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91話:龍馬、羽鳥に舞う

雪の気配が空に薄く漂っていた。十二月九日、羽鳥政庁の土間口に、旅塵のままの若者が立った。頬はやせ、眼だけがよく光る。

 坂本龍馬――土佐出の郷士。後ろに控えるのは武市半平太である。


 「藤村様。坂本龍馬、推挙仕る。剣は一流、しかも海と商いに心が向いちょる。使える男です」


 晴人は小さく会釈し、龍馬に向き直った。

 「志は?」


 「この国を海へ出すがです。剣で国を守る時代やおまへん。商いと船で、国を太らせる――そのお手伝い、わしにさせてください」


 曖昧な熱ではなかった。言葉の芯に、海風の匂いがある。晴人は案内をして、帳場奥の小さな間へ通した。机には英仏の船荷証券(B/L)の写し、為替手形、積荷目録、保険証券の見本が積んである。


 「面談ではなく“実技”だ。これは横浜—上海—金山湾の三角航路のB/L。どれが原本で、どれがネゴ用のコピーか。遅延と海損が出た時、どの順に誰へ連絡する?」


 龍馬は一瞬だけ目を細め、紙束をめくった。指の止まりは迷いが少ない。

 「原本は青墨の印影が二重に入っちょる。遅延は先に保険のノーティス、同時に相手の商会と港のエージェントへ。海損は共同海損なら船主と、単独なら荷主の勘定……違いますろうか」


 晴人は頷いた。

 「もう一問。上海の仲買に“税金を減らせる薬”だと偽った薬草を卸すと言われた。利は大きい。どうする?」


 龍馬は間髪を入れず、首を振った。

 「断るがです。いっぺん信用を売り飛ばしたら、その先は“値切り”しか残らんきに。羽鳥の札も紙も、薄くなる」


 机の向こうで、武市がわずかに口角を上げた。晴人は帳面を閉じる。

 「――採る。だがいきなり“部門長”は置かない。肩書は『海外貿易部門長(代理)』。任期は六か月の試用。決裁枠とKPIを明記する」


 龍馬の背筋が伸びる。晴人は筆を取り、さらさらと要件を書き落とした。



任命条件(抜粋)


 役目:羽鳥商会「海外貿易部門(龍馬部)」統括(代理)/欧米・清国航路の開拓・契約・引取・回収の一貫管理。


 決裁枠(現地即決)

 ・仕入・前払・船積費:上限三百両/件(同日複数不可)。

 ・用船・保険・倉敷:上限百五十両/件。

 ・値引・与信延長:粗利率を12%未満に落とさない範囲で15日延まで裁量可。

 ・赤字(欠損率)2%超/月、クレーム率1%超/件数は即時本国決裁へ。


 月次KPI(四半期評価)

 1) 新規成約:3件以上/月(うち海外1件必須)

 2) 平均粗利率:12%以上(航路合算)

3) 船積遅延平均:2日以内/便(気象除外)

4) 回収期間:45日以内(銀元換算)

5) クレーム率:1%未満(数量基準)

6) 返却・空箱回収率:90%以上(瓶・木箱を含む器材)


 育成・研修(六か月プログラム)

 ・語学/通商文書:松田清蔵の実務講(英・蘭)週2回、契約文言の対訳作成。

 ・会計/与信:渋沢栄一の「複式帳簿・信用状・手形」講、週1回。

・航運/港務:岩崎弥太郎の「用船・港湾実務・倉敷」同行OJT、月2便。

・国際法/危険品:佐久間象山の「拿捕・海難・危険貨物」座学 月1回。

・海軍実務(外部):勝海舟の出張講義を月2回受講(江戸)。操船理論・航路計画・条約港の礼式。

 ※龍馬の江戸行きは「研修扱い」。羽鳥での実務は継続。師事と実務を両立させる。


 試用明けの昇格条件

 ・四半期KPI達成率80%以上/重大事故ゼロ/不正ゼロ → 正式『部門長』任用。

 ・未達の場合は「現地主任」へ役割縮小、または研修延長。



 読み上げると、龍馬は真剣に聞き、最後に深く頭を下げた。

 「任せてつかぁさい。数字で勝ち申す」


 「数字で勝て。剣で勝つのは護衛の仕事だ」


 間仕切りが開き、渋沢と岩崎が入ってくる。渋沢は帳簿、岩崎は港の配置図を抱えている。


 「龍馬殿、今日から“机”と“現場”を往復してもらいます。まずは与信枠のない客に売らない。『うまい話』は出港前に腐るのが相場です」

 「港は“音”で覚えろ」と岩崎。「綱の鳴き、滑車の泣き、船長の舌。嘘は音に出る」


 武市が肩を叩いた。

 「わしの目からは“刀が抜けぬ男”に見える。抜かんでええ。商いの場で刀は邪魔じゃ」


 その夜、政庁の一室で龍馬部の看板が上がった。白木に墨で「海外貿易部」と記し、端に小さく「坂本」と朱で押す。机の引き出しには、羽鳥の標準契約書(和文・英文併記)と、決裁枠の木札が収まった。木札の裏には、晴人の判が赤く乾いている。


     ◇


 就任翌日。龍馬は最初の案件に向き合った。

 案件:上海の蘭商から、欧風大型帆船の余剰在庫を“冬値”で買う打診。条件は甘い。だが、同時に保険の免責が広い。

 「安くても、沈んだら全部ゼロやき」


 龍馬は決裁枠の木札を指で弾き、現地査定班の派遣を即決した。三十両以内、裁量内。

 渋沢が笑う。「いい“初手”です。安物買いの高損は、商会を腐らせる」


 午後は横浜回しの瓶・木箱の回収網を龍馬が引き直す。瓶返却の保証金デポを季節係数で見直し、夏は二文→三文へ、冬は据え置き。港の子どもたちの回収分け前は変えない。

 「返ってくるものは、信用やき」


 夕刻、KPIボードに白墨が入った。

 《新規成約:0/3 粗利:— 遅延:— 回収:— クレーム:— 回収率(器材):92%》

 空欄は多い。だが空欄は“これから埋める場所”だ。


     ◇


 三日目。勝海舟の出張講義(江戸)。晴人が用意させた小座敷に、海舟がふらりと現れた。

 「海はことわりじゃ。感情で舵を切るな。条約港では“礼式”が半分の力を持つ。舌で喧嘩を買うな、文で戦え」


 龍馬は畳の上で正座し、航路図に指を走らせる。

 「黒潮の帯に乗り、戻りは南へ。風で勝つ……覚え申した」


 海舟は帰り際、晴人にだけ顎をしゃくる。

 「面白ぇ材木だ。実務の土台があんたの所にある。わしは上塗りだけで済む」


 「塗りが命を救います」


 晴人は深く頭を下げた。史実の師弟線は、形を変えながらも確かに繋がった。


     ◇


 一週間後。初のKPIが動く。

 ・新規1件:横浜—上海の紙タバコ長期供給(与信45日、粗利14%)。

 ・予備1件:北航の用船短期チャーター(遅延ペナルティ2日以内)。

 ・未成1件:欧州向け雑貨混載(回収不安につき保留)。


 渋沢が朱で丸を付ける。

 「粗利、基準クリア。回収45日も守れる」


 岩崎は港の札を剥がし、別の釘に掛け替えた。

 「船長が約束を守る声をしてた。音が良かったきに」


 夜。龍馬は提灯の下で帳面に向かった。筆は太く、字はまだ荒い。だが行は揃う。

 《学び=勝先生/実務=羽鳥。剣は納め、舌と文と算で闘う。六か月で“代理”を外す》

 襟を正し、机の隅の決裁木札を撫でる。責任の重みは、刀より冷たい。だが心地よい。


 戸口に武市が立った。

 「おまん、ようやっちょる。志は剣の外にもある。忘れるな」


 龍馬は立ち上がり、深く礼をした。

 「ここで一人前になります。土佐にも、勝先生にも、胸張って戻れるように」


 晴人は廊下の陰で静かに聞き、心の中で小さく頷いた。人を走らせるのは、肩書でも命令でもない。数字と、道の筋だ。

 明日のボードには、もう一つ白墨の線が増えるだろう。

 羽鳥は回り始めている。龍馬という“風”を受け、海へ向かう加速が、確かに足元から伝わってきた。

冬晴れの朝、羽鳥会所の土間に白い息が漂った。帳場の黒板には白墨の線が増え、〈海外貿易部(龍馬部)〉の欄に、今日の配送と契約予定が並ぶ。


 「横浜便、紙煙草五百箱。返空は瓶・木箱。昼から上海筋の商談一件――」


 渋沢が読み上げる横で、龍馬は黙って頷いた。前掛けの紐を強く締め、帳簿の角を指でたたく。


 「まず港へ行きますろ。音で嘘を拾いますき」


 「拾うだけじゃ足りません」と渋沢が笑う。「数字で止める。——戻りの資材、単価は?」


 「蜜蝋、比重計、厚手瓶。値を三手に分散、粗利は十二を割らせん」


 「よう言った」


 会所の奥から、岩崎が声を投げた。


 「龍馬、荷車に乗れ。港は寒いぞ。檸緑を二本、腰にさせ」


 「へい」


 龍馬は瓶の蝋封を指で確かめる。青と緑、色は間違いない。腰の縄にからげると、肩をすくめて土間を出た。


     ◇


 横浜の朝は、潮とタールの匂いが濃い。桟橋の木は凍り、綱の繊維が音を立てる。羽鳥印の木箱が二列、寒気の中で白く息をしているようだ。


 「返却籠、昨夜の分、九割まで戻りました」


 回収の少年が胸を張る。龍馬は木札の束を受け取って、一枚一枚、指先で数えた。


 「九割二分に乗せるぜよ。返ってくるものは信用やき」


 瓶洗い場に寄ると、えた・ひにん上がりの若者たちが手を真っ赤にして刷毛を走らせていた。湯気が上がる。龍馬は一本、蝋封を割らずに栓だけ外し、湯気の上で盃に落とした。


 「飲め。倒れたら誰も笑わん」


 若者が一口で飲む。酸が喉を掠め、目が冴える。龍馬も盃をあおり、ほっと息を吐いた。


 「……効くのぅ」


 背後から、軽い足音。沖田総司が羽織の襟を合わせ、笑って立っていた。


 「龍馬さん、護衛は僕がつきます。今日は荷も客も“価値”が高い。盗人は寒さ知らずですからね」


 「たのもしゅうなった。——沖田はん、音で嘘を拾うのは剣の稽古と同じやき」


 沖田は目を細め、「ええ、呼吸が乱れたら斬る前に勝てます」と短く返した。


     ◇


 午下がり、商館の一室。厚い絨毯の上で、靴音が吸い取られる。上海筋の仲買が笑って現れた。丸い指輪が光る。


 「羽鳥サン、ウチ、特別価格。三割引。——ただし、支払いは“後でヨロシ”」


 龍馬は笑わない。膝前の茶を動かしもせず、静かに帳面を開いた。


 「特別、ようござんす。ほな、契約書を二通。粗利は十二割れぬこと、回収は四十五日。品物の検査は港外、共同海損は按分。ここに印を」


 仲買の笑みが薄くなる。


 「前金、ナシ?」


 「ナシなら、量を減らす。量が欲しければ、銀を前に。羽鳥は薄利もするが、損はせん」


 室の空気が一段重くなる。仲買は扇子を鳴らし、助詞を飲み込む。背後で沖田が廊下を見張る。ややあって、相手が肩をすくめて判を押した。龍馬の指は、判の乾きを確かめる時だけ柔らかかった。


 「——一本、やり申した」


 廊下で沖田が小声で言う。龍馬は肩の力をほどき、盃の檸緑を飲み干した。


     ◇


 夕方、江戸へ回す荷に紛れて、怪しい木箱が一つ。表示は“染料”。だが、揺らす音が重く、走る匂いが違う。龍馬は木槌で角を軽く打ち、耳を当てた。


 「鉄の音や。染料やない」


 箱を開けると、内箱が二重。内側に“雷管”の包みが忍ばせてある。岩崎が顔をしかめ、沖田の手が自然に柄へ落ちた。


 「差し戻せ。送り主へ書面、港役所へ写し。——晴人様に急飛脚」


 「相手は怒りますよ」と沖田。


 「怒らせるがええ。怒るもんは、嘘の上に座っとる」


 飛脚が駆け、会所の黒板に赤い印がつく。〈危険貨物/拒否〉。夜までに役所から返文、翌朝には送り主の目付が頭を下げた。羽鳥のやり方は、“速さ”で嘘を圧した。


     ◇


 その夜、政庁。調度の灯は低く、窓外に粉雪が舞っていた。龍馬は一日の報告を晴人に差し出す。渋沢が背後で黙って立つ。


 「契約、一本。粗利、十四。回収四十五日。危険貨物、拒絶。回収器材、九割三分」


 晴人は目を通し、朱で「可」の印を置いた。


 「よく止めた。——“買う勇気”より、“断つ勇気”のほうが、商いでは難しい」


 龍馬は深く頭を下げた。


 「まだまだ、勉強が足りませんき。勝先生の講も、隔週で江戸へ通わしてもらいゆう。合間は羽鳥で図面と英書にかじりつきますき、手を止めることは致しません。」


 「師は師、現場は現場だ。両方やれ。——武市殿」


 襖が開き、武市半平太が入ってきた。昼の凛とした顔から、夜の柔らかさに変わっている。


 「坂本、筆が荒い。帳面は刀じゃ。乱れては相手の喉を外すぞ」


 龍馬は頷き、筆先を整えた。紙の上の線が、わずかに真っ直ぐになる。


     ◇


 数日後。雪は止み、凍てた街道が白く光る。龍馬は江戸に出た。勝海舟の講、二度目。海図を前に、声は乾いているが、言葉が海の香で満ちている。


 「海は約束じゃ。風は誰にも貸すが、誰にも売らん。——借りるには礼が要る」


 講の後、勝は羽鳥の契約書を手に取り、薄く笑った。


 「臍が据わった字だ。——藤村のところは、土台が固い。お前は上塗りだけで済む」


 龍馬は額が熱くなるのを感じ、掌を握りしめた。


 「六か月で“代理”を外します。必ず」


 勝は扇で肩をたたく。「扇子でなく風で返してみろ」


     ◇


 帰路、神田の橋で、羽鳥屋台の白布が揺れた。〈冷・檸緑〉。未亡人のおゆきが笑い、盃を差し出す。龍馬は盃を受け、喉へ流し込む。


 「……うまい」


 「坂本さん、お顔が少し、商売人になりましたよ」


 「ええ。刀に角が取れましたき」


 笑い合い、龍馬は駆けだした。羽鳥の札の透かしが夕日に透け、江戸の風が背を押す。彼の足取りは、剣を捨てた者の軽さではなく、担いだ荷の確かさで重くもあった。


     ◇


 月末の会議。板間に幹部が並び、黒板に白墨が走る。〈龍馬部〉の欄に数字が並ぶ。


 《新規成約:三件/粗利平均十五%/遅延一・六日/回収四十二日/クレーム零・七%/器材回収九一%》


 渋沢が朱で丸をつける。


 「基準、いずれもクリア」


 岩崎が腕を組んだ。


「港は静かだ。声の嘘が減った」


 武市が短く頷いた。


 「坂本、刀は納めて構わん。——その帳面、斬れる」


 晴人は最後に、短い言葉を置いた。


 「次の月、同じ線を描け」


 龍馬は深く頭を下げた。胸の奥で、波の音がした。数字は波だ。高ぶりも凪もある。だが、流れは海へ出ている。六か月の試用は、もう試しではない。日々がすでに“本番”だ。


     ◇


 夜の羽鳥。廊下の角に、斎藤お吉が控えていた。盆の湯気が薄く揺れる。


 「お疲れでございます、坂本様」


 「おおきに。——よう働きましたき」


 盃に落ちた檸緑の匂いが、静かに広がる。龍馬は一息に飲み、筆を取った。決裁札をそっと撫で、机の隅に置く。


 《志は、海にあり。刀は紙に変えた。数字で勝ち、礼で渡る。六か月で“代理”を外す》


 窓外に、粉雪が再び舞い始めた。白い点が闇に消え、また落ちてくる。龍馬は筆を止め、低く呟いた。


 「羽鳥は、風を持っちゅう」


 その風に、彼は帆を張った。幕末の夜は長い。だが、海は近い。帆桁の軋みが、もう耳の奥で鳴っていた。

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