90.5話: 月明かりの誓い
常陸・羽鳥屋敷――藩邸の奥向は、秋の陽が斜めに差し込み、庭木の影が長く伸びていた。
屋敷の正門から奥までの道は砂利敷きで、踏み締めるたびに小さく音を立てる。玄関近くには若い中間たちの姿があったが、奥へ進むほど人影はまばらになり、廊下の板間はしっとりとした静けさを宿していた。障子越しには柿の実が色づき、庭を渡る風が藁の香りを運んでくる。
藤村晴人は、その奥の一室――帳場へと足を踏み入れた。
既に用人二名が畳に座し、文机の上には半紙三枚と硯、朱印が整然と置かれている。
この場で行われるのは、表向きの婚礼や奥女中の正式任官ではなく、あくまで“内々”の取り決めだ。形は簡素だが、晴人にとっては十分な意味を持つ儀式であった。
「では、こちらが書付でございます」
用人が一枚目の半紙を持ち上げ、淡々と読み上げる。
「御側付世話係のまま、内々御側として遇する――以上」
あっけないほど短い文面。しかし、それでよかった。形よりも互いの理解と約束が大切だ。
次に差し出されたのは、お吉自筆の誓紙。墨の線は凛としており、潔さがにじむ筆致だった。
〈政事には一切関与せず、身辺の世話に専一する。嫌ならば、いつでもこの務めを退く〉
この一文は、藩内の派閥や詮索から距離を置くための盾であり、同時に彼女が自ら定めた境界線だった。
お吉は筆を置き、静かに晴人を見る。
「……これで、文句はございませんね」
晴人は頷き、墨を含ませた筆で署名する。最後に用人が朱印を押し、三枚の半紙は重ねて封が施された。
所要時間は半刻もかからなかった。
お吉の私財についても簡単な確認があった。
彼女はハリスから莫大な支度金を受け取っており、その資金で羽鳥での生活を維持できる。藩主や晴人に経済的負担をかけることはない。
「お吉殿の居所は、奥向きのこちらの小間に」
用人が広げた間取り図には、八畳の部屋と小さな縁側、すぐ隣に湯殿と化粧の間が描かれていた。屋敷の中心からも近く、必要な時にすぐ呼べる位置である。
呼称は内輪だけで「お部屋さま」とすることも決められた。
小袖の袖口を整えたお吉は、白地に淡い水色の霞文様の衣をまとい、灯明に映えて艶やかだった。
用人たちが下がると、座敷には二人きりになる。外からは柿の葉が風に揺れる音と、遠くで犬の鳴く声が聞こえてくる。
晴人は、しばらく黙ってから言った。
「務めは変えない。ただ、夜だけは――」
お吉は畳に手をつき、深く一礼した。
「はい。嫌なら嫌と言えと、書いてもらいました。……今宵は、好きでございます」
その一言が、形式だけでなく彼女の意思をはっきりと示していた。
晴人の胸に、安堵と高鳴りが同時に広がる。
その夜、羽鳥屋敷の奥の小間には、ひとつの灯明だけが柔らかく灯り、やがて闇がすべてを包み込んでいった――。
夜が明け、羽鳥の空は一面の薄曇りだった。
庭の柿の葉が朝露をまとい、橙色の実は曇天の下でもひときわ鮮やかに映えている。
小間の障子を引けば、湿り気を帯びた秋の空気がするりと流れ込み、畳の匂いに混じって藁葺きの香りが鼻先をかすめた。
藤村晴人は、まだ座敷に残る夜の気配を背に、ゆるりと起き上がった。
昨夜の出来事を思い返すたび、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
形式だけではなかった。互いの意思を確かめ、言葉を交わした上で結ばれた関係――それは、この不安定な時代において、どれほど貴重なものか。
縁側から庭を眺めていると、襖の向こうで小さな気配が動く。
「おはようございます」
お吉が淡い薄紫の小袖をまとい、膝をついて頭を下げる。その声色は柔らかく、しかしどこか張り詰めた芯を含んでいた。
彼女の髪は昨夜より整えられ、玉かんざしが光を受けて控えめに輝く。
「朝餉の支度は整えております」
そう言って、お吉は盆を運び入れる。白米、味噌汁、焼き魚、漬物。どれも簡素ながら、器の置き方や箸の向きにまで気が配られていた。
「城下の市場までは近くございませんから、保存が利くものを工夫してまいります」
言葉には、すでに“屋敷の人”としての自覚が宿っている。
朝餉を終えると、お吉はすぐに奥向きの掃き清めに移った。
庭の砂利道を箒で掃きながら、ふと足を止めて柿の木を見上げる。
「この柿、干し柿にすれば冬越しにも役立ちます。……よろしければ、政務の合間にでも手伝っていただければ」
晴人は小さく笑い、「手伝うというより、つまみ食いしそうだな」と応じる。
お吉の唇に、わずかな笑みが浮かんだ。昨夜の緊張がほどけ、互いに距離が縮まった証のようだった。
午の刻近く、用人が来訪した。
「羽鳥領の冬支度、奥向きの物資帳をお確かめ願いたい」
これはお吉の新しい務めのひとつだ。衣類や食料、薬草の備えなど、奥向き全体の細かな調達と管理を担う。
お吉は受け取った帳簿を膝に置き、一つひとつ指でなぞりながら確認していく。その姿は、まるで昔からここにいたかのような落ち着きがあった。
午後には、奥女中たちが訪れた。新しい「お部屋さま」としての顔合わせだ。
お吉は深く礼をし、「身辺の世話専一」と自らの立場を簡潔に述べる。政事には関わらないという約束は、ここでもきちんと示された。
女中頭はその潔さを好ましく思ったのか、「お部屋さまが来てくだされば、奥向きも安泰です」と笑顔を見せた。
日が傾く頃、庭の柿の実を収穫するために二人で脚立を運び出した。
「高いところは危のうございます、私が参ります」
そう言いながらも、お吉の手は枝に届かない。
結局、晴人が上り、柿をもぎ取っては下のお吉に手渡す。籠の中で橙色が積み重なっていくたび、庭先に小さな達成感が満ちた。
夕餉の後、灯明の下でお吉は針仕事をしていた。
白布を縫いながら、「この屋敷には布巾が足りません。井戸水で使うとすぐにほつれますから、丈夫な晒を仕入れとうございます」と呟く。
晴人はその横顔を見て、「お前が言うなら、すぐに手配しよう」と応じる。
それは政務の話ではない。ただ、彼女の暮らしやすさを整えるための小さな約束だった。
夜更け、二人は縁側に座り、庭の闇を眺めた。虫の音が遠くから響き、冷たい風が頬をかすめる。
お吉がぽつりと、「この羽鳥での務め、長く続けられるように致します」と言った。
その声は、誓紙の文字よりもずっと重く、確かな響きを持っていた。
晴人はただ、静かに頷いた。
夕餉の支度が整う頃、奥向の廊下はしんと静まり返っていた。障子越しに揺れる行灯の灯が、薄闇に溶けて淡く漂う。炊きたての白飯の匂いと、煮付けた鯖の香ばしさがほのかに鼻をくすぐる。
膳を並べるお吉は、薄鼠色の小袖に前掛け姿。襟元から覗く白い肌は、湯上がりのせいかほのかに赤みを帯びていた。髪はまだ半分ほど湿っており、うなじに貼りついた黒髪の一本一本が妙に艶やかだ。
「湯は、ちょうど良かったか」
廊下から入ってきた俺が声を掛けると、お吉は顔を上げて軽く会釈した。
「はい。羽鳥の湯は、江戸のそれより柔らかい気がいたします」
「井戸水の質が違うからな。地下が深いぶん、湯も丸くなる」
何気ない会話だが、こうして並んで話す時間が、妙に心を安らがせる。
夕餉は二人きり。主従でありながら、距離感は少しずつ近づいている。箸を伸ばすたび、お吉の指先が俺の手の近くをかすめ、その度に微かな緊張が走った。
「この鯖、美味しいな」
「市場で一番脂の乗ったものを選びました」
言葉は簡素だが、その奥にある心配りが伝わる。俺はゆっくりと膳を片付け、湯呑の茶をすすった。
食後、廊下に出ると、夜気がひんやりと頬を撫でた。庭の隅では虫が細く鳴き、遠くからは川音が響いてくる。秋の夜の静けさが、羽鳥の屋敷をすっぽりと包んでいた。
お吉は湯呑を手に、縁側に腰を下ろす。月明かりが彼女の横顔を照らし、睫毛の影を長く落としている。その表情はどこか柔らかく、江戸で見せていた警戒の色はもうない。
「……江戸では、夜になると心が落ち着きませんでした」
ぽつりと洩らした声は、秋風にさらわれそうなほど小さい。
「羽鳥では?」
「ええ、こちらでは、息がしやすいのです」
その言葉が嬉しくて、俺は縁側に腰を下ろし、並んで月を仰いだ。
しばらく沈黙が続き、夜虫の声だけが流れた。やがて、お吉が視線を落とし、手の中の湯呑をそっと置く。
「……政には関わらぬと、書きました」
「そうだな」
「けれど、あなたの傍にいることまで、禁じられたわけではありません」
その一言が、胸の奥で火を点けた。俺はゆっくりと振り向き、彼女の瞳を見据えた。
「務めは変えさせぬ。ただ……夜は、そばにいてほしい」
声は自然と低くなり、言葉が空気を震わせる。
お吉は一瞬だけ目を瞬かせ、次いでわずかに唇の端を上げた。
「承知しております。……それでも、今宵は私の方から参ります」
その言葉が終わるや、彼女は膝を寄せ、距離を詰めてきた。衣擦れの音が耳に残る。指先が俺の手の甲に触れ、ほんの僅かに震えている。
行灯の灯が、二人の影を障子に濃く映し出す。
「嫌なら、すぐに離れます」
「……離れる気はない」
俺の返事を聞くと、お吉は小さく息を吐き、そっと肩を寄せた。その体温が、袴越しにも確かに伝わってくる。
廊下の先で、番の者が足音を立てて通り過ぎる。けれど、この空間だけは外界から切り離されたように、静まり返っていた。
俺はそっと彼女の手を取り、立ち上がる。お吉も何も言わず、ただついてくる。
奥の小間に入ると、行灯の光が柔らかく床を照らし、畳の青い香りが漂った。襖を閉めると、外の虫の声が少し遠のく。
向かい合ったお吉の瞳は、光を受けてかすかに揺れている。
「……今宵は、好きでございます」
その囁きとともに、彼女は自ら距離を詰め、唇が触れた。最初はためらいがちに、だが次第に深く。
俺の中の理性が静かに溶けていき、ただ求める心だけが残った。
やがて、行灯の炎が揺れ、影が重なり合う。衣擦れと浅い呼吸が、畳の上に積み重なっていく。
外の秋風は冷たいのに、この部屋の空気だけが熱を帯び、ゆっくりと時間がほどけていった。
行灯の灯が、小さく明滅していた。
お吉の髪が、肩から零れ落ちるたびに灯影が揺れ、畳の上に柔らかな影を落とす。その影は俺の腕にも流れ込み、肌の上で温もりと混じり合った。
指先が、そっと頬に触れる。お吉の手は温かく、しかしその温もりの奥には微かな緊張が潜んでいた。
「……顔が、近いですね」
囁く声は笑っているようでいて、かすかに震えている。
「離れた方がいいか?」
「いえ……このまま」
短く返すと、彼女は瞼を閉じ、まつ毛が頬に影を落とした。
外では、夜風が庭の竹を揺らし、さらさらと音を立てている。虫の声は遠く、時折、瓦屋根を渡る風の唸りが聞こえた。世界がこの部屋だけを残して静まり返っているように思える。
お吉は膝を崩し、俺の胸元に身を預けた。その重みは軽く、けれど確かで、心の奥底にまで沁み入るようだった。
「こうしていると……江戸のことが、夢のようです」
「忘れていい夢なら、そのまま忘れてしまえ」
「けれど、忘れたくない人もおります」
その言葉に一瞬胸がざわめく。だが次の瞬間、彼女は俺を見上げて言った。
「……今は、目の前の人のことだけを思っています」
その瞳に映っているのは俺だけだった。
距離が、もう一度詰まる。髪の香りが鼻先をかすめ、微かに甘い。二人の呼吸が重なり、温度が一つになる。
やがて、行灯の灯が低くなり、部屋の明かりはほとんど月明かりだけになった。障子越しに差し込むその光は白く淡く、お吉の輪郭をやわらかく縁取っている。
月明かりに照らされた肌は滑らかで、指先でなぞれば、その下にある微かな鼓動まで伝わってくる。
「……殿」
呼びかける声は、これまで聞いたことのないほど柔らかかった。
俺はその声を逃すまいと、耳元で聞き返す。
「なんだ」
「こうして、傍にいてもよいのですね」
「俺が許す」
その返事に、彼女は微笑んだ。まるで長く閉ざされていた戸が静かに開かれるような、穏やかな笑みだった。
時間が緩やかに流れ、やがて二人の間に言葉はなくなった。
行灯の灯が完全に尽きると、部屋は闇に包まれたが、不思議と何の不安もなかった。お吉の温もりが、闇よりも確かな存在としてここにある。
夜が更けるほど、外の空気は冷え込み、障子の向こうでは霜が降り始めている気配がする。だが、この部屋の中だけは、微かな熱を帯びたままだった。
お吉の指先が、俺の手の甲をなぞる。その動きはゆっくりで、何かを確かめるようだ。
「……冷たい手ですね」
「お前が温めてくれるだろう」
「はい」
短い返事が、やけに頼もしく響いた。
やがて、お吉は俺の胸に顔を埋め、深い呼吸を繰り返す。その呼吸に合わせて、俺の心臓も不思議と穏やかになっていった。
ふと、彼女の髪からわずかに湯の香が漂い、今夜の始まりを思い出させた。湯上がりの柔らかさと、今ここにある温もり。その両方が、心地よい酔いのように頭を包み込む。
遠くで、鶏が一声鳴いた。まだ夜明けには早いが、東の空がわずかに白み始めているのかもしれない。
お吉はまだ目を閉じたまま、浅く眠っているようだった。唇がわずかに緩み、普段は見せない無防備な表情になっている。その顔を見ていると、胸の奥から何かが静かに溢れてくる。
この先、どんな嵐があろうとも、この時間だけは守りたい――そう思わせるほどに。
俺はそっと片手でお吉の髪を撫で、もう片方の手で肩口の掛け布を整えた。
その拍子に、お吉が薄く目を開ける。
「……寒くないです」
「そうか」
また瞼が閉じ、穏やかな吐息が戻ってくる。
外の虫の声がやみ、代わりに風の音が強くなった。屋根の上を渡る風は冷たいが、その音さえも子守唄のように感じられた。
俺は目を閉じ、耳を澄ます。お吉の呼吸と風の音が、同じリズムで流れていく。
やがて夜が明けるだろう。政務が待っていることも、面倒な使者がやってくることも分かっている。だが今だけは、それらすべてを遠ざけ、ただこの瞬間に身を委ねた。
お吉もまた、同じように思ってくれているだろう。そう信じられる温もりが、ここにあった。
夜明け前の静けさの中、二人はしばらく動かず、ただ寄り添っていた。