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88話:怒りは熱、理は線

八月二十一日、申の刻少し前。

 武蔵国生麦村の海沿いの道は、白い陽と潮の匂いに満ちていた。土ぼこりを巻き上げながら進むのは、薩摩・島津久光の行列。槍持ち、徒士、近習、駕籠が長く連なり、前駆が鋭い声で往来を払う。


 「ひかえおろう――左様の者ども、道を開けい!」


 だが、海風に帽子を押さえた異国の一団は、馬上のまま退かない。ロングコートの男が手綱を緩め、横に並んだ婦人と笑いながら浜風に目を細めている。彼らは横浜居留地を出ての逍遥、名をリチャードソン、その同行がボロデイル、マーシャル、クラーク。通詞の叫びは届かず、距離が縮まる。


 瞬間、緊張が弾けた。

 薩摩側の前駆が馬の鼻先を押しやり、異国の手が鞭を上げた。槍の石突が石畳を打ち、刃の鈍い光が灼ける。短い叫び、蹄の跳ね、刀の白。砂塵のむこうで、ひとつの影が崩れ落ち、赤が砂に吸い込まれていく――。


 生麦の路傍に、静寂が戻ったとき、すべては遅かった。

 行列は規律を崩さぬまま速度を上げ、薩摩の隊士は無言で前方に壁を築く。通詞が蒼白になって追い縋り、村人たちは戸口の陰から息を飲んで見送った。


     ◇


 同刻、神奈川奉行所。

 報せは風より速く、江戸にも横浜にも広がった。羽鳥政庁・政務総裁、藤村晴人は、ふだんの冷ややかな眼で書付を受け取ると、すぐに立ち上がった。


 「現場検証に入る。神奈川奉行、薩摩江戸藩邸、英方代理公使――三方同時に“待った”をかける」


 「英方は強硬に出ますぞ」と側にいた清河八郎が低く言う。

 「出る。だから“事実関係調査”の枠で時間を稼ぐ。争点を切り分けろ――通行礼法の不一致、警護の過誤、挑発の有無、居留地の約条適用範囲。感情を論点から外せ」


 晴人は神奈川奉行所の詰所を一歩で出ると、馬を借り、夕陽の傾く海沿いを生麦へ駆けた。

 路上にはまだ、血の黒い跡が幅を持って残っていた。薩摩側の足跡、異国の蹄跡、村人の草履の細かな波形。風が塩を運ぶ。晴人は深く息を吐き、目を細めた。


 (このままでは、英国艦が江戸湾に姿を現す)


 腰の帙から白紙を抜く。現場の見取り図、時刻、方位、証言の断片。書きながら彼はもう次の場面を準備していた。


     ◇


 夜、薩摩江戸藩邸。

 座敷には久光の側近・小松帯刀、伊地知正治、吉井友実らが顔をそろえ、緊張と怒気が入り交じっていた。そこに晴人は単身で現れ、深く一礼した。


 「本件、薩摩と常陸の共同声明をもって、まず“時間”を取るべきです」


 小松が目を上げる。「共同声明……? 何を謳う」


 晴人は巻紙を広げ、端的に読み上げた。

 「一、事実関係調査の開始(場所:神奈川奉行所、立会:薩摩・英方・幕府)。

  二、双方武器の携行を禁じ、証言記録を優先する。

 三、遺体・負傷者への礼を尽くし、当座の費用は“預り金”として供託する(非謝罪)。

 四、交渉の場は江戸・神奈川とし、横浜居留地から軍艦を呼ぶ“加勢要請”は不当――内政管轄の原則を確認。

 五、裁定は幕府と常陸が仲裁、薩摩はそれに応じる。英方の面子を保つ文言を別紙で付す」


 重い沈黙。小松の視線が紙面をなぞる。

 「……“預り金”は謝罪金ではない、と?」


 「はい。『遺族扶助の暫定供託』。払戻条項を付す。英側の怒りは銭で時間に変えられる。時間は理に変わる」


 久光の側近たちが互いに目を交わす。伊地知が腕を組み、唇の端で呟いた。

 「交渉は得手ではないが……我らが“刃”だけでは、異国の砲は止められぬ」


 「それでも、薩摩の威は守る。『道を違えた者あらば、これを制す』――行列警護の正当性は条文に残す。英方の無礼もまた、記録する」


 小松は深く息を吐いた。「よい。書式を整えよ。こちらは久光公の印判を用意する」


     ◇


 同夜、横浜・英代理公使館。

 英国代理公使エドワード・ニールは怒りを隠さなかった。机上に置かれた報告書には“murder(殺害)”の単語が赤線で強調されている。晴人は通詞を介しながら、一礼して口火を切った。


 「まず、遺体の引き渡しと負傷者の救護――これは当然、直ちに。

  次に、調査の場を設けます。神奈川奉行所にて、貴館も立ち会いの上、証言と検分を。

  補償については“預り金”。謝罪ではありません。しかし遺族扶助は最初にお届けする。

  なお、横浜から軍艦を呼ぶのはお控えください。内政の処理は、幕府と常陸が責任を持つ」


 ニールが椅子から身を乗り出す。「我が臣民が殺されたのだ。艦を呼ぶは当然だろう」


 「軍艦は最後の手段です。今、それを出せば、江戸は戦場になります。交易も、貴国商人の利益も消える。まず、法と記録で道をつけましょう」


 晴人は袖から一葉を差し出した。

 “Joint Note(共同覚書)”――そこには英語と漢文で、三者(英・薩摩・幕府+常陸)の立会い、検分、供託の手順が端的に記されている。通詞が読むにつれ、ニールの眼差しがわずかに落ち着いた。


 「……よろしい。供託金を受け取り、検分に立ち会う。だが、我々の権利は放棄しない」


 「当然です。権利は記録に残します」


 晴人は深く礼をして、夜の横浜を出た。潮風が強く、港の灯が揺れている。彼は馬上で目を閉じ、短く息を吐いた。


 (時間を、三日。せめて三日あれば、線が引ける)


     ◇


 翌朝、江戸・薩摩藩邸。

 廊下に怒号が響く。「兵を出せ!」「座して砲弾を待つのか!」若手の藩士が拳を握り、血気に逸っている。そこへ小松帯刀が姿を現し、低く言った。


 「藤村殿より書付。『常陸義勇備、海陸の兵站支援可。ただし中立を崩さず、停戦調停の線を守る』」


 「……兵は貸すが、戦は煽らぬ、か」


 「そうだ。羽鳥は我らの背に倉を建て、前に言葉を置く。砲声を呼ばずに勝つ術を探っておる」


 熱が少し引き、廊下の空気が冷えた。小松は皆を見回し、言葉を継ぐ。

 「久光公は“強し”。されど今は“拙速”を厭う。まずは検分、ついで裁定。兵は腰を据えて備えよ」


     ◇


 神奈川奉行所・検分の間。

 畳の上に、白布が一枚。証言人の席、薩摩の席、英方の席、そして奉行・常陸書役の席が向かい合う。晴人は筆を持ち、論点を一つずつ区画に落とした。


 「一、道交法(通行礼法)の相違――居留地側に“武家行列”の規範告知が不十分。

  二、警護側の過誤――過度の威嚇、刀の抜刀に至る判断。

  三、挑発・暴行の有無――双方証言矛盾、再確認。

  四、補償の枠――暫定供託、確定は裁定後。

  五、再発防止――横浜—神奈川—江戸の導線に“往来札”を新設、行列告知の標識整備」


 小松が短く頷き、ニールは険しい顔のまま沈黙している。

 通詞が言葉を拾い、書役が速記し、奉行が押印の順序を整える。外では海風が松を鳴らし、蝉が遠くで鳴いた。


 「……英方、暫定供託を受ける」とニール。

 「薩摩、検分に応ず。行列礼法の告知にも協力する」と小松。

 奉行が締める。「幕府・常陸、調停に当たる。三日後、再協議」


 紙に朱が落ち、三つの印が並んだ。


     ◇


 検分が終わると同時に、晴人は海へ向かった。

 浦賀水道の先に、かすかな黒い影――英国の艦影が水平線に載ったかどうか、風の匂いで測る。彼は手早く書付をつくり、江戸・長崎・羽鳥へ同時の飛脚を放った。


 「羽鳥会所は横浜の倉を開く。治療薬・繃帯・乾餉・薪炭を三日分、神奈川へ。

  義勇備は江戸市中の火消し・巡邏に転用。砲台は火薬の点検のみ、砲身に袋――“撃つ意思なし”を示せ。

  薩摩交易所には紙札を増し、英商に“取引の継続”を明示せよ」


 紙が離れていくたび、胸の底の硬い塊が少しずつほどけた。

 (戦は、まだ呼ばない)

 (呼ばせない)


 夕焼けが海を赤く染めた。

 生麦の路上に残った赤も、潮風に薄れていく。だが、その色は国の隅々にまで滲み、誰の目にも焼き付いた。


 晴人は鞍上で背筋を伸ばした。

 「事実を紙に、感情を時間に、時間を理に――」


 独り言のように呟き、馬の首を江戸へ向ける。

 共同声明は出た。英方は“待つ”と答えた。薩摩は“備える”と言った。幕府は“調停”を名乗った。常陸は“中立の剣”を鞘に納めたまま、背にだけ見せた。


 夜の風が涼しく、港の灯が、じわり、じわりと増えていく。

 明日はまた論と算だ。怒りと誇りと恐れを、紙の上の線に変えてゆく。

 ――この国が、砲声より先に言葉で動くことを、証明するために。

暮れ六つ、横浜の空は茜から鈍い紫へ。波止場に並ぶマストは黒い櫛のように空を梳き、港口の外には低い霧が溜まっていた。英艦の桁が遠見に霞むたび、居留地の酒場ではざわめきが強くなる。


 羽鳥会所の仮詰所では、渋沢栄一がそろばんを弾き、岩崎弥太郎が荷札に英字を走らせていた。乾餉・繃帯・薬瓶が木箱に整然と収まる。箱の側面には《HATORI RELIEF—神奈川奉行所 御用》の焼印。


 「栄一さん、明朝までにもう一便、神奈川へ回せます」

 「受入れ口は奉行所の裏口に寄せる。英方の目の前で物を積むと、意地になるからね」


 廊下を渡る潮風に、石鹸の匂いがかすかに混じった。羽鳥の薬草職人が煎じた消毒液だ。荷馬の鼻面から白い息が立ちのぼる。弥太郎は空を見上げて、小さく口笛を鳴らした。


 「……撃ちたがってる空じゃない。助かった」


 同じ頃、江戸城西の丸。将軍・徳川慶喜と老臣が集まる小座敷で、藤村晴人は膝前に巻紙を広げ、淡々と説明を重ねていた。


 「英側の“今”の関心は、面子と補償です。ここで軍艦を呼べば、面子が砲身を必要とします。ですから、供託金と検分の場で“怒りの出口”を先に用意する」

 「薩摩は如何」と慶喜。

 「小松帯刀は理に通じる。久光公の威を削がぬ文言で共同声明に乗りました。問題は若手の血の気。江戸市中の警固は羽鳥義勇備に振り替え、衝突の芽をつぶす」


 慶喜は静かに頷く。「よかろう。紙を前に進めよ。砲は鞘のままに」


 廊下の陰では、清河八郎が短く指示を飛ばしていた。「火消一番組と組ませろ。喧嘩を“火事”に見せて散らす」 河上は目録を握り、義勇備の巡邏路を線でつないだ。羽鳥は戦わずして“秩序”を前に出す。


     ◇


 翌朝、神奈川奉行所の庭。三国の旗が無言で風に鳴る。英側は礼装、薩摩は裃、奉行は直垂、羽鳥は簡素な羽織。晴人は書役の席に座し、筆を取ると、まず“物”から始めた。


 「負傷者への医療物資、こちらに。遺体の礼装のための布と香、こちらに。――形は怒りを和らげます」


 英代理公使ニールは険しい眉のまま頷き、供託袋に封蝋が押される。薩摩側の小松がその様子を見届け、低く言う。


 「行列礼法の標識、横浜の要所に建てよう。日本語・英語・漢文、三種で」

 「常陸が板面を用意します。絵で示せば通る」


 短い言葉が、紙の上で線になり、線から文へ、文から印判へ。庭にいた雀が一羽、砂を跳ね、遠くで船笛がくぐもって響いた。


     ◇


 同日、羽鳥会所・横浜蔵。瓦版屋が外で刷り目を乾かしている。《英人、殺害》の見出しに、人波が寄っては去る。店先で羽鳥紙幣を透かして見ていた両替商が、ぽつりと漏らした。


 「金に替えられるなら、戦より商いだ」


 店の奥では、町娘が包みを受け取る。中身は薬包と衛生布。包紙の端に小さく《羽鳥救護》。娘は礼を言い、走って路地へ消える。居留地への悪意と好奇が渦を巻くなか、現実に触れる物資だけが人の手を静かに握った。


     ◇


 三日目の夕刻、検分再会。論点は詰まった。最後に残ったのは、言葉の一行だった。“謝罪”か、“遺憾”か。紙の一字が砲声にも静寂にも変わり得る。


 英側の通詞が声を低くして訳す。「“regret(遺憾)”では軽い。“apology(謝罪)”を」

 晴人は紙面の白を指で叩いた。「“深切なる遺憾”は如何でしょう。併せて“扶助”を明記します。行列礼法の通告不徹底と、双方の過誤――言葉は刃でなく橋に」


 沈黙。ニールは窓外に目をやり、やがて短く言った。「……よろしい。だが、処罰は求める」

 薩摩側の小松が即座に答える。「我らは“規律の再整”を行う。名指しの処罰は、理の決着の後に」


 奉行が双方の文言を綴じ、三つの印が並んだ。小さな朱の丸が並んだ紙は、砲艦一隻より重かった。


     ◇


 江戸に戻る道すがら、晴人は鞍上で目を閉じた。背で揺れる帙の中には、共同覚書の写と、横浜の標識板の版下。額の汗は乾き、喉は紙の味がした。


 (ここで止めた火は、また別の場所で燃える。次は薩摩の内論、次いで長州、京の風……)


 馬の首が軽く上がる。夕暮れの江戸の空に、早い秋の気配がもう混じっていた。


     ◇


 その夜、薩摩藩江戸邸。若い藩士らの廊下に、低い声が渡る。「斬りて落つるものなら、話は早い」 その前に小松が立ち、扇の骨で床を軽く打った。


 「斬って得るのは快のみ。国は得られぬ。――常陸の紙を見ろ。三日のうちに、怒りは紙に吸われた。あれが“政”だ」


 奥の座で、久光の目が細く笑った。

 「薩摩は薩摩の強さで立つ。だが、紙と算もまた武である」


 小松は深く礼をし、廊下に戻ると、一通の封書を懐に滑り込ませた。宛は羽鳥・藤村晴人。《薩摩交易所の件、進め度し》――火の国は、火だけで生きるつもりはないと知らせる書だ。


     ◇


 江戸・羽鳥の詰所。渋沢と弥太郎、河上、清河が集まり、晴人は卓上に三枚の紙を置いた。


 「第一、薩摩に“交易所”を開く。紙と銅と薬草、そして木綿。怒りの国に、数えるものを渡す」

 「第二、横浜—神奈川—江戸の標識は来月内に立てる。絵札を先に刷れ」

 「第三、英方には“商いの継続”を約する覚書。紙札決済の便を示せ」


 清河が唇の端を上げる。「刀の代わりに札を抜くのは、あんたらしい」

 「札は返すのが約束だ」と晴人。「返せる仕組みを先に作る」


 弥太郎が手を挙げた。「上海筋にも触れます。あす長崎回しで信を打ちます」

 「頼む。薩摩の銅を混ぜるなよ。品位が落ちる」

 「へい」


 帳面に線が走り、夜が深くなる。庭で風鈴が小さく鳴り、遠くで太鼓の音が二打、間を置いて一つ。


     ◇


 数日後。横浜の街道に、最初の標識が立った。上部に“行列礼法”の絵、下に大書で《退ケ—KEEP LEFT》の文字。往来の者が立ち止まり、指でなぞる。子どもが絵を真似て笑い、異国の男が帽子に触れて会釈を返す。


 瓦版は見出しを変えた。《薩摩、英と紙を交わす》《羽鳥、線を引く》

 居留地の酒場では、商人が指を舐めて算用する。「戦が遠のけば、船は来る。船が来れば、倉が動く」


 生麦の砂に落ちた赤は、雨に淡くなっていた。だが、誰も忘れてはいない。忘れないまま、次の一手に手を伸ばす。


 夜、晴人は静かな部屋で、灯の芯を短く切った。紙の山の一番上に、たった一行を書き加える。


 ――怒りは熱、理は線。国を動かすのは、いつも線だ。


 筆を置き、深く息を吐く。窓の外、風が川面を撫で、遠くの港で短い汽笛がひとつ鳴った。

 砲声は、まだ聞こえない。だが、聞かせないように動く者たちの足音が、確かにこの夜の底で重なっていた。

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