87.5話:檸緑、江戸を潤す
七月、江戸。熱気は石畳の下から沸き、往来の空気はぬるい湯のようだった。
午の刻、神田から日本橋へ抜ける筋に、白布の幟が涼しげに揺れる。《冷・檸緑》。屋台の丸桶には薄氷が鳴り、青い蝋封の瓶がずらりと立っている。
売り子は浅黄の前掛けに「羽鳥」の小判型印。侍の未亡人・おゆきは、柄杓で黄金色の液を注いだ。
「まずは一口、ただで。返却で数文返しますよ」
試供の盃を受けた職人がぐいと飲む。酸のきらめき、煎茶の渋み、砂糖の丸み――喉をとおると同時に、背中の汗が引いた。
「……もう一杯。今度は銭で」
屋台の端では、町娘のふみが番号札を配っている。木札には「檸—一二三四九」の刻印。瓶を返すと、札と引き換えに二文が戻る仕掛けだ。
返却籠はたちまち満ち、回収係の少年が木箱を担いで駆けていく。昼過ぎの計数で返却率九割二分。札の紐が音を立て、屋台の帳面に朱で「売三〇〇/返二七六」と弾かれる。
「おゆきさん、今日のは香りが立ってますねえ」
「精油をひと匙増やしたんだとさ。火の側は辛いけど、これでみんな倒れずに済む」
未亡人の掌には、銭の重みと日当の確かさが残る。夫の形見の木刀は今、屋台の梁に吊られ、風鈴のように静かな役目を果たしていた。
同じ頃、横浜・居留地。煉瓦の壁と洋瓦の屋根が真昼の光を弾く。
英商館の庭で、白扇を持った書記が鼻をくんくんさせた。木箱の焼印は「檸緑」。蝋封は海路限定の青。瓶栓を抜くと、柑橘の香がふわりと立つ。
「レモネード?……ノー、ティー」
通詞が笑って注ぐ。濃抽出の煎茶が、彼らの舌に意外な陰影を残した。英人は皿の上で瓶を転がし、ガラスの厚みと底のエンボスを確かめる。
「ジャパン・レモン・ティー」
彼はそう名付け、港限定で百箱の注文札にサインを入れた。蘭館は続けて五十箱。
「関税五パーセント、即日通関」
港の税関所には事前の取り決め写しが掲げられ、検査官は比重計を覗き込み、すぐに朱印を落とした。
荷揚げは岩崎弥太郎の采配で滑るように進む。返空箱の側面には、港印の青蝋が均一に光る。
ふと見上げた空に、入道雲が沸いた。
夕刻、会所詰所の飛脚が晴人の机に帳簿を置いた。
《本日江戸供給一五〇〇杯、横浜直納五〇〇杯、合計二〇〇〇杯。売上二一・九両、原価六・八両、粗利一五・一両。返済配分:常陸一〇・五七/幕府三・〇二/設備一・五一》
晴人は筆先を止めず、次の指示を書き添える。
《明日より三〇〇〇杯体制。煎出二釜→三釜、瓶詰人員一名増。蝋封は海=青/陸=緑のまま。比重・pH検査、抜き取り一〇%》
紙の上では数式だが、現場では汗と手と息で動く。
晴人は政庁の廊下を抜け、冷やしたサンプル瓶を一口あおった。酸が舌を打ち、頭の中の歯車がもうひとつ噛み合う。
「これなら倒れない」
江戸・夜。橋詰の番所では、夜警が交代のたびに《温・檸緑》をひと椀。湯気の向こうで塩のひとつまみが白く溶ける。
「脚、攣らなくなったな」
「汗が嫌な匂いしねぇ」
笑い混じりの声が続く。見回りの足取りは軽い。番太鼓の音が、ゆっくり、しかし確かに夜を刻む。
同じ頃、艦上。船医が薄い真鍮の比重計を瓶に沈める。浮子の目盛りを読み、pH紙が淡い桃色で止まる。
「三・二――よし。《航海飲料》承認」
波が黒く揺れる甲板で、白い盃が淡く光った。塩をひとつまみ、喉へ落とす。刃のような酸が眠気を削り、見張りのまぶたが持ち上がる。
横浜の裏路地では、瓶の回収隊が小走りで駆けた。少年たちが番号札を振り、空瓶を木箱に寝かせていく。返却の銭が指に温い。
酔客の手からも瓶は戻り、夜商の女が笑って札を束ねた。
「返ってくるものは、信じられる」
そんな言葉が、自然と口をついて出た。
翌朝、羽鳥の会所黒板に白い文字が並ぶ。
《供給三〇〇〇杯/日 売上三二・八五両 原価一〇・二両 粗利二二・六五両》
《月次(二五日稼働):粗利五六六両 → 返済四五〇/幕府一三五/設備六七・五》
渋沢は出納を締め、弥太郎は海路の箱数を増やす。
瓶洗い場では、えた・ひにん上がりの若者が手際よく刷毛を走らせ、乾架に並ぶガラスが朝日に鳴る。誰の額にも、同じ汗が光る。
昼、横浜の商館前。薄青の瓶をひやかす異国の子どもに、売り子の未亡人が笑いかけた。
「返したら二文、忘れないでね」
子はこくりと頷き、舌に酸を乗せる。目を丸くし、笑う。
裏手では、清国人の仲買が指で小さく二の字を作る。
「上海、二箱追加。海路檸緑――港限定」
契約書に押された通関朱印は鮮やかで、紙の繊維まで赤が染みていた。
黄昏、羽鳥の執務室に風が通る。
晴人は窓辺で地図を広げ、江戸・横浜・羽鳥を線で結んだ。
「冷やすものは、頭と市場だ」
独り言のように呟き、飛脚に短い文を託す。
《横浜へ臨時便。氷塊と《温・檸緑》を半々。港の交渉は酔わせるな、冷やせ》
机上の片隅に、一本だけ残した試作品を置く。
主人公が個人的に飲みたくて始めた配合は、今や城市の呼吸になりつつある。
「飲みたいから作った。だが、飲ませたいから回す」
晴人は盃を掲げ、わずかに笑んだ。酸が喉を打つ。外では、夕立の匂い。屋台の布が張られ、氷の音がまた、軽やかに鳴り始めた。
宵の口、羽鳥会所の裏手では、瓶洗い場の水音がリズムを刻んでいた。濡れた木枠の上でガラスが高く鳴り、刷毛を走らせる若者の手首に小さな水滴が灯りの粒のように跳ねる。蝋封を剥ぐ者、口縁を点検する者、乾架に並べる者――手順はひとつも逆流しない。火(煎出)から冷(調合)へ、そして瓶詰、検査へ。掲げられた木札の手順書は汗に縁が濃く、読み込まれた文字ほど黒く沈んでいる。
検査卓の前、白衣の男が比重計をそっと沈めた。浮子の目盛りが落ち着き、隣ではpH紙が淡い桃色で止まる。書記が素早く写し取り、朱で「3.3」「規格内」と引き落とす。防偽蝋は海路=青、陸路=緑。刻印は「檸」。番号台帳が、空瓶の帰還と同じ速さで増えていく。
会所の表は、昼の喧噪がうそのように静かだった。だが、静けさは止まっている証ではない。荷車の車輪には油が差され、返却木箱の焼印は煤ひとつない。江戸から戻った飛脚が帳簿を差し出し、出納係が一礼して受け取る。紙はまだ温かい。数は息をしていた。
「本日江戸一五〇〇、横浜直納五〇〇。売上二一・九両、原価六・八、粗利一五・一……」
書院の灯下で、藤村晴人は指先で一度だけ紙端を揃え、筆を置いた。まぶたの裏に、昼の屋台の氷の音がよみがえる。返却札の紐が鳴り、子どもが木箱を抱えて走る。あの“循環の音”が、ここ羽鳥まで届いている――そう思えば、数字はただの記号ではなく、流れる水路の図に見えた。
戸口の簾がさらりと鳴った。斎藤お吉が木盆を捧げて入る。盆には砕いた井戸氷の鉢、青い蝋封を割った試験瓶、白磁の盃が二つ。
「冷えすぎませぬよう、井戸の水で割りました」
お吉の指が栓を抜くと、軽い音とともに香りが跳ねた。煎茶の青に、柑皮の明るい油。晴人は盃を受け、鼻先で一度だけ香を掬う。ひと口。舌の先を酸がやわらかく叩き、すぐ後ろから茶の旨みが追いかける。砂糖の丸みが境目を溶かし、喉の奥で涼しさがほどけた。
「……いい。今日は“香”が勝って、“渋”が締めた」
盃の底に灯が移り、細い油の輪が光る。二口目を転がしながら、晴人は自分にだけ聞こえる声量で言う。
「飲みたいから始めた。だが――飲ませたいから回す」
「お口に合いましたか」
「上出来だ。割水は明日、布越しの“沸かし戻し”を一合だけ。氷の大きさは今のまま。香りが逃げない」
お吉が小さく書き留め、「承知しました」と下がる。簾の向こうへ彼女の影が消えると、晴人は盃の余韻のまま筆を取り直した。酸は思考の埃を払う。文字が列を整え、決裁が流れを持つ。
「……明日より三〇〇〇杯体制。煎出三釜、瓶詰一名増。検査抜き取り一割、返却札の紐を太く」
命じ終えると、外から風がひと筋入り、紙端がめくれた。灯の息が揺れ、会所の奥で氷の音が返事をする。
夜半、羽鳥港の荷揚げ場では、返空箱の山がうつくしく積まれていた。焼印「檸緑」、青と緑の蝋が星のように点在する。岩崎弥太郎が灯の下で箱の角を撫で、荷札を小刀で切る。彼の背に、港の潮の匂いと、木の油の匂いが重なった。
「江戸へ臨時便、氷多め。港は“温”を忘れるな」
晴人の走り書きが、黒い墨で短く、しかし強く紙に残っている。弥太郎は笑って頷き、指を上げた。
「海は青、陸は緑。忘れやしません」
舟べりで、水夫が空瓶を受け取り、木箱が舟底でやさしく鳴る。その音は遠く、江戸の橋詰の番号札の音へつながっていく。
同じころ、羽鳥会所の一隅では、えた・ひにん上がりの若者たちが瓶洗いの手際を競い合っていた。刷毛の角度、回転の速さ、乾架への置き方――誰にも教わらぬ工夫が、仕事の速さと丁寧さに変わる。監督役の年配が頷き、銀貨を一枚ずつ手に押し込む。銭の冷たさに、若者は目を瞬かせ、すぐに笑う。
「返してくれる人は、信じられる。俺たちも、返す」
その言葉は誰に向けられたのでもなく、ただ宙に置かれた。だが、宙はそれを拾って、灯の揺れに重ねた。
更けて、羽鳥藩校。講堂の床几に並んだ瓶は、氷ではなく湯で割られている。《温・檸緑》。夜警に出る若侍が盃を受け、ひと塩を落として喉に送る。
「脚が攣らねぇ。腹も軽い」
「夜目が冴える。……飲み過ぎねぇようにしなきゃな」
笑い合う声が柱の節で跳ね、外の闇が少し薄くなる。戸口に、月。石畳に、露。盃に、細い油の輪。
戻って政庁。晴人は地図の上で、江戸・横浜・羽鳥を線で結んだ。線は一本だが、太さがところどころ違う。太いところは、返却が良いところ。細いところは、瓶の動きが重いところ。
「瓶の回転は、信頼の回転だ。細いところから太らせる」
独り言は、誰の耳にも入らない。だが、壁の木目が静かに頷く気がした。机の端には、さきほどの盃。底に、まだ少し香りが残っている。手に取り、指で縁をなぞる。冷えは消えたが、味は残っている。
「江戸は日三千。横浜は港限定で箱を増やす。……上海は、海の塩と喧嘩しない配合に」
筆が走る。渋沢の出納に宛てた指示文、会所の現場向けの配員替え、蝋封の色替え、番号札の紐の材質変更。細かな石が、川床を均すように置かれていく。
斎藤お吉がそっと入って、盃を新しいものと替えた。今度は温い。《温・檸緑》。湯気の向こうで塩が白く溶け、香りがやわらかい布のように広がる。
「夜は、こちらがよろしいかと」
「ああ。……夜は温いほうが、胸が静まる」
ひと口。体の芯に、静かな熱が灯る。さっきまで尖っていた数字の角が、やさしく丸まり、並びが整う。お吉は盃の減りを一目で読み、黙って盆を引いた。
「返却率、九割二分。――明日は九割四分まで上げよう」
誰にともなく言って、晴人は笑った。上げ方は知っている。札の紐を太く、返却所を一つ増やす。子どもが走りやすい路地に木箱を置く。持ち手に油を差す。小さな工夫が、数字を押し上げる。数字は人の動きの影だ。影だけを見ず、人を見よ。人を見れば、影の形が変わる。
夜半過ぎ、羽鳥の空は深く、遠い。会所の灯が一つ、また一つ落ち、最後の瓶洗いの音が遠のく。港の水面に、星が震える。舟は繋がれ、綱は確かだ。明朝の出立に向けて、すべてが“休むための用意”を終えている。
晴人は帳面を閉じ、最後に盃の底を覗いた。油の輪は消え、香りは薄くなった。けれど、不思議に喉はまだ涼しい。働く者のための一杯――まず、自分がその証人であり続ける。
「冷やすのは、喉と体と頭。温めるのは、背中」
ぽつりと言い、灯を落とす。簾が鳴り、夜風が紙の匂いを撫でる。どこかで、氷の音。どこかで、子どもの足音。どこかで、瓶がやさしく鳴った。明日もまた、同じ音が鳴るだろう。同じでいて、少しだけ多い。その“少し”が、借金という大岩を毎日きちんと削っていく。そう信じられる夜だった。
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