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94.5話:政変の静寂、遠き戦の足音

1863年8月18日――。


 夜明け前の京の町は、湿り気を含んだ朝靄に包まれていた。東山の稜線が淡く紅を差し始めるころ、烏丸通を北から南へと進む一団があった。石畳に靴音が規則正しく響く。早朝の市中に似つかわしくない緊張感が、霧の中をすっと切り裂いていく。


 先頭を行くのは芹沢鴨。長身にして肩幅広く、鋭い眼光を靄の奥に潜ませ、背には羽鳥特注のミニエー銃を背負っている。その動きに無駄はなく、まるで戦場の中心を歩む兵のようだ。背後には、近藤勇、土方歳三、沖田総司、斎藤一、永倉新八、原田左之助、島田魁といった面々が、二列縦隊を成して続く。いずれも羽鳥での四年間にわたる最新西洋式訓練を受け、射撃・白兵・市街戦の全てを叩き込まれた猛者たちである。


 彼らの装備は、この時代の京の町人が見れば度肝を抜くほど洗練されていた。革製の弾薬ポーチ、射撃用の簡易照準器、火薬の湿気を防ぐ防水ケース。鉄製の銃剣は光を吸い、刀身は薄く油を引かれ、夜露を弾く。羽鳥から持ち込まれた精密なミニエー銃は、訓練を経た彼らの手に馴染み、まるで自分の四肢の延長であるかのように構えられる。


 任務は明確だった――この日、三条実美や澤宣嘉ら尊攘派公卿を京都政界から排除し、朝廷内の主導権を公武合体派の手に取り戻す。そのため、薩摩・会津・そして常陸の連携部隊が市中に布陣し、各所の要所を封鎖する段取りが整えられていた。彼らはその中でも、市中北部から御所周辺へ向かう重要な通りを押さえ、尊攘派の退路を断つ役目を負っていた。


 芹沢の合図ひとつで、一団は足を止める。土方が小声で配置を確認し、永倉と原田が左右の路地に散る。沖田は軽く首を回しながら、通りの先に目を細める。その表情は快活だが、眼差しは獲物を狙う猛禽のように鋭かった。斎藤一は寡黙に銃の安全を外し、銃口をわずかに下げたまま前進態勢を維持している。


 四年間の訓練の日々が、今まさに実戦となって結実する。羽鳥では、彼らは農兵や藩士だけでなく、現代自衛隊の訓練体系を可能な限り幕末の条件に落とし込んだ射撃・行軍・陣形転換を反復してきた。市街地戦闘を想定し、木造家屋の間を移動しながらの射撃や、混戦状態での刀と銃の切り替えまで、体に刻み込まれている。加えて、常陸製造の火薬や弾丸は安定性と威力に優れ、京のどの武装集団よりも確実な火力を保証していた。


 夜明けと共に、京の町はざわめきを帯び始める。遠くで寺の鐘が鳴り、町人たちが戸口を少しだけ開けて、不穏な影の行列を覗き見る。その視線を背に、芹沢たちは躊躇なく南下を続けた。目的地は御所近くの要衝――そこを押さえれば、尊攘派の公卿は御所から一歩も出られず、討幕の気運は一時的にせよ完全に凍結する。


 やがて、薄明の中に薩摩藩兵の一団が姿を現す。先頭には大山格之助、その後ろには精悍な顔つきの隊士たちが並ぶ。互いに短く頷き合い、無言のまま隊列をすり抜ける。京の空気は、まるで張り詰めた絹糸のように、一瞬の油断で切れてしまいそうだった。藤村晴人が羽鳥から託した密命は、この張り詰めた糸の上でこそ成功する。


 芹沢が低く号令をかける。

 「……配置につけ」


 その声は霧を裂き、仲間たちは一斉に動いた。

芹沢鴨の号令と共に、一団は烏丸通から東へ折れた。路地は幅が狭く、両脇には低い町屋が並び、その屋根の上を朝靄が薄く流れている。まだ日が昇り切らぬ京の町は、足音と衣擦れの音がやけに響いた。


 土方歳三が、低い声で次の動きを告げる。

 「近藤さん、右手の辻に小隊を回しましょう。向こうから尊攘派が抜ける可能性があります」


 近藤勇は頷き、永倉新八と島田魁に目で合図を送った。二人は銃を肩にかけ直し、小走りで路地に消える。その背中を見送りながら、沖田総司が軽く口笛を吹く。

 「まるで鼠捕りだね」

 「鼠じゃない、牙のある獣だ」

 芹沢の声は、靄を割って鋭く響く。


 やがて、前方の路地奥から複数の足音が近づくのが聞こえた。芹沢は手を上げ、全員を静止させる。隊士たちは半膝をつき、銃口をわずかに持ち上げる。西洋式の小銃を構える動きは無駄がなく、四年間の訓練の成果がそのまま形になっていた。


 靄の向こうから、黒羽織に白たすき姿の集団が現れた。腰には刀、手には槍を構え、目には殺気が宿っている。尊攘派の浪士たちだった。彼らもこちらの存在に気づき、動きを止める。


 「お前ら……何者だ」

 先頭の浪士が叫んだ瞬間、芹沢は一歩踏み出し、低く告げた。

 「ここから先は通さぬ。退け」


 浪士の顔に嘲りの笑みが浮かぶ。

 「たかが武家風情が、道を塞ぐか!」


 次の瞬間、芹沢の右手がわずかに動く。合図だ。


 乾いた破裂音が、早朝の静けさを切り裂いた。斎藤一の放った一発が、先頭の浪士の肩口を正確に撃ち抜く。浪士が倒れ、その背後で仲間たちが一瞬ひるむ。その隙を逃さず、土方が鋭く命じた。

 「前進、撃ちながら間を詰めろ!」


 近藤と沖田が左右に広がり、交互に射撃を行う。撃つ者と装填する者が入れ替わりながら、弾丸が次々に飛ぶ。浪士たちは慣れぬ銃撃戦に混乱し、構えた槍も前に出せない。


 永倉と島田が背後から現れ、逃げ道を塞ぐ。四方を囲まれた浪士たちは、一部が刀を抜いて突進したが、沖田が滑るように間合いを詰め、銃剣で受け流し、そのまま蹴り飛ばす。軽い体の動きに似合わず、その一撃は骨に響くほどの重さがあった。


 「押せ!」

 芹沢の声と同時に、銃列が前進し、残った浪士たちは次々に武器を落として退いた。路地には火薬の匂いが立ち込め、湿った朝靄と混じって鼻を刺す。


 土方が周囲を見回し、短く告げる。

 「敵散開。追撃は不要。予定通り御所へ向かう」


 一団は再び南下を始めた。京の町は、もう完全に不穏な空気に包まれていた。あちこちの通りで薩摩や会津の兵が布陣し、尊攘派の動きを封じ込めている。遠くからは、別の場所での銃声や怒号がかすかに響き、それが逆にこの作戦の規模を物語っていた。


 御所へと続く堀川通に出る頃には、東の空はすっかり白んでいた。だが芹沢たちの表情に緩みはない。藤村晴人からの命令は、尊攘派を御所から完全に締め出すこと――それが成らぬ限り、この日の勝利はない。


 斎藤一が小声で近藤に問いかける。

 「この先、会津の兵が抑えているはずですが……」

 「ならば、間を縫って御所の北へ回る」

 近藤の判断は早い。現代式の地図を頭に入れたような、正確な進路変更だった。


 その動きに合わせて、全員が滑らかに陣形を変える。左翼を沖田と永倉、右翼を斎藤と島田が固め、中央を近藤・土方・芹沢が進む。まるで一つの生き物のように、隊列は町筋を抜けていった。


 途中、町人たちが障子の隙間や格子窓から息を潜めて覗いている。だが、誰も声を上げない。今この京の町では、どちらが勝つか分からぬ戦の最中、軽々に口を出せば命を落とす。それを町人たちは知っていた。


 やがて、御所の北端が視界に入る。そこにはすでに数名の尊攘派公卿の供回りと思しき武士たちが集まり、慌ただしく動いていた。どうやら、脱出路を探しているらしい。


 芹沢は立ち止まり、短く命じる。

 「ここで封じる」


 土方が即座に手信号を出し、左右の部隊が建物の影に展開する。近藤と沖田が正面から進み出、銃を構えた。浪士たちもこちらを見てざわめくが、その動揺は一瞬で消える。互いに、もう後には退けぬことを悟っていた。


 先に動いたのは芹沢だった。

 「武器を捨てろ。命までは取らぬ」

 その言葉に、数名が逡巡した。だが、背後から現れた永倉と島田の姿を見て、ほとんどが刀を投げ出した。


 短い制圧戦。血は最小限。だが、御所から尊攘派を排するというこの日の大目的において、彼らは決定的な役割を果たしたのだった。

御所の塀が見えてくると、空気の質が変わった。

 張り詰めた冷気の中に、鉄と油の匂いが混じる。夜明け前にしては人影が多く、路地の奥や門の影には、槍や鉄砲を抱えた藩兵たちが控えていた。

 芹沢鴨は、歩みを止めずに小さく合図を送る。背後の近藤勇、土方歳三らがそれに応じ、縦列だった隊形を一斉に左右へ展開させた。


 「……囲い込み、完了だな」

 土方が呟く。その声は低く、だが確信を帯びていた。

 四年間の羽鳥での訓練は、彼らの動きをまるで歯車のように噛み合わせていた。足音の間隔、銃口の向き、互いの間合い――そのすべてが無駄なく、戦場の静けさを漂わせている。


 近藤が、短く号令を掛けた。

 「左右、門を固めろ! 誰一人、通すな!」

 永倉新八と原田左之助が素早く動き、北門と南門の脇を押さえる。銃を構える者、槍を低く構える者、それぞれが通路を完全に塞ぎ、外からも中からも動けない状態を作り出した。


 御所の外周には、すでに薩摩・会津・常陸の兵が布陣している。だが、今この瞬間の前線を握っているのは、藤村晴人の指揮を受けたこの部隊だった。

 目的は明確――尊攘派公卿と長州藩兵を、一人残らず御所から排除すること。


 芹沢は顎をわずかに引き、視線を御所の中門へ送った。そこから、派手な直垂をまとった数人の公卿が現れた。三条実美、澤宣嘉――いずれも顔写真こそないが、密偵の報告で特徴は把握している。

 その後ろには、長州藩士と思しき連中が固まっていた。抜き身の刀を手にし、こちらを睨みつける。


 「出てくるぞ」

 沖田総司が静かに告げる。彼の声は澄んでいるが、指先のわずかな動きに緊張が滲む。


 次の瞬間、御所の静寂を破る怒号が響いた。

 「道を開けよ! 我らは上洛の正使である!」

 長州の一人が叫び、刀を掲げて詰め寄る。だが、芹沢は動じなかった。


 「ここから先は通れん」

 低く、しかし響く声で告げる。

 「命令は上からだ。……引き返せ」


 長州の兵は一瞬、言葉を失った。だが、すぐに怒りで顔を紅潮させ、刀を振りかざして前へ出る。

 刹那、乾いた破裂音が夜明けの空気を裂いた。

 撃ったのは斎藤一。銃弾は相手の足元を正確に打ち抜き、土煙を上げる。


 「次は外さない」

 斎藤の冷たい声に、長州の兵が動きを止めた。


 公卿たちの間にざわめきが広がる。三条実美が何かを言いかけたが、後ろから澤宣嘉が袖を引き、低く諫める。その目は、勝敗を悟った者の色をしていた。


 御所の外では、薩摩兵の太鼓が打ち鳴らされ、合図の煙が上がる。それは「尊攘派、退去開始」を意味していた。

 芹沢は近藤に視線を送る。

 近藤は短く頷き、「門を開け」と号令を出した。


 長州の一団は、悔しげに歯を食いしばりながらも後退を始める。彼らの背を、芹沢らは一言も発せずに見送った。

 ただ、その手の中の銃口は最後まで下がることはなかった。


 やがて御所の前から尊攘派の影が消えると、周囲の空気が一気に軽くなった。だが、芹沢は表情を変えない。

 「終わりじゃねぇ。これからだ」

 そう言って、東の空を見上げた。朝靄が薄れ、朱色の光が京の町を照らし始めていた。

尊攘派の一団が完全に視界から消えると、御所前にはわずかな風音と、遠くで鳴く烏の声だけが残った。

 しかし、その静けさの底には、京の権力地図が塗り替わった直後特有の、重く澱んだ空気が漂っていた。


 芹沢鴨は懐から煙草入れを取り出し、火をつけることもなく口に咥えた。

 「……あとは上の裁断を仰ぐだけだな」

 近藤勇が短く頷き、土方歳三は兵の引き上げを的確に指示していく。


 羽鳥から随行してきた常陸兵は、直接戦闘こそなかったが、包囲網の維持や配置転換で神経を張り詰め続けていた。それでも彼らの表情には、疲労よりも任務をやり遂げた自負が滲んでいた。

 「動きは悪くなかった。四年分の鍛錬は無駄ではなかったな」

 土方が兵を一人ひとり見やりながら告げる。その声音は抑制されていたが、瞳の奥には労いの色が宿っていた。


 午前九時。御所前での任務を薩摩・会津に引き継ぎ、一行は宿営地へ戻る。

 京の町は妙な静けさに包まれ、茶屋の暖簾は下ろされたまま、町人は足早に通り過ぎる。既に噂は駆け巡っているのだろう――尊攘派の大物公卿と長州藩兵が御所を追われたこと、それを成したのが薩摩・会津に加え、東国から来た常陸兵と新選組だったことも。


 宿営地に到着すると、藤村晴人が待っていた。

 彼は紺の羽織を端然と着こなし、机上には簡易の京地図と報告用の帳面が整然と広げられている。

 「戻ったか」

 その低く落ち着いた声に、場の空気が引き締まる。


 芹沢が歩み出て、簡潔に報告した。

 「御所前の任務、完了です。尊攘派は長州藩兵もろとも全員退去。薩摩と会津が後を固めています」

 晴人は筆を走らせながら頷く。

 「負傷者は」

 「我が方はゼロ。長州側に一名、銃弾で負傷。威嚇射撃でしたが、足を掠めました」

 「必要だったか」

 晴人の問いは淡々としていたが、わずかな圧がある。

 「刀を抜き詰め寄ってきました。このままでは衝突は避けられなかったでしょう」

 短い沈黙の後、晴人は筆を置き、静かに告げた。

 「よし、その判断は私が引き受ける」


 その後、近藤や土方も加わり、戦後の対応が協議された。

 御所の警備は薩摩・会津が継続し、常陸兵と新選組は市中巡察の強化を担うことに。長州藩の動きは鈍るだろうが、報復の芽は消えない――むしろ地下で膨らむ可能性が高い。


 「この勝利は勢力図を変えたが、同時に恨みも買った。長州は必ず戻ってくる」

 晴人の言葉は冷静でありながら、全員の胸に重く響く。四年前、羽鳥で西洋式訓練を始めた時から覚悟していた未来が、今まさに形を取りつつあった。


 会議の終わりに芹沢が口の端を上げる。

 「京で刀を抜く暇もなかったが、立っているだけで敵が退くのも悪くねぇ」

 土方が鼻で笑い、近藤も「無駄な血を流さずに済んだ」と応じた。


 夕刻、京の町には早くも「八月十八日の政変」の名で噂が広まった。七卿落ちにより長州藩の威信は揺らぎ、常陸兵の名は「東国から来た新たな力」として人々の口に上る。


 その夜、晴人は一人、宿営地の縁側に腰を下ろしていた。虫の声が響き、秋を告げる月が冴え冴えと照らす。

 (これで幕府寄りの勢力は強化された。しかし、この均衡は長くは持たぬ)

 脳裏には、長州再挙兵の予感と、それを迎え撃つ備え――鉄砲の補給、兵の再訓練、京での情報網拡大――が次々と浮かぶ。


 障子が静かに開き、土方が姿を見せた。

 「晴人様、今夜はお休みください。明日からまた動きます」

 晴人は微笑み、静かに頷く。

 「そうだな。だが――この静けさは長くは続かぬ」

 土方は「同感です」とだけ残し、月明かりの庭を一瞥して去った。


 縁側を渡る夜風が障子を揺らし、その奥で、晴人は遠くで鳴り始めた次の戦の足音を確かに感じ取っていた。

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