93話:紙の海図――陸奥宗光、通商寮起つ
春の小雨が、築地の長屋の瓦にやわらかく音を置いていた。
勝海舟の私講は、畳三間の部屋にぎゅうぎゅう詰めで、潮と油のにおいが混じっている。黒板代わりの障子紙には、英語の単語と海図の線。海舟はいつもどおり羽織をはだけ、手拭いで首筋の汗を拭った。
「きょうは“港と旗”だ。港に入るとは、相手の法に入るのと同じことだ。寄港、停泊、拿捕、救難――ぜんぶ紙にしておけ。口約束は波で流れる」
畳の端で、痩せた若侍がひとつ身を乗り出した。
「異国船の領事裁判権、港務の優先権、治外法権の範囲――その境目を、こちらが定められる余地はござりますか」
勝は目を細めた。「名は」
「……陸奥宗光。紀州の者にて」
鋭い眼だった。声は細いが、刃が芯に通っている。
部屋の奥で腕を組んでいた坂本龍馬が、ふっと口端を上げた。
「先生、そいつぁ、使えるき」
勝は鼻で笑い、「使うのはおめぇらだ。こっちは道を示すだけだ」と黒板に線を引いた。
講が終わると、龍馬は陸奥の袖をつかんだ。
「ひと口、茶でも。話は短かあ」
浅草橋場の茶屋。湯気の向こうで、龍馬は包み隠さず切り出した。
「常陸に来い。商いと外交を両手に持つ国造りをやりゆう。船も人も手当てはついた。足らんのは、“紙で勝つ男”じゃ」
陸奥は一拍だけ黙り、真っ直ぐに返した。
「紀州の禄を置き、身ひとつで――それでも良いと」
「生まれじゃなく、役目で取る。藤村晴人いうお人は、そういう御仁ぜよ」
陸奥は懐から綴りを出した。端正な字で、条項が踊る。
「ならば持参金を。羽鳥用の『仮規約』――寄港条項、関税目録、保険条、船荷証券(B/L)の雛型。勝先生の講で骨は拾いました。肉は、わたしが付けます」
龍馬は、目を細めた。「やれるか」
「やります。法で殴り、紙で守る。剣ばかりが武ではない」
夕刻、勝海舟は二人をちらと見やって、湯呑を置いた。
「坂本、連署状を書け。『陸奥宗光、羽鳥政庁に推す』。おれも末尾につけてやる」
「へい、先生。借りはでかいぜよ」
「借りと思うなら、いつか『船で返せ』」
雨脚が少し強まった。龍馬は、その場で筆を執り、羽鳥行きの飛脚状に陸奥の名を書き入れた。紙の匂いが、新しい潮の匂いに変わる瞬間だった。
◇
数日後、羽鳥政庁。庭の梅は実を太らせ、霞ヶ浦からの風が涼を運ぶ。
応接の間では、藤村晴人、武市半平太、渋沢栄一、岩崎弥太郎が卓を囲み、上海からの書状と船隊の行程表を並べていた。そこへ陸奥が通された。
「はじめまして。陸奥宗光と申す」
晴人は深く会釈した。
「藤村晴人です。遠いところを。坂本さんの推挙状、たしかに拝見しました」
陸奥は静かに綴りを開き、項目だけを短く置いていく。
「一、羽鳥通商寮(仮)――対外契約・港務・保険・関税の四課。
二、翻訳掛――英・蘭・清(中文)の三係。条約・契約・手形の定訳を作る。
三、港規――寄港許可、沖止め、検疫、拿捕規定。
四、関税目録――紙巻煙草、蒸留酒、医薬、銃具の区分と税率幅。
五、船荷証券(B/L)雛型――サンフランシスコ商会・上海華商との互換条式。
六、保険条――荒天・火災・海賊・戦時。免責の線引き。
七、領事裁判権対処――“港内は羽鳥規に従う”の宣告書式」
卓上の空気が、わずかに引き締まった。武市が感嘆を隠さず言う。
「紙で戦をやるつもりか」
「剣は一人を斬る。紙は千人を動かす」
渋沢が頷く。「数字が紙に乗れば、銭が動く。動けば人も動く」
晴人は短く呼吸を置き、ゆっくりと言った。
「……陸奥さん。坂本さんは『海』の長として商務を束ねます。あなたには『法』の長として、条約・港務・保険を束ねてほしい。役名は――“外事・商規参事”(仮)。権限は、対外契約の起案・査定・押印立会い、港規の制定権、翻訳掛の指揮。どうでしょう」
陸奥は即答した。「拝命仕る」
その声は細いが、芯が鳴っていた。
任命はその日のうちに布告された。政庁の一角、空いていた長屋三棟が、急ごしらえの「通商寮」に変わる。表札が打たれる音、机が運び込まれる音、紙の束の匂い。
陸奥はまず「言葉」を置き直した。翻訳掛を三班に分け、基準訳を作る。
「“契約”はアグリーメント、“約定”はコンヴェンション。“領収”はレシート、“船荷証券”はビル・オブ・レイディング。字面を遊ばせるな。毎度同じ字を使う。それが“法”だ」
若い書役たちが一斉に復唱し、見出しに朱を引く。彼らの多くは、羽鳥が救い上げた徒弟上がりや、えた・ひにん改めの雇員でもある。字は拙いが目は真剣だった。
同時に、港の規則を紙に刻む。
「寄港申請は前日午の刻まで。沖止めの線を杭で示し、夜間の入出は厳禁。検疫は煎茶と酢の蒸しを用い、船室は塩で拭き清める。違反船は荷揚げ後に罰金、再違反は停泊拒否」
武市が頷く。「理は立つ。現場に落ちる。ええ規則じゃ」
午後、上海からの飛脚が駆け込んだ。
《雲鶴丸・千波丸、海試良好。英商会・蘭船渠、契約条項は下記の写し。金山湾の受け入れ商会(二社)と仮押印。保険はロイズ準拠・戦時免責条項を削り、海賊条項は限定承認》
晴人は横目で陸奥を見る。
「“限定承認”の『限定』を、向こうに書かせていますか」
「書かせました。“夜間航行中の小型武装船による接舷”に限る、と。曖昧は敵です」
夕刻。政庁奥の広間では、龍馬が地図を広げ、海路に小さな名札を刺していく。
「上海、長江口を出たら黒潮の帯。伊豆沖で水と薪。そこからは偏西風に乗って真東。サンフランシスコまでは、常陸丸が先導。雲鶴丸は二番手、千波丸は補給船やき」
陸奥は、龍馬の言葉を確認しながら、紙を束ねる。
「現地の受け入れ条件を書面に落とします。関税、検疫、倉庫、支払い――相手の押印を三重に。『港内は羽鳥規に従う』の宣告も、通詞に暗記させます」
龍馬が笑う。「おどれ、紙で剣を振るうがか」
「あなたは帆で剣を振るってください」
ふたりの笑い声の向こうから、渋沢が卓を叩いた。
「会計の線も敷く。売上と原価、保険と関税、為替と延払。月次の締めは三十日。返済は藩(常陸):幕府:設備=七:二:一の黄金比。羽鳥紙幣は港でも両替可。誤差は零に寄せる」
岩崎が航海日誌の頁をぱらりとめくる。
「積荷の順は、下から銃具、薬草、酒、紙巻き。荷崩れ防止の楔は竹と楠のハイブリッド。樽は蜜蝋で止水、箱は“雁木”に組む。帰りの積荷は金ではなく“次の約束”。これが一番重い」
晴人は三人の顔をゆっくり見渡し、陸奥に目を戻した。
「――陸奥さん。ここまで紙を固めたら、あとは“人”です。通商寮の採用基準を、出してください。身分ではなく、職能で」
陸奥は、迷わず答えた。
「読み書き算盤は及第。加えて“訊く力”。言葉の違いに怯えず、相手の『なぜ』を聞ける者。もうひとつ、“怒らない力”。交渉で顔に出ない者。三つ揃えば、あとは鍛えられます」
武市が膝を打つ。「剣の稽古と同じやな。型より心じゃ」
「はい。型は紙にしておきます」
その夜更け。陸奥はひとり机に向かい、最初の布告案を書き上げた。
『対外契約書式ノ件』『羽鳥港規ノ件』『関税目録仮定』『船荷証券雛型』――題箋が、灯の下で淡く光る。
筆を置くと、静かな足音。晴人が湯のみを置いた。
「ありがとう。あなたの紙が、こっちの剣になる」
陸奥は湯気を見つめ、ゆっくり頷いた。
「剣で国を削る時代は、長くは持ちませぬ。紙で国を買い戻す時代が来ます」
外では、霞ヶ浦からの風が、梅の葉をやさしく鳴らしていた。
――紙の上で結んだ約束が、帆と舵と銭を動かす。
梅の葉を渡る風が、机上の布告案をそっと鳴らした。
海へ出る帆の背で、陸では静かに“紙の海図”が描かれていく。
条項は帆、印は錨、押印は出帆の合図。――常陸の航路は、すでにここから始まっていた。
夜半、羽鳥の政庁裏手に新たに掲げられた木札が、風に小さく鳴った。黒漆に白筆で「通商寮」。昼間の喧騒が去った長屋では、灯心がふたつ、机上を淡く照らしている。
陸奥宗光は、背をまっすぐにして筆を運んだ。紙の見出しに、端正な字が順に入る――『港規』『契約書式』『船荷証券雛型』『保険条』『仲裁地宣言』。脇で翻訳掛の若者が、英語・蘭語の語彙帳を交互にめくり、定訳を朱で決めてゆく。
「“寄港申請”は“ノーティス・オヴ・アライヴァル”。“沖止め”は“アンカレッジ・オンリー”。“拿捕”は“シージャー”、ただし“臨検”は“サーチ”。混ぜるな」
「はい」
紙が重ねられるたび、音が静かに積もった。戸の外では、夜警が足音を残して過ぎる。遠く、霞ヶ浦の風が梅の葉を擦った。
やがて、扉が軽く叩かれる。藤村晴人が湯気の立つ椀を載せた膳を携えて立っていた。
「檸緑だ。頭が乾く前に、湿らせてくれ」
陸奥は両手で椀を受け、ひと口含んだ。酸の刃が舌を撫で、煎茶の苦みが背を通る。目が、もう一段遠くまで見えるようになる。
「……この“仲裁地宣言”、長崎の唐通事を介して発する文言に、江戸の町年寄の連署を加えたい。『地元商人もこれに服す』と示せば、異国に対してだけの規則ではないと読ませられる」
晴人が頷く。「紙を“内向き”にも効かせる、か」
「はい。外に向けた法は、内側の秩序をも固めます。内で崩れれば、外で笑われます」
短い静寂ののち、晴人は卓の端の鐘を軽く打った。渋沢栄一と岩崎弥太郎、武市半平太、それに坂本龍馬が入ってくる。夜の打合せは、ここからが本番だった。
「まず、採用の件や」と武市。通商寮の書役と通詞見習いの名簿が渡る。陸奥は一枚一枚、目を走らせた。身分欄はない。代わりに、試験点・稽古皆勤・推薦人・前職の四項目だけが並ぶ。
「読み書きと算、そして“訊く力”。基準を通り抜けた者から順に、科目別に鍛えます」
「鍛え方は?」と龍馬。
「まず、模擬交渉。『荷傷み申立て』『支払い遅延』『検疫違反』の三本立てを週一で回す。通詞と書役を入れ替え、相手役に“嘘をつく”者を混ぜる。嘘を見抜けねば失当」
弥太郎が感心して笑う。「“港の稽古”ぜよ」
渋沢は、黒板代わりの板戸に数字を描いた。「日次報告は航路別に。上海・横浜・江戸の三本勘定へ“換算差”を集計する。港ごとの小さな勝ち負けで目を曇らせないように、全体の筋を見せる」
「帳面で嘘がつけんように、ですな」と武市。
「嘘は“現場”でつくものです。帳面はそれを炙り出す鏡です」と陸奥。
議論は夜更けまで続き、最後に晴人が短く締めた。
「――紙の海図は引けた。あとは、帆と舵と、乗り手だ。明日の昼、港規と書式の“仮発布”を行う。江戸の両替商・町年寄、それに長崎からの商人らも呼ぶ。見せて、触らせて、使わせる」
龍馬が「任せちょれ」と笑い、弥太郎は「発布の刻、港に白旗と信号旗を出します」と応じた。小さな頷きが重なり、灯がひとつ、またひとつ落とされた。
◇
翌日、羽鳥港。堤の上に、白布の幕が張られ、木札に墨の字が凛と立つ。『羽鳥港規(仮)』『寄港申請書式』『船荷証券雛型』『仲裁地宣言』。見物の商人たちがざわめき、両替商が鼻眼鏡を上げる。
「“沖止め線”を杭と浮標で示す。夜間の出入りはお断り。寄港申請は前日正午まで。検疫は煎茶の蒸しと酢の拭い、違反は罰金。再違反は停泊拒否」
陸奥が抑えた声で読み上げ、通詞が英語に訳す。龍馬は信号旗の示威をやって見せ、武市が現場の導線を指でなぞり、弥太郎は荷車と舟の流れを“詰まらせる石”が無いように動線を修正した。
「この“船荷証券”の通し番号、箱の焼印と必ず一致すっちゅうことかね」と、江戸の大店の主が訊く。
「一致しない荷は、羽鳥港では動きません」と陸奥。「『返札制度』も書いてあります。不良品は羽鳥の負担で引取る。ただし箱の号码と台帳が揃っていることが条件です」
商人の眉間の皺が、少しだけほどける。「……使える紙じゃ」
「紙は“使われてこそ”紙です」と陸奥は微笑んだ。
◇
午後。最初の“試験”が、思いがけず早く来た。上海戻りの小型の帆船が、沖止めの線を越えて強引に接岸しようとする。舳先に立つ船頭が怒鳴る。
「荷が濡れる! 早う揚げさせろ!」
港役の若者が慌てそうになるのを、陸奥が手で制した。龍馬は沖側に回り、帆を斜に引かせて舵を効かせ、船を“沖へ寄せる”。武市は岸の人足を下げ、弥太郎は舟の間に楔を打ち込んで“勝手揚げ”の道を潰した。
陸奥は、棒先に白布を結び、船首に向けて掲げた。白は“停”の合図。通詞が沖から叫ぶ。
「ノー・ランディング! 沖止め!」
船頭は怒気を吐き、なおも舳を押す。その瞬間、岸の掲示板から“罰金”の札が外され、役所人が静かに板札を見せた。『違反船 荷揚後罰金二分』。
船頭の顔が歪み、舵がようやく切られた。沖に戻って規則通りの申請に切り替えると、入港は驚くほど滑らかに進む。荷は乾き、帳面は揃い、罰金は後日、船頭が苦い顔で払った。
「“怒らない力”、効きましたな」と武市。
「怒りは短刀です。紙は槍です」と陸奥。
港に、羽鳥のやり口が、音として、人の動きとして、染みこんでいく。
数日後の宵、通商寮の広間に、長机が二列組まれた。『模擬交渉』の場である。相対するのは、羽鳥側の“査定班”と、異国商会役に扮した“演技班”。演技班の手には、陸奥が書いた“嘘台本”が忍ばされている。
「本件、“荷傷み”。紙巻き煙草二十箱の湿潤、箱内部の黴。請求は値引き二割。責の所在は、積込側の不備、と」
陸奥は静かに告げ、木槌を軽く叩く。「始め」
演技班の“英商館員”が、やや大仰な身ぶりで訴えた。「ウチの倉庫に入れた途端、箱から嫌な匂い。開けたら中が湿っぽい。これは積込時の管理不行き届きだ」
査定班の若者が、落ち着いて応じる。「まず“箱番号”を。台帳と照合します」
木札の番号が読み上げられ、台帳の指が走る。「……ありました。羽鳥港での封緘は正常、蝋印も鮮明。積込みは曇天、雨なし。船倉は樽の上段、楔の組みは雁木。では“倉庫の床”を見せてください」
演技班が言い淀む。陸奥が、横から微笑で追い打ちをかける。
「“床”に藁が敷かれていれば、湿りの原因はそちら。木床なら、船側。どちらですか」
「……藁だ」
「では“返札制度”。不良品は引取ります。ただし箱の番号と台帳の写しを添えて。次回からは床面に板敷きを。こちらも“乾燥材”を少量付けます。値引きは一割、双方痛み分けです」
演技班が降参の札を上げ、広間に小さな笑いが走った。陸奥は木槌を置く。
「嘘は悪ではない。商いの呼吸だ。だが、嘘を飲み込むのは悪だ。紙と数字で、筋を通して“落としどころ”へ運ぶ。それが我らの仕事です」
端で見ていた龍馬が手を叩く。「はは、紙の剣術はよう出来ちょる」
「剣も稽古します」と陸奥は軽く笑った。「“怒らない”稽古を」
◇
その夜遅く、晴人は陸奥と二人、縁側に座った。庭は黒く、梅の葉が月をかすめて震える。脇には小さな行灯と、冷やした檸緑の瓶。
「……ひとつ訊いていいか」と晴人。
「どうぞ」
「海の向こうで、銃が売れている。こちらで紙が整っていく。どちらも“生きるため”だが、どちらもどこか、苦い。お前は、その苦さにどう、折り合いをつける」
陸奥は少し考え、言葉を選んだ。
「剣一本で国を切り開けた時代は、終わりに向かっています。では、紙で切り開けるのか――それも違う。紙は“縛る”道具です。縛るのは、己の欲と、相手の嘘。縛り合いの先に、細いが確かな道ができる。私は、その道を広げる係でいたい」
晴人は黙って頷き、瓶の口を開けた。二人で小さな盃に分け、息を合わせて喉へ落とす。酸が夜を細く切り、月が少しだけ近づく。
「紙の海図は、お前が引け。帆は坂本さんが張る。舵は岩崎が切る。銭の流れは渋沢が締める。武市さんは“怒らない剣”を教える。俺は、道を邪魔する石をどける」
「そして、責を負う」
晴人は、わずかに笑った。「それも俺の係だ」
◇
数日後。通商寮に、江戸の町年寄・両替商、それに長崎の通詞上がりの商人たちが集まった。陸奥が新しい“印判所”の仕組みを披露する。通商寮の奥座敷に据えられた一枚板の机、左右に二つずつ朱と黒の印。契約は四印が揃って、はじめて効力を持つ。片方が欠ければ“仮”。両方が揃えば“本”。
「印は“権威”ではなく“責任”です」と陸奥。「押した者が、責を分け持つ。朱は通商寮の責、黒は会所の責。相手側も同じ。押してしまえば、後戻りはできません」
「武家の沙汰より、よほど怖い」と年寄が苦笑し、両替商が「だが安心だ」と頷く。紙の海図は、少しずつ“陸”を増やしていく。
◇
同じ頃、江戸から飛脚。坂本の筆だ。
《勝先生、講を再開。米国の戦況、北が押し返しつつあり。港の英商会、薩英の雲行きを口にす。羽鳥は“紙で構え”、薩摩は“意地で構え”と。西郷殿より“薩摩交易所”、羽鳥内に開く願い》
晴人は文を読み、陸奥に渡した。陸奥は瞬きひとつ置き、静かに言う。
「“交易所”なら、紙の上で守れます。殿中の意地ではなく、約定で」
「よし。薩摩に“場”を置く。だが“法”は羽鳥で統一。喧嘩は紙の上だけでやる」
龍馬が口角を上げる。「紙でやる喧嘩なら、幾らでも手伝うぜよ」
通商寮の壁に、もう一枚、紙が貼られた。『薩摩交易所・羽鳥内設置要綱(草案)』。和の字と洋の字が、同じ紙の上で肩を並べる。
◇
深更。政庁の屋根を渡る風は軽い。書院の机の上に、陸奥の綴りが重ねて置かれている。端に小さく、彼の手で記された走り書き。
――紙は剣にあらず。紙は橋なり。
灯が落ちる。外で、梅の葉が、またやさしく鳴った。紙の海図は、今夜も少しだけ、遠くまで延びた。
海が灰色から蒼へほどけ、霧がひと筋ずつ裂けていった。北太平洋のうねりを越えた三隻――常陸丸・雲鶴丸・千波丸――は、岬の切れ目に開く大きな門へと滑り込む。岬の名はまだ知らぬ。だが、この海峡の向こうに黄金の街がある、と通詞は言った。
ヤードが軋み、帆が風を呑む。艫で号鐘が鳴り、船首に黄色の小旗が上がる。検疫の意だ。先導の小艇が近づき、舷側のはしごを揺らす音とともに、青い外套の港官と船医が甲板に上がった。
「発熱者は?」
「なし。寄港は上海のみ。甲板下の衛生、これです」
坂本龍馬が、蝋封の小瓶を差し出す。ラベルには異国文字で「レモンティー・濃縮」。港医は眉をひそめ、栓を抜いた。柑橘の香が立ちのぼる。
「航海中、これを毎夕。塩もひと摘み。脚の攣りが減りましたき」
「……いい匂いだ」
短い問答ののち、黄旗が下ろされる。舷門から港の水先案内が乗り込み、舵輪の前に立つ。北の丘の向こうから、白い家並みと倉庫の列がじわりと現れた。檣の林、石の埠頭、煉瓦の税関――江戸でも上海でも見たことのない、金属と石の匂い。
常陸丸が最初の係留を得る。艀へと綱が投げられ、ボラードに巻かれた縄がきしむ。桟橋には帽子の縁を上げた合衆国の税関吏、黒い帳面を抱えた通関士、通詞を伴ったブローカーが待っていた。羽鳥連絡の契約商会「バーカー&リード」。髯の長い男が笑って手を差し出す。
「サー、ウエルカム。ビル・オブ・レイディング」
「これに御座る」
渋沢栄一が懐から厚紙の包みを出す。上海で陸奥宗光が整えた雛型――船荷証券(B/L)、積荷明細、保険証、関税申告。英語の字面は一つも揺らいでいない。税関吏が眼鏡越しに走査し、朱の印を押した。
「“狩猟具”四百。ガラス瓶、紙巻煙草、蒸留酒、薬草。火薬、雷管なし――」
「規則、遵守」
通詞が淡々と重ね、税関吏が頷く。桟橋の奥から、騎兵の靴音。青い軍衣の男が一人、帽子のひさしを下げて近づいた。紹介された名はキャプテン・エラリー――合衆国兵站局の外郭にいる“買付け”の士官だという。
「実物、見たい。今すぐはムリか」
龍馬は笑みを抑えた。「海の上で開けるは無粋ぜよ。倉庫で、どうぞ」
◇
港外れの古い煉瓦倉庫。バーカー&リードの私倉に、常陸の焼印が押された木箱が並ぶ。鉄のカンヌキが外され、藁と油紙が切られる。現れたのは、黒い鉄の線。銃身、機関、銃床。部品は別々の箱から出され、龍馬と岩崎弥太郎が手早く組み上げる。
「常陸式弐号。三条のライフリング。雷管は御国の規格に合わせますき」
エラリーは無言のまま重さを手で量り、サイトに目を落とし、ボルトの動きを指で感じる。銃口を覗き、溝の深さを数え、最後に短く頷いた。
「打とう」
倉庫裏は砂丘に続いていた。海霧の向こうに丘と松が見える。距離を測り、藁束を立て、砂嚢を積み、発射台に銃を据えた。風旗はほんの少し右。
「まず三十ヤード。次に百。最後に百五十」
「弾は鉛玉、ミニエー。装薬は持ち込みの黒薬で、ドラ三」
カンと音が鳴る。雷管を置き、撃鉄が落ち、薄い煙が風に解ける。的に土が噛む。第二射。第三射。照星と照門が砂の白を挟むたびに、穴は一つに寄っていった。百五十での三発も、胴の範囲にまとまる。
「……グッド。サイトを五ヤード上げたい。銃床は少しだけ薄く」
「すぐにやろう」
龍馬の声は軽いが、指示は正確だった。足元の箱に、陸奥の布告写しが入っている――“戦時条項”の線引き、“狩猟具”名義での受け渡し、“雷管不輸出”。紙の剣を背に、実物の剣を抜く。静かに、しかし迷わず。
倉庫の奥では、渋沢が銀の秤を覗き込み、商会の書記と数字を突き合わせていた。前金の銀元、残金の手形、保険の割増。「延払は四十五日。違約金は〇・五%。保険、戦時免責は不可」と指で弾いて見せ、書記が肩をすくめて承諾のサインを入れる。
取引の最後に、エラリーが低声で言った。
「港外で船を替える。倉庫までの護衛は出すが、名前は出さない。君らの“常陸”も、ここでは出さない」
龍馬はうなずいた。「こちらもそれがよか」
◇
サンフランシスコの街は、坂と木と埃の匂いがした。坂を上った先に、金細工師と活版所が並び、軒先には奇妙な文字の看板がぶらさがる。中国人の商館では、広東語が混じり、香辛料の匂いが鼻をくすぐる。港では、帆の縄が乾き、鉄の錨が陽を返した。
龍馬は、その空気を吸い込むように歩いた。外套の内側に、羽鳥会所の名が刷られた紙片――関税目録、港規、船荷証券。彼は舶来の奇物よりも、鍛冶屋の店先と機械屋の棚の奥に目を凝らす。
「弥太郎、見えゆうか。旋盤、ボール盤、ねじ切りダイス、薄板のプレス、火打ち金の鋳型……。買えるだけ買う。帰りの船は“道具”で満たすぜよ」
弥太郎が頷く。「代金は?」
「払う。返すのは“返す力”じゃ」
夕暮れ、港のはずれに小さな酒場があった。室内は薄暗く、ピアノの音が遠くで歪む。テーブルの上に地図を広げ、龍馬は筆で線を引いた。上海からの線が、ここで一度止まり、また東へ延びる。羽鳥へ返る線は、風の帯に沿って南に弧を描く。
「紙は陸奥どんが敷いた。船は俺が走らす。銭は渋沢どんが回す。弥太郎は“次の荷”を嗅げ。帰りは葡萄酒と砂糖だけじゃのうて、歯車も、ガラスも、医の道具もだ」
窓の外で、霧笛が鳴った。港の灯がぼうと滲む。龍馬は盃を置き、わずかに笑った。
「晴人さん、ここまで来たぜよ。国は、海の上で細い道を引いちゅう」
◇
その頃、上海・羽鳥連絡所。藤村晴人は夜更けの帳場で帳面を閉じた。寄港便が三度目の報を運び、蝋封には「金山湾」の朱。封を割る。龍馬の筆は乱れず、短く、速い。
《入港・通関・試射・契約。常陸式弐号、評価良。初回四百、分割受領。帰り荷、旋盤二・ボール盤一・小型プレス一・計測具・医療器具。横浜経由で舟を替え、極秘搬入。銀元受領、手形残金四十五日》
《人の気は熱いが、紙は冷たい。紙に勝てば人は寄る。次便の“紙”を頼む。税目と港規の英訳、判子の朱、通詞の名簿。――坂本》
晴人は静かに目を閉じ、灯の芯を短く切った。紙と船が、約束通りに互いを引く。羽鳥の机で引かれた線が、太平洋の上で帆を引き、異国の倉庫で印を引く。音もなく動く“紙の海図”の上を、常陸の船は確かに進んでいた。
翌朝、陸奥宗光が翻訳掛を起こし、印判と英訳を整える。渋沢は返済表の“常陸:幕府:設備=七:二:一”に到着分を仕訳し、弥太郎宛に“次の荷”の希望を箇条書きにして飛脚に託した。武市は治安隊の護送計画を練り、岩崎は霞ヶ浦の荷役口に“アメリカ箱”専用の雁木を設ける指示を出した。
――海の向こうで、契約の印が乾く音がする。
――羽鳥の岸で、雁木の木が締まる音がする。
遠い港の潮騒と、ここ羽鳥の風の音が、帳場の上でひとつに重なった。常陸丸は、もうすぐ帰る。積んでくるのは金ではなく、技と時と、次の約束だ。