87話:煙が運ぶ金と誇り
朝もやの羽鳥港に、細長い煙突からの白煙が静かにのぼった。港の倉庫群の一角、白壁に藍の「羽」の紋。そこが本日より「羽鳥煙草所」となる新工場だった。
戸口を押し開けると、石灰で磨かれた土間が白く光る。天井には大きな明り取り、窓ごとに防塵の紙障子。洗い桶は真鍮の蛇口で湯と水が別に引かれている。床の溝には薄い塩水がゆるく流れ、埃を立てぬ工夫が施されていた。
「ここまで清潔にせよと、晴人様は――」
工場長に任じられた年配の番頭が、感嘆ともため息ともつかぬ声を漏らす。すぐ脇で、白衣に手拭いを被った女たちが静かに頭を下げた。士族の未亡人と、その縁者である。
「本日より、羽鳥煙草所は“専売”とする。商品は三種――刻み、巻紙、薬草入りの三つ葉」
藤村晴人は、短く告げた。声に飾りはない。だが、次に続いた言葉は、場の空気を変えた。
「販売の代理権は、士族の未亡人に与える。手数料は一割。売上は月次で清算し、児童の就学費は別枠で補助する。――暮らしを立てよ。恥じることは何もない」
沈黙ののち、最前列の女が一歩出た。まだ二十代半ば、喪の色を薄く残す黒髪が揺れる。
「……ありがとうございます。刀はもうありません。ですが、口と手がございます。命じられたとおり、売り、銭に変え、家を守ります」
晴人は深くは頷かない。ただ目を合わせ、工場長に目配せした。
「始めよう」
場が動き出す。乾燥室では、厳選された葉が温風でゆっくりと水を抜かれ、発酵棚の上で琥珀に色づく。刻み場では銅製の刃が一定の幅で葉を細かく裁ち、混和台で香料とわずかな蜂蜜が均一に絡められる。巻紙室には、羽鳥の和紙師が漉いた薄紙が束で運ばれ、女工たちが指先で紙を巻き、口元に触れる端だけを温湯で清めてから、朱の専売印紙で封をとめた。
「手を洗ってから――」
「はい」
銅盆の温湯に手を浸し、布で拭う。その所作は、剣の礼法ほどに美しかった。
「銘は『羽鳥』、『霞』、『常陸』の三つで行く」
渋沢栄一が帳面を広げ、各銘柄の配合と単価を読み上げる。
「刻みの『常陸』は一袋六文、巻紙の『羽鳥』は十本組で二十四文、薬草入りの『霞』は十六文。江戸は『羽鳥』を主力に、長崎は『霞』、上海は巻紙のみ。欧米向けは箱詰めで“紙巻”を」
岩崎弥太郎が横から口を挟む。
「上海行きの第二便、積み込みは明日未明です。ラベルは英吉利文字併記。“HATORI CIGARETTE”で押しましょう」
「……“紙巻”という名はすぐに広まる。いい」
晴人は短く答え、専売規則の巻物を掲げた。
「専売は剣ではない。印だ。――偽印と密売は、羽鳥会所でただちに取り締まる。罰は重い。だが、正規の商いは徹底して守る。買い叩きは禁止、延滞は書付で猶予を与える」
未亡人たちの眼に、わずかな光が差した。
「配給路は三本。江戸へは水運と馬車の交互。長崎へは帆走の定期便。上海・欧州はアシュランド号改め『常陸丸』で。羽鳥紙幣での仕入れは可とし、両替は江戸の会所が受ける」
晴人が指で示すたび、渋沢の筆が追い、岩崎の調度表がめくられてゆく。工場長は、銅鑼を鳴らした。
「――打ち出し!」
初夏の光が、白壁に跳ねて眩しかった。
◇
江戸・神田の辻。屋台の影に、白い小箱が積まれている。箱の表に藍で「羽鳥」の銘、側面に薄い透かし模様。両替商の若旦那が興味深そうに箱を持ち上げ、光に透かした。
「ほう……この紙、薄いのに破れねえ。――で、味は?」
屋台の女は、黒塗りの盆から一本取り、先端を指先で軽く整える。
「火はここで。口元は湯で清めてあります」
若旦那が火打ち石で火を移し、吸い込んだ。煙は柔らかく、苦味の後ろにわずかな甘さが残る。
「……うまい。臭くねえ」
周りの男たちが身を寄せ、次々に銭を出す。未亡人の代理人である若侍が、しっかりと数え、布袋に収めた。腰には木札――「羽鳥専売所」。
「江戸十万両、取れるかね」
背後から低い声。晴人だった。変装の笠を軽く押さえ、様子を見ている。未亡人の組頭が膝をつく。
「晴人様……」
「頭を上げてくれ。売れ行きの調べは、明日の朝会でいい。寒気が出たら、湯を飲んで帰れ」
「はい」
晴人は足早にその場を離れ、次の振る舞い所へ歩を向ける。道すがら、通りの男が仲間に囁くのが聞こえた。
「羽鳥のは口当たりがいい。女房にも匂いで叱られねえ」
「袋に印があるだろ。偽のは印が滲む。気をつけろよ」
噂は矢のように走った。
◇
長崎・出島の岸壁。塩風とともに、羽鳥の木箱が次々と降ろされる。箱には英字の焼印。港の問屋が眉をひそめる。
「“はとり・しがれっと”……紙巻だと? 刻みじゃねえのか」
「欧羅巴では紙に巻くのが流行りでさあ」
岩崎弥太郎が笑って肩をすくめ、通詞上がりの手代に目配せした。手代が滑らかな英語で「衛生」「封印」「品質一定」を並べると、英人の商館員の顔色が変わった。
「ハトリ、グッド。テイスト・マイルド。プライス?」
「バルクで五千両相当、半年契約なら一割引き」
商館員の指が机の上で踊る。計算は速い。利鞘が出ると見たのか、彼はすぐに頷いた。
「サイン、トゥモロー」
岩崎はにこりと笑い、背を向けて小声でつぶやく。
「長崎五万両、取れるぜ」
「取れ」
晴人の声が背に落ちる。
「上海は五万、欧米は十万。合計三十万が目標だ。――借りは返す。手は緩めるな」
入り江の向こうに、白い帆が次々に開く。羽鳥の箱が波に揺れ、陽に光った。
◇
その夜、羽鳥会所の奥座敷。白い帳簿に、細い筆が止まらぬ音を立てていた。渋沢が収支を読み上げ、書記が裏付けの札を綴じてゆく。
「江戸・日計四千二百両、粗利一割二分。長崎、第一便の前受け二千両。上海、上陸手形確認。欧州向け、常陸丸の保険料支払済み」
「未亡人の手数料は遅らせるな。今月分は十五日に払え」
晴人が素早く指示を出す。浅尾主税が頷き、「徴税の配分は?」と尋ねる。
「タバコ専売税は売上の二分。うち一分を学校費に回せ」
「承知」
障子の影から、芹沢鴨が無言で入ってきた。腰の刀は袋に収め、顔にはわずかに疲れが差す。
「密売の芽は?」
「二つ。小田原と下総で動きあり。印紙を剥がし、別紙で巻き直す手口。見つけ次第、会所で押える。女御免の商いに手を出す輩には、容赦はいらん」
「頼む」
芹沢は短く頷き、消える。晴人は筆を置き、静かに息を吐いた。
「――“国を売る者”は、税を盗む者と偽印の者。だが“国を買う者”もいる。未亡人の手、箱を運ぶ若者、帳簿をつける者、銭を預ける豪商。俺たちは、後者の側に立つ」
渋沢が微笑を抑え、低く答えた。
「はい。“国を買う”に足る働きを」
夜更け、帳簿の端に細い文字で書き足される。
――江戸十万両、長崎五万両、上海五万両、欧米十万両。計三十万両、専売収益。
墨が乾く音すら、はっきりと聞こえた。
◇
夏の終わり、江戸・両国の川風。橋のたもと、未亡人の店先には「羽鳥」の小箱が整然と並び、木札が夏の日を跳ね返す。
「今日も、よう売れたねえ」
隣の魚屋の婆が笑い、未亡人は胸元の紐を握った。
「……家の米が尽きなくなりました。息子を、寺子屋へやれます」
婆は目を細め、橋の向こうを見やった。夕日が川面に揺れ、赤い道が伸びている。
「国を売るのは、偽の商いかねえ。国を買うのは、こういうことかい」
未亡人は、そっと箱を撫でた。
羽鳥の透かしが、薄い金に光っていた。
夕暮れ。両国橋のたもとで、白い小箱が静かに積み上がっていた。箱の側面に、薄金の透かし。「羽」の紋と、封緘印紙。売り子の女は、白い手拭いで指先を拭ってから、火入れを添える。吸い込む客の頬がわずかに緩み、煙は夏の空へほどけていった。
その路地の影で、細い目をした男が印紙を剥ぎ取り、別紙で巻き直す。木箱の蓋を静かに閉め、無言で立ち去ろうとした瞬間――
「その手、どけ」
声と同時に、男の手首が捻じ上げられた。押し付けたのは芹沢鴨。着流しに羽織紐だけ、刃は抜かない。だが、床板がきしむほどの腕力で押さえ込む。
「印は“国”だ。盗めば、国を削る」
背後から足音。永倉・原田が、箱を検め、押収札を貼る。店先の未亡人は顔色を変えたが、芹沢が短く頷く。
「お前は悪くない。狙われた。店は会所が守る。……怖かったら、名前を箱の裏に記せ。見回りの目が変わる」
女は深く頭を下げた。芹沢は一歩だけ離れ、手首を外すと、男の肩口を軽く叩いた。
「今夜は放す。だが二度はない」
男はふらつきながら闇へ消え、路地に夏蝉の啼きだけが残る。
その頃、神田の会所では、渋沢栄一が印紙台帳をめくっていた。印紙番号と売上、回収の刻限、両替の差益。番頭が汗を拭き、数珠玉のように計算を並べる。
「江戸、日計一万二千三百両。未亡人への手数料支払、二百四十両。印紙未回収、六十枚――」
「未回収は明日朝の巡回で催促。理由書が付けば猶予。付かねば差止だ」
渋沢が淡々と返す。若い書記が一枚の礼状を差し出した。
「羽鳥学校より。専売税の拠出により、学房を一室増築できたとのこと」
渋沢は、微かに目尻を緩めた。
「銭は流れてこそ銭。止めては澱だ」
彼の言葉に、帳場の空気が一段落ち着く。そこへ、羽織の紐をほどきながら岩崎弥太郎が飛び込んだ。
「上海、第一便の“紙巻”完売! 次便の前受けも決まった。欧州向けは『常陸丸』の船倉、あらかた埋まる」
「良し。……だが、浮かれるな」
渋沢が帳簿から目を離さずに言うと、弥太郎は頭を掻いて笑う。
「浮かれはしません。売れてる時こそ“足”を固めます。印の木型、二重刻みにしましょう。長崎の木地師、手を押さえてあります」
「さすがだ。晴人様に上げろ」
弥太郎は走り出し、廊下の向こうに消えた。若者の背は軽い。だが、背負っているのは重い“国の荷”だ。
夜。羽鳥会所の奥、控え間の畳に、布の包みがいくつも並ぶ。清河八郎が片膝をつき、地図を広げた。
「江戸へは三路。舟、馬車、飛脚。密売摘発は、芹沢隊を先頭に、町役人と組む。揉め事は“町”で片付ける。刀は最後」
晴人は頷き、筆で三本の線を強く引いた。
「三十万両を“売上”にするな。“制度”に変えろ。道、印、帳簿、学校。……銭が形に変わらねば、すぐに消える」
「承知」
清河が地図をたたむと、障子の向こうから湯気とともに柔らかな香が流れ込む。斎藤お吉が湯呑を二つ、音もなく置いた。晴人は礼の代わりに短く目礼し、茶の温を喉に落とした。
「お吉、江戸の未亡人たちには、必ず“湯”を。冷やすと咳が長引く」
「はい」
お吉が去ると、晴人は再び帳面へ目を戻す。銀勘定、利子、返済表。薄い紙の上で、線と数字が静かに“国”の骨格を描いてゆく。
(借りは返す。返してなお、残す)
彼は筆を置き、短く息を吐いた。遠くで、両国の花火が小さく咲いた。
初秋の長崎。出島の海霧が薄れ、石畳に朝日が差す。会所の店先に、羽鳥の小箱が塔のように積まれ、その周りを各国の商人が取り巻いた。英吉利の商館員は鼻の先で箱の香りを嗅ぎ、仏蘭西の医師は成分表の写しを覗き込む。通詞が早口で言葉を橋渡しする。
「封緘印紙、破れば粉になる。――偽造を嫌う“紙”を紙で縛る、か」
佐久間象山が目を細めて呟いた。晴人は頷かず、箱の角を指先で軽く叩く。
「印は“痛む”ように作れ。破れば、破った痕が残る。……証拠は、逃げる者の手に残れ」
象山は口の端だけで笑った。
「政は理。だが時に、こういう“術”が要る」
その時、弥太郎が汗を拭きながら駆け寄った。
「欧州向け、積み増しの注文です。『香が軽く、女でも吸える』とのこと」
「“軽さ”は市場を広げる。だが“軽薄”に堕とすな。刻みの“常陸”は渋みを忘れるな」
「へい」
晴人は視線を港へ戻した。帆柱が林立し、白い帆が膨らむ。銅と薬草の箱、紙巻の箱。羽鳥の印が海風に晒され、異国の荷と混じり合う。
その夜、出島裏の小さな座敷で、英商館の支配人が静かに言った。
「ハトリ、ヴェリィウェル。だが、もっと“量”が欲しい」
「量は“質”のあとに来る」
晴人は短く返し、盃を置く。
「我らは“国を売る”気はない。売るのは“品”と“約束”。……約束を破らぬ限り、いくらでも買える」
支配人は肩をすくめ、笑った。
「ジャパン、チェンジ。ユア・ウェイ、ライク・ブリテン」
「似せる気はない。追いつく」
盃が静かに触れ、音はすぐに夜に溶けた。
翌朝。長崎奉行所の一室で、奉行が羽鳥会所あての文を読み上げる。
「“出島での秩序を乱さず、商館との争いを起こさず、価格を乱高下させず”――三条、厳守のこと」
「承知。代わりにひとつ。長崎の未亡人にも代理権を。ここでも“暮らし”を立てる」
奉行は意外そうに眉を上げ、やがてゆっくりと頷いた。
「……他藩の女に銭の道を引くか。面白い」
晴人は、返礼の文を短くしたため、その足で船へ戻った。甲板には、大箱と樽が山のように積まれている。弥太郎が最後の縄を締め、渋沢が箱数と印紙の照合を終える。
「戻れば、返済の刻限です」
渋沢が囁く。晴人は頷いた。
「江戸・羽鳥の“国買い”に、遅れは許されない」
常陸丸が港を離れた。朝日の筋が海面に伸び、船腹を金に染める。遠ざかる出島に、小さな旗が揺れた。
◇
江戸。羽鳥会所・表座敷。豪商たちが並び、盆に白い包みが順に置かれる。包みの中身は、銀。羽鳥信用連の藩債、第一回償還の日だ。
「――お待たせしました。一年の刻限、前倒しにて返します」
晴人の声は低い。だが座敷の空気が、はっきりと揺れた。柏屋の主が包みを手に取り、重みを確かめる。
「……約、定通り、か」
「約束を“買って”くださった。なら、我らは“約束”で返す」
渋沢が償還帳簿に朱を入れ、豪商たちが次々に立ち上がる。誰も声高に褒めはしない。だが、廊下の先で番頭たちが顔を見合わせ、小さく拳を握った。
(返した――)
晴人はふっと息を吐き、目を閉じた。三十万両の専売収益が、帳簿の中だけの数字ではなく、こうして“手に戻る銀”となって座敷に並ぶ。借りは返し、残りは、道と学校と工場に回る。銭は形になった。
その帰り道。両国の河岸で、未亡人の売り子が商売をたたんでいた。木札を外し、箱を抱え、空を見上げる。秋の雲が千切れ、風は乾いている。
「暮らしが、変わりました」
女は誰にともなく呟いた。
「刀はもうない。でも、この箱で食べられる。子に字を教えられる。……これも“国”なんですね」
ゆっくりと頭を下げると、彼女は箱を大事に胸に抱き、橋の向こうへと歩き出した。
橋の袂。芹沢が欄干に肘をつき、川面を見ていた。隣に立った晴人が、短く言う。
「密売の“元”は?」
「潰した。だが、また生える。生えるものだ。……だから、毎日切る」
「頼む」
「おう」
芹沢は片手を上げ、背を向けて歩き出す。彼の背は、秋の風の中で大きかった。
日が落ちた。会所に灯が入り、帳場に墨の匂いが満ちる。渋沢は最後の一行を記し、筆を置いた。
――専売収益 三十万両達成。償還 第一回完了。
墨が乾く間、晴人は窓外の灯を一つひとつ数えた。灯は人の数。人の数は、暮らしの数。暮らしの数が“国”の重さ。
「国を売る者」は、印を盗み、約束を破る者だ。
「国を買う者」は、働き、預け、返す者だ。
自分は後者の側に立てているか――晴人はわずかに目を閉じ、静かに頷いた。
遠くで、太鼓が二つ、間を置いて鳴った。常陸の夜は、動いている。明日もまた、同じ速さで。