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94話:そして薩英戦争へ

夜明け前の錦江湾は、鉛色の雲を低く垂らし、南から湿った風が吹き込んでいた。桜島の稜線は薄く霞み、波は長く、重い。湾口の見張り台が打ち鳴らす法螺の音が、城下へ鈍く響く。

 英吉利艦隊、入湾――。


 鹿児島城下の台場では、すでに火線の準備が終わっていた。砲身には油を回し、照準縄を張り直し、砂嚢を積む。撃発役は替えの導火線を口に咥え、弾薬係は火薬嚢を三つに小分けして肩へ掛けた。台場背後の路には、満水の水樽が等間に置かれ、濡らしたむしろが石垣に貼り付けられる。

 (斉彬公の遺した手は、残す。燃やさせはせぬ)

 薩摩の家老・技術方と藤村晴人が事前協議で詰めた手順は、単純で周到だった。第一線の台場は、撃って退いて、また撃つ“二線交替”。城下の目抜き通りには防火帯を切り、組屋は屋根板を外して水を張る。集成館に残る蒸気機械や反射炉の図面は抜き取り、機械本体は濡れ筵と土嚢で覆い、搬出用の滑り台を裏山へ通した。弾薬庫は三か所に分散、指揮の合図は旗と太鼓、声は要所だけに落とす。


 湾奥では、黒い煙柱がひとつ立った。幕府・常陸連合の小艦隊が、約束の刻に姿を出す。先頭は幕府の蒸気軍艦、続いて常陸の武装輸送船「白浪丸」「霞丸」。艦橋に立つ晴人は、海図と風向板を睨み、短く命じた。

 「鹿児島城下に並走、英艦の横腹へ斜めにかかれ。測距、八百から始める。――幕府砲列はアームストロング、装薬軽め、施条に汚れを残すな。狙いは船体ではない。帆索はんさくと舵だ」


 長崎で手に入れた最新の施条砲――グラバー経由のアームストロング砲は、すでに艦上に据え付けられている。砲耳から滑らかに身を起こす白い巨躯は、古典的な滑腔砲に比べ、狙いが細く、深い。幕府の砲術方が汗を拭き、常陸から派した測遠係が竹尺と索で距離表を読み上げ、舷側の信号旗がひらめいた。


 英艦隊は堂々と湾内へ進む。黒塗りの船体、密なマスト、甲板に整然と並んだ砲列。旗艦は高く、美しく、そして速い。その進路に対し、薩摩の台場が一斉に火を噴いた。轟音、白煙、石垣を震わせる反動。先撃ちの砲弾が水面を跳ね、英艦の舷側に鈍い火花を散らす。遅れて幕府・常陸の艦砲が唸り、鋼鉄の施条弾が帆索に食らい付いた。

 「切れた!」

 帆を支える太いロープが一本、二本と断たれ、英艦の横帆がばさりと崩れる。続く一撃は舵輪へ。甲板の上で金具が飛び、舵の手応えが狂う。英艦の回頭が遅れ、風下へと押し出された。


 「台場、退け! 二線前進!」

 浜風に乗って、薩摩の指揮声が走る。第一線の砲兵が筵と火ばしを掴んで下がり、すれ違いざまに第二線が砲門を踏み入れ、装填に掛かる。土煙の向こうで、城下の屋根から立ちのぼる白い筋は、火ではなく蒸気だった。雨樋に水を逆流させ、屋根面を濡らす“蒸気撒水”は、集成館の工夫の流用だ。軒を伝う水の筋が、火の粉を呑み込んでいく。


 英艦は怯まない。帆を畳み蒸気を焚き、湾奥へ斜めに突っ込む。砲門が開き、轟然、反撃の斉射。水柱が城下の石垣を打ち、浜の松がもがれ、火花が飛んだ。台場の砲耳が軋み、砂嚢に大穴が空く。

 「踏み止まれ! 標的、帆柱根元!」

 晴人の声に合わせ、幕府艦の砲身がわずかに沈む。施条弾が低い弾道で飛び、帆柱の根元に喰い込む。連射はしない。撃って、掃いて、冷まして、確実に一本ずつ倒す。白浪丸の船首砲は、チェーンショット(鎖弾)で索を狙い、霞丸の小砲は散弾で甲板の手を薙いだ。

 「常陸、左へ流せ! 英艦の腹を横切るな、斜めに刺して斜めに抜け!」

 短い指示に、舵が素直に応じる。艦が波を切り、白い水脈が斜めに伸びる。英艦の砲弾が遅れて届き、外れて砕けた。


 その頃、城下では“惜しむべきもの”が守られていた。集成館の機械は濡れ筵に覆われ、反射炉には土嚢が積まれ、硝子の瓶は藁と湿り紙で巻かれる。火薬の匂いが流れてきた瞬間、女と子どもと老人は、避難路に沿って裏山へ移る。腰の曲がった職工が最後尾で振り返り、揺らぐ屋根を見上げる。

 (残る……残ってくれ)

 蒸気の白い筋が、またひとつ、屋根の上を走った。


 正午過ぎ、風が変わった。南からの強い一押しが湾内へ入り、英艦の操船をさらに難しくする。旗艦の舷側に、再び鋼弾が突き刺さる。甲板の喧噪が一瞬止み、次いで怒号と笛の音が重なった。艦首旗が揺れ、信号旗が翻る。退く合図――。

 「下がるぞ!」

 薩摩の台場から歓声が漏れ、すぐに抑えの太鼓が鳴る。追ってはならぬ。湾口で待て。晴人は艦首を少しだけ英艦へ向け、砲口をあえて外した。

 「……ここで、引かせる。ここで、話す」

 英艦は帆と蒸気を使い、ゆっくりと風上へ抜けていった。黒煙の向こう、船体には穴が穿たれ、桁には破断が見える。だが沈みはしない。こちらも、城下の損害は軽微に抑えられている。焼失は点在、台場の損害も交替で補修が効いている。守るべきものは――残った。


     ◇


 夕刻。湾口の手前で、臨時の“苫屋会所”が開かれた。粗末な卓に、墨書の羊皮紙。薩摩の使番、幕府の軍務方、常陸の晴人が並び、対岸で停泊する英艦に向けて旗の礼を送る。捕虜はない。死人は出た。互いに傷を負った。だから――話をする。

 晴人は短い文をしたため、薩摩使番に目で示した。

 「薩摩・幕府・常陸、連名の覚書だ。“鹿児島湾内の戦闘は、領内の治安と港務の保持のための行為にして、挑発に非ず”。その上で“英艦隊の砲撃により、薩摩領内に損害が生じた。調査ののち、正式に損害の実数を算定し、賠償を請求する”。ここで旗を下げ、また明日掲げる――そのための文だ」


 使番は無言で頷き、印を押した。幕府の軍務方も印を置く。伝令が小舟で英艦に渡り、舷門で白旗を掲げる。英側の士官が文を受け取り、眉をひそめ、すぐに読み直す。遠眼鏡越しに、その唇が硬く結ばれるのが見えた。

 「停戦提案トルース。明朝、湾口、平水域。――応じるさ」

 晴人は小さく息を吐き、卓上の地図をたたんだ。


 夜の鹿児島は、想像よりも静かだった。焼け跡は点々とある。だが火は広がらず、風は海へ抜け、蒸気の白が夜気に溶ける。浜辺では、桶を抱えた若者たちが最後の見回りをしている。濡れ筵を外し、機械の息を確かめる職工の指が、金属の冷たさに安堵の震えを伝えた。

 「残ったぞ」

 誰かが呟き、誰もが返事をしなかった。代わりに、遠くで波がひとつ、静かに崩れた。


 晴人は波打ち際に立ち、暗い海を見た。英艦の灯が点々と揺れ、こちらの小さな灯が岸に並ぶ。二つの灯の間に、明日の線が引かれる。

 「賠償は“恨み”ではない。約束だ。壊したら払う。払わせるために、今日、退かせた」

 彼はそう言い切り、背後の闇に潜む仲間へ短く頷いた。幕府の砲術方は砲身を拭き、常陸の船手はロープを巻き直し、薩摩の若者は水桶を置いた。誰も声を荒らげない。負けていない。勝ち誇らない。ただ――“残した”。


 夜半、南風がさらに強まった。明日は荒れる。だから今夜、紙を整える。朝になれば、また海へ出る。

 鹿児島湾の闇は深く、しかし底からわずかな潮の明滅があった。そこに、人の意思が重なる。鉄と火と水と、そして言葉。薩英の砲声が遠のき、静けさが戻る。

 きょう守ったものの上に、あすの交渉を積む。

 それが、藤村晴人の戦い方だった。

鹿児島湾の水面が、夏の日差しを反射して白く揺れていた。

 しかしその静けさは、まるで戦の前の一瞬の呼吸にすぎなかった。


 七月二日正午――イギリス艦隊七隻が、湾奥の錨地に陣を敷く。

 灰色の舷側には陽光を鈍く跳ね返す鋼板が並び、砲門の黒い口が薩摩の城下を無言で睨んでいた。

 薩摩の海岸砲台からは、これに呼応するように火薬の匂いが立ちこめる。

 城下に吹く風には、硝煙と潮の匂いが混じりはじめていた。


 「藤村様、薩摩城下まで三里です!」

 常陸藩旗艦《瑞鳳》の艦橋で、信号士が望遠鏡を外す。

 その背後、藤村晴人は一歩前に出て、海図上の赤鉛筆を走らせた。

 「第壱・第弐分艦隊は西郷殿の陣地に合流。旗艦は幕府艦《開陽丸》と並び、中央突破だ」


 海図の端には、赤く印された“斉彬遺構”の印――尚古集成館や兵器庫、蒸気機関工場。

 薩摩が十年かけて築き上げた近代化の礎であり、もしこれが焼ければ、再建には莫大な歳月と費用がかかる。

 藤村はその全てを守るために、この遠征を決断した。


 午後一時二十分、湾口を抜けた連合艦隊は二列縦隊で進入。

 艦首波が白く裂け、甲板の砲兵たちが火縄を構える。

 西郷隆盛は湾奥の砲台から望遠鏡を構え、黒い軍服の男が隣でうなずいた。

 「間違いありもはん、あれが常陸の軍艦じゃ。これで負けはせん」


 最初の砲声は、イギリス側から放たれた。

 甲高い衝撃音とともに、湾の空気が震える。

 続く第二射、第三射が薩摩城下へ向かう――しかし、その多くは手前の海面に水柱を立て、狙いを逸らしていた。

 常陸艦隊の《瑞鳳》と《千早》が放った初弾が、敵旗艦ユーライアラスの右舷砲塔を直撃。

 厚い装甲板が裂け、甲板に火の粉が散る。


 「敵旗艦、舵が効いておりません!」

 報告を受けた藤村は即座に命じる。

 「右翼砲台、斉射! 敵の進路を塞げ!」


 西郷の砲台からも火柱が上がる。

 連携は見事で、敵の二番艦パールは左へ大きく回避し、その動きが後続艦の隊列を乱した。

 混乱の中、幕府艦《開陽丸》の砲撃が三番艦コケットのマストをへし折る。

 湾の奥では、薩摩水兵が必死に弾薬庫や砲台に海水をかけ、延焼を防いでいた。


 午後三時過ぎ、戦況は完全に薩摩・連合艦隊優位となる。

 《ユーライアラス》は大破し、艦長と副長を失う。

 残る艦も中破が相次ぎ、英艦隊は湾外への退避を余儀なくされた。


 「……撃ち方やめ!」

 藤村の号令が響き、砲声が止む。

 煙の向こうに見える鹿児島城下は、わずかに黒煙を上げるのみ。

 焼けたのは港近くの倉庫数棟と、城下の家屋数十戸だけ――史実での壊滅的な被害とは比べものにならない軽微さだった。


 西郷は砲台の上から手を振り、湾を去る連合艦隊に向けて深く一礼した。

 「藤村殿のおかげで、この城下は生き残ったも同じじゃ」


 停戦交渉は翌日、湾外の軍艦上で行われた。

 藤村は薩摩藩主・島津久光と並び、英艦隊司令官の前に立つ。

 「幕府と薩摩は正式に賠償請求を行う」

 淡々とした声に、通訳を介して艦内が静まり返る。

 これが、後の日本外交史において“薩英戦争停戦条約”と呼ばれる一幕であった。

鹿児島湾を包んでいた硝煙の匂いは、潮風に混じってようやく薄らいできた。

 空は夕焼けに染まり、燃え残った雲が朱に輝く。沖合には、砲声を沈めた英国艦隊の黒い影。甲板には損傷の痕が生々しく残り、マストを傾けた艦もある。


 薩摩側の砲台は健在だった。石垣の破損はわずかで、弾薬庫も無事。これは史実とは大きく異なる光景だった。

 ――三日前、晴人は薩摩城下に入り、島津斉彬の遺した工廠の配置と砲座の死角を徹底的に見直した。照準補正具と信管調整法を伝え、英艦の航路予測に基づく「先撃ち」を徹底させた結果、敵艦の突入はことごとく阻まれたのである。


 城下の一室。障子の向こうから、西郷隆盛の太い声が響く。

「……して、今回の停戦条件ちゅうのは、いかほどの額を吹っ掛けるんじゃ?」


 卓の中央には海図とともに、英語と漢字が併記された停戦覚書の草案が置かれていた。

 晴人は静かに指先で金額欄を叩く。

「金貨百五十万ドル――金換算で、およそ二百万両です」


 室内にいた薩摩家老たちが、一斉に息を呑んだ。

 二百万両。江戸城の年貢収入の数年分に相当する巨額である。

 だが晴人の表情は揺らがない。

「これは単なる損害賠償ではありません。薩摩と幕府、常陸藩が協力して打ち払った『侵略』に対する、正当な代価です。払えぬというなら、我々は再び砲門を開くだけ」


 通訳を介し、向かいの英国士官の顔色がわずかに変わった。長身の中佐が口を開く。

「ミスター・フジムラ、これは戦争賠償にしては法外だ。ロンドンに戻れば、議会が承認せぬ」


 晴人は薄く笑い、机上の別紙を滑らせた。それは損傷した英国艦の詳細な被害報告。マストの角度、破孔の寸法、艦長・副長の戦死証言……すべて現地で測定された数値だった。

「現実をご覧ください。あなた方の旗艦『ユーライアラス』はもはや外洋航行不能。修理と兵員補充に要する費用を計算すれば、この額はむしろ“譲歩”です」


 場が沈黙する。障子越しに聞く城下のざわめきが、遠い波音のように響いた。


 やがて英国士官が短く息を吐く。

「……我々は本国に打電し、返答を持ち帰る。しかし、二百万両という額は、貴国と我々の未来の関係を損なう可能性がある」


 晴人は即座に返す。

「未来を損なうのは侵略です。賠償は、未来を繋ぐための償いです」


 交渉は深夜まで続いた。西郷は時に豪快に笑い、時に鋭い眼差しで相手を射抜く。薩摩家老たちは金額の重さに戸惑いつつも、晴人の論理に支えられ、決して退かなかった。


 最終的に、覚書には「薩摩藩・幕府・常陸藩連名による賠償請求額 金貨150万ドル」と明記された。支払いは三年分割、初年度に半額を現金・金貨で納めること――。


 署名の音が響いた瞬間、晴人は胸の奥で小さく息を吐いた。

 窓の外には、赤く染まった桜島の稜線。海は静まり返り、かすかな焚き火の光が漁村に瞬いている。


 (これで、しばらくは西洋の砲口を向けられずに済む……そして、この金が、日本の未来を形作る礎になる)


 翌朝、英艦隊は鹿児島湾を離れた。帆の白が遠ざかり、やがて水平線に消える。その背を見送りながら、西郷が笑った。

「藤村はん、あんたはほんに、恐ろしか男や」


 晴人は肩をすくめる。

「恐ろしいのは、あの砲声です。二度と、誰もあれを聞かずに済むようにしましょう」


 潮風が二人の間を抜け、海の匂いが広がった。鹿児島の空は、戦いの終わりを告げるように澄み渡っていた。

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