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90話:軌道は未来を運ぶ

七ツ半、羽鳥の空は薄氷のように澄み、吐く息は細く白い糸になってほどけた。政庁の書院に灯した行灯の明かりの下、藤村晴人は横浜から上がった海外新聞の抄訳に目を走らせる。冒頭、大書された一文――


 「一月一日、合衆国大統領リンカーン、奴隷解放宣言を発す」


 紙面に刷り込まれた活字は冷たいのに、胸の奥で何かが静かに解けた。身分の縛り、借財の鎖、土地に縫い付けられた暮らし――どれも一夜にして消えるものではない。だが、言葉は枠をひとつ外す。人の行いを次の段へ押し出す。晴人は茶をひと口含み、別の紙束へ指を移した。そこにはもう一つの報せ。


 「一月十日、倫敦にて地下鉄開通。蒸気機関車、地中の隧道を走る」


 目の奥で、冬の霞ヶ浦の白い面に、一本の線が走った。人足と牛馬が泥に膝まで沈み、荷は雨のたびに遅れ、税は帳簿の上でしか動かない――そんな日常に、溝一本で風穴を開けられないか。


 「……地下へ潜らずともいい。地上でやる」


 机上の白紙に、炭筆が走った。二本の平鋼、その上にフランジ付きの鉄輪――「軌道式荷車道」。荷車にレールを与え、摩擦を半分以下に落とす。馬一頭の力で、四俵が八俵になる。人足一人で、泥に膝を取られずに進む。羽鳥と水戸を結ぶ道に、鉄の筋を通す。


 「栄一」


 呼ぶと、渋沢栄一が帳場から紙束を抱えて入ってくる。


 「常陸—水戸の運搬線、起工する。名目は『運搬軌道』。官道の路肩を借り、田畦を避け、橋は木桁で足らせる。資材は羽鳥会所持ち、勘定は『土木出納』の箱を新設。利払いの重しになる前に、物流で返す」


 渋沢は素早く筆算した。「返済の見込みは?」


 「武器と煙草で稼いだ銭に、さらに“速さ”を足す。銭は回れば殖える。滞って腐るのは水だけじゃない」


 「ゲージは?」


 晴人は白紙に数字を書いた。「三尺六寸――約一・〇六七。狭いが、曲がる。橋も安く済む」


 「鉄の目処は?」


 「弥太郎を呼べ」


 間もなく岩崎弥太郎が駆け込んできた。冬の風に焼けた頬、煤の筋が残る額。晴人は木炭の先で図を叩く。


 「平鋼の帯を打つ。鍛冶座で二寸幅、厚み四分。栗の木の枕木に犬釘で締める。帯鉄は長さ三間ずつ、継ぎ目は漁師が使う“蟹の爪”のような鉄片で噛ませる。蛇頭スネークヘッドを出すな。帯が反り上がって荷車の腹を裂くのが、いちばん危ない」


 弥太郎は真剣に頷く。「長尺の帯鉄は横浜で探ってみましょう。鋼塊を引かせるところがあるはずです。横浜—羽鳥は船と荷車で中継、時間さえ読めれば持ってこられます」


 「象山先生も」


 呼ばれて現れた佐久間象山は、図面を一目見て口角を上げた。


 「隧道は掘らぬのか」


 「地表で充分です。まずは『滑る道』を手に入れる」


 「よろしい。勾配は千分の二を越えるな。水切りをこまめに。分岐器は手動、鋼の舌を二枚、開きは四寸。軌条の間に砂利を敷き締めよ。泥は軌道の敵だ」


 晴人はうなずき、最後に小さく書いた。「牽引は馬と人。春に試す。夏に伸ばす」


     ◇


 初春の北風が枯草を倒す河岸で、第一列の枕木が並んだ。栗の木を二尺間隔で置き、弦のように緊張させた鉄の帯が、その上に釘で縫い付けられていく。鍛冶が火床で赤めた帯を叩き、曲線に合わせ、鳶口で引き込む。


 「犬釘、斜め、斜めだ。真っ直ぐ打つな、抜ける」


 晴人の声が風に消え、また戻ってくる。土方歳三が腕を組み、分岐器の舌の動きをじっと見つめた。


 「これで荷車が三十間の先で進路を変えられる。番小屋に二人立てろ。子どもに触らせるな」


 近藤勇は軌条の上に乗り、踏み心地を確かめる。「揺れますが、乗り上げはしませんな」


 「砂利が締まれば治る。枕木が乾く前に列を通すな」


 軌条の端では、沖田総司が木車輪の周に鉄輪を嵌める作業を見て、目を細めた。「輪が美しいと、道も美しく見える」


 「輪が狂えば、道が泣く」


 晴人は笑い、最初の「軌道荷車」を押した。二人でよい、と言われていた。しかし、押してすぐにわかった。泥に沈む代わりに、荷車はするすると走り、手のひらにかかる重みが薄くなる。荷台の上では米俵が一つ、二つ、三つと重なる。馬を繋ぎ、御者が軽く口笛を吹く。


 「動け」


 馬が一歩踏み出す。鉄の輪が鉄の道を噛み、音は高く透明だった。荷車は軽やかに二十間を走り、分岐器の手前で止まる。番小屋の若者が舌を切り替え、御者が軽く手綱を引く。荷車がやや腹をくねらせて新しい道へ滑り込み、また走った。


 「……速い」


 誰かの呟きが風に乗り、枕木の列を渡って広がった。


     ◇


 翌朝、羽鳥会所の黒板に新たな項目が書き足される。《運搬軌道:羽鳥—水戸 起工/第一期五町》。側には細かな勘定が朱墨で並ぶ。枕木一本いくら、帯鉄一本いくら、犬釘百本いくら。渋沢は出納を確かめ、職人の人足賃に遅れがないことを確認する。


 「銭は工程で払う。働いた日には食える。これが遅れたら軌道は止まる」


 晴人は短く言い、帳簿を閉じた。紙の束の底には別の勘定が眠っている。借金の残高だ。六十六万七千両。煙草専売と紙巻輸出で一割強、武器の部品輸出と修理で二割、米と銅と木材の定期売買で一割――そこに「速さ」を加え、回す。先月の締めで見えた数字は、ようやく“一年半で完済”へと滑り込み始めていた。


 「晴人様」


 斎藤お吉が文机の端に湯を置いた。薄荷の香が薄く立ち上る。彼女は湯の温度を目で測るように一瞬だけ盃を覗き、静かに下がった。


 晴人は湯を口に含み、そのまま立ち上がる。「現場へ」


     ◇


 運搬軌道は、川に沿って柳の列をかすめ、里山の裾を巻いて伸びた。道沿いの農家の庇には、いつもより早く米俵が積まれ、軒先の子どもが鉄の道に触れようとして母親に手を叩かれる。土手には旗が一本立ち、そこに大書されているのは「止まれ」。分岐器の手前、番小屋の若者が半鐘を鳴らし、荷車は滑らかに減速する。


 「水戸側の市場まで入れますか」


 弥太郎が肩越しに問う。


 「市場の手前で荷を下ろす。城下は馬車、人足の範囲。最初から全部を鉄に任せるな。人の仕事を奪ってはならない。だが、泥に沈む力は減らせる」


 晴人は足元の締まり具合を靴の爪先で確かめた。砂利の噛み、枕木の沈み、帯鉄の鳴き――音は嘘をつかない。


 「先生」


 と、象山が肩越しに紙片を差し出した。倫敦の地下鉄の図版の写しだ。地に潜った鉄の管、蒸気、煤、煙突。象山は言う。


 「いずれ、城下の大通りにも鉄を敷くときが来る。その時は、人が乗る台車を作ればよい。だが、今は荷だ。荷が先、人は後」


 「ええ」


 晴人は紙片を畳んで懐に入れた。倫敦は遠い。だが、遠さは道で縮む。言葉は枠を外し、道は距離を縮め、銭は速度で殖える。


     ◇


 夕刻、試運転最後の一本が水戸方へ滑り込む。空は灰紫に沈み、軌条の上に薄い霜が下りていた。荷車の御者が笑う。


 「この道は、馬を疲れさせない」


 番小屋の若者が、半鐘を小さく叩く。「今日はここまで」


 晴人は軌条の脇に腰を下ろし、懐から一本の小瓶を出した。蝋封の青――《海路檸緑》の余りを、冬に備えて薄く温め直したものだ。栓を抜くと、柑橘と煎茶の香が寒気の中でやわらかく揺れた。盃に注ぎ、ひと口。


 酸が舌を打ち、頭の中の歯車がまたひとつ噛み合う。喉を通る熱が、胸の奥でゆっくり開く。隣で弥太郎が目を丸くした。


 「旦那、それは……」


 「現場用だ。凍えた指は、温い酸が戻す」


 盃をもう一献。象山も受け、渋沢も一口だけ口を湿らせる。口々に短い感想が落ち、そこに寒さの愉しさが宿った。


 夜風が走る。遠く、番太鼓が刻む。軌条は黒く伸び、枕木は白く息をしている。


 晴人は立ち上がり、薄闇の先を見た。


 「――撃つ先は、戦場じゃない。未来だ」


 鉄の筋は、銃身にも道にもなる。銃は時間を買い、道は銭を殖やし、人の暮らしを軽くする。倫敦の地下に走った煙の匂いが、ここ羽鳥の地表にも小さく届いた気がした。


 借金は、まだ残る。だが、返す道筋は見えた。武器が、煙草が、そして“速さ”が、常陸の懐に戻ってくる。帳簿の数字は冷たいが、現場の息は温かい。鉄の輪が鉄の道を鳴らし、その音は、確かに“生きる”の音だった。

軌条は川霧に濡れ、朝日がそれを銀の帯に変えた。試運転の翌日、羽鳥—水戸の第一期区間は夜明けとともに動いた。番小屋の半鐘が一打、二打、三打。荷車の鉄輪がゆっくりと転ぎ出し、砂利が低く鳴る。


 最初の便は米と木綿、次が薬草、三番目が銅鉱と木炭。御者は馬の肩を軽く叩き、御者台の少年が分岐器の舌に手をかける。合図は短く、動きは小さい。だが、その小さな所作の積み重ねが、荷の重さを半分以下にしていく。


 「止まれ、分岐」


 半鐘が高く鳴り、荷車がするりと舌の上を渡る。晴人は枕木の列を歩き、継ぎ目に指を這わせた。蟹の爪のような継手はぴたりと噛み、帯鉄は揺れず、犬釘は斜めに咬み込んでいる。上等だ、と思うと同時に、まだ足りぬ、とも思う。


 「栄一、沿線で一里ごとに“検見札”を立てよう。釘が浮いたら墨で印、帯が鳴いたら朱で印。月末に回って印の多い場所から補修だ」


 渋沢栄一は手帳に素早く書き、番小屋の若者へ向けて合図した。「半鐘は遊びじゃない、命綱だ。合図は手の内で」


 午の刻前、沿線の村から代表が三人、会所へやって来た。畦道が軌条に切られ、田の行き来が遠回りになった、と言う。晴人は図面を示し、簡易踏切の位置を一本、移した。


 「ここ。稲刈り時は通行が増える。出入り口の幅を倍に、踏切板は栗材で三寸、釘は倍打ち。見張り役を一人置く。人足賃は藩が払う」


 「……道は、わしらの命綱で」


 「わかっている。だからこそ、道は“滑る”べきだ。泥で命綱が切れてはならない」


 短い応答ののち、三人は会釈を残して帰った。背中が少し軽く見えた。人は言葉だけでは動かない。だが、図と釘の数は腹に落ちる。


 午後、軌道上を武具の箱が滑った。那珂川の支流で組み上げた常陸式弐号の部品、そして修理戻しの銃身。荷札には「狩猟具」。箱の外は“ガラス瓶”。内箱には緩衝の藁、鉄片の擦れを止める紙。岩崎弥太郎が最後の木栓を打ち、焼印の「常弐」が焦げて立ちのぼる。


 「上海からの返文、半金前渡しだそうです」


 渋沢が差し出した文を晴人は一読し、黙って頷いた。「弾は見本のみ、雷管は出さない。火薬も出さない。道具の“数”ではなく、こちらの“時間”を買わせる」


 「ははあ。弥太郎、船は?」


 「海路檸緑で使ってる小型の帆走蒸気、艙を掃除済み。箱は“瓶”、荷主は“羽鳥会所”。潮を見るのに、船頭が一刻ほしいと」


 「与えろ。急いて沈めば元も子もない」


 倉口では、侍未亡人の一隊が檸緑の箱を積み、代銀を受け取って笑った。返却空瓶の束も戻る。番号札が揺れ、蝋封の青が陽に光る。檸緑は兵の喉と商人の舌をうるおし、ついでに軌道の工人の喉をも冷やした。


 夕刻、羽鳥—水戸の第一便が市中の荷問屋に到着した。問屋の主が天秤を見やり、いつもより早い、と目を丸くする。穀相場は乱れず、木綿は薄く安く、銅鉱は重く高く。帳場で墨をすった手代が、羽鳥紙幣の透かしを光に透かし、すぐ現銀へ引き替える。流れが止まらない。


 「この速さなら、二便目も日の内に入る」


 御者が指で空をさした。西の端に薄い雲、風は穏やか。晴人は頷いて半鐘を二打、分岐の舌がひらく。


 夜。水戸からの帰り便は空箱と空瓶、そして江戸行きの注文書。半鐘が星空に細く鳴り、軌条の鉄が月を映す。枕木は冷え、犬釘は夜気を吸う。番小屋の灯の下で、近藤勇が見張り帳に朱を入れ、土方歳三が分岐の舌を指で撫でた。


 「銃よりも、人が死ににくい道のほうが、よく効く」


 土方の低い声に、晴人は短く笑った。「銃は時間を買う。道は銭を殖やす。どちらも“生き延びる”道具だ」


 「沖田、足は?」


 「攣りません。温い檸緑に塩を二つまみ。夜番には、これがいちばん効きます」


 笑いが小さく生まれ、夜の中に溶けた。


 その夜更け、政庁の帳場では締めが続いた。渋沢は出納を揃え、弥太郎は船足と荷合せを再計算する。象山は次期区間の勾配を書き込み、千坂登は複式帳簿の左右を指先で確かめる。晴人は最後に借財台帳を開き、今月の返済額を朱で打った。


 “六十六万七千両の残、ここまでに三割強を削る。煙草、武器、米・銅・木材。そして速さ。見通し――一年半にて全額”


 筆は止まらない。だが、筆の先に甘い夢はない。ただ、次の現場と次の数字があるだけだ。


 翌朝、軌道沿いの村で小さな出来事が起きた。老女が荷車の通るたびに胸を撫で下ろし、孫に「道を見るんだよ」と言った。屠場上がりの若者が瓶洗い場から番小屋に出向を命じられ、半鐘の意味を覚えた。えた・ひにんと呼ばれていた手が、今度は分岐器の舌を押し、荷の通りを守った。


 「名前はどうでもいい。役があればいい」


 晴人は心の中でだけ呟いた。倫敦の地下鉄は見えない。だが、見えないものは想像できる。想像できるものは、ここで別の形にできる。


 昼下がり、羽鳥の藩校で小さな講義が行われた。題は「摩擦」。煎茶を湯のみに注ぎ、表面張力を見せ、指で軽く揺らす。木の輪と鉄の輪を板の上で押し、子どもたちに比べさせる。最後に校庭の隅の試験軌条で、二人乗りの台車を押す。少女が目を丸くして叫んだ。


 「軽い!」


 「軽いのは、人の心もだ」


 講義が終わる頃、遠くで半鐘が一打、二打。軌道が生きている音だ。教室の窓から射す光が、黒板の「摩擦」の文字を透かした。


 黄昏、羽鳥会所の黒板に新しい列が増えた。《運搬軌道:第二期 三町 起工》《帯鉄 到着予定 横浜—羽鳥 四日後》《分岐器 舌四枚 追加打鍵》。渋沢が朱で小さく書き添える。《返済 予定前倒し:一〇ヶ月 短縮 見込み》。


 晴人は黒板の前で立ち止まった。耳の奥に、倫敦の地中を走る蒸気の響きが、想像のままにかすかに鳴る。それに重なるのは、ここ羽鳥の半鐘、犬釘、鉄輪、檸緑の栓を抜く音。どれも小さい。だが、重ねれば街を動かす。


 夜、政庁の縁側でひと息。斎藤お吉が湯と一緒に、温い檸緑を小鉢に注いで置いた。晴人は礼を言い、一口だけ含む。酸が舌を打ち、体温が一段上がる。星は近く、冬はまだ深い。


 「――撃つのは、未来だ」


 誰に向けたでもない言葉が、吐く息とともに白く昇った。銃口の先にあるのは敵ではなく、次の季節。鉄の筋は夜の中で黒く延び、月がその上をゆっくり渡った。

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