92話:上海連絡所、十帆の契り
春の霞ヶ浦は、風の肌ざわりがまだ冷たかった。葦の新芽が水面を縁取り、遠い筑波の稜線が霞に溶ける。羽鳥港の仮設桟橋には、タールの黒と麻縄の匂いが満ち、積み上がった木箱の焼印が朝日に鈍く光っていた――「常壱」「紙煙草」「薬草」「酒」。油紙に包まれた銃身だけが、箱の隙間から銀の線をのぞかせる。
「船は湖を出られぬ。だが、湖が船を育てる」
藤村晴人は帆布の袖口を締め直し、曳舟の舳先に目をやった。霞ヶ浦から常陸川、利根を下り、銚子で外海のバークに積み替える二段構え。湖で鍛えた人足と水主は、短い合図だけで杭を打ち、艀を押し、荷を滑らせる。渋沢栄一は出納箱の蓋を閉じ、算木で額面を弾いた。
「上海側の前金、銀元で二割納付済み。残金は引渡し検査ののち。購入予定の三檣バーク十隻――仮称は順に、常陸丸・鵲丸・霞丸・白浪丸・鹿島丸・青柳丸・雲鶴丸・千波丸・扶桑丸・鳩羽丸」
「帰りの帆に恥をかかせるなよ」
晴人が笑うと、甲板縁で檣綱を確かめていた若者が振り向いた。日焼けした頬、海光を跳ね返す眼。
「恥ぁ、いちばん嫌いぜよ」
坂本龍馬だった。羽鳥に入ってまだ日が浅い。だが、武市半平太の推挙で“海外貿易掛”を与えられてからは、港から帳場、造船図、通詞の机まで、駆けずり回ることをやめない。
「龍馬、曳船の出し入れは任せる。銚子での揚げ替えは潮待ち半日、綱の順を崩すな」
「任せとき。曳子に合図を決めちゅう。一本、二本、三本で“止め・待て・押せ”。声より綱の音のほうが早いきに」
岩崎弥太郎が顎を上げた。「潮目は拙者に。外海の船足は十二日見込み。銚子への継ぎ足は三日でやってみせます」
「勘定は渋沢に、潮は弥太郎に、外交は――」
背後で低い笑い声がした。羽織を軽く肩に掛け、鞘走りのない腰の据わり。西郷隆盛が、春の風を胸いっぱいに吸い込んでいる。
「こいは、よか風じゃ。わいが表に立つ。言葉は任せんしゃい。……龍馬どん、顔を売るは一日にしてならずぞ」
「へい。まずは船を走らせて、銭と信用、両方いっぺんに持ち帰りますきに」
荷は怒涛のように動いた。銃箱には「農具」と「鋼材」の重ね印。紙タバコ“羽鳥巻”は会所の透かし札で封緘され、ウイスキー樽には蜜蝋で青の輪を引く。薬草は葛根・麻黄・当帰・丁香。蘭方医監修の処方書には、松田清蔵が手配した英訳の小札が添えられていた。
「出帆!」
湖面に太鼓が三度響く。艀は細い航路を抜け、曳舟の綱が白い筋を引く。水は川に、川は大河に、風は塩を含み始めた。
◇
黄浦江。檣が林立し、各国の旗が石垣の岸壁で風に遊ぶ。英吉利の商館前では、青い外套の船長がパイプの煙を細く吐き、支那の行商が高声で値を唱える。その喧噪を割って、羽鳥の艀隊が黒い船腹に寄せた。
甲板にかけられた縄梯子を、龍馬は先頭で駆け上がる。足裏が板を読んだ。乾き、鳴り、沈み――船の癖が足から脳へ上がる。
「相手は二筋。蘭の造船所が五隻、英の中古が五隻。状態は蘭が上、値は英が下」
出迎えた松田清蔵の声は乾いている。晴人は短く頷き、西郷と視線を合わせた。
「二手に分かれよう。西郷どんは英側。こちらは蘭側を」
蘭側の船渠は、鉄のリベットが真新しく、帆桁はよく乾いていた。龍馬は舵輪のガタを確かめ、アンカーの巻き上げを手で回し、滑車の鳴きを耳で測る。
「この雲鶴丸、舷側が高いき、外洋向き。千波丸は吃水が浅い、利根にええ。扶桑丸は帆の継ぎが新しすぎるき、最近大修理ぜよ……値は、ここから一割」
船主が肩をすくめ、渋沢が板挟みに数字を刻む。龍馬は笑って、すぐ笑いを消し、数秒で次の帆桁へ移る。足と耳で選ぶ――それは勝海舟の講で覚えた「船の言葉」だった。机の上の理屈は、甲板では音に変わる。
一方、英側。西郷は分厚い書類をたたみ、肘で船体を叩いては笑う。
「名札はうつくしか。じゃっどん、板は鳴いちょる。値は一割五分落とせ。港湾費の免除、おまけに引渡し前の補修込み。……できんか?」
支配人は一瞬だけ笑顔を消し、やがて肩をすくめて指を三本立てた。値引き、港湾費免除、補修込み――交渉は、腕力ではなく“腹の重さ”で折れる。
日が傾くころ、十隻の船に羽鳥の旗が上がった。白地に「常」の一文字。海試は三隻に限る――常陸丸、雲鶴丸、千波丸。帆が風を掴み、舵が海を裂き、横帆の角度が鈍い船の癖を露わにする。
「常陸丸、よう走る。千波丸は河に強い。雲鶴丸は首を触るな、舵を“足”で取れ」
晴人が箇条書きで指示を残し、龍馬はそれを英語で復唱する。操船頭は雇い入れの蘭英の古参船長、契約は半年、更新は双方合意。甲板長以下は羽鳥の水主を混ぜ、湖と川の勘を海に移植する。
「積荷は“狩猟具”“鉛玉”“紙煙草”。雷管は絶対に出さん。検査は港外で、通詞を噛ませる」
渋沢が保険の条項を読み上げ、岩崎は返空箱の回し方を図で示した。松田は港の役人に通関の朱印をもらい、龍馬は英人の書記に、ゆっくり、しかし淀みなく英語で条件を確かめた。
“現銀で払い、約を違えず、明日も会える”――羽鳥式の商いの芯は、言葉が違っても同じだった。
「龍馬、最後にもう一度、数を言え」
「はっ。鉄砲『常陸式弐号』四百挺、弾丸十万。紙タバコ“羽鳥巻”二千箱。ウイスキー樽五十。薬草百二十箱、蘭薬四十箱。医療器具少量。……これをカリフォルニアへ。帰り荷は綿と機械と書物、それに造船資材。保険は船体・貨物ともに掛け済み」
「よし」
西郷が帽子を取った。「国は売らん。じゃっどん、国の“明日”は買う。船は、それを運ぶ道具じゃ」
黄昏の黄浦江に、十の帆影が並ぶ。錨鎖が海に落ち、船がゆっくり回頭する。甲板では、羽鳥の水主と雇い入れの外国人が身振りで命令を交わし、龍馬は檣綱の角度を見て、ひと呼吸だけ空を見上げた。
「行きますき――海の向こうへ。風と、約束を積んで」
晴人は舷側に手を置き、静かに頷いた。湖から始まった物語は、いま海へ。羽鳥商会の旗は、初めて本当の外洋の風を掴んだ。
風は南から来て、黄浦江の水面を細く皺立たせていた。
帆は張り、錨鎖は巻き上がり、十隻の檣が同じ角度で空を切る。合図の旗が一枚、二枚、三枚――「常陸丸」先頭、「雲鶴丸」続航、「千波丸」河用支援。甲板の上で日本語と蘭語と英語が渦をなし、結局は手振りひとつで通じ合う。
「龍馬、前路確認。潮の縁を外すな」
西郷隆盛が低く言い、坂本龍馬は頷いて檣綱の角度を見上げた。
「潮目、こっちへ寄っちゅう。半刻待てば、風が抜けるぜよ」
彼は船首の舫を蹴り、船医へ走って《兵糧檸緑》の小瓶を渡す。「甲板長に。熱で手が緩んだら、綱が人を殺すきに」
出港二日。沖合は緑から藍に色を変え、潮の匂いは甘みを失い、海鳥は遠くなった。
「常陸丸」は規定の折帆、針路東北東。夜は砂時計と星。龍馬は北斗の“柄の反り”を確かめ、舵輪の手ごたえにわずかな癖を覚える。
甲板端では、羽鳥の水主が雇いの蘭人と結び方の違いを笑い合う。片や“もやい結び”、片や“ボーライン”。結局は同じ輪ができた。
四日目。
薄い靄がかかり、風が寝た。帆は重く垂れ、海は鉛の皿に変わる。
「凪じゃ」
誰かがそう言った途端、船はただの“家”になった。音が消える。代わりに、索の軋みと体の鼓動が、やけに大きく感じられる。
晴人は舷側に肘を置き、静かに周囲を見渡した。十隻がばらけず、互いの“距離”を守って漂っている。呼吸のそろった集団だけができる芸当だ。
「龍馬、艇を下ろして距離標を打て。視程が落ちても、これで並びを保てる」
「了解ぜよ」
短艇を降ろし、漂流標識を打つ。硫黄の匂いをわずかに含んだ空気が、遠い雨の気配を連れてくる。
六日目の夜。
稲妻が海の裏を走った。最初の一閃は横、次の閃きは縦――やがて空一面が白い網に変わる。
「帆、二段! 上帆畳め! 索、噛ませ!」
号令は三言で足りる。雨が来る前に、船は“低くなる”。檣の上で男が蜘蛛のように動き、帆は畳まれ、裸の檣は黒い刺に変わる。
突風。
舵輪が唸り、船体が斜めに沈む。甲板を走る水は、夜の中で灰色に光る。
「舷側持て! 流木、流木!」
龍馬は身を伏せ、滑る板に指を掛け、反対舷へ身を投げる。肩で帆桁を支えた瞬間、背中に冷たい水が“打つ”。
稲妻のあいだに、西郷の声が“通る”。
「落とすな、誰も!」
短く、重い声が船の中心に杭を打ち、十隻の心拍が一拍で整う。
嵐は二刻で抜け、雨だけが残った。甲板の水が引くころ、龍馬は濡れた髪を振り、笑って息を吐いた。
「……生きちゅう」
その笑いに、舵輪の脇で晴人も小さく頷いた。
「生きて着けば、商いになる」
十日目、風は再び背に回り、空の青は乾く。
船医が日々の手帳に“脚攣り減少、夜番倒れなし”と書き込み、瓶洗いの少年が空瓶の数を数える。蝋封の青が陽にきらめき、刻印「檸」の文字が指に冷たい。
龍馬は暇を見ては蘭人と航法を擦り合わせ、英の古参船長から潮汐表の読み方を学び、夜更けに甲板で勝海舟の講義を思い返した。
「海は、耳で読むがぜよ」
彼の耳は、確かに海を読んでいった。
◇
金山湾。
霧は薄い布のように海上を這い、やがて切れて、丘の上の町が姿を見せた。白い家、斜面を縫う木の道、林立する檣、金色の草。
「サンフランシスコ」
口に出すと、風景が一段くっきりとした。
常陸丸は港の外で錨を落とし、通船で入港手続き。雇いの通詞が英語で応じ、羽鳥の書類係が書式を清書する。積荷は“狩猟具”“鉛玉”“紙煙草”“蒸留酒”。雷管、火薬はなし。検査官は木箱の端を撫で、刻印と保険状を照らし、あっさり朱を押した。
「通関五%、即日可」
港湾事務所の木札が、見慣れた字で掲げられていた――上海で松田が事前に取り交わしていた文言の写しだ。
荷揚げは、岩崎弥太郎が滑るように転がす。木箱は常陸の焼印、返空箱は同じ焼印を“逆”に押す。箱は貨車へ、貨車は坂の街を揺れていく。
約束の倉庫は、海に近い赤煉瓦の陰。
“M・A商会”。
扉を叩くと、痩せた白髪の男が現れ、通詞を通さぬ英語で言った。
「ミスター・フジムラ?」
晴人は短く頷く。「代理人だ。条件は、事前の文書どおりだ」
男――北軍調達部の“影”は、にやりともせず、帳面を開いた。
「狩猟具四百、鉛玉十万。現銀半、残りは受領後の約束手形。名義は民間。検品は郊外の射場で。……余計は言わない。互いに生き延びるためだ」
西郷が一歩前へ出た。「約は違えん。違えたら、次はない。……それだけじゃ」
“影”は目を細め、指で机を二度、軽く叩いた。合意の印だった。
郊外の砂地に、簡素な射場が設けられた。
「常陸式弐号」――刻印の浅い二文字が、異国の陽を受けて鈍く光る。
米人の射手が肩に取り、頬を付け、引金を“圧す”。黒煙が立ち、土が跳ね、的の中央に丸い穴が開く。
二発、三発――弾は群れ、射手の口笛は低く伸びた。
「グッド・グルーピング」
通詞が“まとまりが良い”と訳し、別の男が銃床の形を撫でる。
「サイトの刻みが正直だ」
軍靴の群れが小さく頷き、調達の“影”は手帳に短く記す。
「継続発注、月二百。価格は文書どおり。……火薬と雷管は?」
「扱わない」
晴人の返事は速く、短かった。
「うちは“骨”は売らない。筋肉だけだ」
“影”はわずかに笑い、握手は求めなかった。ただ、帽子に手をやって軽く触れた。敬意の代わりの仕草だ。
港へ戻る道で、龍馬が息を吐いた。
「戦の道具を売っちゅうがに、胸が石みたいになるき……。けんど、こっちが生きる道も、石みたいや」
西郷は空を見た。「石は道になる。踏まれて形になり、国の骨になる。……帰りは機械と本じゃ。銭が“明日”に変わるもんを、積め」
帰り荷の目録はその場で膨らんだ。
旋盤、ボール盤、鋳造用の木型、印刷機の部材、造船の鉄具、綿の反物、医療器具、英書・独書・蘭書。
岩崎は保険の条項を増やし、渋沢は支払い順を入れ替え、松田は上海受けの倉庫を押さえた。
港の夕焼けは、金色で、冷たかった。
常陸丸の舷側に並び、男たちは誰も喋らなかった。風と木と鉄と金の匂いが、同じ重さで胸に乗る。
龍馬が、不意に笑った。
「晴人さん。海の上じゃ、約束は風と同じや。目に見えんけんど、船を走らせる。……わし、もっと遠くまで行きとうなった」
晴人は頷き、短く言った。
「遠くまで行け。だが、帰ってこい。帰りの荷が“明日”だ」
夜、サンフランシスコの裏町。
紙の提灯が小さく揺れ、チャイナタウンの屋台から湯気が昇る。通りの端で、羽鳥の紙タバコが一本、異国の指に挟まれ、火がついた。
「スムース」
誰かがそう言い、赤い点が夜を漂った。
その灯は頼りないが、確かだった。遠い湖で練り上げられた“段取り”が、太平洋の向こうで同じように働く――その実感が、潮の塩と一緒に舌に残る。
出帆の日。
十の帆影は、今度は西へ向かう風を背にして、同じ角度で空を切った。
積荷は、“明日”の形をしている。機械と紙と鉄具、そして本。
西郷は帽子を取り、静かに言った。
「国は、まだ細い。じゃっどん、細いから折れん。しなって戻る。……帰ろうか」
龍馬は檣綱を握り、笑って叫んだ。
「船よ、日本へ渡れ! 常陸の名ぁ、風に乗せて連れて帰るぜよ!」
錨が上がり、舵が切られ、海は白い道になった。
湖で育てた“段取り”が、海を越えて“航路”に変わる。
帰り着くころ、羽鳥の会所の黒板には、また新しい数字が並ぶだろう。
その数字は冷たいが、そこに宿る手と汗と、夜更けの灯は温い。
常陸の旗は、風の言葉を覚えた。
そして、風は約束どおり、彼らを東へ運びはじめた。