表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

126/367

95.5話:五刃の誓い

常陸藩政庁の奥深く――普段は年に一度の決算期か、よほどの政変でもない限り開かれることのない財庫の間に、その日、異様な光景が広がっていた。


 黒漆塗りの大箱が、整然と並ぶ。その蓋はすべて開け放たれ、障子越しの淡い光を反射して、積み上げられた金貨の山が眩く輝いている。

 円形の金貨は異国の刻印を抱き、波のように整えられた面を、わずかな風が撫でるたびに微かな金属音を立てた。


 「……七十五万ドル」

 低く呟いた声は、金と畳の間で鈍く響く。

 これは薩英戦争で得た賠償金の第一弾であり、すでに幕府へ渡した分を除いた純然たる常陸藩の取り分だ。

 一藩がこれほどの金を一度に手にする機会など、歴史上にもそうはない。鼻腔をかすかに刺激するのは鉄や銅とは違う、金特有の甘く鈍い匂い――それは目の前の山が放つ圧そのものだった。


 京都からの帰還はまだ日も浅い。

 戦功の整理、幕府への事後報告、諸藩との折衝を終え、ようやく羽鳥で束の間の静養に入ったばかりだというのに、この金貨の山を前にすると、胸の内に安堵と達成感、そして次の一手を求める昂ぶりが入り混じる。


 「――実戦にも、礼装にも耐える刀が要る」

 それは必然の結論だった。

 これまでの刀は、あくまで支給品や急場しのぎの一振りに過ぎなかった。本当に命を託すべき、己の腕に吸い付く刀ではなかったのだ。

 戦場で生きる者にとって、刀は単なる武器ではない。己を貫く象徴であり、未来への切先だ。


 その夜、江戸の目利き鍛冶に密書を飛ばす。

 表向きは政務での上京、裏では評判高き刀剣商の蔵を訪ねる段取りをつけた。


 煤けた梁が低く垂れる店内は、外の喧騒とは隔絶された静謐の空気に包まれていた。

 刀掛けに並ぶ名刀はすべて鞘から半寸だけ抜かれ、光を受けた刃文がわずかに揺らめいている。


 「こちらなど、いかがでございましょう」

 老舗の主が恭しく差し出したのは、備前長船兼光の大小。

 反りの美、重量の均衡、地鉄の冴え――そのすべてが笠間示顕流の型に沿い、実戦と儀礼の双方で映える逸品だった。


 白鞘のまま試し場に立ち、柄を握る。

 掌に伝わるのは、木刀では絶対に得られぬ吸い付くような重みと、刃が生きているかのような温もり。

 一歩踏み込み、振り抜く。

 風を裂く音が、張り詰めた空気の中に澄み渡った。重さと軽さが絶妙に同居し、腕の延長として刀が存在する感覚。


 「……これだ」

 その一言で、全てが決まった。

 金貨の山を前にして芽生えた“次の一手”は、この瞬間に形となった。


 老舗の主は深く一礼し、「この大小は、殿の御手に渡るために残されてきたものでございます」と言った。

 それは商人の口上ではない。長年刀と生きた者の確信が宿っていた。


 契約は静かに交わされ、金貨の袋が主の手に渡る。

 残る山は財庫に眠るが、その一部は鋼へと姿を変え、己の戦場を共に駆けることになる。


 帰途、布包みの重みが肩に心地よい。

 雨上がりの石畳が月を映し、行灯の灯りが布越しに刀身を透かす。

 戦は終わっても、この刀は必ず次の戦場へと導いてくれる――晴人はそう信じていた。

兼光の白鞘を丁寧に布に包み、刀掛けに戻した老舗の主は、晴人の視線がふと別の棚へ移ったのを見逃さなかった。

 そこには、まだ鞘から抜かれていない刀が、黒漆の鞘口からわずかに金具を覗かせて並んでいる。


 「……実は、もうひとつお願いがある」

 晴人は静かに口を開いた。

 「京で共に戦った仲間たちへ、褒美を贈りたい。五人だ。それぞれにふさわしい刀を、この場で揃えたい」


 主の瞳がきらりと光る。

 「畏まりました。では……殿がその方々のお人柄、戦の様子をお教えくだされば、こちらで最適の一振りを選びます」


 蔵の奥から運び出された桐箱が五つ、畳の上に並べられる。古い杉の香りがふわりと漂う中、一本ずつ蓋が開かれていった。


 最初に現れたのは、豪壮な姿の大刀だった。

 「こちらは加州清光の業を継ぐ現代の名工による業物。幅広で反りは浅く、刃文はのたれごころ。重さはあるが、一撃の破壊力は群を抜きます」

 晴人は思わず芹沢鴨の豪放な笑いを思い出した。酒と喧嘩を好み、敵を威圧するような男には、この刀の重量感がよく似合う。


 二振り目は、端正な直刃の刀だった。

 「長曽根虎徹の作。直線的で癖がなく、それでいて切れ味は抜群。型を選ばぬ万能の業物です」

 晴人の脳裏に、近藤勇が静かに稽古場で木刀を構える姿が浮かぶ。剣術の型を忠実に極め、仲間を守る柱のような男には、まさに正統派の虎徹こそふさわしい。


 三振り目は、青味を帯びた地鉄に力強い互の目乱れを持つ一刀。

 「二代目和泉守兼定。切先がやや延び、斬撃の鋭さと突きの速さに優れます。主命を果たすためには手段を選ばぬ、冷徹な戦士にこそふさわしい」

 その刃文は、土方歳三の冷ややかな眼差しと、戦場を駆け抜ける一撃必殺の姿を映していた。


 四振り目は、品格と威厳を纏った美しい刀だった。

 「これぞ名高き菊一文字則宗。地鉄は澄み、刃文は直刃ながら凛とした気品を放ちます。技の冴えと精神性を極めた剣士向きですな」

 晴人は沖田総司の姿を思い描く。健康そのもので、稽古場では誰よりも軽やかに剣を振るう若き天才剣士。その速さと華やかさ、そして一太刀ごとの冴えは、この菊一文字と重なり合っていた。


 最後の五振り目は、肥前国忠吉の剛刀。

 「刃渡りは標準ながら身幅広く、刃肉がしっかりしていて折れにくい。実戦向けの頑強な造りです」

 晴人は河上彦斎の名を思い浮かべた。鍔迫り合いの末に相手を斬り伏せる力強さと、己の信念を貫く頑固さ――その戦いぶりに、この忠吉はよく似合う。


 五振りが畳の上に並ぶと、蔵の空気が一段と張り詰めた。

 刀身から反射する光が天井の煤を照らし、まるで戦場の陽炎のように揺らめいて見える。


 晴人は一振りずつ手に取り、握りの感触を確かめた。

 芹沢用の加州はずしりと重く、振るたびに空気が押しのけられる。

 近藤用の虎徹は、握った瞬間から刃筋がまっすぐ通る感覚が伝わる。

 土方用の二代目兼定は切先が鋭く、構えた途端に背筋が冷える。

 沖田用の菊一文字は手にした瞬間、胸の奥まで凛とした静けさが満ちる。

 河上用の忠吉は、柄を握ると腕全体に頼もしさが満ちる。


 「……これでいい」

 短くそう告げると、主は深々と頭を下げた。

 「五振り揃いでお求めいただけるとは、刀屋冥利に尽きます」


 帳場に運ばれた金貨の袋が、鈍い音を立てて積まれる。

 薩英戦争の戦果から生まれた黄金が、今こうして鋼へと姿を変え、仲間の命を守る力となる。


 全てを布に包み、用意された桐箱に収めると、見事な重量が両腕にかかった。

 晴人はその重みを、ただの金属の質量としてではなく、共に戦った日々と、これからの戦場への約束として感じていた。


 店を出ると、夜の江戸の通りには灯籠の光が点々と続き、軒先から漂う焼き魚の香りが腹を刺激する。

 背中には兼光、両腕には五人への褒美。

 それは戦友への感謝と、次の戦いへの静かな誓いを抱いた、確かな歩みだった。

江戸城・西の丸御殿の一室は、障子越しに冬の淡い光が差し込み、畳の上に柔らかな陰影を描いていた。

 その静寂の中、正装を整えた徳川慶喜が座している。背筋はまっすぐ、眼差しはいつもの涼やかさを湛えながらも、今日はどこか温度を帯びていた。


 「羽鳥政庁の藤村、よく参った」


 主人公は正座し、深く一礼した。襟元を正す間もなく、慶喜の口から言葉が紡がれる。


 「京都での働き、諸藩との連携、薩英戦争の賠償交渉……そのすべてにおいて、汝の功績は大きい。将軍家としても、深く感謝する」


 その声は、決して大仰ではない。だが、正面から浴びると胸の奥にまで染み入る重みがある。

 慶喜は脇息に手をかけ、そっと隣の台座を指し示した。


 「――これを、授ける」


 白木の台座の上には、鈍くも気品ある輝きを放つ一振りの刀が置かれていた。

 刃文は静かに波立ち、鞘には漆黒の中に銀の蒔絵が控えめに光る。金具の細工は、龍が雲間を泳ぐ図を彫り込み、深い歴史を刻んでいる。


 「天下五剣の一つ、『鬼丸国綱』。かつて北条家の守護刀として伝わり、後に将軍家へ渡った。病を祓い、災厄を退けるとされる由緒の刃だ」


 息を呑む。名を聞くだけで、刀剣に疎い者ですら背筋を伸ばすほどの逸品。

 両手で慎重に受け取り、その重みを確かめる。単なる鉄の重さではない。受け継がれた歴史と、託された信頼の重さだ。


 「さらに、本日をもって汝に『従五位下・常陸介』を授ける。これよりは御家門並みの待遇とし、諸事において遠慮なく務めよ」


 静かに告げられたその言葉に、広間の空気が一段と引き締まる。格式と責任が、目に見えぬ鎧のように肩に乗った。


 「この刃で、これからも守れ。……国も、人もな」


 深く頭を垂れ、「ははっ」と短く応えた。


 ――


 羽鳥への帰路、鬼丸国綱は懐刀のように脇に抱えていた。

 冬の風は肌を刺すが、胸の奥は妙に温かい。刀身から伝わる微かな冷たさが、不思議と心を落ち着ける。


 羽鳥の町並みが見えはじめた頃、道端に立つ人影に気づく。

 薄茶の羽織に身を包み、微笑みながらこちらを見る女――お吉だった。


 「おや……お帰りなさいませ」


 軽く会釈すると、お吉の視線が自然と脇の刀に落ちる。刃を抜くことはなく、ただ鞘と鍔の造りを一瞥しただけなのに、その目はすぐに何かを察したようだった。


 「……やっぱり、あなたには刀が似合いますね」


 何気ない一言だった。だが、その声音にはからかいも、羨望もない。ただ、確信めいた温かさだけがあった。

 思わず口元が緩む。


 「これで――守れるものが増える」


 心の中で呟き、歩を進める。


 ――

 

羽鳥政庁の広間は、朝の光を障子越しに受け、静かな白さに満ちていた。畳の香が鼻をくすぐり、遠くからは庭の水琴窟の音がかすかに響く。今日は特別な日――京での働きに報いるため、選び抜かれた五振りの刀が、主君より直々に下賜されるのである。


 正面には漆塗りの刀架が五つ、等間隔に並べられ、それぞれに白木の鞘と黒漆の鞘を持つ刀が鎮座していた。金具は光を抑え、ただ刃の冴えだけが主張している。背後の床の間には、墨痕鮮やかな「忠誠一文字」の掛け軸。場の空気は張り詰め、武士たちの呼吸さえ整っていた。


 藤村晴人は、ゆるやかに歩み出る。黒紋付の裾が畳をすべり、足音ひとつ響かせない。座した五人――芹沢鴨、近藤勇、土方歳三、沖田総司、河上彦斎――の視線が、一斉にその手元へ注がれる。


 まず、藤村は最初の刀に手を掛けた。


 「芹沢――」


 呼ばれた名に、芹沢鴨がわずかに顎を上げる。大柄な体躯に似合わぬほど、眼差しは研ぎ澄まされていた。


 「これが、お前の新たな相棒だ」


 差し出されたのは、加州清光の気魄を写した豪刀。身幅広く、反り浅く、のたれ気味の刃文が陽光を受けてゆらりと揺れる。握れば、その重みと反発力が手の中で息づくようだ。芹沢は黙ってそれを受け取り、わずかに唇の端を上げた。


 「……面白れぇ」


 その声音は低く、しかし満足げだった。


 次に、藤村は二振り目に手を伸ばす。


 「近藤」


 堂々と座す近藤勇が、軽く膝を進める。


 「端正な直刃の長曽根虎徹だ。癖がなく、剣術の型を選ばぬ万能の業物。仲間を守る柱には、こういう刀がふさわしい」


 近藤は深く一礼し、両手で受け取った。木刀で稽古する姿がそのまま重なるようで、刀の重みを確かめる手は揺るぎない。


 「ありがたく……使わせていただきます」


 短い言葉に、揺るぎぬ決意がにじんでいた。


 三振り目、藤村は視線を鋭くした。


 「土方」


 呼ばれた瞬間、土方歳三の背筋がさらに伸びる。


 「これは二代目・和泉守兼定。切先の冴えが際立つ、突きも斬りも鋭い実戦刀だ。お前の冷徹な判断と、突き詰める戦い方にこそ、似合う」


 土方はわずかに口元を引き締め、静かに受け取る。その瞳は刀身の奥に潜む鋭さを見抜こうとするかのようだった。


 「……必ずや、この刃に恥じぬ働きを」


 四振り目、藤村は柔らかい笑みを浮かべる。


 「沖田」


 少年のような笑顔を見せる沖田総司が、軽やかに膝を進めた。


 「菊一文字則宗だ。軽やかで、瞬きの間に斬り抜ける速さを宿す。お前の剣に、さらなる冴えを加えるだろう」


 沖田は目を輝かせ、刀身をそっと覗き込む。まるで遊び道具を与えられた子供のように、だがその奥には鋭い集中が宿っている。


 「すごい……これ、軽いですね。まるで手の一部みたいです」


 最後に、藤村は五振り目へと向かった。


 「河上」


 呼ばれた河上彦斎は、他の者のような動きもなく、静かにその場で受け取る構えを見せた。


 「肥前国忠吉。匂い立つような湾れ乱れ刃、一太刀で勝負を決める凄みを持つ。この刃は、お前の速さと決断力にこそ応える」


 彦斎は無言のまま刀を受け取り、膝上で鞘を撫でた。その指先にわずかな震えがあり、それが喜びなのか、あるいは覚悟なのか、誰にも分からなかった。


 刀が全員に行き渡ると、広間に再び静けさが戻る。だが、それは重苦しい沈黙ではなく、刃と心が結びついた者たちの間に流れる、静かな誓いの時間だった。藤村は一歩下がり、五人を見渡す。


 「これらは褒美であると同時に、これからの務めを背負う証だ。京であれ、羽鳥であれ、お前たちの働きは必ずやこの国を動かす」


 五人は一斉に頭を垂れた。畳に額が触れる音が、広間の空気をさらに引き締める。障子の向こうでは、朝日が高く昇り始め、刀の刃文に光の帯が走った。

式が終わると、藤村は場を下がり、広間の空気がわずかに緩む。刀を手にした五人は、それぞれの思いを胸に秘めながらも、互いの存在を意識していた。


 最初に口を開いたのは、やはり芹沢鴨だった。


 「……いいもんだな。これで斬れぬものは、もうねぇだろう」


 豪放な笑いが広間に響く。だが、その目の奥は鋭く、すでに幾つもの戦の場面を思い描いているようだった。


 近藤勇は苦笑しつつ、柄に手を置いたまま軽く振り返る。


 「芹沢さん、刀は人を守るためのものですよ」


 「わかってらぁ。守るためにゃ、時にゃ斬らなきゃなんねぇってことだ」


 その言葉に、土方歳三が短く鼻を鳴らした。


 「言葉遊びはいい。刃を抜く時は、必ず勝つ時だけにしろ」


 互いの視線が一瞬ぶつかり、広間に微かな火花が散るような空気が走る。


 その緊張を、沖田総司が軽やかな声で和らげた。


 「まぁまぁ、せっかくの晴れの日なんですから。ああ、早く試し斬りしてみたいなぁ」


 沖田は刀を軽く持ち上げ、光にかざす。刃文がきらめき、彼の瞳に映り込む。少年のような無邪気さと、剣士としての鋭さが同居する笑みだった。


 河上彦斎は、そんなやり取りを黙って聞いていた。細い指で鞘を撫でながら、わずかに唇を動かす。


 (……この刃は、血を欲している。だが、それは俺の意思次第だ)


 心の中でそう呟き、静かに刀を帯に収める。その所作には一分の隙もなく、まるで周囲の喧騒さえ届かない結界の中にいるようだった。


 藤村は、彼ら五人を順に見やり、小さく頷く。庭先から吹き込む風が、掛け軸をわずかに揺らす。「忠誠一文字」の墨が陽に映え、今しがた交わされた無言の誓いを見届けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ