各地へ広がっていった。


 一方、水戸城・藩主御座之間。

 徳川斉昭は、届けられた報告書を広げた。表紙には大きく**「布・紙事業 年度収支報告」**の文字。

 ページをめくると、そこには驚くべき数字――年総利益五万両(現代換算 約35〜50億円)。

 斉昭の目が鋭く細まり、やがて朗々とした声が響く。


 「……これこそ国を富ませ、民を養う策ぞ! 藤村、よくやった!」


 晴人は深く一礼しながらも、心の奥で別の計算をしていた。

 (これだけの利益があれば、藩の借財を完済するだけでなく、新たな事業への投資も可能になる。造船、鉄工、教育……まだ道は広がる)


 斉昭は報告書を閉じ、側近たちに向き直った。

 「この利は一時の儲けでは終わらせぬ。町人にも武士にも、この恩恵を行き渡らせよ。病を減らし、町を清め、そして外夷にも恥じぬ国とするのだ」


 その夜、工房の明かりは遅くまで消えなかった。

 織機の音と紙巻き機の軋む音が重なり、まるで未来への鼓動のように響いていた。

冬の冷たい風が城下を吹き抜ける頃、水戸城の奥御殿では、炉の火が静かに赤く燃えていた。

 徳川斉昭はその前に座り、湯呑を手に取りながら、藤村晴人を呼びつけた。


 「さて――藤村。この五万両の利を、どう使うかだ」

 低く響く声に、周囲の家老たちが身を固くする。


 晴人は広げた帳簿を前に、まず借財返済の項目を示した。

 「第一に、藩の対外借入金三万両を一括で返済いたします。これで利息負担が消えます」


 「うむ、借財は鎖のごとし。まず断ち切るべきだ」

 斉昭は力強く頷く。


 晴人は次の頁をめくり、棒グラフを指で示す。

 「残り二万両のうち、一万両は城下の上下水整備に充てます。トイレットペーパーの普及は、衛生環境が伴わねば効果半減です」


 「道理だ」

 斉昭は炉の火を見つめ、火箸で炭を組み替えた。

 「汚れた町に外夷を迎えるわけにはいかぬ」


 「そして残り一万両は、造船所と鉄工所の拡張に投じます」

 晴人は、手書きの設計図を差し出した。

 そこには、従来より三割大きな帆船の図が描かれ、港のクレーンや滑車設備まで記されていた。


 「木造船に加え、鉄製部材の研究を進めます。長期的には蒸気船の建造も視野に」


 斉昭の眼光が鋭くなった。

 「異国の軍艦に怯えることなく、我が船で海を駆ける……よい。藤村、この夢、必ず形にせよ」


 家老の一人が口を挟んだ。

 「しかし殿、この計画は莫大な金を要します。利益は今年限りのもの、来年も続く保証は……」


 斉昭は手を振って遮った。

 「続かせるのだ。民が喜び、銭が動く仕組みを絶やすな」


 晴人は軽く頷き、口元に笑みを浮かべる。

 「すでに布と紙の製造は、弟子職人を育て、技を安定させています。原料供給も契約済み。生産は来年、倍増可能です」


 「ほう……倍か」

 斉昭の声には、わずかな愉悦が滲んだ。


 その夜、斉昭は近習を通じて町に知らせを出した。

 「衛生向上のため、新設の下水溝工事を行う。費用は藩が負担する」

 これに町人は歓喜し、商人たちは「水戸様の御時世は違う」と噂し合った。


 翌朝、晴人は工房に立ち寄り、紙巻き機の新型を確認した。

 改良された歯車は、以前より静かで速く、均一に紙を巻き取る。職人たちが汗をぬぐいながら作業を続け、その背後で新弟子が一心に見習っている。


 (これで需要が倍になっても応えられる……次は販路だ)


 晴人は心中で計算を重ねつつ、ふと港の方向を見やった。

 蒸気船の汽笛が遠くで鳴る。

 その音は、藩の未来を急かすようにも、祝福するようにも聞こえた。

初春の朝、港の空はまだ薄く霞んでいた。

 海面は静かで、細い波が防波堤にさざめきながら打ち寄せる。

 その港の一角、造船所の門前には人だかりができていた。


 「おお……これが、新しい造船棟か」

 漁師の男が目を丸くする。


 桁高く組まれた骨組みは、これまでの造船所よりも一回り大きい。梁は新たに伐り出した北山杉、柱は頑丈な栗の木。

 そこに大工たちが掛矢を振るい、鉄のかすがいを打ち込む音が、朝の空気を震わせていた。


 「ここの滑り台(船台)は二倍の長さにするぞ!」

 棟梁の声が響くと、若い衆が息を合わせて綱を引き、巨木を所定の位置へ滑らせた。

 近くでは鍛冶場が火を噴き、真っ赤に焼けた鉄板を数人がかりで運んでいる。


 晴人はその様子を、図面を片手に見回していた。

 「クレーンの基礎工事も急いでくれ。来月には滑車と鎖を長崎から運び入れる」


 現場監督が頷き、手元の板に赤墨で印をつける。

 (これで木造から鉄骨部材まで扱える……蒸気船の基礎は固まる)


 造船所の外れでは、若者たちが初めて見る工具を手に試作をしていた。

 「先生、これがボルトとナットですか」

 「そうだ。釘の代わりに使えば、分解修理が容易になる」

 晴人は膝をつき、締め具の動きを確かめさせる。

 それは港に、異国と未来の匂いをもたらす瞬間だった。


 ――同じ頃、城下町の方でも大きな変化が始まっていた。


 川沿いの通りでは、縄で区切られた地面に測量用の杭が等間隔に打たれている。

 「ここから南へ六間掘って、曲げて西へ流す」

 土木奉行の指示に従い、百人近い作業人が鍬や鋤を手に動き出す。


 湿った土の匂いと、木製樋といを運ぶ掛け声が混じる。

 新しい下水溝は、従来の浅い溝よりも深く、勾配も計算されている。

 これにより、雨水も汚水も淀まずに川まで流れる仕組みだ。


 「これで紙を流しても詰まらぬのか」

 町人の老婆が、作業を見物しながら呟く。

 側にいた役人が笑って答える。

 「ええ、詰まりにくくなります。それに藩から紙も配りますから」


 その言葉に、周りの町人たちがざわめく。

 「藩が紙を?」

 「水戸様は粋なことをなさる」


 作業の合間、晴人は現場を歩き回った。

 木樋の接合部を確かめ、職人に釘打ちの角度を指示し、排出口には防臭のための石灰層を追加するよう命じる。

 細かい部分まで気を配る晴人の姿は、役人だけでなく作業人の間にも信頼を育てていった。


 昼過ぎ、造船所と下水現場を一巡した晴人は、港の高台に立った。

 眼下には、拡張中の造船所と、町へ延びる下水工事の列。

 海と町が、一つの計画のもとで動き出している――そう実感できる景色だった。


 (布と紙が、港を、町を、そして藩を変えていく……)


 背後から足音が近づく。振り返ると、近習が息を弾ませていた。

 「藤村様、殿がお呼びです。港の進捗を直に見たいと」


 晴人は笑みを浮かべ、手にした図面を丸めて懐に収めた。

 「では、殿にこの景色をお見せしましょう。水戸の明日は、もう始まっていますと」

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