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11話:医の道、志の灯火

梅雨の名残か、空はどんよりとした雲に覆われていた。


 薄曇りの中、晴人は炊き出し場の裏手に設けられた仮設の診療所にいた。

 床にはむしろを敷き詰め、竹の柱に粗布を巻きつけただけの簡素な空間。

 だが、そこに並ぶ子どもたちの顔は、決して無表情ではなかった。


 「……咳は落ち着いてきたな。昨日より顔色もいい」


 晴人は薬草をすり潰した包みを湯に溶かし、木の匙で子どもの口元へ運んだ。


 病に伏したのは、稲荷町から避難してきた女児――名前は“おたえ”。

 焼け出された家の瓦礫の下で雨に打たれ、そこから咳が止まらなくなったという。


 晴人は、彼女の兄が黙って袖を握っているのを見ながら、静かに湯を吹いた。


 「もうちょっとで、よくなるからな。……お前がよく見てやるんだぞ」


 「うん……っ」


 力強く頷いたその姿は、いつかの自分を思い出させた。


 “守れなかった”という記憶。

 そこから、晴人はずっと逃げるように生きてきたのかもしれない。


 だが今、この町で、自分は少しずつ“その続きを生きている”。


 そのときだった。

 診療所の入り口から、落ち着いた声が聞こえた。


 「失礼――こちらが、水戸の炊き出し所兼診療拠点か」


 ふと顔を上げると、そこには見慣れぬ男が立っていた。


 紺色の羽織に黒い袴、洋装のシャツのような布地が首元からのぞいている。

 顔立ちは穏やかで端正だが、鋭さを隠していない眼差しが印象的だった。


 「……あなたは?」


 「村田蔵六。宇和島より来ておる。江戸からの命で、諸藩の防災・医療体制の実地を調べておるのだ。通りすがりに、この町の“噂”を聞いてな。少し、拝見させてもらえまいか」


 (宇和島……? 確か、前藩主は蘭学を学ばせていたはずだ)


 晴人はうなずいた。


 「診療拠点というほどのものではありませんが……どうぞ」


 蔵六は、むしろに腰を下ろし、しばらく無言で様子を見ていた。


 煎じ薬を配る晴人の手元。

 子どもたちを支える若者たち。

 道具もない。建物もない。だが、ここには“回ろうとする意思”があった。


 やがて、蔵六が低く、しかし興味深そうに口を開いた。


 「……これは、誰の指図で?」


 「いえ。私個人の判断です。物資は町人や一部藩士の協力で」


 「ふむ。すると、そなたが“火”をつけたか」


 晴人は少し驚いて、相手を見た。


 「“火”……ですか?」


 「民が自ら動くようになったのは、誰かが最初に“やった”からだ。

  それがそなたであるなら、見た目によらず――面白い男だ」


 そう言って、蔵六は懐から包みを取り出した。


 「これは、宇和島で試作していた“簡易の脈取り具”だ。

  脈拍の計測に使える。……子どもの体調管理に、使ってみてくれ」


 中には、金属と竹で作られた小さな道具があった。

 脈を一定の強さで押さえ、測定するための器具――いわば、簡易な“触診補助具”だった。


 「こんなものが……」


 「いくさは“医”の上に成り立つ。民が死ねば、軍も滅びる。

  私はそう信じて、動いておる」


 晴人はその言葉に、静かな衝撃を覚えた。


 自分の中にも同じような考えがあった。

 でも、それをはっきり言葉にした者を初めて見た。


 「あなたは……どうして、ここへ?」


 「私は、制度や枠よりも、“実地”を見る。噂には“民が語る真実”がある。

  この水戸で、それを感じた」


 蔵六の目は、まっすぐだった。


 「晴人どの。君には、“見えている”のだな。……町のかたち、命の通い、未来の構図が」


 「……どうして、そう思うんですか」


 「目を見れば分かる。……私も、そういう目をしているとよく言われる」


 ふ、と笑った蔵六の口元には、どこか孤独の影がにじんでいた。


 晴人は、静かに頭を下げた。


 「ありがとうございます。……その器具、大切に使わせていただきます」


 「また来ることがあるやもしれん。……町が“生きている”限り、私はその息を、確かめに来る」


 そう言って立ち上がった蔵六は、すでに次の地図を手にしていた。


 「次は……筑波のほうへ抜ける予定だ」


 足音は軽く、まるで風のように――彼は町を去っていった。


 残された晴人は、手の中の器具を見つめながら、小さく息をついた。


 (……出会った、というより、交差しただけかもしれない)


 だがその一瞬の交差が、確かに心に“何か”を刻んでいた。


 おおやけわたくしの境界。

 その“はざま”で動いているのは、きっと自分だけではない。


 晴人は、もう一度むしろに座りなおした。

 そして、目の前の子どもにそっと手を伸ばす。


 「ほら。少し冷めたけど、薬草茶だよ。飲んで、よく休もうな」


 町の風は、まだ止まっていない。

 今日という“今”を見て、動こうとする者が、確かにここにいる。

村田蔵六が去った後も、晴人は診療所の片付けを続けていた。


 釜の中の湯はすでにぬるくなり、薬草の香りもほのかに薄れつつある。

 手元の布巾を絞ると、まだ少しだけ草木の精が指先に残った。


 「……あの人、すごかったね」


 背後から声をかけてきたのは、見回り隊の少年――てっちゃんだった。

 子どもながらに真剣な目をして、晴人がもらった器具をじっと見ている。


 「あれで病気が分かるの?」


 「いや、全部は分からない。でも、いつもより心臓の鼓動が早いか、弱ってるか、目安にはなるんだ」


 「晴人さんは、なんでそんなの知ってるの?」


 少しだけ間が空いた。


 (どう答える……?)


 「……昔、旅先で教わったんだ。……いろんな人に、ね」


 「ふうん」


 てっちゃんはあまり深く詮索せず、素直にうなずいた。

 その純粋さに、晴人は救われたような気がした。


 その時だった。

 診療所の外から、草履の音が近づいてくる。


 「また来てしまったな。……気になることが多すぎてな」


 姿を見せたのは、まさかの村田蔵六だった。


 「……戻られたんですか?」


 「さっき渡した脈取り具。あれは“道具”にすぎん。だが、それを正しく使えるかどうかは、“知識”にかかっている」


 「……ええ。だから私は、まだ試行錯誤の途中です」


 「そのわりには、子どもへの手の当て方が見事だった。“皮膚の下”を見ているようだった」


 蔵六の言葉は、ただの称賛ではない。

 「観察しているぞ」という鋭さを孕んでいた。


 「晴人。――君はいったい、何者なのだ?」


 その言葉に、晴人の背筋が静かに伸びた。


 逃げてはいけない。

 この問いは、きっとこの先も、何度も投げかけられる。


 「……ただの流れ者ですよ。医者でもなく、侍でもなく、学者でもない。

  けれど、助けを求める声が聞こえれば、足を止めずにはいられないだけです」


 「“知る者”の顔だ」


 「……?」


 「知識を持つ者は二種類いる。

  一つは、それを“自分の力”と信じ、民の上に立とうとする者。

  もう一つは、それを“人のための道具”と捉え、汗を流す者。

  君は、後者だ。だが……それだけでは終わらぬな」


 蔵六は懐から、書き付けのようなものを取り出した。


 「これは私が各藩に提案している“災害時の衛生対策案”だ。簡素なものだが、君のような人物がいれば、形にできるかもしれない」


 それは、井戸の位置や、排水の誘導路、薬草の備蓄法などが描かれた、実に具体的な図だった。


 (……この人、本気だ)


 晴人は図を受け取りながら、無意識に目を走らせていた。


 「雨水の流れまで想定してある……」


 「私が江戸で蘭方を学んだとき、最も痛感したのは“現場を知らぬ策は毒”ということだ。

  君には、現場がある。だから、託したくなった」


 静かな声だった。だが、その奥には炎のような熱があった。


 「宇和島の藩主は、私に“未来を見てこい”と言った。……私は、ここで見た」


 晴人は、しばらく言葉を返せなかった。

 この短時間で、これほどの信頼を受けるとは思っていなかったからだ。


 「私も……あなたと会えて、よかった」


 「互いに“私”のために動いていても、それが“公”を動かすこともある。

  それが、“公私のはざま”だ。――君は、そこで生きている」


 蔵六はそう言い残すと、ゆっくりと背を向けた。


 「町の灯を絶やすな。民が“誰かを見ている”限り、変化は止まらぬ。

  私もまた、君のような者を“見ている”」


 陽が傾き、彼の影が長く伸びる。


 「では、私は行く。また、いずれどこかで」


 「……はい。また、きっと」


 晴人は、静かに頭を下げた。


 蔵六が去った診療所に、夕風が吹き込んできた。


 その風は、どこか西の空の匂いがした。


 遥か彼方――まだ知らぬ誰かが、同じように民を見つめ、行動を始めている。

 そんな予感を残しながら、晴人は脈取り具を胸にしまい、子どもたちのもとへと戻っていった。

翌朝、空には一面の薄雲がかかっていた。


 晴れるか、雨が降るか。読めない空模様に、町の人々も半ば肩をすぼめて歩いていたが――それでも、町にはどこか活気があった。


 炊き出し場の奥。

 いくつかの木札が立てられ、縄で囲われた一角に、薬草が植えられ始めていた。


 晴人が「ここを薬草管理の畝にしよう」と提案した場所だった。


 用意されたのは、地元で採れるドクダミやヨモギ、キキョウの根、オオバコなど。

 どれも地味な雑草に見えるが、煎じて使えば咳や熱、傷の手当に役立つものばかりだ。


 「水の流れ、ここで合ってますか?」


 鍬を持った少年――てっちゃんが振り返る。


 「うん、いい場所だよ。水がたまりすぎないし、日もよく当たる」


 「そっか……なんか、薬作ってるっていうより、“畑”って感じだね」


 てっちゃんの言葉に、晴人は少し笑った。


 「畑でいいんだ。ここから“町の元気”が育つんだから」


 「そっか!」


 子どもたちが、次々に苗を植えていく。


 道具は不揃いで、手際もまだ拙い。

 けれど、その一つひとつが、間違いなく“町の未来”を形づくっていた。


 周囲では、大人たちがその様子をちらちらと眺めていた。


 「……何してんだろうな、あの子たち」


 「薬草だってよ。煎じて飲ませるやつ」


 「まさか、こんな町の隅っこで、ああいうのが始まるとはな」


 そんな会話が、どこか嬉しそうに交わされている。


 晴人はその声を聞きながら、そっと記録帳にメモを取った。


 > 「薬草畑、第一期。5種、12株。管理:てっちゃん他3名。

 > 水場との距離良好、午後の日照も確認。観察記録続行」


 やるべきことは山ほどある。

 でも今は、まずこの“土を耕す”ところからだ。


 昼下がりになると、晴人は商家の通りに足を運んだ。


 かつてはほとんど無言だった商人たちが、最近では挨拶を返してくれるようになった。


 「晴人さま。昨日の薬包紙、余っておりますが、お持ちになりますか?」


 「助かります。あと、あの木桶……もし再利用できるなら、薬草の煎じ貯めにしたいのですが」


 「なるほど! そいつぁ面白い。――ああ、だったらこっちに少し深めの桶がありますぜ」


 晴人は礼を言って、それを受け取る。


 “公”ではない。“制度”でもない。

 だが確実に、「町が自分で考え始めている」――その気配が、通りの空気に漂っていた。


 炊き出しの大釜も、今では町の婦人たちが自発的に交代で火の管理をしている。

 前日とは違う顔が、灰を掻き、米を量り、薪を割る。


 ある老婆が、晴人に言った。


 「ここに来れば“誰かが待ってる”って分かると、足が向くんだよ」


 それは、“制度では生まれない”種類の信頼だった。


 その夜、晴人は再び記録帳を開いた。


 灯りの下で、墨をすべらせながら思う。


 (蔵六さんが言っていた“衛生図”、あれは“設計”だ。

  でもこの町に必要なのは、“暮らしの中に落とし込んだ形”だ)


 晴人は、町の地図に小さく赤丸をつけた。


 > 「水場A:雨天時にぬかるみ多し。板敷き必要」

 > 「薬草畝:南側は風の通り良。育成状況に応じて拡張」

 > 「炊き出し拠点②:そろそろ煙突の改良要。火の回りにばらつきあり」


 まるでゲームのように、町の“攻略”を考えている気さえした。


 だがこれは、人を生かすための“遊び”だ。

 命を、日々を、未来を――守るための設計図。


 「……制度になる必要はない。“文化”になればいい」


 ぽつりとこぼれた言葉に、晴人自身が驚いた。


 法律も、命令も、掲示も、いつかは剥がれる。

 だが、人々が自然にやっていること――それは文化になる。


 この町に、「薬草を植える子どもたちがいる」という事実。

 それは誰にも、否定できない。


 その瞬間、扉の向こうからノックの音がした。


 「晴人さま、失礼いたします!」


 声の主は、先日の見回り隊のひとり――稲荷町の青年だった。


 「急ぎでして……!」


 「どうした?」


 「町外れの井戸で、異臭がすると――婦人たちが騒いでおります!」


 晴人は筆を置き、すぐ立ち上がった。


 「分かった。案内してくれ」


 新たな問題は、すでに次の行動を呼び始めていた。


 だが今の晴人は、もう一人ではなかった。


 この町には、“共に走る者”がいる。

夜の帳が下り、草木も眠る頃。水戸城下の一角、仮の炊き出し所の離れに、二人の男が向かい合っていた。晴人の前には、灯りの揺れる湯呑みと、村田蔵六――宇和島藩の医師にして、西洋の学問に通じた男の影があった。


 「なるほど……薬草の煎じ方にまで口を出す藩士など、珍しいと思ったが……君、面白い」


 そう言って、蔵六は唇を湿らせた湯呑みを静かに置いた。


 「私は、水戸に残っていただきたいと思っています」


 その一言に、蔵六の眉がわずかに動いた。


 「唐突だな。まだ正式な書状もない。君は誰の命で動いている?」


 「誰の命でもありません。私の意志です」


 火にくべられた薪がぱちりと音を立て、部屋の中の影を揺らした。晴人は背筋を正し、言葉を選びながら続けた。


 「水戸には、医が足りません。特に町人の間には、薬も、知識も、そして衛生という概念すら届いていない。蔵六様のような方がいれば、どれほど多くの命が救えるか……」


 「理想論だ。私は旅の者だよ。宇和島に籍を置き、今は視察の途上。ここに根を下ろすつもりはない」


 きっぱりとした拒絶に、晴人は頷いた。だが、その瞳は揺るがなかった。


 「承知の上です。それでも、ひと月で構いません。町の様子を見ていただけませんか」


 「なぜ、そこまでして私を?」


 「……私は未来を知っている。とは言いません。ただ、“ここ”のままでは、きっと救えない人々がいる。火傷も、怪我も、病も、すべて神頼みでは限界があります。だからこそ、学を持つ者が必要なんです。――どうか、力を貸してください」


 その声は、震えてはいなかった。ただ静かに、真っ直ぐに、蔵六の胸へと届いていた。


 しばらくの沈黙ののち、蔵六は深く息を吐いた。


 「君……何者だ」


 「水戸の者です。民を見捨てたくない、ただの男です」


 部屋を満たす沈黙は、もはや否定ではなく、思案の色を帯びていた。


 やがて、蔵六はふっと笑みを浮かべた。


 「……一か月だけだ。その間に、私が見たものが、何かを動かすかもしれない」


 「ありがとうございます」


 深々と頭を下げた晴人の背に、蔵六の声がかかった。


 「ただし、条件がある。私を使うつもりなら、遠慮は要らん。その代わり、私の言うことにも耳を貸してもらうぞ。あまりにも非科学的な施策は、容赦なく批判する」


 「もちろんです。私も、理屈と現実の両輪を信じていますから」


 その夜、二人の影は、薄明の灯りの中で静かに重なった。


 未来を切り開くのは、言葉ではない。行動と、意志だ――。


 晴人はその確信を胸に、夜の町へと視線を向けた。

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正体を明かすのか? 多分ですけど正体は明かさずに終わりそう。けれど少しだけ何かを伝えそうな。
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