表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

117/376

89話:凪の港、火薬の影

九月の風は乾いて、羽鳥の空に高く雲を流していた。政庁の書院に差し込む光は白く、その机上に一通の洋文書が置かれている。横浜の通詞を介して届いた欧州の報。冒頭に刻まれた名は、ビスマルク――普魯西の新たなる宰相。


 「一週間も経たず、鉄と血を語ったか」


 藤村晴人は、紙の端に残る潮の匂いを嗅ぎながら小さく息を吐いた。脳裏では大陸の地図が音もなく組み換わっていく。徴兵、関税同盟、軍需の膨張。彼の視界に浮かんだ文字は、鉄、銅、硝石――三つの資源であった。


 「鉄は骨、銅は血管、硝石は鼓動だ」


 独り言を置いたところへ、渋沢栄一が板挟みを抱えて入ってきた。帳面には横浜と長崎の市況が赤墨で引かれている。


 「横浜でも硝石の買付けが増えています。英船の仲買が値を上げ始めました」


 「先回りする。買うだけじゃない、作る。肥硝の床を増やせ。石灰と藁と堆肥と灰、雨除けをして水を温めろ。冬には結晶をすくい上げる」


 渋沢はうなずいた。晴人はさらに筆を走らせる。


 「同時に長崎でインド硝石を押さえろ。上海の松田にも前金で手を打たせる。利は薄くていい、買い負けるな」


 紙の余白に、晴人は三つの丸を描き矢印を伸ばした。鉄は羽鳥鍛冶座へ、銅は日立の製錬場へ、硝石は新設の火工試験所へ。最後にもう一行、太く書き足す。


 「量産前の最終試作に入る。常陸式弐号だ。壱号は治具合わせで役目を終えた。本命は弐号、次で参号の軽量化に移る」


 渋沢の目がわずかに光る。「資金繰りは会所で回します。羽鳥紙幣は据え置き、現銀と物で払います」


 「頼む」


     ◇


 水戸領、那珂川の支流沿い。古い砲術場の跡に梁が立ち、瓦が積まれていく。羽鳥商会が資金を回し、軍政局が図面を引き、鍛冶と鋳物師が群れをなして入り込んだ。水輪がうなり、長い軸が工場の奥まで通って砥石を回す。槌の音、砥の音、焼入れの湯気――音の全てが「量産」の予兆である。


 「水車の樋、もう一尺落として水を噛ませろ。軸が唸るくらいでちょうどいい」


 濡れた木橋の上から晴人が声を落とす。炉の脇では佐久間象山が割烹着じみた前掛けを締め、若い火工師に指を二本立てて見せていた。


 「雷汞は鬼だ。硝酸、酒精、水銀――順番を違えるな。量は最小、蔵は離れ、扉は二重、鍵は二つ。温度を守れ。命を落としたら技術は残らん」


 棚には紙箱に収めた小さな金属帽、雷管が並ぶ。隣には鉛で鋳たミニエー弾。三条のライフリングに馴染むよう、裾がわずかにすぼめてある。


 「銃身はどうだ」


 岩崎弥太郎が袖の煤を拭った。「内径五百七十七、絞り溝は試し中です。誤差はまだ一分ほど散ります」


 「散っていい。今は“揃える”を覚えろ。長さ、重量、目盛り。職人の手癖は美しいが、戦は同じ顔の道具が勝つ」


 弥太郎は静かにうなずく。その横を、近藤勇が木箱を担いで通った。箱には「火工」と焼印がある。後ろに土方歳三と沖田総司。彼らは今、常陸の軍政に仕え、試射と操法と安全規則を整える実務家だった。


 「藤村さん、射場の土手を二尺高くしました。百五十間まで目が利きます」


 「よし。今日は弐号の初撃ちだ。弾は鉛五百二十、黒薬は硝七、硫二、炭一の三ドラ。雷管は現場装てん、弾込めは規則どおり」


 土方が口端をわずかに上げる。「手が震える者には引き金を触らせるな」


 沖田は無邪気な笑みのまま銃身の刻印を指でなぞった。「“常陸・弐”の字、いい顔してますね」


     ◇


 試射の刻。土手の向こうに藁束の人形が立つ。距離を変え、風旗を立て、砂嚢の上に銃を据える。


 「耳は塞ぐな、鼓膜がやられる」


 近藤が若者らへ声を飛ばす。晴人は最初の一挺を自ら肩に取った。頬付け、照星と照門、息を吐いて、止める。指先は引くのではなく、圧を加える。


 火花、黒煙、肩への重い衝撃。土手の向こうで土が噛み、沖田の声が弾む。


 「的、中!」


 連続で五発。群れた穴は円の中にまとまり、散りは人の胴に収まる範囲。晴人は深く息を吐いた。鉄は鳴り、硝石は燃え、銅は弾を送る。音は重く、しかし未来の雫のように冷たい。


 「いける」


 短い言葉に場の空気が柔らいだ。すかさず土方が続ける。


 「銃床の尻をわずかに削れ。頬付けが浅い。銃身は二分厚い、冷えが遅くて連射で暴れる。参号で薄く巻け」


 鍛冶が走り、木工が頷き、書記が筆を走らせる。規格はこうして“共同の癖”へと変わっていく。


     ◇


 夕刻、羽鳥商会の会所。帳場に置かれた渋紙の暗号文を、晴人は灯の下で読み返した。上海の連絡所からである。


 「北部合衆国、長銃不足。買付け筋は金山湾の民間商会。春以来の敗戦続きで在庫枯渇。試供二十挺、実包千。上海受け渡し可」


 晴人は文を折り、窓外を見た。海の向こうの内戦は銃という言語で語られている。向こうが買うのは殺傷の道具だが、こちらが売るのは存立の時間。口に出した言葉は短い。


 「帳合は」


 渋沢が答える。「常陸の名は出しません。華商と欧商を介して品名は狩猟具、積地は上海、行先は金山湾。代金は銀元、半金前渡し、残金は受領確認後」


 岩崎が続けた。「船は海路檸緑で使っている小型の帆走蒸気を回せます。外箱は“ガラス瓶”で通し、中で銃身と機関部を別包み。木箱には焼印“常弐”。」


 「火薬は出すな。雷管もだ。弾は見本のみ。先方の倉庫が堅いと確かめるまで命綱は渡さない」


 晴人の声は低いが冷たくはない。人が死ぬ戦に笑う余地はない。だからこそ手順に感情を混ぜない。


 佐久間象山が頷いた。「鉄の値は上がるが、普魯西には売らん。あれは鉄で国を組み替える。こちらの骨を削ってまで肥やす道理はない」


 「常陸の鉄は、常陸の骨だ」


 晴人は机の隅の鉱石を指で転がした。加波の山から出た小さな鉄鉱。赤錆が指に移る。


     ◇


 夜、火工試験所。外は秋虫が鳴く。土蔵の中で若い火工師が小さな秤を覗く。硝石、硫黄、木炭――配合を一つずつ変え、燃焼速度を測る。隅の棚には雷汞の箱が音もなく置かれている。


 「手はきれいか」


 晴人が声をかける。若者は慌てて袖をまくり、灰を流す桶に両手を浸した。湯気が白く立ち、柑橘の香がふっと漂う。檸緑の小瓶が机の端で汗をかいていた。


 「飲め。倒れないことが技術の第一だ」


 若者は一口含み、目をわずかに見開いた。晴人も瓶を受けて同じように喉へ落とす。酸が舌の縁に刺さり、眠りかけた頭が現場へ戻る。彼は続けて指示を出した。


 「明朝、弐号二十を梱包。刻印番号は帳面に二重写し。銃身と機関部は分けて包め。上海へ回す」


 「はい」


 返事は小さいが芯がある。ここにいる誰もが鉄と血の片側に立っていることを知っている。その上で、和を作る側に回ろうとしている。


 作業を見届け、晴人は灯を落として外に出た。北の空は澄み、星は近い。遠い海の向こうで、別の星の下にいる男が鉄と血を語った。こちらは鉄と血と和議で返す。


 「間に合う」


 独白は短く、確かだった。常陸の小さな工場で、世界の歯車にわずかな歯を噛ませる。その噛み合いが借金を削り、民を養い、国の背骨を太らせる。九月の風が炉の匂いを運び、暗い川面をさっと撫でていった。

黄昏の羽鳥会所は、木釘を打つ乾いた音と、梱包縄を締め上げる軋みで満ちていた。正面の土間には「ガラス瓶」と焼印した外箱が整然と積まれ、蔵の奥では、さらに小ぶりの木箱が無言の職人たちの手で釘打ちされていく。箱の中身は二つに分けて納められていた。片方は銃身、もう片方は機関部。どちらも油紙と麻紐で二重に封じ、外から触れても形がわからないように角材で組んだ枠で囲う。蓋を閉める前、書記が「常弐—零二一~零四〇」と刻んだ薄い銅札を差し入れ、弥太郎が通し番号を台帳に二度写す。


 「蝋封は緑、港回りの札は青だ」


 晴人が声を落とすと、土方が無言で頷いた。裏手の見張り台には近藤が座り、往来を何気なく眺めている。すぐ脇の小窓では沖田が針目のような視線で、縄の緩みと角当ての欠けを拾っては、手を伸ばして直した。


 「荷のバランス、ここが甘いですよ」


 どこか楽しげな口調に、若い荷造りが軽く会釈する。見張りの斎藤は口を開かず、ただ門前の足音に耳を澄ませていた。匂いで人を識別する猟犬のように、彼の視線は音の主を次々と値踏みし、危うい影が混じらないかを探っている。


 渋沢が帳場から小走りに現れ、受取人の暗号名と受け渡し場所を確認した。「上海・黄浦江の三番倉。華商“朱”の印、欧商は“F”。前金は銀元で半、残り半は受領印と引き換えです」


 「よし。船は?」


 「川蒸気に曳かせる小型帆走。荷札は“檸緑空瓶回送”。税関写しはこちら」


 晴人は頷き、巻紙をひとつ取り上げた。そこには、荷役から積み替え、黄浦江の潮どきまで、呼吸のように間断なく続く矢印が描かれている。ひとつ歯車が遅れれば全体が軋む。だから手順を、音楽の譜面のように刻んだ。


 「出船は夜明け。霧が出ればなおよし。見送りは少人数、荷役は一斉に。誰も余計なことを言わない、聞かない」


 土方が短く「承知」と答え、近藤が静かに立ち上がる。弥太郎はその背中を見送り、くるりと帳場へ戻って銀札の袋を確かめた。重みは正直だ。正直ゆえに、扱いを誤ればこちらの首を絞める、と知っている。


 蔵の端の机では、佐久間象山が火工試験の記録をめくっていた。黒薬の配合、燃焼時間、煤の量、銃身温度。赤墨の余白に「参号では銃身薄巻・外周水冷の併用」と、思案の跡が記されている。晴人は横から覗いて一言だけ置いた。


 「倒れない設計にしよう。戦は体力で終わる」


 象山が笑う。「檸緑を設計に混ぜるのは、世界でもお主だけだろう」


 晴人は笑わず、卓上の小瓶を手に取った。冷えた硝子の汗が指に移る。ひと口。酸が舌に刺さり、頭の霞を洗う。夜勤の者たちへ配る分の籠が、奥で静かに満ちていた。


     ◇


 夜半。羽鳥港の舟着き場は暗く、しかし秩序があった。喧噪はない。商いの囁き声と、濡れた縄の重い音。荷車は一度で決める速度で桟橋へ進み、揚げ足で止まる。船べりから投げられた帆布が音もなく荷の上に落ち、結び目は瞬きほどの間に締め上がる。足音を踏むたび、古い板が低く鳴った。


 「緑蝋、こちら」


 沖田の細い声が霧に吸い込まれる。土方は桟橋の中ほどで、船頭の手綱と荷役の動線を一度に見渡す位置を確保した。近藤は桟橋の付け根に立ち、夜目の利く猫のように暗がりを睨んでいる。斎藤は背後、灯りの届かないところで風上を取った。風は川上から緩やかに吹き、荷の匂いを江へ押し流している。


 渋沢が最後の帳面を閉じ、銀札の袋を膝の上から荷役頭へ渡した。「受取印の半分は切り取り、こちらの台帳に貼って返せ。残り半は上海で。数が合わねば、輪を一度戻す」


 「輪を戻す」とは、巻いた商いの力を一度ゆるめ、もう一度締め直すことだ。損が出る。だからこそ、最初の締めが命だった。


 合図の小さな笛。静かに、船が離れる。黒い水面に、艫の波紋が淡く伸びた。船縁からの短い手振りに応じて、岸の影が一つ、帽子を振った。土方が腕を組み、晴人は小さく頷き返した。言葉のいらないやりとり。距離と音と、呼吸で交わす確認だ。


 船影が江の曲がり角に消える頃、港の隅で若い荷役が膝に手をついた。袖に塩が浮いている。晴人はそっと檸緑の小瓶を差し出した。「飲め」


 若者は一息で喉へ落とし、目を丸くした。「……生き返る」


 「生きて戻すのが、仕事だ」


 短い返しに、若者の肩が小さく跳ねた。夜はまだ長い。だが、今の一杯が、その長さを越える足を支える。


     ◇


 四日後の夕べ、羽鳥会所に細い笛が二度鳴った。約束の便だ。蔵の奥で暗号箱が開かれ、二通の書状と布袋が取り出される。書状の片方には、上海の倉印と受領印が半分ずつ貼られていた。もう一通は短い文。


 「二十挺、検品合格。試射良好。追加見本十挺所望。代金半は銀元で受領、残半は次便にて――F」


 布袋の口が解かれ、銀の白が灯りに鈍く光る。渋沢は数を読み、弥太郎が重量を確かめ、晴人が袋の底に指を沈めた。冷たさが骨を撫でる。


 「……間に合っている」


 吐息のような言葉に、土方の眉がわずかに動いた。「間に合わせ続けるのが仕事です」


 晴人は頷き、書状の裏へ短い返文を書きつけた。弾は見本のみ、予備部品の追加、梱包の強化、荷札の文言変更――細かな歯車の噛み合わせを、一つひとつ音で確かめるように筆を走らせる。


 佐久間象山が、別の帳面を差し出した。「肥硝の床、農家二十戸で立ち上がりました。来春には試験回収が可能。灰と石灰の配分はこの比で固定します」


 「ありがとう。参号の図面は?」


 「銃身薄巻、外周水冷。火床の効率は上がるが、鍛冶の手間が倍だ」


 「倍払う。倒れずに作れる時間を買う」


 象山は満足げに笑った。代金を値切らない。代わりに納期を値切らない。その回り方が、羽鳥の名を静かに強くしていく。


     ◇


 深更の火工試験所。窓外に、秋の星が近い。石壁の内側では、若い火工師たちが交代で顕微鏡のレンズ越しに黒薬の粒を覗いていた。粒の大きさが燃え方を変える。燃え方が銃の癖を決める。癖が人の生死を分ける。


 「休め」


 晴人が声をかけると、若者は素直に椅子を引いた。机の端の檸緑からひと口。肩に入っていた力が、少し抜ける。


 「南の海の向こうで、人が倒れている。ここで人が倒れたら、何も変えられない」


 若者は静かに頷いた。彼の指先には、ほんの微かな硝の粉が白くついている。晴人は布でその指を拭い、自らの指も同じ布で拭った。粉は見えないが、そこにある。


 「和議は、向こうの机でも始まっているはずだ」


 独り言のように言って、晴人は窓の外を見やった。ビスマルクの言葉は鉄と血を掲げた。ならばこちらは、鉄と血で和を作る。銃は交渉の舌を長くし、硝石は暴発を減らす。檸緑は人を倒さず、帳面は嘘を許さない。


 遠く、那珂川の流れが夜を撫でる。鍛冶場では風を切るベルトが微かに鳴り、倉の中では雷管の箱が眠っている。港では小船の舳が黒い水を押し分け、会所の灯は遅くまで消えない。


 晴人は最後の帳面に「参号:十月試射」と書き加え、筆を置いた。椀に残っていた檸緑を一息であおる。酸が喉を打ち、胸の奥の火が少しだけ静まった。


 「間に合わせる。倒れない。嘘をつかない」


 自分にだけ聞こえるほどの声で三つ並べ、晴人は灯を落とした。外の風は乾いて、炉の匂いを運んでいる。世界の歯車は速い。だが、常陸の小さな歯でも、確かに噛み合いを作れる。その手応えを掌に残したまま、彼は夜へ歩み出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ