86.5話:檸緑――飲む兵站、走る返済
四月朔日、朝霧が芝に降りるころ。羽鳥政庁の小会議室に、白木の札が掛かった――《起動決裁:作戦名“檸緑”》。
座の正面、藤村晴人は短く告げた。
「暑気と行軍、夜警、長途の航海。倒れるのは兵ではない、補給だ。飲む兵站をつくる。名は《檸緑》」
壁際の黒板には、白墨で三行だけの指標が掲げられる。〈日配給二千杯/粗利一五・一両/返済配分 七:二:一(常陸:幕府:設備)〉。無駄のない数字に、渋沢栄一と岩崎弥太郎が同時にうなずいた。
即日、動いた。晴人は長崎への書状をふた通、上海宛てを一通、手早く認める。長崎は大浦慶と相馬権十郎へ――「結晶クエン酸・酒石酸・厚手ガラス瓶・コルク・蜜蝋・比重計・酸性試験紙、即納」。上海の松田清蔵へは――「レモン精油・濃縮果汁・穂木(ユーレカ/リスボン)・台木カラタチ。検疫は石灰水と温湯、隔離苗床」。
「果樹は来春の話になるが、香りの核は今から育てる」
晴人の言葉に、園芸掛が静かに「承知」と頭を下げた。
四月四日から七日。長崎・大浦の岸壁で、大浦慶が指を弾く。
「瓶は厚手だよ、薄いと運ぶ途中で割れる。蜜蝋も上物を回しとくれ」
相馬権十郎が荷を検め、即決で銀を置く。小さな活字で印の押された木箱が次々と艀へ移され、肥前の海がその重みを呑み込んだ。
同じ頃、羽鳥の連絡所では上海行きの目録が束ねられていた。レモンの香油と濃縮果汁は五月の船で来る予定――「香りは武器だ」と晴人は書き添える。
四月八日、霞ヶ浦のほとり、空き倉に新しい札が上がる。《檸緑工房》。
中は一方通行の動線が白縄で引かれ、入口から「火」「冷」「瓶詰」「検査」へと流れが折り返さぬように区切られている。壁には大書きのSOP(作業順序)。
〈七〜八十度の糖液→四〜五十度まで冷却→濃抽出の煎茶を合わす→クエン酸でpH三・二〜三・六→五十度以下で精油と濃縮果汁→濾布→熱充填→コルク→蝋封→pH/比重検査〉。
人員は八〜十二名。煎出二、調合二、瓶詰三、火水二、検査一、洗瓶一。採用したのは寺社裏に住まいを置く人々や、羽鳥に流れ着いた渡り職人だ。
「身分は問わない。求めるのは、順序を守る目だ」
晴人の言葉に、監督役の若い女工が「はい」と返す。彼女は先月まで洗張りをしていた手で、今は温度計を握る。
四月十三日から十五日、試作。湯気の向こう、煎茶の深緑が銅鍋の底で渦を巻く。結晶が溶ける音はしない。ただ杓文字が鍋肌をなでる、静かな擦過音だけ。
「……pH三・三。比重、良し」
検査係が目を上げる。瓶は熱のあるうちに糖液を満たし、コルクで締め、蜜蝋で封じる。蝋の色は四つ――海=青、陸=緑、限定=黄、兵糧=赤。刻印「檸」と通し番号が押され、台帳の数字が一つ進んだ。
標準は一升×五十=九十升(九十リットル)/日。四倍希釈で二千杯が出せる計算である。
十六日、デポ(前進補給所)を地図に刺す。羽鳥会所、江戸・日本橋の出張所、京方の連絡小屋、そして軍艦。瓶は十二本入りの木箱で、焼印〈檸緑〉。預かり金は一升四十文、一合八文、兵糧小瓶五文。返瓶には数文の戻し。
「瓶が金になる仕掛けだ。子どもが走る」
渋沢が笑い、弥太郎が「瓶回収は茶屋に任せます」と帳面に記した。関所には「即日通関」の札。関税は一律五%、ただし帳簿とラベルが整っている箱に限る。
「税は早さで徴る」
晴人は短く言った。役人の眉が微かに上がり、すぐに下がる。
十九日から二十日、三会場・同時試飲。
藩校では《冷・檸緑》。井戸氷の浮かぶ桶に塩をひと摘み、塩味が甘みを引き立て、後口にかすかな酸。先生が頬を触って「脚の攣りが減る」と笑い、稽古帰りの子らが列をなす。
港の茶屋は返却制。木札に「空瓶二本で三文戻し」。昼下がり、子どもが小走りで瓶を抱え、女将が「えらいねえ」と笑って銭を渡した。
軍艦の医務室では、船医が紙片の色を確かめ「三・二」と低く呟く。
「航海飲料と認める。塩と酸、これで汗の穴をふさげる」
朱の印が箱の札に押され、艦の補給目録に〈檸緑・兵糧小瓶〉の文字が加わる。
翌二十一日から二十二日、先行配備。京方の治安支隊、江戸の夜警に、赤い蝋封の〈兵糧檸緑〉が回った。六十〜九十ミリの濃縮。
「夜のこむら返りが減った」
与力が苦笑混じりに打ち明けると、隊同心が空瓶を指して「返すと数文戻るんで、子らが喜ぶ」と笑う。兵の背嚢から、赤蝋の小瓶が鈴のように触れ合う音がした。
二十三日の昼前、寺田屋の報が届く。京方支隊への増便が即決され、霞ヶ浦の水面で艀が水を割った。
「補給が倒れなければ、兵は倒れない」
晴人の言葉に、船頭が黙って棹を押す。春の風はまだ冷たく、瓶の蝋が日に光った。
会計は乾いた音で回る。直営四十八文、卸三十文、兵糧小瓶六十文。
「本日の売上二一・九両、原価六・八両、粗利一五・一両」
渋沢が読み上げ、算盤の珠が軽く鳴る。
「月二十五日稼働で粗利三七七・五両見込み。配分は常陸返済三百、幕府肩代わり九十、設備四十五――端数は次月繰越」
「返済は“毎日”進む、が合言葉だ」
晴人が帳面を閉じる。日毎の粗利が借金の壁を削り、削り粉が新しい設備の足場になる。
リスク運用は先に置く。
砂糖高騰には輸入分散と糖蜜併用、杯量一六〇ミリへの微調整で粗利を守る。冬季の香り落ちは精油+〇・一〜〇・二匁/升、果汁二十ミリ/升で補正。鉛溶出は「鉛釉陶器の飲食使用を禁ず」の布告で塞ぐ。模倣対策は、エンボス瓶・色蝋・刻印・番号台帳の四点止め。
「目に見える“違い”を、最初から瓶に鋳込む」
弥太郎が色蝋の配合を確かめ、検査係が通し番号を朱でなぞる。
夕刻、霞ヶ浦は薄金の波。積み込み口で、えた・ひにんの若者が木箱を担ぎ、監督が順序と火加減を反復する。
「順序を外さぬことが、命を守ることです」
女工の声は静かで芯がある。新しい仕事は、静かな誇りを彼女らの背に置いた。
日暮れ、羽鳥会所の土蔵で、晴人は短く言う。
「《檸緑》は菓子でも茶でもない。“体力の貯金”だ。これで倒れる者を一人でも減らす」
返事は要らない。台帳の数字と、瓶に残る温みが、答えだった。
こうして四月は、目に見えぬ一本の管が常陸から京・江戸・海へ伸びた月になった。
兵は歩き、夜警は走り、子らは瓶を抱えて笑う。
瓶の蝋封に押された小さな「檸」の印は、やがて常陸の返済表にも、確かな小さな丸印を増やしていくのだった。
四月二十四日、朝霧の名残りが川面に漂う。羽鳥会所の荷揚げ場では、まだ冷たい板子に瓶木箱の焼印〈檸緑〉がくっきり浮かんでいた。
「返瓶、二十四箱。欠損三。蝋封、青・緑・赤、混入なし」
帳場の渋沢栄一が数字を読み上げ、検査係が小さく「良」と朱を打つ。台帳の列は淀みなく右へ伸び、返金銭の小袋が順に捌けた。子らが胸を張って空瓶を差し出し、女将が「えらいねえ」と三文を返す。瓶が銭に戻り、銭がまた瓶を呼ぶ――小さな循環が早朝から回っている。
「次便、京方へ赤蝋二十箱、江戸夜警へ十箱。陸送は潮来まで舟、そこから荷車」
岩崎弥太郎が舟手を振り向かせ、積み荷の段取りを確かめる。
「棹一本足りない、倉から回せ」
短く飛ぶ声に、荷役の若者が走る。寺社裏で暮らしていた彼は、今は“火水”担当から現場の段取りへと昇った。
「火を使う場は“誰が見ているか”を張り付けろ。順序札、曲げるな」
晴人が工房の掲示板に目をやり、指で札の位置を一枚だけ直した。火→冷→瓶詰→検査。矢印が一本線で耳に入る。
午の刻を回ると、藩校の中庭が賑わい始めた。井戸氷の桶に徳利を沈め、盥の縁に白い結露が並ぶ。
「先生、こないだの稽古、夜中に脚が攣らんかった」
木剣を抱えた子が笑えば、師範が頷く。
「水を飲め、水と塩を。汗は血だ、逃がすな」
《冷・檸緑》の札の下、塩と薄荷をひとつまみ落とした杯が、喉を抜けていく。
その頃、江戸・日本橋出張所。
「蝋封、黄?」
番頭が眉を寄せる。黄は限定の印、今週はまだ出していない。渋沢から届いた“色別表”を指でたどり、すぐに裏の検査台へ回す。
「……香り、薄い。比重、軽い。番号、偽」
偽造だ。蝋は色こそ似るが光沢が違う。瓶の肩に打ったエンボスも浅い。
「ここで止めろ。出所を辿る」
清河八郎が淡々と指示を出す。与力にひと声、路地に消えた小走りの足音が戻ってくる。
「神田の横丁で二箱。裏は空き家。すり替えだ」
「――では、表で勝つ」
晴人の短い返事が算段を決める。価格はそのまま、品質で叩く。翌朝には本物の黄蝋を少数出し、透かしの“新印”を一段複雑にする。偽札は追いかけず、常に半歩先へ逃げる。
夕刻、軍艦。黄昏の甲板を湿った風が渡る。
「三番バッチ、比重〇・九六八、pH三・二」
船医の声に、給養兵が頷く。帆桁に腰掛けた水夫が小瓶をあおり、息をついて笑った。
「前は夜勤明けに足が攣っての。これ、効く」
「塩を忘れるな。汗の穴、ふさげ」
短い言葉が暮色に溶け、甲板の桶に空瓶がふたつ、澄んだ音で沈んだ。
夜。羽鳥の工房では、赤蝋の箱が卓に積まれている。京方の支隊から届いた返信状には、走り書きで「夜のこむら返り減り候」とだけ。
「増便を続ける。ただし“赤”を赤のまま守れ。押し込みが来たら、まず札を抱け」
晴人の言葉に、監督の女工が頷く。彼女は焼けた指で蝋を溶かし、印の“檸”を押すたびに、台帳へ番号を移す。その動きは流れるようで、しかし一度も急がない。急がぬことが速さを生む――それを、もう身体が覚えている。
翌日。霞ヶ浦の水は、薄青く腹を見せて波立つ。艀が三隻、帆を絞りながら川口へ入る。
「返瓶、八十六。欠損二。刻印ズレ、一本」
検査の声に、渋沢が「整」と一字。返金の銭がちり、と鳴る。
「おっちゃん、これで紙傘も買える?」
空瓶を抱えた子が見上げる。番頭は笑って首を振り、飴玉を一つ渡した。
「もう一本持っておいで。ほら、札に“返”て書いてあるだろ」
子は札をなぞり、頷いて駆け去った。瓶が文字と結びつく。読み書きは腹に入るものだ。
午後遅く、会所の端で、ひとりの男が桶に腰を下ろしていた。元は城下の屠場で働いていたが、病を患って仕事を失い、今は洗瓶の役を得た。
「指、裂けてないか」
晴人が問い、男は手を広げた。
「蜜蝋がええ。水があたっても、ひびが深うならん」
「冬前に手袋を用意する。布に油を引いたやつだ」
男は目を伏せ、短く礼をした。御恩などではない。仕組みが彼を働き手として扱う。ただ、それだけのことが“救い”に変わる。
その夜半、冷ややかな風が東から吹いた。雨の気配。
「砂糖、値が上がるかもしれぬ」
渋沢の声に、弥太郎が帳面を二つ開く。
「長崎の樽、もう一本押さえます。糖蜜の配合は……」
「杯を一六〇に。味は塩で支える。後口の香りは精油を〇・一匁増」
晴人は迷わない。数字の代わりに職人の舌が、カンナのように味を均してゆく。
雨は明け方に過ぎた。藩校の軒から落ちる水筋の下で、子らが木札を拾う。〈空瓶二本で三文戻し〉。
「字が読めるのは、便利だな」
ひとりが笑い、もうひとりが胸を張る。
「先生が言ってた。字は“道具”だって」
盥の氷は薄く、春はもう、背中に近い。
月末。会所の奥で月次の棚卸し。
「売上、二一・九両/日×二十五日で五四七・五。原価一七〇。粗利三七七・五」
渋沢が読み上げ、晴人が三本の袋に銭を分ける。
「常陸返済三百、幕府肩代わり九十、設備四十五。端数は繰越――“毎日返す”の約束は守った」
返済袋の口が静かに締まる。借金は巨大だが、毎日の音で確実に削れていく。
外へ出ると、空は薄い藍。会所の庇の下で、清河八郎が夜警の配置図を畳んだ。
「京方の支隊、赤蝋の評判がいい。足を攣る者が減れば、乱れても持ちこたえる」
「補給が倒れなければ、兵は倒れない」
ふたりは同じ言葉を、同じ調子で繰り返し、口の端だけで笑った。
遠く、瓶木箱がぶつかる澄んだ音がした。
常陸から延びる一本の見えない管は、今も江戸へ、京へ、沖へと通じている。
蝋封の色は夜でも見える。刻印の「檸」は、指先が覚える。
そして台帳の数字は、まだ誰も見たことのない“返済の終わり方”へ、確かに近づいていた。
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